桜小路蒼介⑥

 早野をはじめ、〈さいば~きゃんどるず〉のタレント複数人のマネージャーを掛け持ちしているという生形うぶかた真奈美まなみは、応接室のソファ──蒼介たちの対面に着くと早々に溜め息をついた。おそらく蒼介たちと同年代なのだろうが、後ろで無造作に束ねられた黒髪には艶がなく、申し訳程度に薄く化粧の施された顔には活気がない。まさに陰々滅々いんいんめつめつとした雰囲気の女だった。

「お疲れのところ申し訳ないです」蒼介が言うと、

「いえ、仕方のないことですから……」生形は暗い声色で答えた。声からも疲れがにじみ出ている。

 しかし、そんな生形にも堂坂は手心を加えるつもりはないようで、「それでは、聴取を開始させていただく」と飾り気のない調子で言った。

「はい」と小さく、かすれた声で答える様は、証言台に立つ自白済みの被告人のようでもあった。

「マネージャーということだが、どうしてこの仕事を選んだんだ?」

 この質問は、スレッドにあった不仲説の検証の前提となる事実、簡単に言えば人となりを知るためのものだろう。しかし、

「──は?」就職面接じみた質問にも聞こえるためか、生形は困惑の声を発した。「志望動機ですか?」

「そうだ──答えづらい質問だったか?」

 いえ、そんなことはないですけど、と怪訝そうに返してから生形は言う。「わたし、アニメとか漫画とか、そういうものが好きで、それで転職してきたんです」

「ちなみに前職は何を?」

「特許事務所で働いてました」

「弁理士資格を持っているのか」

「いえ、そうではなくて、ただの事務員みたいな感じです。正式には特許技術者と言うんですけど、わたしは英語が得意でして、それを活かして働いていました」

 英語圏で特許を出願しようとすると高い英語力が求められる。生形はそういう場面で活躍していたということだろう。

「バイリンガルということか」

「かっこよく言えばそうなりますね」それから、「一応、帰国子女なので」と補足した。

 帰国子女に対しては、社交的だったり気が強かったりといったイメージを持っていたが、それは正確ではなかったらしい。どう見ても生形はそのイメージとは結びつかない。蒼介は、こういう帰国子女もいるのか、と自身の知識をアップデートした。

 なるほど優秀なんだな、と社交辞令らしさなく言って堂坂は、「今の仕事には満足しているか?」と核心に近づいた。

「……ええ、良くしてもらっています」感情のこもらない言葉の裏には、言おうか言うまいか躊躇ちゅうちょしている本心が隠れているようでもある。

 ここは踏み込むべきだろう。蒼介がそう思うと同時に堂坂が口を開いた。「何かあるなら教えてくれないか」

「……あの、会社の人には言わないでいてくれますか」

「ああ、元よりそのつもりだ」堂坂は表情一つ変えずに断言したが、必要があれば言うこともあるはずだから四分の一くらいは嘘である。

「正直に言いますと」と生形は伏し目がちに話しはじめた。「もう辞めようかな、と迷っています。初めはVTuberが好きで、憧れのようなものもあってこの業界に入りました。けど、仕事の日や時間が不規則だったりタレントの子に振り回されたりで、言い方は悪いですが、もう辟易へきえきしてるんです。すべての子がそうとは言いませんけど、中には、遅刻や指示の無視は当たり前、みたいな子もいますし精神的に不安定になってしまう子もいます。彼女たちを支えるのはわたしには荷が重いんです。それに、響華さんがあんなことになってしまって──もう無理ですよ。わたしには上手くさばけません」

「大変な仕事なんだな」堂坂は無難な相づちを打ちながらも注意深く生形を観察している。

 蒼介ももちろん同じだ。しかし、不自然さは見受けられない。と思う。彼女から漂う無力感は本物に感じられた。

「早野さんはどうだったんだ?」堂坂は問う。「彼女はどんな人物だった?」

「響華さんですか」生形は記憶を思い返すように、「少し変わってるところもありましたけど、優しくていい子でしたよ」

「変わってるところというと?」レンズの奥の怜悧れいりな瞳がより鋭くなる。

 それに気づいた様子もなく生形は答える。「彼女、マンションから出ないんです。引きこもりというやつですね」

「は?」蒼介は、思わず疑問の声を発していた。ボールペンを持つ手も止まっている。「引きこもり?」それでタレント業をこなせんのかよ? と首をひねらざるを得ない。もっとキラキラした世界じゃないのか?

