カグツチ
斉藤すず(斉藤錫)
プロローグ
2084年6月2日 午前11時32分
2084年6月2日 午前11時26分。
新潟県佐渡市。佐渡島上空高度1万8000メートル。
眼下に広がる海は青というよりも黒色に見えて、目に痛いほどの陽光を反射してキラキラと輝いていた。
その光にほんの僅か影が差したような気がして、今年43歳になった山下宏樹2等空佐は操縦桿から一度手を離し、カメラの解像度を上げて確認した。
波間をかなりのスピードでもって、北西に向けて「何か」が進んでいる。
全長2メートルほどのそれは、
−−イルカ、だった。
6頭のイルカの群れ。きっと家族に違いない。
頬が緩み、歴戦のパイロットである山下の顔に笑顔が浮かぶ。
左後方を向き、自分が搭乗しているものと同機種、もう一機の「ハナムグリ」に向かって手を振った。
「おい上野。下、下。海見てみろ」
『え? なんすか?』
山下の左後方を飛行していた上野公康一等空尉が上官の指示に従い、風防の向こうでその通りに動いた。
『うわっ⁉︎ イルカの群れ! 初めて見た!』
歓声を上げた上野はその後も一人で「ほあー」とか「うわー」とか騒いでいる。
今年27歳になったまだ若いパイロットである上野。たくさんのパイロットを育て上げてきたベテランの山下にとっては、部下というよりも子どもの一人のような存在だった。
山下がコックピットの中で再び前方に向き直る。
無線が微かに音を拾い、そしてすぐまた静かになった。
この高度になると、時折入ってくる無線音声以外の音はほとんどない。
シートの背面を伝ってくる大出力イオンエンジンの振動音は、慣れすぎてしまって自分の心音のように自然だった。
日本の東雲重工業製、「E-33」。
現代日本自衛軍における代表的な偵察機である本機は、その全体的な形状から「ハナムグリ」と呼ばれている。
6本の脚と、頭部、胸部、腹部に分かれた3節を主構造としており、その外観は確かに、驚くほど愛称の通りに「ハナムグリ」であった。
現代においてこの「ハナムグリ」は偵察任務を主としており、高高度を見た目のんびりと巡回するのが主な任務だが、10年前の地球外ケイ素生命体「タイタン」との戦争の際は、その強力なエンジンに基づく豊富な積載能力から爆撃機として活躍し、空対地攻撃の要として、日本の防衛に最前線で尽力した。
従軍した山下の同僚は、そのほとんどが帰らぬ人となった。
自分が生き残れたのは、何か具体的な理由があったわけではなく、ただ「偶然」「運が良かっただけ」だったのだと山下は思う。
良い奴ほど早く死ぬ。
そんな冗談めいた格言も、後から思い返してみるとその通りだと感じるのはあまりにもやるせなかった。
こうして高い、静かな空を飛んでいると、ふいに死んでいった友人達の顔を思い出す。
天国に近いからかもしれない。
山下はそう思うと、自身の中に芽生えていたらしい信心に苦笑した。
切り替えるために頭を軽く振り、操縦桿を僅かに右に傾けた時、
『娘にも見せたかったなぁ』
自分から見たらまだまだ子どもの上野が、実のところは一人の娘を持つ父親である。
その事実に山下は少し笑ってしまう。
「翼ちゃん、2歳だっけ?」
『いえ、3歳っす。先月3歳になりました』
子どもの成長は早い。
5ヶ月、のタイミングで一度会わせてもらったことがあるが、その時はまだ本当に「赤ん坊」の姿だった。3歳になんてなったらどんな姿になっているのだろうか。
山下は大学生になった自分の娘の3歳の頃の姿を思い出そうとしたけれど、思い出の中にある姿のどれが3歳の時のそれだったのか、イマイチ判然としなかった。
長年連れ添ってくれた妻の呆れ顔が目に浮かんだ。
「今日、お祭りには来るのか?」
