美しい世界で

神宮要

01

 中島敦と云う人間はどうにも理解が出来ぬ。

 う、うっそりと芥川龍之介は思う。

 その件の中島と云えば、現在校舎の屋上、錆びれに錆びきり、最早その本来の目的など果たせない有様である落下防止の柵を乗り越え、後一歩踏み出せばこの校舎から真っ逆さまに落ちて仕舞うであろう、そんな生と死の淵を、どうなっても善いかのように行ったり来たりと、何が楽しいのか繰り返している。

 全くもって理解し難い。しかしこの場所には芥川しか居ないのも事実であり、そして形だけでも止める役は同じく芥川しか居ないのだ。はあと大きなため息を態と吐き、飲んでいたコーヒー牛乳を自らの隣に置く。然うして。


「おい中島」

「人虎」


 声をかけた、のだが。楽しそうな声がそれを遮った。何かを咎めるように、否、実際に咎めていると云う事を、芥川は不本意ながら知っている。もう一つ、大きなため息を吐く。けらからと、笑い声が聞こえる。


「なあに、どうかした?芥川」

「…貴様のその脳内が未だに理解出来ん」

「仕方ないじゃない。は僕を然う呼ぶんだから」


 中島、だなんて気持ちが悪い。然うやって笑って。からからと笑うそれが、酷く耳障りだと芥川は思う。敢えて名前も、それから人虎という謎の名称ですら云ってやらぬと決めた。其の儘にしておいたほうが自分の為に善いと判断したまでだ。


「昔ね」


 中島――否、人虎と云えば善かったのだったか――は、唐突に語りだす。相も変わらずふらりふらと、たまに吹く風に体が煽られながらも、慣れたようにバランスを取りながら。


自殺趣味じさつマニアの人が居てね。どうしようもなく、自殺ばっかり試みて、本当に周りは大変だったんだよ。その人は、本当に何度も、何種類もの自殺を図って、それでも助かって。ある日、唐突に、可哀想だなあって。求めるものが近くにある筈なのに、それに何度も手を伸ばしているのに、可哀想だなあって思った事があったんだよ。だのに、その人は諦めなかった。勿論、努力の方向性が違うって今でも思うよ。だけれども」


 中島は、一旦言葉を切り、空へと手を伸ばす。


「本当に、可哀想な事にね。その人は結局、事故死して仕舞った。本当に悲しかったよ。結局、届かなかったんだなって。自らの、理想に。願望に」


 既視感。

 芥川は何故か然う思った。けれど、どこから来た感情なのかも解らず、心の中で持て余す。敦と喋る時、こう云った何とも云えない感情がひょこりと顔を出すことがあり、芥川はその感覚に何度も襲われている。未だに慣れぬその感覚に、芥川は何度、敦と距離を置こうと思った事か。

 けれども。

 芥川にとって、そして敦にとっても、喋る相手は互いしか居なかったのが現状であり、ずるずるとこの関係が続いている。忌々しい事この上ない。然しそれは仕方の無い事なのだと、芥川は随分と前から、自分で自分を納得させている。




 中島敦と出逢ったのは、一年ほど前になる。

 白い髪は何故かざんばらに切られており、敦の右頬にかかる一部分だけが長いと云う、謎の髪型に当初は疑問を感じたものだった。その中の一筋だけが自らの髪の色と同じ黒であったのが印象的で、それから瞳が不思議な色をしていたのが、どうしようもなく目を惹かれた。

 射抜かれるような、その不思議な色の瞳。

 事実、そうだったのだろう。敦と目があった時、思わず何も言葉が出なかったし、指の一本でさえ動かなかったのを覚えている。けれど、後から聞いた話だがそれは敦も同じだったらしい。雷が落ちたような衝撃を受け、それから。


