二十三年前①

 埼玉県警察本部捜査一課に勤める倉橋敏也は、遺体の見つかった現場──埼玉県埼玉市を流れる一級河川・亜螺川あらかわの河川敷に到着すると、すぐに眉をひそめた。幼い少女の遺体が視界に入ったからだ。十月に入り、涼しい日も増えてきたというのに、彼女は衣服を身に着けておらず、子供特有の柔肌を風にさらしていた。

 河川敷特有の湿気を多く含んだ風が、倉橋の肌にまつわりつく。不快でしかない。

 ひでぇことしやがる、とまだ見ぬ犯人に怒りを覚える。

 特別、子供好きというわけではないが──むしろどちらかというと嫌いなほうだが、苛立ちは本物だった。

 ヘビースモーカーである倉橋は、煙草たばこを吸いたい衝動が湧き上がってくるのに気づいた。女を抱いた後と飯を食った後、それから苛々した時は、脳がニコチンを求めるのだ。スーツの内ポケットには、相棒のマイルドセブンが控えている。が、流石に現場で一服するわけにはいかない。いとおしい彼は、「ちょっとくらいいいじゃねぇか、吸っちまおうぜ」などとほざいているが、耳を貸してはいけない。

「倉橋君、待っていましたよ」

 キザったらしくはないものの、不自然なほど端正な発音で声を掛けてきたのは、上司の稲熊いなぐまじょう管理官だ。いかにも生真面目そうな七三頭の小男で、倉橋は苦手意識を持っていた。

「お疲れ様です」倉橋が応えると稲熊は、

「事件のことはどれくらい聞いていますか?」と確認してきた。

「今日の午前五時三十分ごろに亜螺川の高架下で少女の遺体が発見された、ということしか聞いてないです」今は午前七時四十九分だ。

「わかりました。では、不足部分を説明しましょう」

 稲熊の言い回しは、倉橋のかさついた肌を粟立たせた。どうにも気持ち悪いと感じてしまう。悪人でもなければ無能でもないというのはわかっているのだが、感情はままならない。

 倉橋の内心など知らないだろう稲熊は、顔色を変えずに言う。「まず一つ、犯人のものらしき足跡がありました。鑑識の見立てでは、サイズは二十六から二十七センチで、体重は五十から六十キロだそうです」

「痩せ型の男性ですかね」

「まだ断定はできませんが、そう思われますね」まどろっこしく中途半端な肯定を口にしてから、「二つ目は、被害者は強姦された可能性が高いということです」

 そういう形跡があったということだろう。やはり犯人はクソ野郎に違いなかった。

 稲熊は続ける。「被害者の膣と直腸には栄養ドリンクのものと見られる瓶の欠片が多数残されていました。おそらく挿入した状態で外から衝撃を加えて割ったのでしょう。また、性器と肛門を中心に単なる強姦では付きようのない刺し傷も多数ありました」まったく、むごいことをするものです、と彼は肩をすくめた。

 クソ野郎なんていうお上品なレベルじゃねぇじゃねぇか、と上司の前であるにもかかわらず吐き捨てたくなる。身体の芯から怒号が飛んでいる。

「加えて」と稲熊は更に続ける。「遺体の首には索痕が、手と足には紐状の物で拘束されていたと見られる痕がありました。したがって、直接の死因は出血性ショックか窒息でしょう」

 ──と、ここで疑問が浮かんだ。何で稲熊さんは強姦があった可能性が高いと判断したんだ? と。今聞いた事実は、たしかに犯人の凶悪さを示すものではあるが、これらだけでは強姦罪の既遂、すなわち陰茎が膣に挿入されたことを推認できないのだ。彼の気質からいって当て推量で、「可能性が高い」などという表現は使わないはずだった。

「そしてもう一つ」稲熊は言う。静かな口調だ。「今回の事件、犯人からのものと思われるメッセージがありました」

「──メッセージ、ですか?」倉橋は片眉を吊り上げた。嫌な予感しかしない。

「ええ、そうです。遺体にラブレターが添えられていたのです」そう言って稲熊は、懐から写真を取り出した。インスタントカメラによるものだろう。

 受け取る。そこには、ラブレターなるものの文面が写されていた。Wordだろうか、人間の手によらない文字が並んでいる。


『やぁ、こんにちは。はじめまして、僕だよ。

 お勤めご苦労様。いつもがんばってくれてる君たちに僕からクイズがあるんだ。

 それでは問題です。ばばん!

「僕の好みの女の子は、どんな子でしょうか?」

 ……え? ただのロリコンだろって?

