弐拾陸)鬼、海の外より来たりし事3
「飽いた」
港を出て、丸一日もせずに女王が呟いた。
現地の時間で、昼の12時。
港を出港し、12時間弱だ。
側近であるラスプーチンも、その言葉には顔を落とす。
本当ならしっかりと「ご辛抱ください」「もう少しガマンしていただければ」と進言するのが臣下の務めだが、5人の側近たちでさえ、女王・カーミラには反対意見をいうことができない。
「まだアフリカ大陸すら、到達しておりませんが」
「……」
不穏な空気が2人の前に流れる。
「日本への到着には、まだ3カ月ばかりかかります。我々の元には旧式の船しかなく、最短距離の針路をとれぬ我々にはどうにも……」
「……」
「どうか御辛抱くださいませ」
その言葉を聞き、彼女は立ち上がる。
勝手に部屋を出て行く。
カーミラたちの船がゆったりと海を渡るのには、理由がある。
現代の国家の防衛のレベルは、彼女たちのいた時代を遥かに超えている。
領海どころか、経済水域に近づいただけで国の軍隊に警告される。すべては空からの監視によるものだということも理解はしていた。
だから、誰も迂闊な針路をとれない。
スエズ運河を通り抜けることもできず、遠回りの針路を選ぶしかない。
カーミラだけは、そんなこと気にしない。
例え、現代兵器に狙われようと。
例え、一国の軍隊に襲われようと。
それを退けて進めばいいと思っている。
「まったく使えぬな」
外は、真昼間。
日は最も高いところにある。
だが、吸血鬼の女王に意味はない。
肌の上で火を出しながら燃えるが、傷は瞬時に回復する。
傷付いても傷付いても、瞬く間に治ってしまう。
何事もなく。少し煙が立っただけ。
ここはスペインの北西部、十数キロの地点。気候的にはフランス南部と変わらないが、昼の12時という時間ゆえに日が少し強い。といっても、吸血鬼の女王に意味はないが。
カーミラは、海の上に降りた。
そして、そのまま蒼き水面に立ち続ける。
彼女の中の不思議な力がそうさせる。
誰にでもできるような技ではないが、そこは
そんな芸当は、造作もない。
「――」
力を入れ、船を持ち上げる。
全力で。
けれど、中にある夫の体を案じて、そっと。
そして、ゆっくりと海面を、しかし全力で蹴った――
□□□
「京香、そんなのないよ。あんまりだ」
「マタさん。声が大きいよ」
私は、家族となった猫・マタさんを注意する。
相変わらず自由なマタさんだ。
今日の我が家の食卓には、ケーキが乗っている。最近我が家の工場の経営も楽になってきたのだ。この前、父と従業員が残業していたのは、新しい技術の開拓だったらしく。
それがとうとう軌道に乗った。
そんなわけでお祝いのケーキである。
だが、ケーキの取り分けでマタさんが怒ってしまった。
マタさんの胃袋の容量を考えてのサイズだったんだけど、しかも、ご飯食べた後なんだよ。マタさんが最近太って来てるからって……ほんの少しにしたのに。
「少ないよ!」
「いや、マタさん、これはお父さんのお祝いだし……」
「ボクだって祝うって!」
まあまあ、とお父さん。
ただそう言いながらも、マタさんの腹を摘む。
ムニ。
普段はそんなことをする人ではない。
「ほら、最近外に出てないでしょう――猫なんだから、少しは健康を考えないと」
けど、お酒を呑んでいるのでかなり上機嫌だった。
「うるさいぞ!!」
「ケーキは太るよ」と私も。
「分かった。分かったから。イチゴ、イチゴだけでも!」
「見苦しいですよ。ただでさえ太ってるのに」
「何をっ!」
沖田さんの余計な一言に飛び掛かっていく。
それを受けて反撃するのが、彼の欠点。
家の中とか関係なしに暴れるんだから。
言い忘れていたのだけれど、彼は居候することになった。
うちの工場で働きながら、我が家で暮らしている。明治の時代から、こうして住み込みで働かせてもらえる親切なところを点々としながら、今まで生きて来たらしい。
『そういう場所も少なくなって大変だった』
沖田さんは笑いながら言ったけど、ホントに辛かったろうな。
でも――。
「ケンカは止めなさいっ!」
ピタと動きを止める二人。
迷惑な子が増えただけな気がする。
でも、いいこともあった。
一度は「売る」という話もあった家だけれど、まだ近藤家の家となっている。