「そうです、家から出ない、あの引きこもりです」生形はバカにするでもなく平らかに答えた。「どうしてもスタジオで撮影しなければならないときなどは流石に出てきてもらいますが、そういう状況でない限りは自宅からの配信や動画投稿のみの子でした」在宅ワークの一種ですね、今時珍しくもないと思いますけど、と上目遣いに蒼介を窺う。

「はぁー」と蒼介は感心を吐息混じりの声に乗せて発し、「そういうVTuberの方もいるんですね」

「ええ、彼女ほど極端な子は少ないですけど」そう言って生形は、初めて笑み──苦笑ではあるが──を見せた。

「それはそれで大変だったのではないか」と堂坂。

「たしかにやれることは制限されますけど、あのくらいならかわいいものですよ。それに、うちの社長は成果を出してさえいれば常識なんて気にしませんから、上からガミガミ言われることもなかったですし」そこで生形は表情を沈めた。「ご存じかもしれませんが、彼女、うちの稼ぎ頭だったんですよ。頼りにしていたのに、これからどうなってしまうのか……」やっぱり早めに転職すべきでしょうか、と、なぜかこちらに質問。

 いや知らんがな、俺たちは転職エージェントのキャリアアドバイザーじゃないし、と言いたい自分をなだめ、「生形さんなら大丈夫ですよ。英語もできて引く手数多ですから、やりようは幾らでもありますよ」と一般論兼本音を口にした。

「……すみません、愚痴っぽくなってしまって」生形は恐縮するように肩をすぼめた。それから、少しだけ表情を明るくして、「刑事さん、いい人ですね」

「そうですかね……」また、いい人、と言われてしまった。悪い意味ではないのだろうが、いい人止まりのつまらない男と言われているようで微妙な心持ちになる。

 やや空気が弛緩したところで、

「念のための確認なんだが」堂坂が言う。「昨夜、早野さんがライブ配信をしていた時は何をしていたか教えてもらえるか」

「……自宅で配信を観てました」

「それは一人でか?」

「そうですけど……」疑われていることを察したのだろう、生形は不安そうに眉尻を下げた。「わたしも容疑者なんですか」

「念のためと言ったろう?」堂坂は淀みなく言葉を返す。「すべての関係者に確認していることだ。あなただけが特別というわけではない」

 幾分か安堵したのか、生形は脱力したように、「そうですか、わかりました」と答えた。



 早野の関係者十六名の事情聴取を終え、〈Vメイト株式会社〉の本社を後にして車に戻ると、時刻は夜の八時四十分を過ぎていた。早野と深く関わっていたスタッフは少なかったものの、念のため、〈関係者〉を〈ある程度以上は会話をしていた者〉と広めに解釈した結果、この時間まで掛かってしまった。

 雫由のことは、友人の京に頼んである。こういうことは今までにもしばしばあったため、彼は、蒼介が電話越しに、「実は例のVTuber殺しの特捜本部に呼ばれてしまって」と言った時点で事情と用件を察し、『うん、わかった、今から蒼介のうちに向かうね』と応じてくれた。

「すまん、今度何か奢るよ」

『それなら焼肉がいいな』京は楽しげな声で、『でも、蒼介とデートできるなら何でもいいよ』とふざけてきた。

「キモいこと言うな」

『デートってことなら本気出して女装するけど?』

 極端な女顔で極上の美形、しかも中性的な声質の京がそれをすると、性転換手術と同義、もはやただの絶世の美女である。つまりは、

「『本気出して女装するけど?』じゃねぇよ。余計にダメだっつーの」注目の的になるのは御免なのだ。性欲をたぎらせた男たちから見当違いな嫉妬の眼差しを向けられる俺の気持ちがわからないのだろうか、と蒼介は不満たらたらだった。