「芥川…なのか?」


 名乗ってすらいない筈の名前を、何故だか云われたのだ。

 それからは怒涛の展開だった、と芥川は今でも思う。芥川と呼ばれ、羅生門はどこだと謎の問いを受け。未だにマフィアとかあるのか、否そんな筈は無いかこんな世界なのだからとべらべら喋る口を物理的に手で抑え、貴様は何者だと云った時のあの顔と云ったら。

 絶望のようでもあり。

 安心のようでもあり。

 悲嘆のようでもあった。

 それから、敦はほうと息を吐き出し、然うして云ったのだ。

 はじめましてこんにちは。中島敦と云います、と。


 敦は、とかく変人としか云いようが無かった。何故ならば、自身には所謂『前世』と云うものがあり、そこで様々な人間に出会い、成長したのだと云ってはばからなかった。その証拠として芥川の名前も知っていたのだと。芥川の意見としては、どこかで自分の名前を見たか、知ったのだろうと思っていたのだが、そんなことをして何になるのだと思い直した。結局、芥川の中で敦という人間を、前世という物を信じるか信じないか以前の、変人としてカテゴライズする事にしたのだ。

 敦はと云えば、然うされる事はお見通しだったのか、特に何も云わず、だが芥川の周りをうろちょろとしては『前世』の話を何度もした。自殺マニアの男の話、理想を掲げる男の話、人を治癒することの出来る先生の話。気紛れに話されるそれを、気紛れに聞き流すのが二人の日課となっていた。

 場所は決まって、青空の見える、寂れた校舎の屋上の上。雨天中止。


 敦は変人ではあったが、同時に至極真面目でもあった。屋上に集う時は必ず教科書を一冊以上は持ち込んで芥川を待っていたし、実際、頭はそれなりに善かった。とはいえ、それも『前世』を込みとしての話であり、敦曰く、この世界だけでカウントするのならば圧倒的に芥川の方が頭が善いと云う。その発言に、喜べば善いのかどうか、芥川は非常に迷ったものだった。

 ただ、然うかと云う事が精一杯で。

 心が苦しくなったのも、気の迷いだと思う事が精一杯だった。


 ある日、然う、その日も晴れだった。雲ひとつない青空の下で、敦は一冊の古ぼけたノートを芥川に差し出した。茶色い、そのノート。怪訝そうに見上げた芥川に、敦はにこりと笑い、これに僕の『前世』の事が書かれてあるよと、半ば強制的に渡してきたのだ。こんなもの要らぬと突き返そうとしても、動きが読まれているかのようにひょいひょいと避けられる。読んで呉れないなら飛び降りちゃおうかなあと云う言葉に、ならばさっさと飛び降りろと返そうとしたものの、何故だか其れを云うのは憚られた。違和感と云うやつが、また芥川の喉を塞いだのだ。

 結局、そのノートを見たのは、その日の夜だった。ぺらりと捲ると、其処には様々な人物について書いてあった。太宰治、だの、国木田独歩、だの。そうして、その名前の下に詳細なプロフィールや、人物相関図のようなものが書かれていた。確かに、これを見る限り、ここに書いてある人物たちの関係に、矛盾点は見当たらない。もしもこれらが捏造された、敦の脳内で創られた設定なのであれば、[[rb: 彼奴> あいつ]]は小説家でも目指すべきだと思う位には。

 ただひとつだけ、気になる点があった。

 肝心要の、敦と芥川に関するプロフィールは虫食いだらけなのだ。芥川はまだ善い方だった。マフィアに所属し、羅生門と云う能力を使うなど書いてあるのだから。けれど、敦に関しては文字通り、真っ白だった。精々、名前が記載されているだけで、その下には、何も。自分の事であるから書きたくないのかと思ったが、けれどそうなると何故書きたくないと感じ、実際こうして書かなくなったのだろうと気になり出した。抑々そもそも、何故自分に彼奴はこれを渡してきたのか、前提条件がくつがえる。芥川は、自分の事を含めて『前世』とやらを知って欲しいと、そう云う意図によりこのノートを渡して来たのではと思っていたからだ。