というのも、この家だけでは沖田さんが眠るスペースは足りず、あちらと我が家を行き来する生活となった。ただひとつ事情があって……、
本当の家の方を沖田さんに使ってもらっている。
私と父が行けないのは、荷物の大部分がこちらにあるからだ。
沖田さんは、今日もこっちでご飯を食べ、あちらの家に帰ることになる。私も帰ろうかといったのだが、お父さんはまだ私と沖田さんとのことを訝しんでいるみたいで。
まったく。
沖田さんのことも、どこか息子のように感じてきているみたいだけど。
男女であるというのがネックなんだろう。
「同居は許さない」
そうきっぱりと言われてしまっていた。
「沖田、お前のことは信頼してる。それこそ前世からな。でも、年頃の娘がいるのに、男を住まわせるわけにいかないだろ」
「それは、分かります」
「だから、同居はダメだ。代わりにあっちの家を使うということでどうだろう?」
という感じだった。
しかし、こっちにそこまで部屋数があるわけじゃない。
私と父が寝る部屋を取れば、物置のような部屋だけだから、しょうがないのかもしれない。沖田さんはこのケーキを食べたあとで、あっちの家に帰ることになっている。
でも、ご飯はこっちで食べて行く。
そして、今日はお祝いだ。
羽を伸ばすのも悪くないはずだ。
父は、甘いものにあまり興味はない。
沖田さんとマタさんのケンカを見ながら、少しいいお酒を呑んでいる。
いつもよりちょっと多めに。
顔が赤くなってきてる。
「お父さんも、笑ってないで。お酒、そろそろ止めたら?」
「大丈夫だって」
ヒック。お父さんがしゃっくりをする。
それはヤバいと思うけど?
だいぶ酔っている人の行動だもの。
「仕事も軌道に乗って、こんな人に慕われて――俺は嬉しいんだよ」
「近藤さん」
沖田さんも、工場の人も慕ってくれる。
それは元・近藤勇の生き方なんだと思う。
人を引き付ける人間性。それが完全に開花したんだろう。
「俺は、幸せだよ」
そう言いながら目をつぶった。
そして、すぐに寝息を立てる。
「お父さんっ」
私はすぐに肩を揺さぶり、起こそうとする。
けれど、まったくもって起きる気配はない。
そんなにしっかり眠られては、このまま寝かしておくしかない。部屋の隅から父のタオルケットを持ってきて、上から被せる。暑い夜ではあるが、そのまま置いておけば風邪を引くかもしれないし。
「今日は、このままお開きかもね」
「じゃあ、これは!?」
マタさんは前足で、父のために切り分けたケーキを指す。
「分かったって。食べていいよ」
言い切らないうちに、彼はケーキの皿に飛び込んだ。
思いっきりむしゃぶりついている。
はしゃぎ過ぎだよ。
沖田さんは食べきった皿の上にフォークを置き、御馳走様でしたと手を合わせる。
「美味しかったですか」
「ええ」
「沖田さん、甘党ですか?」
「いえ、そういうわけではないですけど……何でですか?」
「そんなにお酒も呑んでないようなので」
「ああ、そこまで飲みませんよ。何かあったとき戦えませんし」
沖田さんは、傍らの刀を握る。
彼は生まれ変わりでなく、芯まで侍だから。
「でも、今日くらいは満足してほしいです。沖田さんだって、協力してくれたんですから。沖田さんが手伝ってくれて、父も嬉しかったと思いますし」
「俺は、そこまで――」
「いえいえ、気持ちです」
私は、彼のグラスに父の開けたビールを注ぐ。
「しかし、外の吸血鬼は――」
「大丈夫ですよ」
そうやって飲ませていくと――完全に父と同じように眠ってしまった。
勧めすぎたみたいだ。
しょうがない。
父と同じく寝かせておくしかないと、部屋にあったバスタオルをかけて部屋を出る。
時間も時間で、私は自分の部屋へ下がった。
2人のことは最低限のことだけ済ませて、私も寝ることにした。
「大丈夫だよね」
「そりゃあ、そうだろ」
マタさんが私のベッドの真ん中を陣取る。
「どっちかに寄ってよ」
「えー」
「これは、私のベッドでしょう」
渋々私の体が入る隙間を開ける。
「まあ、沖田と近藤なら、一緒に寝かしといていいだろ」
「仲間だもんね」
「だな」
明日、大変なことになるかな――そこだけは心配だ。
沖田さんが家にいたとなれば……。
150年ほど前の仲間。
まるで親子みたいなものなんだろう。
その絆は、たぶん時を超えただけ強い。
私も布団に潜る。
その直後だった。
DoN――!