『えー』妙になまめかしい朱唇を尖らせている様が目に浮かんだ。けれども、京はTPOをわきまえている男だ。『嘘々、冗談だよ。雫由ちゃんのことは僕に任せて蒼介は心置きなく捜査に集中してよ──あ、奢ってもらう内容が何でもいいのは本当だから』と会話を終わらせる流れを作って忙しいこちらへの配慮を見せてくれた。

「わりぃな」

『うん、じゃあ捜査がんばって』

「ああ」そして、蒼介は電話を切った。

 このやり取りをしたのが、今から三時間四十分ほど前の午後五時ごろだ。

 助手席の堂坂が長妻に電話を掛けているのを聞き流しながら車を発進させる。

 しばらくして堂坂は電話を終えた。

 蒼介はハンドルを切りながら、「長妻さんは何て言ってました?」と尋ねた。

「友人でVTuberの里見さとみ沙耶さやにも話を聞いて、それから捜査本部に戻って詳細を報告してほしいそうだ」

「了解です」なかなかの人使いの荒さだが、よくあることなので承知することに抵抗はない。公僕とはよく言ったものである。慣れってこえぇなぁ、と思わなくもない。



 里見は天才サッカー美少女VTuber、夏空りんの中の人だ。彼女も早野同様、埼玉市在住らしい。二人とも埼玉生まれの埼玉育ちで、中学生のころからの親友なのだとマネージャーの生形が言っていた。

 たぶん俺と京の関係に近いのだろう──いや、職業が同じな分、彼女たちのほうが距離は近かったのかもしれない。蒼介はそんなふうに考えている。

 里見の自宅マンションは、早野のマンションのある場所から大弥矢駅を挟んで反対側の区域にあった。規模は早野のものと同じくらいだが、設備という点では里見のもののほうが一段上に見えた。当然オートロック式だ。

 エントランスにあるインターフォンで里見の部屋番号を押す。すると、すぐにやや低めの女性の声が答えた。丸みのある、耳に心地よい声ではあったが、覇気は感じられない。

 警察であることを告げ、里見沙耶の自宅であるか尋ねると、

『ええ、そうですが』

 と肯定が返ってきた。

「昨夜のVTuber殺害事件の捜査をしているんだが、少しお話を伺いたい」と堂坂が伝えた。

 女性は、『わかりました、お手数ですが、十階の部屋まで来ていただけますか』とロックを解除してくれた。

「ご協力感謝する」

 エントランスを抜け、エレベーターで十階に向かう。

 専有部分の玄関扉横のインターフォンを押して到着を知らせる。

『今、開けますのでお待ちください』

 とのことなので待っていると、ものの十秒もしないうちに玄関扉が開けられた。

 現れたのは、明るめの暖色のショートヘアの女性だった。ワンポイントのロングTシャツを着て薄い色合いのデニムを穿いている。もしかしたら急いで部屋着から着替えたのかもしれない。

「夜分に申し訳ない」堂坂は警察手帳を見せた。「埼玉県警捜査一課の堂坂千尋だ。あなたが里見沙耶さん本人か?」

「はい、そうです」里見は話すのも億劫そうだ。よく見ると目元にくまができている。眠れていないのかもしれない。「ここでは何ですので、どうぞ上がってください」そう言って彼女は、半開きだった玄関扉を完全に開けた。

 素直に従い、部屋に入る。これと言って目を惹くものはないが、全体的にセンスよくまとまっている。男にも女にも受けがよさそうだな、と蒼介は思った。

 リビングダイニングの白い洋風座卓に着くと、里見は、「飲み物は温かいのと冷たいのどちらがいいですか?」と聞いてきた。

「いえ、お気遣いなく。そのお気持ちだけで十分です」と蒼介が答える。

〈はい〉を選ばないと先に進めないビデオゲームのようになることも想定していたが、実際には里見は、「そうですか」と、すんなりと引き下がり、蒼介たちの向かい側に腰を下ろした。