 けれども。

 それぞれの人間に関しては詳細な死因すら書かれているというのに、何も書かれていない敦も、芥川も、その欄は空白になっていた。芥川への配慮、と云って仕舞えばそれまでなのかもしれない。だが、彼奴に限ってそれは無いだろうと云う、どこか確信地味た結論が、芥川の中に存在していた。




「人って落下している間、実際の時間よりも体感時間が長く感じるんだって」


 相も変わらず、錆びたフェンスを乗り越え、屋上の淵に立ちふらりふらと歩く敦は、唐突に云った。不思議だよねえと笑うが、この状況で笑える奴は貴様位だと、芥川は心の中で罵倒する。どうして、此奴はいつも屋上の淵を歩くのだろう。飲んでいた苺牛乳を横に置き、然うして。


「おい中島」

「人虎だってば」


 くすりと笑われ、いつもの遣り取りが始まると思われた。だが。


「ねえ、ノート、見たでしょう。僕の前世を書いたノート。その中の探偵社と、ポートマフィアがあった所に行かない?」


 唐突に、敦はそう笑って。芥川は知らず、頷いていた。



 ヨコハマの街は海に面しており、そして広い。その中を二人は闊歩していた。敦が先頭に立ち、ずんずんと、勝手知ったる場所とばかりに。芥川はそれをただ只管ひたすらに追うだけで。大通りを進み、たまに小道へ入り、それから迷路のような裏通りを行く。その敦の足取りに迷いはない。少し休憩を挟みつつ、まず辿り着いたのは、大通りに面した、然しとっくに崩壊したビルだった。あちこちから、鉄骨が突き出しており、面影すら無い。何階建てだったのかすら解らぬ程、荒廃していた。


「まあ、矢っ張りそうだよね」


 敦は、どこか納得したように云った。此処はどこだと尋ねると、探偵社だった場所、と感慨もなく返された。


「此処で僕たちは仕事をしていて。社長が少し怖くて、でも凄く格好良くて。乱歩さんはいつもはお菓子ばかり食べているんだけど、推理となると本当に、頼りになって。鏡花ちゃんはそう、最初はポートマフィアに居たけど、僕たちが一緒になって、応援したりして。それから」

「貴様は」


 芥川が、敦の言葉を遮った。


「戻りたいと思わないのか」


 敢えてどこに、とは云わなかったが、敦には正しくそれが伝わったのだろう、大げさにびくりと肩を震わせた。少しの沈黙が、その場を支配した。口火を切ったのは、敦だった。


「戻れないって、分かってて云ってるでしょう、芥川。お前は本当に前からそうなんだから」


 変わってないなあと、告げられて。

 仕方ないなあとばかりに、苦笑されて。

 其れがどうにも、芥川は気に食わない。

 理由も解らないというのに。

 敦はそんな芥川をちらと見やり、けれど芥川の胸中を知る事無く、次に行こうかと、くるりと背を向けた。



 港もまた、例に漏れず寂れていた。人など、一人も居ない。二人以外には、誰も。ざざんと波打つ海の音だけが響いている。敦はぼんやりとそんな海を眺めては、然う云えば太宰さんは海にも飛び込んだ事があったっけなあと、呟いた。


「此処は僕が太宰さんに、本当の意味で拾われた所って云えば善いのかな。色々あってね、僕は太宰さんに助けられて、探偵社に入ることになったんだ。あの時は本当に自分が信じられなかったけれど、やっと自分の居場所が見つかったって、思うことが出来た」


 懐かしげに、唄うように敦は云う。事実、敦にとっては善い記憶なのだろう。顔が微笑んでおり、空を見上げながら言葉は途切れる事が無い。芥川はと云えば、ただそれを見る事しか出来ない。

