灯台守と海神(わだつみ)

やなぎ怜

灯台守と海神(わだつみ)

 女学校へ通わせてもらうことになったとき、飛び上がるほどうれしかった。


 四六時中、海と顔を突き合わせているような場所で生まれた私にとって、海は切っても切れない縁で繋がれた肉親のようなものだったから。だから山あいにあるその女学校へ行けることになったときは、正直言ってせいせいした。


 無口な父は灯台守で、母はずいぶん前に亡くなった。なにを考えているのかわからない父との暮らしは、嫌いではなかったけれど好きでもなかった。


 海も父も、私にとっては複雑な感情をもたらすといった点では同じだ。


 そして女学校で出会ったワタリヒメも。


 まず、名前がすごい。ワタリヒメの名前を聞いてびっくりしない人間はいないだろう。そして顔がすごい。ワタリヒメはとても美しい造形をしていた。お人形のように整った顔、すらりとした手足は青白く可憐。ちょっとした所作からも育ちの良さ、みたいなものが伝わってくる。


「貴女、海のにおいがするのね」


 そんなワタリヒメに声をかけられただけでもびっくりしてしまうのに、投げかけられた言葉は輪をかけて突飛だった。


 ワタリヒメは当初こそだれもかれもの心を奪っていったけれど、今では疎まれている。端的に言って、言動がおかしいからだ。こうして突拍子もない言葉を私にかけたことからわかる通り、変人なのだ。


 私はワタリヒメの言葉に曖昧に笑って返す。ちょうど、友達が席を外していたときだったから、窮地に陥った私を助けてくれる人間はいない。


「素敵ね」


 しかしワタリヒメの言動にドギマギしていた私を置いていくかのように――違う、実際にワタリヒメはそれだけ言って、私を本当に置いて教室を出てどこかへ消えた。ワタリヒメの背が見えなくなってから、私はそっとため息をついた。


 でも、どういうことだろうか。いくら経ってもワタリヒメの美しい声が耳から消えない。


「海のにおいがするのね」「素敵ね」――そんなワタリヒメの言葉は……正直に言って嫌いではなかった。


 ワタリヒメは水に取り憑かれているようで、口を開けば海の話ばかりするし、暇さえあれば校内にある屋外プールにいる。泳いでいるわけではない。肩のあたりまで水に浸かって、単にぷかぷかと浮いているだけなのだ。だから変人扱いされる。


「海のにおいが強くなったわ」


 しばしの休暇を終えて実家から女学校へ戻れば、再び現れたワタリヒメにそんなことを言われた。


 私は――ワタリヒメのことがさほど嫌いではない自分に気づいていた。


 ワタリヒメは変人ではあるが、きちんと授業は受けるし、課題の提出物も出す。プールにだって夜になっても居続けるわけではない。別にだれかに迷惑をかけているわけではない。


「海、好きなの?」


 私がそう問い返せば、ワタリヒメは微笑んだ。


「自分のことは、出来るだけ好きでいたいわ」

「ふーん……」


 返された言葉の意味がわからなくて、ワタリヒメはやっぱり変人だなと思った。けれど、やはり、ワタリヒメのことは嫌いにはなれなかった。


「ねえ、なんでそんな名前なの?」

「名前?」

「そう。似合っているけれど……すごい名前じゃない?」

「そうかしら? ずっとこの名前だからわからないわ」


 ――あ、会話が成立している。


 私はその事実におどろくと同時に、なんだかうれしさと優越感を抱いた。


「らしいから、私は好きだけど」


 すると饒舌になって、私は思わず小恥ずかしいことまで言ってしまう。心にもないセリフではなかったけれど、少し盛ったところはある。とはいえ、ワタリヒメの名前は唯一無二で、彼女にぴったりだと思っていたことに嘘はない。


 ワタリヒメは黙って微笑んだ。はにかんでいるようにも見えた。


 その日以来、私はワタリヒメにちょっと話しかけるようになった。ワタリヒメもふらっと現れては、やっぱりちょっと独特な会話を繰り広げていたが、彼女から話しかけるのはいつも私がひとりのときだった。


