弐拾肆)鬼、海の外より来たりし事1

 フランス南西部・港。


 時刻は、深夜であった。

 港から少し離れた所に、5隻の船が停泊している。

 どの船にも人のいる気配はなかった。

 生きているものの気配が、そこにはまるで感じられない。

 港で働く誰に尋ねようと、5隻の船の持ち主を誰も知らなかった。不審船は突如として昨夜現れたようだったが、不気味だと言って誰も近づきもしない。

 通報もされていなかった。

 船内に錆びたベルの音が響いた。

 ジリジリと鈍い金属音。けたたましい電話のベルだった。

 ひとつの影が動いていた。

 男の、白い手袋をした手が受話器を上げる。

 その音が重々しくブリッジに響く。

 ずいぶん型番の古い計器が並び、ブーンと静かに呻っている。

 ゴム質の床が様々な音をぼんやりと響かせるが、この船を指揮する船長が慎重に持ち上げた電話の音だけはよく聞こえた。赤い受話器。そのホットラインがかかって来るのは、常に緊急の用件であるときだけだ。

 船長も自然とハキハキとした口調で答える。

 女王からの電話は、簡潔だった。

 すぐさま出航の準備をせよと。


 出航――全身全霊の力を足に込め、地を蹴れば海をも渡ることのできる吸血鬼たちにおいて、その言葉は特別な意味を持つ。つまり、それは全面戦争の宣言であり、力を鼓舞すべく、僕をすべて従えて海を渡るという意思の表明だ。

 彼はその場の部下に命じ、準備を整え始める。

 紺色の軍服に、身を包んだ男。


 まず始めに彼がしたのは、トレードマークである帽子を被ることであった。

 二角帽子と呼ばれる、彼の時代の軍の正装。

 まるでフォーチュンクッキーを被ったような、不思議な形の帽子だった。

 彼は古くから吸血鬼となって女王に仕える存在。

 女王の直属の配下であった。

 その名は、ナポレオン。

 日本が幕末と呼ばれる時代となるより少し前、遠く離れた異国で軍を率いて戦った英雄である。だが、その英雄も今は彼女の配下であった。

 彼は船外へ出て、準備状況を確認する。

 月光に照らされる。

 その体は、若さに溢れていた。

 歴史の下では、彼は51歳のときに病気(暗殺という説もある)で死んだことになっている。だが、その顔は、不思議と力に満ち溢れた最盛期の20代の若さを保ち続けていた。月の光を浴びると、それがさらに際立つ。

 力と若さが満ちていく。


「カカカ」


 彼は笑う。

 その口元に、おかしなものが2つ。

 下の唇を斬り裂かんばかりの鋭利な犬歯だった。

 いや、牙といってもいい。

 彼もまた女王に忠誠を誓う――吸血鬼。

 彼女のために戦うのが務め。

 

「戦争だ」


 ナポレオンの血は、戦(いくさ)を求めていた。

 

 

       ☽

 

 

 同時刻、ルーマニア。

 ルクセンブルグ・ブラン城の城下に、1軒の民家があった。

 女王が仮の住まいとした普通の民家であった。そこにいたかつての住人は、ダイニングテーブルの4つの足で床に磔にされている。その血は抜かれ、体は骨になってしまっていた。灰と骨の中間のように脆い4つの死骸。

 その他にも、幾多の死骸がそこにある。

 死因は、すべてが失血性のショック。

 死体たちはみな、首に大きな傷がある。

 肉の血抜きをするように、女王の配下によって首を斬り裂かれ、体中の血液を抜かれた死体たち。それが折り重なって転がっている。家中の床が隙間なく埋めつくされていた。

 吸血鬼たちは、それらを無感情に踏みながら、部屋を歩き回る。

 それを踏みしめることを嫌うのは、女王ばかりだった。

 女王は、5人の下僕にすべての身の回りの世話を任せていた。

 彼女がすることと言えば、ソファの上で美しい裸の肢体をくねらせることだけだった。

 

「電話」

 