 ざわりと、胸の辺りが違和感を訴えてくる。

 何か、訳の解らぬ衝動が襲ってくる。

 それらを必死で押さえつけ、芥川は敦を見やる。一通り喋っていたであろう敦の言葉が、途中から全くもって頭に入って来ていなかった事に、そこで漸く気がついた。思わず、胸の辺りを右手で押さえつける。敦はその芥川の行動に目敏く気が付いた。


「今日は、この辺で帰ろうか。芥川」


 海風は肺に悪いしね、と呟きながら。



 その夜、芥川は敦に渡されたノートをじっと見ていた。別に、その中に書かれている情報を頭に記憶しようなどとは端から思っていない。開かれていたのは、何も書かれていない敦のページだ。何を思い、何を考え、彼奴が自分の名前だけをここに残したのか。

 そう、抑々何も書きたく無いのであれば、名前だって書く必要なんて無かった筈だ。それなのに、名前だけは書かれてある。彼奴の字で、はっきりと。

 はらりはらりと、意味もなくページを捲る。「中島敦」のページは多岐に渡る人物たちの一番最後にあり、それ以上には何も書かれていない事を知って尚、無意味にページを捲る。

 はらりはらと、ページを捲り続けて。

 それを、見つけた。




「中島」

「だから人虎だって何度云えば善いのさ」


 いつもの、屋上。青い空の下、少年はふらふらと、これまたいつも通りにフェンスを越えた場所を歩んでは戻りを繰り返していた。


「芥川は人虎って呼ぶんだって何度も云ってるだろう」

「然うか。ならば、人虎よ」


 初めて口にしたそれは、思いの外するりと自然に口から飛び出た。敦は、目を見開いた。真逆本当に云うとは思っていなかったのだろう。だってそれは、芥川が、敦の云う『前世』を信じたも同然の行為とも云えるからだ。見開いた敦の瞳は、一番最初に見たときと同じ色をしていると、芥川は思った。勿論、比喩的な意味でだ。驚愕に彩られたそれを、心底美しいと感じ、そうして、またこの色を見る事が出来るのだろうかと、不安でもあった。

 何故ならば。

 芥川は今から、


「着いてこい。今日やつがれが貴様を案内してやろう」



 芥川と敦が辿り着いたのは、都庁の屋上だった。此処が一番、この辺りで高いビルだ。侵入するのは容易かった。階段で登らなければならない所だけが辛かったと云えるだろう。敦は、上に登る度にその顔を青くしていった。芥川はそれに気付かない振りをしながら、登り続けた。そうして、辿り着いたのがこの屋上と云う訳だ。ぜえはあと、二人して息を切らし登り切った其処からは、相変わらずの青い空を見上げる事が出来、更にヨコハマを一望する事が出来た。暫し、そのヨコハマの街を目に焼き付けるように、芥川はこれまた錆びたフェンス越しに目を凝らす。


却説さて


 話を切り出したのは芥川の方だった。云いながら、首だけを背後にいる敦に向ける。敦は、真っ青な顔をして、胸の辺りを手で抑えていた。罪が暴かれるのを待つ、罪人のように。


「貴様は云ったな。お前は『転生』したのだと。だが貴様は一体どうやって死んだのだろうな?」

「……それは、覚えてない」

「ほう、覚えていないと。ならば貴様の持つ其れは、ただの『空想』に過ぎないのでは無いのか?貴様が生み出した、善く出来た小説の登場人物なのではないのか?」

「それは違う!」


 敦は吠えた。


「あの人たちは、確かに居た!それを侮辱するのは、お前だったとしても許さない」

?」


 その言葉に、芥川は心中で嗤う。それはまるで。


「まるで貴様にとって『芥川』とやらは重要な人物だったと見えるな?」


 嘲笑うその嗤いに、敦は目を見開いた。

 やってしまったとばかりに。

 云ってしまったとばかりに。

 芥川は、懐から茶色いものを取り出した。其れに、敦の表情が驚愕に彩られる。

 敦が、芥川に渡したそのノート、そのものだったからだ。


「人虎よ。何故此れには重要な事が幾つか書いていないのであろうな。一つは貴様自身の事。名前以外総てが記載されていない。僕が知っているのは気紛れに貴様が喋る事だけで、形には残らない。然うしてもう一つ」

