グルービーユニバース
春雷
グルービーユニバース
会社のビルから蟻のように人が群がり出てくる。俺はそれを眺めている。ビルの7階。窓外の景色はビルだらけだ。いわゆるランチタイム。真夏なのに俺たちはスーツを着ている。暑くてたまらない。ここはまるで灼熱の砂漠だ。明治維新の皺寄せが俺たちを苦しめる。和服のままでよかったのになあ。高校時代の微かな知識からそんなことを呟いてみる。
さあ、俺たちも降りよう。ちょうどエレベーターがやってきた。押し競饅頭をしながら中に入る。バーゲンセールじゃないんだから、そんなに急いで乗らなくても。そんなことを思いながら、俺もその一員になる。頼むから次のエレベーターに乗ってくれ。誰もがそう思っている。
ぎゅうぎゅうに詰まったエレベーターはやっと閉まり、下へと降りていく。顎髭、口髭、無精髭。さまざまな髭が並んでいる。髭のバーゲンセールである。
「なあ」
俺はお前に話しかけようとする。しかし、この人数だ。話すのは無理そうだ。
朝礼での挨拶ほど長かったエレベーターの下降は、ついに一階へ到達した。脱獄囚のように皆が一斉に外へ出る。気分は『ショーシャンクの空に』だ。
俺はやっとの思いでお前を見つける。
「おお、ちゃんと降りられたか。今日もかなりの人数乗っていたからなあ。しかし、昼休憩は別々にした方が良いのではないかといつも思うんだがね。上層部に掛け合ってみようかなあ。まあ、時代遅れの上層部はいつだって頭が柔らかくないから困る。そうだろう? 俺なんてリストラの第一候補だったらしいんだよ。良かったよ、部長に胡麻を擂っておいて。無職になるところだった。やっと仕事に慣れてきた頃合いなのに、辞められるかよ。俺はもっともっと上を目指すんだよ。ビル・ゲイツみたいにな」
聞いているのか、聞いていないのか。まあ、どちらでも構わない。独り言のようなものだ。
「しかし、この不景気はどうしたものかねえ。まったく予想ができない。明日には世界が滅んでいたとしても、俺は驚かないね。そのくらい不透明な未来だ。誰しもが堕ちていく可能性がある。金だよ、金。今必要なのは金だ。金が無ければ何もできない。最近は株の勉強もし始めてるんだ。アプリを使ってな。シミュレーションで株の取引きを体験することができるんだ。結構面白いぜ? お前もゲームばかりしていないで、現実的に意味のあることをしなきゃ駄目だ。この世界を生きていくためには、現実をしっかり見て、予想しながら動いていくしかないんだ」
俺はポケットから煙草とライターを取り出す。煙草を口に咥えて、火をつける。
「さあ、どこへ行こうか。昨日のカレー屋は美味しくなかったからなあ。今日は暑いし、ざるそばでも食べに行くか?」
お前は頷く。主体性があるのか、ないのか。とにかく俺の意見に唯々諾々。
「行くぞ」
俺とお前は歩いていく。アスファルトが熱を持って、俺たちを照り付ける。蝉の声も煩い。とにかく全てが癇に障る。俺はだんだん苛立ってくる。
「受動喫煙法だか、なんだか、よくわからないが、とにかくそんな法律ができて、俺の気分は最悪だよ。どれだけ喫煙者を迫害すれば気が済むんだ。もう国内に居場所はないのか。この前甥っ子の大学に行ったら、喫煙所が二つしかなかった。さっきのエレベーターみたいに人がぎっしり入っていたよ。燻製みたいだった。煙で中の様子が見えないくらいだ。俺はその光景を見て理解したね。喫煙者は強い。どれだけ迫害しようと、除け者にされようと、喫煙者は煙草を吸い続ける。俺は勇気づけられた。これからも絶対に煙草は止めない。体に悪いなんて百も承知だ。それでも吸いたいんだ。ほっといてくれ。俺はそう思う」
興味なさそうにお前はぼんやり空を眺めている。まあいい。大体いつもこんな感じのやつなのだ。
店についた。どうやら並ばずに済みそうだ。今日は運が良いな。あるいは単に人気のない店だという可能性もあるが、それは考えないようにしよう。
奥の席に案内される。俺とお前は向かい合わせに座る。水が出される。俺は一気に飲み干す。
「注文が決まりましたら、呼んでください」
応対してくれたのは綺麗な女性だ。
「ありがとうございます」
「水、お持ちしましょうか」
「すみません。お願いします」
何だか恥ずかしい。
「どうぞ」
「ああ、どうも」
水を注いでくれる。
「ありがとうございます」
「いえ」
「ついでに注文してもいいですか」
「はい。お伺いいたします」
「ざるそばセットを一つ」
俺はメニューを指しながら言う。
「ざるそばセットがお一つ」
彼女は紙に書きつける。
「お前はどうする?」
じゃあ僕もそれで、とぼんやりお前は言う。本当にちゃんと決めたのか?