 正解♡ けど、まだまだ足りないよ。もっと細かく答えないと大正解はあげられない。

 ……え? どうしてこんなクイズに付き合ってやらなきゃいけないのかって?

 うん、別に無視してもいいよ。でもね、まじめに取り組んだほうがいいと思うよ? なぜなら、僕はこれからも好みの子をさらうしレイプするし殺すから。僕の好みさえわかれば待ち伏せして逮捕することも可能なんだから、このミッシングリンククイズをがんばったほうがいいでしょ?

 じゃ、そういうことだからせいぜいがんばってね。またね、バイバイ☆

          善良すぎる少女愛好家』

 

 人をおちょくるような内容にはらわたが煮えくり返る。と同時に、稲熊が、「強姦された可能性が高い」と言った理由がわかった。この手紙が根拠だったのだ。

「シリアルキラーってやつですかね」倉橋は尋ねた。頭には、アメリカのサイコロジカルホラー映画が浮かんでいた。異常者による快楽殺人を描いた映画だ。

「厳密に言うと少し定義から外れますが、その傾向は顕著ですね」それから、稲熊はこちらに問う。「何か気づいたことはありますか?」

 気づいたことって言われてもな、と頭を掻く。自慢じゃないが、倉橋は頭を使うことが得意ではない。ニコチン中毒の人間は、非喫煙者に比べて知能指数が低いとも聞く。しかし、だからあまり難しいことは聞かないでくれ、などと甘えたことは言えないので、映画の犯人を参考にして考えてみる。おそらく監督は現実の事件を参考にしているはずだから、これはある種の逆輸入である。

「仮にこの手紙の内容に嘘がなく、本当にターゲットの選出に当たり一定のルールがあるとして、わざわざその事実を我々警察に伝えたということは、逮捕されるリスクを高めてでも、注目されたい、自身の優秀さを示したい、人を見下したいってことだと思うんですよ」

「歪んだ承認欲求の充足が目的だと、そう言いたいのですね」

「まぁそんなとこです。もちろん異常な性欲を満たすってのも目的だとは思いますが」と、ここまでが前置きで、次からが眼目だ。「で、そんなふうに考えちゃうやつってのは、人生が上手くいってないやつとか、普段、人からバカにされてるやつとかなんじゃないかな、と。まっとうなやり方で人から認められないから、こういうクソみたいなやり方に頼らざるを得ない」つまり、と挟み、「犯人は低所得者や精神障害者などの社会的弱者なんじゃないですかね」

 映画ではナードの青年がそうだった。彼は発達障害を抱えていた。

「ふむ、至極当然の推測ですね」稲熊は表情を変えずに言った。が、残念そうな、あるいはつまらなそうな響きがわずかにあった。求めていた答えではなかったからだろう。

「自分でも当たり前のことしか言えてないな、とは思ってますけど、でも、今はこれ以上はわかりませんよ」仕方ねぇだろ、と声に出さずに言う。ミッシングリンク──被害者の共通点を推理しろっつっても、まだ一人しか被害者がいないんだから考えようがないだろうが。しかも俺は今来たばっかなんだぞ? わかるかよ。

「いえいえ、助かりますよ。ありがとうございます」その言葉から感情は窺えなかった。

 そして、稲熊は具体的な指示を出した。周辺住民や通行人への聞き込み捜査をしろ、とのことだ。

 煙草吸いてぇなぁ、と心が訴えていた。だから、隙を見てニコチンを補給できる聞き込み捜査は、ありがたかった。



 日が暮れてしばらくするまで聞き込み捜査を続けたものの、それらしい情報は得られなかった。初動捜査で犯人を特定できるか否かは非常に重要なのに、それができなかった。良くない傾向だった。

 倉橋は大弥矢警察署三階の第一会議室に設置された特別捜査本部にいる。現在時刻は午後十時二十分過ぎ、捜査会議の真っ只中まっただなかだ。

 捜査会議は、稲熊の、「お疲れ様です。早速ですが、被害者少女の身元が判明しましたのでお伝えします」という発言から始まった。三週間ほど前に捜索願が出されており、特定まで時間は掛からなかったそうだ。

 被害者少女の名は安藤あんどう仁美ひとみ。九歳で、埼玉市の公立小学校の三年生だ。

 手元の資料には、家族と写る笑顔の少女の写真が添えられていた。美少女というほどではないが、愛嬌のある顔立ちで不器量というわけでもない。父親は埼玉市に本部を構える大手自動車部品メーカーに勤めており、母親は専業主婦だという。父親は本社勤務らしいから、いわゆるエリートサラリーマンなのだろう。また、兄弟姉妹はいないらしかった。