『はい! そうなんです。昨年は風邪引いて来られなかったんで、今年こそパパの相棒を見せてやりますよ』
こちらの機に僅かに並んだ上野が、キャノピーの向こうで自機を指差すようにして笑っている。
佐渡島前線基地の関係者にとって、「お祭り」と言えば年に一回基地を解放して開催される「基地祭」のことに決まっていた。
屋台が並んだり、櫓を組んで盆踊りが行われたり、そしてこの「ハナムグリ」を含めた実際の戦闘機が来場者に向けて公開される。
地元の人間はもちろん、県外からも大勢の人が訪れる、まさに一大イベントなのである。
『イヤイヤ期がなかなか終わらなくて、今日の朝も「パパのこと嫌い」って。でも翼、飛行機大好きっ子なんで、今日はホント、ポイント稼ぐ大チャンスなんですよ』
言って笑う上野は、コクピットの中で何か小さな紙切れを振ってみせた。
操縦席に持ち込んでいる、家族3人で写っている写真だった。
本当はもっと、家族との時間を与えてあげられたら、と山下は思う。
しかし「エイリアン」との長きに渡る戦争が終わったら、次にやってきたのは待ち望んでいた「平和の時代」ではなく、再びの人と人とが戦争をする時代だった。
とりわけ最近、実質世界最強の国家となった清華の動きは著しい。
民間にはまだその緊張感は伝わっていないが、この国に攻め入ってくる可能性が、今や「非現実的」とは言っていられなくなった。
先の戦争では共に仲間として戦った人々と、今度は矛を突きつけ合う。
その現実に山下はうんざりする。
この空に隔たりなどないことを、パイロットであればどこの国の誰でも知っている。しかし人間はどこまでいっても「区別」するのが好きで、同じように見える空にも、実は「日本の空」と「清華の空」というものがあるらしい。
上野が前回家に帰れたのはいつだったか−−。
家族との時間は、軍人にとって貴重だ。
「そりゃ……、今日一番重要な任務だな」
山下は深く頷いた。そして片や茶化し、片や励ますようにして上野に敬礼して見せた。
上野が笑い、山下に敬礼を返した。
その時だった。
計器に反応はない。
晴天の、非常に良好な視界の中、何もおかしなものは見えない。
それでも山下が反応したのは、彼の長年の経験に裏打ちされた、まさに「勘」によるものだったのだろう。
ハナムグリの高性能レーダーでさえ捉えることはできなかった。
山下の目もそれを捉えていたわけではなかった。
しかし彼の見つめる遥か遥か遠くの空の中に、熱光学迷彩で完全に景色へと溶け込んでいたそれは確かに存在していた。
山下と上野の位置から10時の方向に1万5000メートル。
日本の技術よりも20年先をいくと言われる清華人民共和国軍の最新鋭第九世代戦闘機「J-44」が、二機のハナムグリに向けて高出力レーザーを発射した。
山下の目は、それを視ることはできなかった。
なぜならそれは見た時には既に、着弾していることを意味していたから。
雲一つない美しい蒼穹を真紅の光が切り裂き、二機のハナムグリはパイロットと共に爆発炎上した。
山下と上野という、佐渡島前線基地の中でも卓越した二人のパイロットは、自身の最期を理解することもなく、一瞬で黒い墨へと変わり、そして蒸発した。
燃え盛る炎の塊が、海に向かってゆっくり落下していく中、火のついた一枚の紙切れが、ひらひらとまるで舞うように落ちていく。
写真の中で、若い女性が小さな赤ん坊のことを抱っこし、その女性のことを、上野がそっと支えるように抱きしめている。
赤ちゃんは小さなあくびをしていて、二人の大人は、これ以上ないほど幸せそうに微笑んでいた。
やがて写真は軽く白い灰に変わり、波の合間に、静かに溶けて消えていった。
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