「──それで、わたしは何をお話しすればいいのでしょうか」里見の口ぶりは淡白だけれど、険があるわけではない。

「早野さんのことを教えていただきたいのだが──」堂坂は真意──里見も疑っていること──を見せずに尋ねる。「あなたが彼女と親しかったというのは間違いないか?」

「ええ、そのとおりです」沈痛な面持ちで、「中学生の時に同じクラスになって以来ずっと仲良くしていました」

「では、早野さんに恨みを持つ人物に心当たりはあるか?」

 里見は眉をひそめ、「いえ、舞に限ってそれはないと思います」そんな子じゃないですから、と独りごちるように言う。

「そうか」とうなずいてから堂坂は、「ところで、彼女は引きこもりぎみだったそうだな。これは何か──例えば病気だとかそういう具体的な原因があってのことか?」

 里見は、ふふ、と緩い笑みを洩らした。「原因らしい原因は何も。舞は元からそういう気質だったというだけです。インドア趣味の一人が好きなハイスペックオタク──中学生のころからそんな感じでした。会話はそんなに上手くはないですけど、大抵のことは人並み以上に器用にこなせる子です。だから、VTuberになれば案外成功するんじゃないかと思って、『一緒にオーディション受けようよ』と誘ったんです。一人でこの業界に飛び込むのが不安だったというのもありました。それが──」そこで声を詰まらせ、「あんなことになってしまって。あんなことになるなら誘わなければよかった……」うつむいてしまった。

 慰められることを前提とした涙だったとしても、だからといって無視するのはどうにも据わりが悪い。

「里見さんのせいじゃないですよ。悪いのはどう考えても犯人です。あなたが自分を責める必要はありませんよ」蒼介は優しい声色で言った。

 女の求める言葉なんてわからない。だから、こんなんでいいんかね、と不安だったが、

「ごめんなさい、こんなこと刑事さんに言うようなことじゃないですよね」と里見は顔を上げた。

「いえいえ、それで里見さんが少しでも楽になるなら幾らでも聞きますよ」

 視界の端では堂坂が里見を見つめている。その美しい瞳からは同情などといった個人的な感情は窺えない。警察官としてどこまでも中立であろうとしているのだろう。

「早野さんを恨んでいる人物はいないと言ったが──」堂坂が氷のように冷たい語調で言う。場を引き締めるようでもある。「彼女がシンガーソングライターの都丸駿平さんと交際していたことは知っているか?」

 ──え、と声が零れ落ちた。「それ本当ですか?」

「ああ、事実だ」堂坂は答えた。

「全然知らなかった……」とつぶやくように言ってから、「どうして教えてくれなかったんだろ。わたしたち友達じゃなかったのかな……」と、めんどくさい方向に進みかけるも、「あ」と何かに気づいたような声を上げた。「それを刑事さんが聞いてくるってことは──」その都丸という人が犯人なんですか。そう言いたかったのだろうが、

「捜査状況に関してはお答えしかねる」

 堂坂に阻止された。

 里見は怖がるように肩をしゅんとさせ、「そうですよね、ごめんなさい」

「都丸さんについて何か知っていることはあるか?」堂坂は聴取を続ける。

「いえ、ありません、初めて聞いた名前です」

 メジャーレーベルどころか有名どころのインディーズレーベルですらない、しかもブレークしているわけでもないシンガーソングライターのことなど知っているほうが珍しいだろう。実際、蒼介や堂坂も知らなかったわけだし、これは致し方ないように思う。

「では、早野さんを殺した犯人について何か心当たりはないか? どんな些細ささいなことでも構わない」

「……」少しだけ考えたようだが、結局、里見は、「わかりません」と答えた。

「里見さんもVTuberをしているそうだな」

「ええ、そうですが、それがどうかしましたか?」

「ということは早野さんが殺害された昨夜七時半ごろも配信をしていたのか?」

「昨日の配信は夜の十時からの予定でした」でも、と続ける。「舞の配信があんなことになって、心配で自分の配信どころではなくなってしまってお休みさせてもらいました」リスナーのみんなには悪いことをしてしまいました、と。

「里見さんも昨夜の早野さんの配信を観ていたのか?」

「ええ、観てましたよ」

「それはどこで?」

「どこって、ここで観てましたけど」

「その時、マンションには一人でいたのか?」

 ここで里見は堂坂の意図を察したようで、「わたしを疑ってるんですか」とまなじりを決した。

「疑っているといえば疑っているが、それはあくまで関係者全員に向けられる種類のものだ。不快かもしれないが、我々の立場をご理解いただきたい」

「……わかりました、すみません」それから、里見は答えた。「一人でしたよ。配信の予定もありましたし」

 里見アリバイなし、と蒼介はメモ帳に書き込んだ。

 しかし、アリバイがないのは珍しいことではない。また、アリバイがないからといって、それがただちに犯人であることの証明になるわけでもない。

 都丸、横幕、生形、その他〈Vメイト株式会社〉の関係者たち。今日、話を聞いた人の顔が、脳裏に浮かんでは消えていく。

 この中に犯人はいるんかね?

