3.魔女は長足になりたい

 ――もうおしまいだ。


 もうおしまいだ。ヴィクトルさんはきっと私のことが嫌いになったに違いない。

 だって。あの日以来、荷物が届いただけで、いつも時間通り訪れるヴィクトルさんがいつまで経ってもこないだもの。

 森も。辺境も。なにもかも嫌になるに決まってる。最近は外も妙に騒がしいし。


「ルフィナ、もう手紙を書かないのかい」


 今日は曇り。数日ぶりに会ったガリーナ婆さんは棚の整理をしている私に話をかけた。


「だって。あんなひどいことを言ったんです。きっともう無理です」

「そうかね。本当にいいの? ヴィクトルは午後から戦場に出るわよ」

「――えっ、どういうこと」

「知らなかったのかい! 王国と大公国は開戦するよ」と、ガリーナ婆さんは見開いた目で私を見た。


 思わず手の中にある薬の小瓶を手放した。小瓶が破裂し、地面にはガラスの破片だらけだ。


「そんな。どうしていきなり」と、私はつぶやく。

「ルフィナ」

「だって。ヴィクトルさんはきっと私のことが嫌いなんです」


 震えた声で返事した。


「戦場に出たら、本当におしまいかもよ。本当にいいのかい」

「で、でも。なにを言えばいいんですか。手紙だってまだ」


 引き出しにある手紙を取り出す。名前を書いただけで、私の気持ちは何も書いていない。


「今から書けばいいんじゃないか」

「今、今書かないと」


 でも、どうすればいい。何を書けばいい。頭は真っ白で、焦りで涙だけが溢れる。

 このままだと、彼が戦場に行ってしまう。なにかを書かないと。私の思いを伝わらないと。


「あなたが好きなのは、手紙か。それとも彼のことかい」

「ガリーナ婆さん、私は」

「手紙が完璧じゃないと、嫌われるのか。彼はそんなひどい人なのかい」


 違う。ヴィクトルさんはそんな人じゃない。

 いつも私に気にかけてくれて、最初にあった日からずっと。『ひとりで大丈夫か』と、何度も聞きに来てくれた。


「違う。違います。ヴィクトルさんはこんな人じゃ」


 紙の上にある名前を見ると、彼の顔を思い出す。

 戦場に出るともう会えなくなる。もし、彼は戦場で命を落としたら。

 どうして。どうして戦なんてあるのだろう。


「泣いてる場合じゃない、ルフィナ。早くしないと間に合わないよ」


 もう泣く暇すらない。完璧に書く時間もない。はやくしないと。彼は行ってしまう。

 涙を拭いて、真っ白の紙と向き合った。

 完璧に、いや、完璧じゃなくてもいい。お願い、私の思いを届いて。


 懸命に手紙を書いて、傷薬を取り、すぐに小屋を出た。

 走らないと。もう時間がない。

 辺境から戦場に出たら。

 もう二度と会えない気がする。

 もっと早く走られればいいのにと、自分の短足を呪った。森を出るだけで余計の時間を食う。


 ようやく森を出た途端、空は一気に暗くなり、雨が降り出す。

 通り雨と思って走り続けたが、いつのまにか豪雨になった。全身がびしょ濡れになる。

 雨に打たれて、体の芯が冷える。

 まるで油の上で走ってるようだ。何度もバランスが崩れた。何度も転んだ。冷たい。息も苦しい。体が思うように動けない。

 それでも走らなくちゃ。

 走って、私の思いを届かないと。

 諦めちゃダメ。諦めちゃダメよ、ルフィナ。


 なんとか、ついに辺境までたどり着いた。

 王国の旗があるのに、誰もいない。もしかして、すでに出発したのか。


 ――間に合わなかった。


 脳裏に浮かぶその考えにぞっとした。


「そんな」


 いやよ。いやよ、ヴィクトルさん。

 また何も話していないのに。お別れすら言っていないのに。もう戦場に出たなんて、嘘だよね。

 豪雨が一向に止める気配はなく、怨嗟のように、諦めろ、もう諦めろ、と耳の隣で叫び続けた。

 それでも諦めきれずに、関所の奥まで走って。


「ヴィクトルさん、どこにいるんですか――!」


 最後の力を振り絞って叫んだ。前を見ずに。

 すると、二、三歩の前から視線を感じた。

 頭をあげて見ると、ヴィクトルさんと別の兵士は打ち合わせの最中みたいで、驚く目で私をじっと見たのだ。

 寿命が縮めた気がした。

 兵士が彼の指示で別のところに行って、彼はすぐに私を関所の屋根の下に引っ張った。


「ルフィナ」と、彼は私の名前を呼ぶ。


 彼の顔を目の当たりにすると、口がうまく回らない。口が魚のようにパクパク動くだけ。

 焦って手紙に目を配ると、すでに濡れてて、黒いインクが滲む。読めるわけがない。こんなびしょ濡れたラブレターを渡しても意味がない。

 手紙を握りつぶした。


「ヴィクトルさん、ほ、本当に戦場に出るんですか」

「連絡が遅れてすまなかった」と悲しそうに頷く。

「あの。傷薬を持っていてください!」


 慌てて懐から傷薬を彼に渡した。


「わざわざそんな――いや、助かる、ルフィナ」

「先日は、その、ごめんなさい。カッとなって、つい」

「俺の方こそ、もっとあなたをしっかりと守るべきでした。ルフィナは魔女じゃないよ」


 彼の一言だけ聞くだけで、体の寒さすら忘れ、こころが温かくなる。

 雨の勢いも徐々に弱くなり、まわりも騒がしくなる。兵士の慌ただしい足音が延々と聞こえた。


「すまない、もう行かないと」


 ヴィクトルさんは傷薬を受け取り、ちらっとまわりを見て、申し訳無さそうに話した。


「ま、待ってください」


 思わず去っていく彼の腕を掴んだ。

 今よ。今言わないと。


「わた、私は」

 彼の瞳がじっと私を見つめて。


「ヴィクトルさんの無事を、ずっと、家で祈ります」

 違う。言いたいのはそっちじゃない。

 ぎゅっと彼の腕を握って、すがるように。


「わた、私は、さい、」

 緊張して。


「さいしょから」

 訛りが思わず出てしまう。


「最初にあった日から、あなたのことが好きなんですう!」


 あなたが賊に襲われて、怪我をしたときも。訛りが出ちゃったときも、魔女だと知ったときでも、変わらずに接してくれた。

 治療のお礼だと言ってわざわざ来てくれたのは、とても嬉しかった。

 毎日のように心配そうに尋ねてくれたのがもっと嬉しかった。薬の話、お茶の話、果物の話、天気の話。どんな話でも面白かった。

 だから。だから。


「ずっと、ずっと。お祈りします。私のことが嫌いでも構いません、ちゃんと、戻ってきてほしいんです」

 鼻が詰まって、訛りがよりはっきりと聞こえる。


「ルフィナ、俺はもういかないといけない」


 返事を聞くと力が抜けて、彼の腕を離した。

 すると、彼はさっき渡した傷薬を私の手に置いた。

 どうして。どういうこと。

 そこまで私のことが嫌いなのか。

 いや、彼はそんな人じゃないもの。でも。でも、もしかしたら。


「――先にこれを預かっておく。必ず取りに来るから、待っていてくれるか」


 彼はじっと私の瞳を見た。

 一呼吸を置いて。

 ついに言葉の意味を理解して、目頭が熱くなる。

 何度も、何度も頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る