 そう彼女が言えば、僕はすぐさま電話を持ち彼女の口に当てる。

 下僕といっても、彼ら5人の格はとても高い。

 身の回りに置くのは、ナポレオンとその他の4人のみに許された権利だ。女王のお世話ができるのは、ナポレオン同様に格の高い人間の吸血鬼と見なされた名誉であった。

 1人の男が、彼女の「電話」「なぽれおん」という言葉に家の電話を引っ張って来て、頭を下げながら彼女の耳と口に受話器をあてがった。

 受話器を右手に持ちながら、下僕は左手で番号を押す。

 やがて繋がったホットライン。

 一言受話器に呟くと、気怠そうに手を振った。

 そして、

 

「下がれ」


 と一声命じる。

 女王の言葉に、彼――ジル・ド・レはゆっくりと部屋から出て行く。

 薄い鎧とマントを着込み、聡明そうな切れ長の目をした男。

 正確な名前は、ジル・ド・モンモランシ=ラヴァル。

 彼もまた女王の僕であった。


 ジャンヌ・ダルクと協力し戦争を戦った英雄である。

 しかし、彼の本質はそこではない。

 彼はオルレアンの聖女の伝説の裏で、悪魔を信仰し、多くの少年を生贄として殺した。

 1440年、彼は悪魔信仰と大量虐殺の罪で捕えられる。

 死罪と決まり、絞首刑よって命を終えるはずだった。

 そんな彼を吸血鬼とし、部下にした。

 しかし、ここで疑問が残る。

 吸血鬼の始祖と名高いヴラド公は、この時9歳。

 そんな子どもが拘束された大人を死刑台から下すことができたのだろうか?

 吸血鬼という超自然の力を駆使すれば可能だとしても、なぜ彼を部下にしようとしたのか。

 その理由は、吸血鬼の女王が女王たる歴史があるのだが、まだここで明らかにすることではない。

 悪魔崇拝者・ジルが部屋から出て行くと彼女はようやく立ち上がった。

 金色の髪を掻き上げ、闇の中に佇む。

 明かり一つない闇の中。

 雪のように白い肌が、ボウと光る。

 


     ☽



 部屋の中で、彼女は周りを見回した。

 彼女もまた、夜目が利きく。

 血の出がらしが並ぶ床。

 深く息をすれば、不快で、芳しい腐乱臭が鼻を突く。

 人の死骸が腐る臭いとハエの羽音だけが、窓を塞ふさいだ窮屈な部屋の中に籠っている。

 空気も衛生状況も、最悪だ。

 そんな部屋で、彼らは6日ほど過ごしている。

 吸血鬼が連れ去った被害者の数は60人にも上り、地元の警察も明朝この家に踏ふみ込むつもりであった。

 

「汚い」

 

 彼女の一声で、男が動く。

 彼の名は、サン・ジェルマン。

 長い杖を持つ、怪しげな紫のマントの男。

 手の杖は太い木の枝で作られた、彼の身長と同じくらいの物。

 片方は細く、もう一方には緋色の宝石が埋め込まれている。

 暗い部屋の中、それだけが輝いていた。


 彼は杖で、死体のひとつひとつを突く。もちろん飛んでいるハエの一匹も漏らさずに叩いて行く。小さく、キン――という金属音が響く。金属が、金属にぶつかる音。ここに明かりがあれば、はっきり分かっただろう。

 飛んでいるハエが金に変わり、人間の死体が変化した金塊に落ちた音だ。

 彼は、錬金術師であった。

 非金属を金へと変え、飲み込めば不老不死となる『賢者の石』を作りだし、それを杖に埋め込んでいる。彼が杖で触れた死体もハエも、すべてが金へと変わる。腐臭のもとを断ち、部屋の空気を澱ませていたハエを駆除した彼だが、結局部屋が片付いたわけではない。

 掃除する気は、彼にはなかった。

 サン・ジェルマンは、体を活発に動かす方ではない。

 吸血鬼の体のケアや科学を担当している。

 つまるところ、彼はこの吸血鬼集団の知恵袋である。彼は、その知識と技術において、武器や治療、能力開発といった分野を圧倒的に進化させてきた。

 彼が指をパチンと鳴らす。

 掃除なら、別の者の仕事だと言うように。



      ☽



 物陰から影が現れた。

 それは本当に影のようだった。

 細く女のような体躯に、黒いレザーのスーツを着込む彼。

 腰まで伸のびた髪も、闇のように濡ぬれて、しなやかに揺ゆれる。

 腰からナイフを取り出し、構える。


 元は人の死体である金塊を砕いていく。

 人の形ではなくなっていく金塊。時価にしていくらになるかは分からないが、何十人もの人間サイズの金をすべて砂金にするまでおよそ3分。振るっていたナイフは刃零れ一つなく、彼の腰のホルダーにしまわれた。