 全体としての安藤仁美の印象は、親が比較的裕福なこと以外に特徴のない、ごく普通の少女といった感じだ。ミッシングリンクがあるとしても簡単にはわからなそうだった。

 被害者少女の身元の話が終わると稲熊は、「被害者少女の膣及び直腸から精液らしきものを採取できました」と伝えた。

 捜査会議に参加している捜査員たちから、「おお」といった声が発せられた。上手くいけば早期逮捕も可能かもしれない、と期待感が漂っているようだった。

 性犯罪の再犯率は、覚醒剤や窃盗ほどではないが、けっして低くはない。つまり、別件の犯人の情報として、安藤仁美を犯し、殺した人間のDNA情報が保管されているかもしれないのだ。その場合、捜査は一気に進む。精液という強力なカードがあれば逮捕状も発付されるはずで、一部の例外的な場合を除き、逮捕は難しくないだろう。

 稲熊は現場に残されていた足跡についても説明した。

 鑑識では、足跡の深さ、靴底の形及び大きさ、歩幅、身体構造から来る歩き方の性差──具体的には男性なら肩で歩くため蟹股に、女性なら腰で歩くため内股になる傾向にあること──を根拠に身長、体重及び性別を推測する。

 今回見つかった足跡は、ほとんど明白に男性のものだという。

「これらから考えて、犯人は男性と見てまず間違いないでしょう」と稲熊は結論を述べた。続けて、「次に犯人からの手紙についてですが」と言うと、第一会議室全体がわずかに緊張した。犯人からの手紙という、なかなか見ない事態に戸惑い、身構えてしまうのは自然なことだろう。それは倉橋も共感するところだった。

 手紙の内容を品行方正な日本語でそつなく説明してから稲熊は、「お恥ずかしながら、わたしには犯人の好み、ミッシングリンクはわかりません。皆さんの中に推理できた方がいらっしゃいましたら挙手をお願いします」と言った。

 一秒、二秒と時間が経過し、しかし誰も手を挙げようとはしなかった。

「確信がなくても論理的でなくても結構です。何かお気づきの点がありましたら遠慮なくおっしゃってください」稲熊は機械的な語調で呼びかけた。

「……」

 けれど、無意味。これは仕方がないだろう。ヒントが少なすぎる。これで答えられるなら、そいつは敏腕刑事でも名探偵でもなく超能力者の類いだっての──ろくなことを言えなかった自分を弁護するわけではないが、倉橋はそう思った。

 やがて、

「わかりました」稲熊は溜め息をつくでもなく、言った。落胆しているようには見えない。「それでは、今後の捜査方針ですが──」

 会議は進む。

 不意にナードの青年の笑い声が耳の奥で鳴った──例の映画のワンシーンが脳裏をよぎったのだ。

 気弱な彼は、劇中で四人の少女たちをレイプしていた。うっとりと顔をとろけさせながら惨殺していた。泣き叫ぶ少女の手足のけんを切り、執拗しつように犯し、生きたまま臓器を摘出し、物言わぬむくろとなった後も苛烈に陵辱しつづけ、そして何の前触れもなく興味を失い、捨てていた。遺体が発見されてニュースで取り上げられると、彼は感激し、どうしてか自慰にふけり、それに飽きると次の少女をさらい、繰り返した。

「……ふん」

 だから何だと言うのだ。映画は映画、現実は現実だ。同じようになるわけがない。

 けど、と胸がざわついている。不快だ。刑事の勘などというものは、あまり信じていないが、しかし──。

 ああ、煙草吸いてぇ。



 翌日、特別捜査本部に出勤し、朝の捜査会議が始まると、今回の捜査でバディを組むこととなった大弥矢警察署刑事課の椎原しいはら悠太郎ゆうたろう巡査と顔を合わせた。倉橋よりも五つ年下の椎原は、いかにも今時の若者然とした青年に見えた。五つしか違わないとはいえ、倉橋とはそもそもの人種が異なっているようで、親しくなりたいとは思えない、そんな青年だった。

 捜査会議が終わると椎原は、年増女にかわいがられそうなベビーフェイスをこちらに向けながら、「まずは仁美ちゃんのご両親に会うんすよね?」と言った。

「ああ、そうだ」ぶっきらぼうに答え、第一会議室の出入り口へ歩き出す。

 倉橋たちに与えられた任務は聞き込み捜査。その範囲と対象に関してはある程度の裁量が認められている。被疑者も何もわからない状態だからこそとも言えるし、成果さえ出せば過程はどうでもよいと上の人間が考えているからというのもあるだろう。いずれにしろガチガチに縛りつけられるよりは好ましい。