 はっきり言ってまったく見当がつかないが、解決できるのだろうか。 

 聴取は続く。



 里見の聴取を終えてマンションを出た蒼介たちは、特別捜査本部のある大弥矢警察署に向かっていた。時刻は午後十時二十一分──夜の街をセダンが走り抜ける。

 ハンドルを握りながら蒼介は、堂坂に尋ねる。「犯人の予想はありますか?」

 ドアガラス越しに流れゆく街並みを眺めていた堂坂が、疲れているのだろう、緩慢に振り向いた。「さぁな、今ある情報だけでは推理することはできないな、少なくともわたしには」

 堂坂さんで無理ならほとんどの人にも無理だろう、と思う。雫由の幼い声が、「わたしなら推理できるよ」と言った気がしたが、幻聴の類いだろう。蒼介も疲れていた。

「そう言うお前はどうなんだ? 何かわからないか?」

 まさか肉体労働担当の自分が問われる側になるとは思っていなかったため、青天せいてん霹靂へきれきというほどではないにしろ驚いた。「それ、俺に聞きます?」わかるわけがないですよ、という情けない言葉を言外に添えて尋ね返した。

 堂坂は、ふっ、と鼻先で笑った。しかし、小馬鹿にするニュアンスはない。「そうか? 早々に自分に見切りをつけないでちゃんと考えてみれば、意外といい線いくかもしれないぞ?」

「えー」そんなこと言われても小難しいことはそもそも考えたくないんだけど、と内心で文句を言いつつ、しぶしぶ推理を試みる。

 話を聞いた限りでは、早野舞の人物像は〈オタク趣味の引きこもりだが、優秀で優しい女性〉だ。誰かに恨まれるような存在ではないように思える。自宅マンションに引きこもってゲームをしたり歌ったりして、それを配信しているだけなのだから、影響力はあっても直接的な実害を誰かに与えることはないだろう。言い方は悪いが、その程度のことしかしていない人間を殺す動機は想像がつかない。

 強いて犯人を挙げるとすれば、やはり恋人の都丸だろうか。情けを交わした二人にしかわからない何かがトリガーとなって、ということは、まぁ、一般的には少なくない。痴情のもつれというやつだ。彼の供述には、どうやら嘘が含まれているようだし、その点も怪しくはある。

 しかし、都丸にはアリバイがある。

 となると、少なくとも実行犯は都丸ではありえない──ん、あれ、そういえば、

「都丸以外に合鍵を持つ人は見つかっていないんですか?」

 そういう人がいればその人こそが最も怪しいのではないか、と思って尋ねたのだが、

「見つかっていないそうだ」

「そうですか……」

 それなら都丸と誰かが共犯だったと考えるしかなくなるよな──蒼介はそう思う一方で、でもなぁ、と否定的でもある。

「都丸の共犯者と思われる人も見つかっていないんですよね?」

「ああ、そのような話は聞いていない」

 共犯を裏付ける明確な根拠がない以上、安易にそうと決めつけないほうがいい気がする。それに、共犯者がいたとして、その共犯者の動機は何だ? まさか共犯者は殺し屋で、都丸に依頼されたから手伝っただけ、などという、それこそアニメのような真相ではあるまい。

 わかんねぇ。無理だろ、これ。

 何だか脳みそがかにみそになったかのようだった。要するに、腹減ったなぁ、ということである。

「すみません、ほんっっっとにわかりません」蒼介は切実な声で訴えた。「俺にわかるのは、蟹みそが食べたいということだけです」

 支離滅裂なことを言う蒼介を哀れんだのかは不明だが、堂坂は、「そ、そうか、変なこと聞いて悪かったな」とそれ以上は推理を要求する気はないようだった。なぜ蟹みそ? と困惑している。いい気味である。

