進路相談
王生らてぃ
本文
学校の先生は激務だと聞いていたけれど、実際に働いてみると激務なんて言葉ではとても片付けられない。
朝は早いし夜は遅いし、休日なんてあったものじゃないし、なのにやることはいっぱいあるし、年長者の先生にはいろんな嫌味を言われるし、給料は安い。もうさんざんだ。やめていく人も多いという。それでも辞めずに残っているような人は、よっぽどこの仕事が好きで生きがいを感じているか、あるいは稼ぎ口をどうしても手放せないほど追い詰められている人のどちらかだ。
わたしだって辞められない。奨学金を返さなくちゃいけないし、学校の先生になるために今までの人生の大半を使ってきた。今さら辞めても、他の仕事に就くなんて考えられない。
「時田先生」
海野かおりさん。
わたしが担任するクラスの学級委員で、今時珍しいくらい真面目な女子生徒。校則ぎりぎりくらいまで伸ばしたストレートヘアに、メタリックブルーのフレームの眼鏡。背は少し高めで、制服はきっちりと校則通りに着用している。
「海野さん。どうしたの、何か用? とっくに下校時刻は過ぎてるけど」
「先生の声がしたので……」
「それ、理由になってないよ」
「すみません」
わたしは海野さんを教室の中に招き入れた。
放課後の教室。衣替えもまだだというのに、夏かと思うほど気温は高く、夕陽はまぶしい。
誰もいない静かな教室。意味もなく、郷愁を感じてしまう光景。
「何か、悩みでもあるの?」
わたしが言うと、海野さんははっとしたような顔をする。
真面目で素直で、分かりやすい性格だ。
海野さんはきっちり膝丈のスカートのすそを軽く握って、所在なさげに視線を漂わせている。わたしは教卓の前の席に座ると、椅子の向きを変えて、向かい合わせに座るようにした。
「座って? 話したいことがあるなら聞くから」
海野さんはおそるおそると言った感じで座る。
姿勢がいい。顔が小さくて、目が大きい。いつも教卓の上から見ている顔も、間近で見るとまた、印象が違って見える。
「進路……悩んでるんです」
「進路? 確か、大学進学、だったわよね。教育学部の。海野さんなら、偏差値も内心も、じゅうぶん合格を狙えると思うけど」
「でも……自信がなくて。わたしなんかが、学校の先生になれるのかなって」
海野さんは目をうるませる。
「その、周りの子を見てたら……クラスの」
「うんうん」
「わたしの話をちゃんと聞いてくれる人なんて、ひとりもいなくて。わたし、馬鹿正直だとか、真面目ちゃんとか……からかわれたりして。それだけじゃなくて、その……」
「陰口、言われてるの?」
「……、わたしなんかが、先生になっても、生徒たちはわたしの話なんか、聞いてくれないんじゃないかって思って……」
「不安だよね。わかるよ、わたしも新任のころはそうだった。でも、海野さんは、先生になりたいの?」
「はい。時田先生みたいな、やさしくて素敵な先生になりたいんです」
力強い目。
夢を語るときの子どもの顔だ。もう高校生にもなって、こんな顔で真っ直ぐ話せる子って珍しい。みんな将来のことなんて考えてないのに。
「でも、わたしを見本にするのはよくないと思うよ。わたし、そんなにいい先生じゃない」
「そんなことないです! 先生はカッコいいし、授業もわかりやすいし、やさしいし、それに……」
「それに?」
「その……わたしは……」
机越しに手を伸ばす。
海野さんの頬に触れる。唇がはっと息を吸い込む。わたしが目をじっと覗き込むと、真っ黒な瞳の奥が見開かれて、顔が真っ赤に染まっていくのがわかる。
わたしがキスをすると、海野さんはふぅ、と、普段からは考えられないくらい官能的な息を漏らす。そして、ふたりで見つめあい、笑う。
「だめだよ。生徒に手を出すような、悪い先生を見本にしちゃ」
「いいんです。わたしにとっての理想は、時田先生ですから……」
「でも、だめだよ……」
――って、言っても、あなたはやめないんだろうけど。
十年前のわたしみたいに。
わたしが大好きだった先生みたいな、悪い先生になってしまったわたしを、そんな目で見つめたって良いことなんてない。あなたの人生を狂わせるだけ。
「先生。わたし、先生のことが好きです」
「ありがとう。生徒にそう言ってもらえると嬉しいわ」
「生徒……として、じゃなくて、わたしは……」
「――――ふふ。分かってるわ。わたしが好きなのは、あなただけ」
今は、ね。
もう一度キスをする。誰もいない教室で、わたしが好きなのは、今は――あなただけ。
進路相談 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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