「あ、ちょっと待ってくださいよ」椎原は慌てて倉橋に追いすがる。横に並ぶと、「昨日からクイズのことをずっと考えてたんすけど」と始めた。

 まさか答えがわかったってのか?──怪訝に思いながも興味を惹かれ、一瞥をくれてやる。

 何にも考えていなそうな顔で椎原は言う。「あれって、実は答えなんてないんじゃないんすかね。ただの撹乱目的ってゆーか、嫌がらせみたいな」

 何だ、と拍子抜けした。誰もが考えるありきたりな意見だったからだ。

「まぁな、その可能性もあるわな」

 当然、倉橋もそれは考えた。シリアルキラーを演じて捜査を引っ掻き回す。本物の異常者が犯人というよりは、よほど現実的だ──しかし、「だが、まだわからん。実際のところ、猟奇殺人鬼は確かに存在している。サイコパスだっているし、ロリコンだって少なからず、いる」

「そうっすね」椎原は、自分の意見を否定されたというのに、まるで気にしていない様子で同調してきた。と思ったら、「日本は昔からロリコンがわんさかっすからね。変態の国っすよ、変態ジャパンっす」と的を射ているのか、そうでもないのか、簡単には判断できないこと、そして判断したくもないことを言ってきた。楽しそうに目元を緩めてさえいる。

「お前はどうなんだ? 年下が好きなのか?」

「え、自分すか?」そう来るとは思ってなかった、とばかりに目を大きくした。が、すぐに答える。「自分は雑食っすね。上から下まで、見た目と都合とあそこの具合がよければ何でもオッケーっす」

 正直すぎだろ、と、むしろ感心した。とはいえ、

「お前、それ、人前ではあまり言わないほうがいいぞ」

 椎原は、あはは、と歯を見せた。「できるだけがんばりまーす」

「……」

 がんばる気ねぇな、こりゃあ。



 安藤仁美の家は大弥矢駅の西側にある住宅街にあった。二階建ての大きな家だ。雰囲気的には邸宅と言えなくもない。

「うっひゃー、でけぇっすね」椎原は安藤宅を見上げるようにして言った。「自分の実家とは大違いっすよ」

 元気だなぁ、と半ばあきれながら門扉横のインターフォンを押す。安藤仁美の母親、安藤百合子ゆりこ(三十三歳)に案内され、客間のソファに腰を下ろした。

「お飲み物をお持ちします」百合子は暗い音色でそう言って、部屋から出ていった。

 客間が倉橋と椎原だけ──旦那の安藤航平こうへい(三十六歳)は仕事だそうだ──になると、椎原は〈待て〉を解除された犬のようにうきうきとしゃべり出した。「奥さん、めっちゃ美人じゃないっすか。巨乳だしケツもぷりぷりしてるし、最高っすね」役得っす、とへらへらしている。

「お前なぁ」とあきれつつも、たしかにそうだけどよ、と認めてもいる。

 百合子は、女優ばりのきれいな二重まぶたで、バストサイズだって日本人の平均よりも三つぐらいは大きいように見えた。独身で女ひでりの倉橋には目の毒、とまでは行かずとも、女性的な部分に視線が行かないようにするのに少し苦労していた。

「そんなこと言ってー、倉さんだってチラチラおっぱい見てたじゃないっすかー」椎原がからかってくる。

 今時、鉄拳教育は流行らないだろうし、パワーハラスメントなる言葉まで登場して現場を締めつけているが、後で愛ある物理的指導を施す必要があるかもしれないな、と倉橋は本気で考えはじめた。建前としては、性犯罪の被害者遺族に性的な感情を向けるのは甚だ不謹慎だ、とでも言えばいいか。

 穏やかではないことを考えているのを目ざとく察知したのか椎原は、「あ、怒ってます? いやぁ、すんません、倉さん話しやすくて、つい友達といるような感覚になっちゃって。悪気はないんす、ホントっす、信じてください」と人好きのする笑みを浮かべて言った。

「……」距離感おかしくねぇか? 今日初めて会ったばっかだよな? というか、倉さんって何だよ。

「どうしたんすか?」純粋そうな瞳が覗き込んでくる。

「……」溜め息を出す気もなくなってしまった。毒気を抜く、あるいは気勢をぐ──椎原はそういう魔法を使えるようだった。「お前、かなり厄介なやつだな」本心から出た言葉だった。