 それはそれとして、親父ならわかるかね? と蒼介は記憶の中の香りに思いを馳せる。

 蒼介の父はミステリー小説が好きな人だった。自身の経営する喫茶店の店名〈iCe&shirt〉も、尊敬する推理作家の名前を基に付けたと言っていた。それくらい重度のミステリーオタクだった。

 そのせいか、あるいは元々高い知能を有していたのか、推理が得意で友人の刑事からたまに助言を求められていたようだった。

 そんな彼は、最初の妻──蒼介の実母──に交通事故で先立たれている。そして、二十年近く経ってからようやく再婚したかと思ったら、二人目の妻──雫由の実母──と旅行に行った際に交通事故に遭い、二人仲良く帰らぬ人となってしまった。再婚から三箇月ほどしか経っていなかった。

 のこされたのは、他人とほとんど変わらない義兄妹──蒼介と雫由だ。成人して働いていた蒼介はともかく、雫由は一人で生きていくには幼すぎた。蒼介は彼女と、ままごとじみた、ぎこちない二人暮らしを始めた。

 捜査一課に配属されてからというもの、俺にも親父のような推理力があればよかったんだけどなぁ、と思うようになっていた。確かに血は繋がっているはずなのに遺伝とは、人間とは不思議なものである。むしろ生物的には何の繋がりもないはずの雫由のほうが能力的には似ている始末だ。

 そう思うと何だか自分が情けなく思えてきた。

「はぁ~」

 深い溜め息が出てしまった。

「何だ、急に辛気くさい溜め息なんかついて」堂坂が不審がる。

「親父のことを思い出してたんですよ」

「ほう?」と興味のありそうな反応──堂坂がどうであれ蒼介自身が話したい気分なので、続ける。

「頭のいい人でした。いろんなことを知っていて、俺とは違って推理も得意で──」ここで、蒼介は父の解決した事件を何か一つ挙げようと思い、記憶をあさる。手頃な事件をすくい上げ、「二十年ぐらい前に埼玉で起きた〈埼玉連続少女誘拐殺人事件〉って知ってますか? あれを解決に導いたのもうちの親父なんですよ──ただの喫茶店の店主だったんですけどね」

 当時、世間を震撼しんかんさせた凶悪事件だ。

 そんな重大事件の解決に一枚噛んでいたと聞いて驚愕したのか、堂坂は一呼吸分、間を空けてから、「すごいじゃないか」と応じた。

「そうなんすよ、すごい人だったんですよ」それなのによぅ、と嘆きたくもなる。

「親父さんは亡くなっているんだったか」

「ええ、一年ほど前に」

「そうか」堂坂はささやくように言った。「お前の親父さんなら今回の事件も真相にたどり着けたと思うか?」

「解決するでしょうね、簡単に」身贔屓みびいきだろうか──いや、そんなことはない、はず。

「本当に名探偵だったんだな」

 名探偵という言葉を聞いて、蒼介は雫由を思う。雫由にも真相はわかるのだろうか──わかるかもしれないな、と思う。夏に見せたあの推理力を発揮すれば不可能ではないだろう、と蒼介は考える。

 しかし、幼い彼女に甘えるのは申し訳なく感じる。彼女の仕事は殺人事件の推理などではなく、学校に行ったり勉強したり友達と遊んだりすることだ。夏のあれは強制イベントだったから仕方ないにしても、そうでないならば自重すべきだろう。

 大弥矢警察署が見えてきた。

「仕事の時間だな」堂坂が言った。

「ですね」

 蒼介はハンドルを切る。



 蒼介たちが特別捜査本部に到着した時には、すでに夜の捜査会議──その日の捜査の結果を報告し、今後の方針を話し合う──が始まっていた。二人は密やかに第二会議室の入り口をくぐり抜け、空いている席に座った。

 程なくして、堂坂が成果を報告した。

 午後十一時五十分に捜査会議が終わると蒼介は、書類仕事に取りかかった。そして、ある程度のところでそれを切り上げて──この日の業務から解放されて大弥矢警察署を出たのが、午前零時三十九分であった。

 自身の青いSUVに乗り込んだ蒼介は、あー疲れた、と息をついた。ほとんど無意識に、確保できる睡眠時間を計算する──だいたい四時間ぐらいか?