 それは偶然ではないだろう。ワタリヒメも人の目というものがわかるし、そして私に配慮するだけの思いやりの心もあるのだ。


「海、好きなの?」


 その質問は二回目だった。最初のときはトンチンカンな答えが返ってきて面食らったけれど、今ならもっと違う言葉が引き出せるような気がして、私は再度問いかけたのだった。


「自分のことは、出来るだけ好きでいたいわ」


 しかしやはり、ワタリヒメから返ってきたのはよくわからない答えだった。


「フツーに、『海が好き』って言えばいいのに」


 野暮なつぶやきであることは承知していた。ワタリヒメは別に女学校の集団に馴染みたいわけではないのだ。だから、私の言葉は単なる余計なお節介以外の意味を持たない。


「カノは、海が好き?」

「……どうだろう」


 好きでもない。嫌いでもない。しかし決して無関心ではいられない。その箱の中には父と一緒に海が入っていて、ワタリヒメも入っている。


 我ながら面倒だと思う。


「なに? ワタリヒメは好きなものはだれかと共有したいタイプ?」


 複雑な感情から逃げるように、私はワタリヒメに問いかける。


 ワタリヒメは微笑んで言う。


「カノには海が好きでいて欲しいの」

「うーん……いつかは、そうなるかもね。でも、もしかしたら逆かも」

「なぜ?」

「私、灯台守になるから。四六時中、海がそばにいたんじゃ逆に嫌いになっちゃうかもって思った」


「そう……」。ワタリヒメは心なしか肩を落としている。それを見てなんだか私は切ない気持ちになった。


 しかし次の瞬間にはワタリヒメの顔には微笑みが戻る。そういった感情の起伏が読めないところが、彼女が遠巻きにされるゆえんなのだろう。


「灯台守、素敵ね」

「また出た、『素敵』」

「だって本当のことなんだもの」

「灯台守なんて……」

「あのね、カノ。やっぱりカノには海が好きでいて欲しい」

「……どうしたの? 急に」


 いつものつかみどころのないワタリヒメの雰囲気が、どこかへ行ってしまったようだった。私は面食らいつつも、茶化すことをせずに耳を傾けてやる。


「わたし、来週誕生日なの」

「え? そういうことはもっと早く言ってよ」

「そう。だから、学校を辞めるの」

「……結婚するの?」


 結婚をするために女学校を辞める生徒は、珍しくない。


 しかし私の問いにワタリヒメはゆるく首を横に振った。


「戻るの」

「どこへ?」

「海に」

「え?」

「だから、カノには海を好きでいて欲しいな」


 ……ワタリヒメの訃報が届いたのは、きっかり一週間後のことだった。


 入水自殺したのだ、という噂は、あっという間に広がった。



「……『ワタリヒメ』。そういう仰々しい名前は、たぶん、神様の名前か、神様の花嫁にするための名前だ。未だにそういう風習が残っている村は……あっちこっちにある」


 体調を崩して実家に戻された私の話を聞いて、いつもはむっつりと口を閉じているばかりだった父が、そう言う。


 わけがわからなかった。理解したくなかった。ワタリヒメの話も、父の話も。……ワタリヒメがもうこの世にはいないことも。



 気がつけば暗闇の崖っぷちに私は立っていた。向かい側には煌々と輝く灯台が見える。足元は断崖絶壁。波しぶきが飛び散る音だけが、やけに鮮明に聞こえる。


 ――『だから、カノには海を好きでいて欲しいな』

「『だから』って、なに……」


 私はワタリヒメが好きだったのだ。


 家に戻ってきたままの、女学校の制服を着たまま、私は崖から海へ身を投げた。


 身を切るように冷たい海の中で、波に揉まれていることだけがわかった。死ぬつもりだったから、水面には上がらない。しかしそのような固い意思がなくとも、海はあっという間に私を呑み込んだ。


 そう、死ぬつもりだった。


 鼻から口から海水が入って、耳も痛くて、苦しくて。――でも、私は気がついたら浜辺に打ち上げられていた。


 顔は海水やら鼻水やらでぐちゃぐちゃで、見るに堪えないだろう。喉が痛くなるほど何度も咳き込んで咳き込んで、そのうちそれは嗚咽に変わった。


 真っ暗闇に包まれた浜辺でうずくまり、赤子のように背を丸めて、私は声が枯れるまで泣き叫んだ。


 灰色の制服の胸元を彩っていた赤いスカーフは、どこかへ消えていた。





 ……『懐かしい』と感慨には浸れない、思い出だ。今だってあのときの傷は、心に生々しくある。けれどいくら私が泣き叫んで駄々をこねても、ワタリヒメが生き返るなどといった奇跡は起きない。


 けれどもどうも、私は寿命がくるまで海では死ねないようだ。


 だから私は灯台守になった。海になったワタリヒメのそばにいるために。


 またワタリヒメに会えたら、今度はちゃんと言うつもりだ。


「海が好き」だと。

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