「止めろ、芥川」

「何故、僕の『死因』が書かれていないのであろうな?」

「止めろッ!」


 敦は芥川に飛びかかってノートを奪おうとしたが、今回は逆に芥川が敦の行動を読んだかのようにひらりと躱し、それからその背を床に叩きつけた。敦の顔が苦痛に歪む。動けないように腕を背で拘束し、それから残忍なほど優しい声で囁いてやる。


「人虎、お前は確かに何も書いていなかったがな、だが其れ以上の物を僕は見つけた」


 此れを見ろと、あるページを開く。茶色く濁った、元は白かったであろう空白のページ。其処には何も書かれていない。けれど。

 水滴が落ちた跡があった。

 まるで涙が落ちたかのような。

 何かを想って、何かを悟って、泣いたかのようなそれが、そこにはあった。

 敦は、其れを見て。嗚呼と、呻くような声を出した。



「僕たちは、ヨコハマの街で新双黒と呼ばれるようになった」


 震える声で、敦は語り始めた。高いビルの上、強風もあるだろうが、それを抜きにしてもか細い声だったものだから、芥川は一言一句聞き漏らさないようにするには敦の隣に座るしか無かった。


「元々双黒と呼ばれていたのは、太宰さんと中原さんだった。けれど僕とお前が出逢って、太宰さんが仕組んだんだ。新しい時代がやって来たと。実際、戦いに関して相性は善かった、と思う。あくまでも僕の意見だったけれど。とは云っても、何度だって衝突したし、会えば殺し合いが始まるような、殺伐とした関係だったよ。当初はね」


 敦が云い澱む気配を察し、芥川はその背を擦る。敦は少し逡巡した後、隠しても無駄だと悟ったのだろう、言葉を紡いでいく。


「でも、それがいつしか、互いに想い合う関係になった。好きになったんだ。ライクじゃなくてラブの方。男同士だって解ってる。でもお前は受け入れて呉れた。時間が合えば二人で探偵社とポートマフィア、双方にも解らない場所に借りたセーフハウスで一緒に過ごしたりもした。幸せだったよ。沈黙が全く苦にならなくて、隣にいる事が出来て。勿論、仕事に私情は挟まなかった。けれど仕事の後は、善くやったねと互いに笑ったりもした。でも、もしかしたらそれが間違いだったのかもしれない。ある日、ある時から、探偵社とポートマフィアは攻撃を受けるようになった。敵は『本』と呼ばれるものを狙った、僕たちと同じ能力使いの集団で、狡猾で、残忍で、非道だった。今までどんな相手にも勝てていたのに、ある時一人が死んでから、次々と連鎖的に死んで仕舞った。奴らは、僕たちが、正確に云えば探偵社とポートマフィアが手を組めば危ないという事を知っていた。だから一人ずつ、確実に、両方の勢力を削いでいったんだ。最後に残ったのは、僕と、お前だけだった」


 寂しそうに、悲しそうに、敦は言葉を紡ぐ。過去のトラウマを抉り出す行為であると、芥川は知っている。けれどもどうしても、止める事は出来ない。聞かなければならない事があるのだから。