 捜査一課に来る前だったら少ないと感じただろうが、今となってはそうは思わない。世間の注目度の高い事件の捜査に参加しているならば、このくらいは普通である。むしろ、帰宅できて四時間も眠れるのだからマシなほうとさえ思う。

 エンジンを掛け、SUVを駆って家路に就く。

 


 真夜中の住宅街は、未だ明かりが点在しているものの、ひたすらに静かで、いつものことではあるが車の走行音に罪悪感を覚える。

 自宅のカーポートには二台分のスペースがある。そこに赤いBMWが駐まっていた。京の車だ。

 その隣にそろりとSUVを滑り込ませた。

 玄関扉を開け、リビングダイニングに行くと、

「お疲れー」

 と、心安く、そして心地よい声が蒼介を迎えた。

 勝手知ったる連れの家ということなのだろう、京はソファでだらりとしていた。ソファの前にあるテーブルには、ウイスキーの瓶と炭酸水のペットボトル、それから薄い茶色のハイボールらしき液体が入ったグラス、さらにはアボカドを使用したおつまみまである──全力でくつろいでいたようだ。

「お疲れさん」と惰性的に返し、ソファに身体を投げ出す。「はー」と息を吐き出すと同時にネクタイを緩めた。それから、「雫由は寝たのか?」と尋ねた。

「んん」グラスに口を付けていた京は、男にしては長めの髪を揺らしながら、くぐもった声を発した。グラスを離してから再び、「寝てる。十時半ぐらいだったかな、『おやすみ』って言って部屋に引っ込んでいったよ」

「そっか」と答えてから、「今日はいきなり悪かったな、助かったよ」

「うん、おいしいお店を期待してる」

「わかってるって」そうはいっても具体的なプランはまだない。

 不意に空腹感が自己主張を強めはじめた。最後に固形物を胃に入れたのが昼前だから、かれこれ十三時間は何も食べていない。

 皿に載せられた箸をひょいと取り、おつまみを口に運ぶ。味付けはポン酢がメインらしい。アボカドの滑らかなコクにいいアクセントを加えている。

「まぁまぁうまいっしょ」京が首を傾けるようにして言った。ほろ酔いの頬は薄紅に色付き、瞳はかすかに潤んでいる。

「たしかにまぁまぁうまい」とうなずきつつ、皿のアボカドに箸を伸ばす。

 しかし、当たり前だが量が少ない。冷蔵庫を漁るか、と思ったところで、ガチャリと音がした。見れば、パジャマ姿の雫由がリビングダイニングのドアを開けたところだった。

「おかえり」雫由が静かな声で言った。

「ああ、ただいま」蒼介は応えてから、「起こしちまったか?」

「ううん、違う」と否定して雫由は、ドアを閉めた。こちらに寄ってきてソファ──蒼介と京の間にちょこんと座った。

 何だ? と不思議に思った。京を見ると、彼もこちらを見ていた。どういうこと? という目をしているが、そんなのは知らない、としか返せない。さぁ? と唇の動きだけで伝えたところで、雫由が口を開いた。

「響華ちゃんを殺した犯人は見つかった?」

 ああ、と納得した。普段、雫由のほうからコミュニケーションを取ろうとしてくることは少ないから何事かと思ったが、何てことはない、事件のことが気になっていただけなのだろう。

「まだ見つかってないんだ」と答え、続けて、「怪しい人はいるんだけどな」と言い訳がましく付け足した。

 へぇー、埼玉の警察は優秀なんだね、と京がいい加減な相づちを打っている。

「その怪しい人はまだ重要参考人レベル?」雫由の質問の意図が読めない。

「そんな感じだけど、それがどうしたんだ?」

「……ねぇ、蒼介」雫由は身体を蒼介のほうに向けた。お人形さんのように大きな瞳が、蒼介を映している。小さな口が動く。「わたしに推理させて」

「それは」と口にして、そこで言葉を切った。

 小学生の雫由を捜査に巻き込むのは善くないことだ。これは間違いない。けど、雫由からすればVTuber・天雲響華の一ファンとして一刻も早く犯人を捕まえてほしいに決まっているし、あるいはそれだけにとどまらず、自らの手でかたきを討ちたいと思っていてもおかしくはない。