 ナイフの使い方は、達人級。

 美しいというべき、彼の技だった。

 そして、ナイフはサン・ジェルマンの作り上げた異質の金属から成る。

 刃物とは思えない純白の刃を、鋭く深く振るう。

 町中を震撼しんかんさせた殺人鬼は、吸血鬼へと変わっていた。

 

 彼の生前の呼び名はジャック・ザ・リッパー。

 斬り裂きジャック。

 イギリスの有名で高名な殺人鬼だった。

 その残忍さによって、女王に見初められ、今や彼女の配下であった。

 すべてを斬り裂き、全員の食料を調達するのが彼の仕事だった。

 腕は確かだが、斬り裂くことしかできない男。

 彼に名前はない。

 だが、その刃物の技こそが彼の名前。

 殺人こそが生きがい。

 それゆえにこの場所は、彼にとって天国であったろう。

 いつでも人の首を斬り裂けるのだから。

 

 

      ☽

 

 

「出航」

 女王は言った。

 呟きながら、闇から黒いドレスを取り出す。

 彼女の一言をもっとも早く聞き取ったのは、その傍の闇に潜んでいた男であった。

 帝国時代のロシアで、怪僧と呼ばれた者。

 静かに耳を澄ませ、ひとつ息を吐く。

 それは超音波のように家中に反響し、彼の耳に戻る。

 長年の修練の結果によって、彼女の周りにだけは音を反響させない技を得ていた。

 彼は、女王のために幾重にも気を配る者。

 彼女の意思を先読みし、すべての準備を行う者。

 家中の荷物の類がきっちりと整理されていることを知り、室内の死体の処理も済んだことを確認する。さらには、ここから離れたフランスの海岸で船の準備ができたことを理解した。


 グリゴリー・ラスプーチンは、目を閉じた。

 吸血鬼の自分たちと、猫が相見える時を夢想する。

 戦力差は圧倒的だが、背筋に寒いものを感じた。

 死を克服し、

 知識を網羅し、

 戦力を得てもなお恐ろしい何かを感じた。

 だが、それを女王に向かって進言するのは躊躇わざるを得ない。

 根拠のない不安と女王には笑われることになるだろう。

 だから、彼は目と共に口も静かに閉ざした。

 彼女の命令は絶対。

 女王が死ねと言えば、彼らは死ぬ。

 出陣すると言えば、兵を動かす。

 だが、その命令のなかで、全力で知恵を働かせるのが彼の役割であった。

 怪僧ラスプーチン。

 彼は軍師であった。

 

 

      ☽

 

 

 女王は、天を仰あおいだ。

 血に飢えたケモノのように。

 吸血鬼の女王は、王家に嫁いだ姫だ。

 その出自ははっきりとはしていない。

 だが、彼女は自ら名乗るとき、こう言う。


『ワラキア公国女王カーミラ・ドラクル』と。


 カーミラは、黒猫の魂を望んでいた。

 だからこそ、猫を襲い、猫を拉致らちし、猫に執着する。

 彼女の大いなる望みのために、猫の持つ魂が必要だった。

 5人の配下と数百匹の鬼の軍隊。

 その群れを引き連れ、彼女は日本に乗り込む。

 彼女が欲するのは、小さな猫が一匹。だが、そのためになら日本という国はおろか、世界も宇宙も滅ほろぼす気でいた。

 何があっても、望みをかなえることを切望している。


 だが、これで望みは叶かなう。

 今、もう一つの『鍵』が海を渡ろうとしているのを彼女は感じていたから。

 猫と『鍵』を手に入れ、願いを叶える。

 大いなる転機の前に、笑わずにはいられなかった。


「クカカ」


 女王としての優雅な笑いとともに、彼女は飛び上がる。

 天井を壊し、屋根を壊し、フランス南西部の海岸へと飛び立った。

 そこに4つの影が付き添う。

 飛びながら、彼女の口元から笑みが漏れる。

 だが、それはいつもの優雅さの欠片もない。

 

 

「キャハ」

 恋する少女の笑いであった。

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