「それ、よく言われるんすよ。何でなんすかね?」と椎原が不思議そうに首をかしげたところで、

「お待たせしました」と百合子がドアを開けた。お盆を持っている。彼女はしずしずと卓に湯呑みを置いた。湯気が立っている。緑茶のようだった。

 すみません、ありがとうございます、と頭を下げておく。一拍遅れて、あざっす、と学生気分にどっぷりとかったままの言葉が、椎原から聞こえてきた。

 頼むよ、もっとしっかりしてくれ、と心が洩らした。会ったことも話したことも信じてもいない神に祈るような気持ちでもあった。

 何ですか、その態度は! あなた幾つですか? 子供じゃないんだからそれなりの言葉遣いができないのですか? しかもあなた公務員でしょう? なら、なおさらちゃんとしなければならないじゃない。もうっ、何なんですかっ、警察は教育すらまともにできないんですか? 税金泥棒というやつですか? 仁美のことも守ってくれなかったし、まったくの役立たずじゃないですか! この無能! 変態! 嫌らしい目で見ないでください! 警察を呼びますよ!

 といった具合に百合子がまくし立てる未来を思い描いたが、それは杞憂で、彼女はうつむきがちなまま倉橋たちの対面に座った。礼儀がどうとか、そんなことを気にしている余裕はないらしかった。見れば、瞳の奥に深い闇が広がっているようだった。

 倉橋は寄りそうになる眉根を何とか制御し、口を開いた。「それでは、幾つか質問させていただきますが、よろしいですか」答えてくれないと大変よろしくないのだが、百合子が哀れで、このような優しい言い方になってしまった。やりにきぃな、と思う。被害者遺族の応対は神経をすり減らす。わかってはいたことだが、損な役回りだ。

「あの、仁美はいつ返してもらえるんでしょうか」こちらの質問に答える前に、まずはこれを確認しないことには始まらない、という雰囲気だ。よくあることだった。

「申し訳ありません、ご遺体の状態次第という面もありますので、具体的な日付をお答えすることはできません」

 倉橋の紋切り型の返答に、百合子は顔を歪めた。今にも泣きじゃくりそうで、事情聴取に冷静に応じられるようには見えない。

 やれやれ、女はこれだから、という気持ちがないと言えば嘘になる。理屈や現実はわかっているんだろうから感情ぐらい制御してくれよ、と内心で嘆息する。その一方で、彼女の心を思い、息苦しさを覚えてもいた。だから、強くは出られない。出る気になれない──やはり、やりにきぃな、と思わずにはいられない。

「ホントにごめんね!」浮薄ふはくとさえ言える調子で言ったのは、当然、椎原だ。謝意を表現するためだろう、顔の前で手を合わせている。「自分らも早くお母さんとお父さんのとこに返してあげたいとは思ってるんすよ。でも、今の技術じゃいろいろと時間が掛かるところもあるってゆーか、難しいことはわかんないっすけど、みんな、なる早でがんばってるんす。だから、少しだけ許してほしいんす」ね、このとおりっす、と目をつぶって合わせた手をすりすり。

「……」馴れ馴れしすぎだろ、と倉橋はあきれた。すねるガールフレンドをなだめるような声音にも聞こえ、チャラい若者そのものに見える。

 一応はお堅い職業ということになっている警察官の青年の口から飛び出した緩すぎる言葉に、百合子も目をぱちくりさせていた。が、「いえ、すみません、そうですよね」と困ったように、あるいは苦味を含んだ失笑をこらえるように言った。「皆さん、がんばってくれているんですもんね」とはいえ、自分に言い聞かせるようでもあった。

「心中お察しします。おつらいのも重々承知していますが──」チャンスと見た倉橋は、すかさず口を挟んだ。「早期解決のためにもご協力お願いいたします」頭を下げた。

「ええ、もちろん、わたしにわかることでしたらお答えしますが」百合子は自信なげに言う。「その、例えば犯人の心当たりとか、そういうのは全然わからないんです。お力になれるかどうか……」

「わかる範囲で答えていただければ大丈夫です。そういったすべての情報が、解決のための土台になるんです」倉橋は優等生然とした回答を、言いづらさを感じながも口にした。こういうの柄じゃねぇんだよなぁ、と思っている。

「そうっすよ」椎原が調子を合わせてきた。「自分はバカなんで推理とか無理っすけど、帳場には一流大卒インテリポリスマンもいるんで、意外な切り口からズバッと解決したりするかもっすよ」

「……わかりました」百合子はこちらの目を見て、「何でも聞いてください」と、そう言った。

 ありがとうございます、それでは、と倉橋が聴取を始めようとすると、椎原は慌ててボールペンとメモ帳を構えた。しかし、ボールペンが逆さまになっている。

 ……大丈夫かよ、こいつ。マジでしっかりしてくれよな。

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