 だから雫由は、自身の優秀な能力を活用してくれと、そう言っているのだろう。

 それはわかるのだが、その提案に甘えていいのだろうか、と思うところもある。

 うーん、と眉間にしわを寄せて悩んでいると、雫由は自身の小さな手を蒼介のごつごつとしたそれに重ねた。びっくりしてビクッとした。彼女らしくない。

「わたしなら解決できる」どこからその自信がやって来るのか、雫由は断言した。そして、ぎゅっと蒼介の指を握り、小首をかしげ、「ね、お願い」

 何という愛くるしさ、否、あざとさだろうか。ちょっとこれは雫由らしくなさすぎる。こんな小悪魔ちっくな仕草をするわけがない──良からぬ大人の入れ知恵があったに違いなかった。

 良からぬ大人──エロい妄想をしてお金を稼いでいる官能(と恋愛)小説家の京に、じとっとした目を向ける。おいしそうにグラスを傾けている。からん、と氷が笑い声を上げた。

「京さんや」蒼介はどこぞの昔話に登場するおばあさんのように呼びかけた。

「ん? 何だい、蒼さん」京はどこぞの時代劇に登場する名脇役のように答えた。

「雫由に変なこと教えたろ」

「人様の子にそんなことするわけないじゃない」京はしれっと嘘をつく男だ。昔からそうだった。「ね、雫由ちゃん、僕、おかしなことは何も教えてないよね?」

 雫由は蒼介から手を離し、小さなお尻をもぞもぞと動かしてソファの正面を向くように座り直した。「うん、役に立ちそうなことしか教えてもらってないよ」

「おい、京」蒼介は尋ねる。「一応聞くが、何を教えたんだ?」

「うーん」と白く細い指で顎を挟んで考える仕草をしてから京は、「女の武器の使い方?」

「完全にアウトだ、バカ! 雫由の教育に悪いだろうが! お前のせいで尻軽に育ったらどうすんだよ?!」

「あはは」京は朗らかに笑い、「蒼介、いつの間にそんなにシスコンになったの?」

「そんなのは知らん」

 蒼介と京の、おそらくは益のないだろう会話に雫由が言葉を差し込む。「蒼介、そんなことより事件のことだよ」大人びた声音だ。深刻そうでもある。「警察としても逮捕は早ければ早いほどいいんじゃないの?」

「……それはそうだが」

「わたしが子供だから信用できない?」

「いや、そういうわけじゃなくて──」捜査のことは一般人には話せないんだよ、と言うより先に雫由が、

「大丈夫、わたしは一人じゃないから。それに前にも言ったよ──わたしのことは信じなくてもいい。でも、推理は信じて」

 数秒の静寂。やがて、

「……はぁ」力のない溜め息は、押しきられたあかしだった。「わかった、わかったよ。話すから雫由の推理を聞かせてくれ」

「うん、任せて」そう言って雫由はほほえんだ。

 早速、昨夜からの出来事を時系列に沿って説明しようとすると、

「あのさ」グラスを片手に静観していた京が口を開いた。「それって、僕も聞いていい話なの?」

 よくはない。が、「ま、いいよ」

 本音を言えば、ほかよりも頭を使うであろう職業に就いている京の意見も聞いてみたかったのだ。

「そう?」アボカドをぱくり、ハイボール(らしきもの)をごくり。「それなら僕も名探偵デビューしちゃおうかな──あ」京は重大な事実に気づいた刑事のような表情になり、「ごめん、たぶんお酒とおつまみ足りないからちょっと待ってて」そう言って、小走りにキッチンへ向かっていった。酒にめっぽう強いため足取りは確かだ。

「……」京の背中が見えなくなると蒼介は、「緊張感ないなぁ」と独りごちた──つもりだったのだが、

「酔っぱらいに緊張感を求めても意味ないよ」雫由が応じた。

「たしかに」正しい意見だ。ただし、不十分でもある。「京は酔ってなくても緊張感とは無縁だよ」

「そうだね」雫由は無表情で相づちを打った。「ゆるゆるなお姉さんだもんね」

「うん、お姉さんじゃなくてお兄さんな」

「?」

 雫由のきょとんとした顔は、大変かわいらしい。

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