怪談「溢れるマンホール」

Tes🐾

第1話

 Iさんが以前住んでいた家の前には、マンホールがあった。

 下水用ではなく、雨水を流すためのもので、通気用の穴と「雨」という字があるだけの無骨な鉄製の蓋が嵌っている。有り体に言えば、どこででも見かける普通のマンホールだ。

 Iさんも普段はその存在を全く気にかけていなかったという。


 しかし初夏のある日、一帯を台風が襲った。

 Iさんが住む地域も警報が発令されたので、その日は仕事も休業となり、仕方なく朝から家に閉じ籠もっていた。

 そしてローカル局の緊急番組で状況を確認していると、冠水時のマンホールには気をつけるように、と注意喚起があった。なんでも、大雨が降ると内部の気圧で蓋が飛ばされ、水面下の穴に気付かず落ちてしまう――そんな事故が起きやすいのだとか。

 それを聞いて、Iさんは自宅の目と鼻の先にあるマンホールのことを思い出した。

 窓越しでは雨で見づらかったので、玄関を開けて確認してみる。すると蓋は外れていないものの、通気孔からは僅かに水が溢れていた。

 これは万が一避難でもするときは気をつけなければ、と少し肝を冷やしたが、幸いにもそこまでだった。自宅がある一帯が比較的新しいということもあり、水はけが良かったのかもしれない。結局、辺りが冠水したりすることもなく、夜には嵐が過ぎ去っていた。


 翌朝は台風一過の晴天だった。

 自宅にもこれといった被害は無く、ほっとしたIさんは、晴れ晴れとした気持ちで出勤のために家を出た。

 と、そこであのマンホールが目に留まった。


 蓋は未だ泥水を載せているものの、しっかりと穴を塞いでいる。

 問題は――その周りから、髪の毛がはみ出ていることだった。


 一本二本どころの話ではない。何百という髪の毛が、マンホールの蓋を取り囲むようにして溢れ出ていた。それはさながらイソギンチャクのようでもあり、一度想像すると、今にもその毛がうねうねと動き出しそうで、余計に気味が悪かった。


 ――うわあ、これ昨日の雨で流れてきたのか?


 身の毛のよだつ光景だったが、出勤前にどうこうしようとは思えない。仕方なく髪の毛を放置してその場を後にする。もしかしたら、帰ってくる頃には無くなっているかもしれない、そんな淡い期待もあった。

 けれど、帰宅しても髪の毛はそのままだった。

 それどころか、その翌日、さらに翌日。四日目にはまた少し雨も降ったが、髪の毛は減る様子すらなかった。流石にこうなってくると、もう自然に無くなることはないんじゃないか、という気がしてくる。

 観念したIさんは、ついに蓋の掃除をすることを決意した。


 とはいえ、やはり気が進まなかった。気持ち悪いのはもちろん、蓋の端から出ているということは、挟まっているということ。だとしたら簡単には取れないだろう。適当に箒で掃いてみて、それで駄目なら水道局に連絡してやってもらおう――結局はそんな腹積もりだった。


 そうして明くる日、三角箒と塵取りを手にマンホールへと向き合った。

 まずは軽く掃いてみるが、思った通りしっかり引っ掛かっており、全く取れる気配がない。次は少し強めに、引っ掻くようにしてみたが、これも成果無しだった。それどころか、何度か往復しているうちに毛が絡まったらしく、箒が動かなくなってしまう。これにはIさんも堪らず悪態をついた。最悪だ。最初から水道局に連絡すれば良かったと後悔する。

 しかも相当がっしり絡みついてしまったらしく、少し引っ張っただけではびくともしない。それでもなんとか引き剥がそうと、Iさんは両手で箒を掴み、力任せに引っ張った。


 すると――

 ずるり。


 箒に絡みついたまま、髪の毛が一気にマンホールから引きずり出されてきた。


 ぞわっと鳥肌が立つ。

 髪の毛はかなりの長さで、未だマンホールから抜け切っていない。恐らく女性のものだろう。

 だとしても、こんな引っ掛かり方をするだろうか。

 考えてみれば、あまりにも毛量が多過ぎる。元々どこかに纏めて捨てられていたとしても、あの台風だ。普通は散り散りに流され、ここまで一箇所に集中するはずがない。けれど、箒に絡みついている髪の毛は、おおよそ一人分ぐらいはあるようにも見える。

 そう思った束の間、Iさんの手から箒が離れた。

 取り落とした、というわけではない。


 髪を引きずり出した時とは逆に――

 ずるり。


 今度はマンホールの中へと、髪の毛が引っ張られたのだ。


 箒はアスファルトの上を滑り、カッと音を立ててマンホールの上で止った。

 その光景にしばらく唖然としていたIさんだったが、そのうちふと我に返り、慌てて家に逃げ込んだ。


 その後急いで水道局に連絡したが、職員の人が来る頃には、髪の毛は箒を残して消え去っていた。マンホールの中も調べてもらったが、特に何も見つからず、職員のおじさんに苦笑いを浮かべられただけだった。

 けれど、箒を引っ張られた感触は本物だった、とIさんは言う。

 その髪が消えた原因を上げるとするなら、一度引っ張ったことだろう。

 それから、髪の毛はマンホールの中へと戻り始めた。それが引っ張られていたのか、あるいは重さで引きずられていたのか、そこまでは分からない。

 いずれにせよ、あの髪の先に、それを束ねる何かがいたのは確かだった。

 そして、それは今も暗闇の底を彷徨っている。そんな気がしてならないという。


 嫌なことに――マンホールというのは、どこがどう繋がっているのか、何がどう流れているのか、外から見ただけでは分からないものだ。

 

 Iさんは先日、ついに念願の引っ越しをした。

 当然、新居は近くにマンホールの無い場所を選んだらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怪談「溢れるマンホール」 Tes🐾 @testes

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