「以上で」
彼女は厨房の方へ行く。
「それにしても、可愛い人だなあ。お前は何かそういう話はないのか? 恋愛には興味ないか?」
お前は思案顔だ。
「時代かなあ。昔は恋をして一人前みたいな感じだったんだが。まあ、もう人それぞれか。いつの間にか、俺も時代遅れになってしまったのかなあ。怖いねえ」
水を飲む。冷たい水が体の中を通っていく。
「少し、昔話をしよう」
脈絡なく、俺は話を始める。
「小さい頃の話だ。俺は爺ちゃんの葬式に出るため、家族で田舎へ行った。車でな。どうしてかはわからないが、なぜか葬式の記憶はほとんどない。棺桶を見て、ああ、人って本当に死ぬんだなあ、とそんなことを思った程度だ。爺ちゃんは怒りっぽい人だったし、寝たきりの状態だった。俺が物心ついてからはほとんど交流がなかったから、そんな感想しか抱けなかったんだろうな。まあとにかく、葬式の記憶はあまりないわけだ。でも、これがよくわからないんだが、車内の記憶は鮮明にあるんだ。高速道路を走っていると、木々がものすごい速さで過ぎ去っていくだろう? その光景を覚えているんだ。それに、カーラジオから流れていた番組も覚えている。悩み相談のラジオで、彼氏と別れて辛いという内容だった。電話を繋いだんだけど、その人は泣いてしまって。生放送だったんだろう、場を繋ぐために曲がかかり始めた。彼女のリクエスト曲だ。彼氏が一番好きだった歌。ビートルズの『ミッシェル』。俺は何故か笑ってしまったよ。人間って不思議だなあ。そんなことを思った。だって、自分を振った男が好きだった歌をリクエストするんだぜ? どれだけ好きだったんだよ。その思いの強さに、俺は感動するとともに、そこまで真剣になれる人間のおかしみみたいなものを、同時に感じてしまったんだ。小学生だったのに、そんなことを思っていた。わけはわからないが、鮮明に記憶してるんだ。
そのあと親父がチャンネルを変えてしまって、野球中継になった。そうだ。その日もひどく暑い日だった。甲子園だったと思う。ピッチャーが敬遠して、大ブーイングが起きた。俺はまた不思議に思った。葬式に向かう人がいて、彼氏のために歌をリクエストする人がいる、そしてゲームの内容にブーイングする人もいるんだ。この世界って不思議だなあ。色んなことがあるんだな。当たり前のことだけれど、俺はそのことを実感することができたんだ」
注文したそばが来た。俺とお前は食べ始める。
「このそばも、俺の元へ来るまでに様々なドラマがあったはずだ。俺はそのドラマを知ることはできない。一生な。このそばにどれだけの思いが入っているのか、知る由もない。何だか、俺は何も知らないのだという気がするよ。今起きている悲劇も、喜劇も、俺は知ることができない」
お前は相変わらず興味がなさそうだ。
「一度だけバンドを組んだことがあって、親父が見に来た。普段俺を褒めない親父が、その時だけは褒めてくれた。褒めるというより、妬みに近いか。『女の子がお前のことを恋する瞳で見つめていた』。真剣に言うんだぜ? でもラブレターなんて一通も来なかったよ。女の子はギターのイケメンに惹かれてたんだ。ボーカルの俺には一切興味なしだ。あんなに練習して、あんなに頑張ったのにな。世の中って理不尽だよ」
そばはかなり美味い。ひんやりとしていて、体を心地よく冷やしてくれる。
「なあ、あるいは俺はもう古い人間なのかもしれない。バブルを引きずっているような生き方をしているのかも。ま、バブルの時には生まれてないが。とにかく、俺は時代錯誤だ。でもなあ、いつか大きな花火を打ち上げようと思うんだ。馬鹿だと笑われようともな」
お前と目が合う。そうかい。俺はせいぜい線香花火か。
その最後の光が落ちるまで、ちゃんと見ていてくれよな。
「一名様お会計です」
グルービーユニバース 春雷 @syunrai3333
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