凄まじい音がベランダに轟いた。
窓はほとんど消し飛んで、外から吹き込む風にカーテンが舞う。
まるで隕石でも落ちて来たのかとも思ったが、その正体は違った。
窓の外に影が浮かぶ。
外の月光、それが人の影を映していた。
豊満な体の、白い肌の女の人。
金色の髪が絹糸のように風に舞い、体には夜空のような黒いドレスを纏っている。
美しい顔という他ない、まるで例えようのないキレイな人だった。
「誰ですか」
恐怖と怒りに支配されながらも声を上げた。
「泥棒――ですか」
「京香!」
マタさんの叫び声は、少し震えていた。
「止めろ、刺激するな」
「何? でも、泥棒だったら」
「泥棒じゃないっ!」
「?!」
私の思考が止まる。
「あれは吸血鬼の女王だよ。名を、カーミラという吸血鬼の始祖」
彼女の髪が揺れる。
王という覇気が、体の動きを支配する。
彼女に睨まれて、身動きすることさえ憚られてしまう。
怖いのではなく、動くことが女王にとって悪いとさえ思えてくる。
「猫、我のもとに来い」
「ヤダよ。散々ボクの体いじりまわして」
「拒否は、許さぬ」
女王の手がマタさんに伸びる。
どうにも吸血鬼の女王は、マタさんを連れ去ろうとしている。
そんな光景に私の体は、勝手に動いていた。
マタさんと吸血鬼の間に立ちはだかる。
無意識だった。
よく考えれば、そんなこと――
無謀なのに。
「
私の体を衝撃が走った。
――一瞬
そして、直後に痛みが走る。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
声を出せない。
だが、意識は失わずに済んだ。
見れば、私の体は吹き飛ばされて。隣の玉城家につっこんでいた。
「なんだ?!」
家の住人の「彼」も驚いた顔をしている。
大きく分厚い眼鏡のせいでしっかり顔は見えないけど。
私の体は、四肢もくっ付いているのがやっとというボロボロの状態で隣の家にいた。
うちの家の壁を突き破り、玉城さんの家の壁を破り、隣のお兄さん――豊さんの部屋の本棚に激突して止まったようだ。
いきなり人間が飛んできたので、豊さんも焦っている。
そんな状況ではないけど、それがおかしく思える。
異常な状態だよね。
「京香ちゃん?!」
「ぐ――――」
でも、良かった。
死んでいて、逆に良かった。
私の体は、少しずつ回復する。
内臓が元に戻り、骨がくっ付き、筋肉が回復する。
立ち上がるくらいなら、すぐに。
「う…………」
「京香ちゃん、大丈夫なの?」
私は、それに返答はできない。
痛みが体のほとんどを支配しているから。
立ち上がって、彼女のほうを見る。自分が開けた穴から、自分の家の方を。
我が家の二階で、マタさんと共にいる彼女。
「……立ち上がるか」
「ああ、アイツも起き上がりだからな」
「まあ、良い。今日は挨拶だけのつもりであったからな」
挨拶だけ――それで私は吹き飛ばされたのか
マタさんは、カーミラを睨む。
「挨拶だけ、だって?」
「ん? 挨拶だけでこんなことをと申すか?」
彼女は髪を掻き揚げる。
ふわりと絹のような髪が舞う。
「目の前を舞う羽虫を、邪魔だと手で払っただけであろう?」
「――」
「まあ、良い。今宵はこの見事な月に免じ退く。だが、次は戦争ぞ」
彼女は飛ぶ。
家を軋ませて、空に舞い上がった。
その空から声がする。
「
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