「お前は、この時ばかりは私情を優先した。逃げろと、云ってくれた。でも僕には出来なかった。お前を置いて逃げるなんて、そんな事出来る訳がない。抑々、何処へ逃げれば善いのかすら解らなかった。お前が居ない所なんて、考えた事も無かったんだ。でも、終わりが訪れた。お前は僕を庇ったんだ。敵の能力から、僕を。然うして、血を吐いて、死んだ。今でも覚えてる。お前が倒れた路地裏。血がどんどん広がっていって、けれど僕は与謝野先生のように治癒の能力を持っている訳でもなければ、応急処置が出来るほど冷静でも無かった。僕はただ、一縷の望みをかけて、お前を抱えてその場から逃げ出す事しか、出来なかったんだ」


 ごめんなさいと、敦は云う。

 ごめんなさいと、何度も。

 芥川はそれで自分は死んだのだと、漸く。

 けれど知りたいことはそれではない。

 続きを促すと、敦は最早涙声で、吐き出すようにして、それでも真実を云う事が自分に残された贖罪であるとばかりに、少しずつ語りだす。


「……僕は、さっきも云った通り、お前が居ないなんて考えもしなかった。でも、腕の中のお前はどんどん冷たくなって、どんどん重くなっていって。遂には死んで仕舞った。追いかける人間が、能力者が、僕の事を『本の道標』だと、僕だけを生かして捕えようと躍起になっていた。でも、僕は、僕だけが生き残るだなんて、出来なかった。どうしても、許せなかったんだ。敵が。自分が。だから」


 敦が、すっと腕を上げる。指し示したのは、都庁のフェンス。

 否。その、外側。

 ふと、芥川は敦の云っていた事を思い出す。

 ――人って落下している間、実際の時間よりも体感時間が長く感じるんだって。


「これは、もしかしたら僕が見ている夢なのかもしれない。落下している間に見ている夢。都合の良い夢。だって」


 敦はふらりと立ち上がる。芥川も隣に立ち、二人で都庁の屋上からヨコハマの街を見下ろす。

 


「――こんなの。夢以外の何だって云うんだろう」


 芥川は何も云わず。ただ只管にその景色を眺めていた。




 荒廃したヨコハマに、気がついたら立ち竦んでいた。辺り一面、ビルや一般家屋でさえ、鉄骨が剥き出しになっていたり、屋根の瓦がぼろぼろと地に零れ落ちている惨状に、敦は呆然とした。見渡す限り、人が一人も見当たらない。

 抑々自分は飛び降りた筈だ。芥川の死体を抱き、都庁の上から。それがどんなに愚かな事だとしても、それ以外に自分の頭では最適解が見当たらなかったのだ。ざりざりと、歩を進めてみる。

 自分が飛び降りたはずの都庁の屋上へも行ってみた。勿論、中には誰も居なかったものだから、辿り着くのは簡単だった。但し電気系統が死んでいるのか、エレベーターは作動せず、階段で上がる他無かったのだが。風が、ひゅおと、音を立てて敦の髪を擽る。ふと、太宰が云っていた事を思い出す。


『あのね敦君、飛び降りた人間と云うのは、落下するまでにそれはもう長い体感時間を感じるのだよ』


 あの人は、何度も川へ飛び込んだ。それ故、少しばかり体験談でもあったのだろう。聞き流していた筈の言葉が、今更になって思い返される。


『凄く高い所から飛び降りたら、きっと、永遠に近い体感時間を感じることが出来るのだろうねえ』

『そんなに長い時間、暇そうですね』

『きっと夢でも見るんだろうさ』


 太宰は、笑って。


『落下して、意識が途切れて仕舞うまで。幸せな夢を見るんだよ』


 きっとね。然う云った太宰は、数日後に死んだ。彼の望まぬ、事故死だった。



 あてもなくうろうろと、死んだ街を彷徨っていた。何をすれば善いのかも解らない。木材の欠片を蹴り飛ばしてみても、ただ確りとした感触と痛覚があると云う事が解るだけで、それ以外の情報が何も無い。

 夢、なのだろうか。自問しても、自答は出来ない。夢の中で痛覚を感じる事など出来るのだろうか。それとも、もう自分はとっくに死んでいて、第二の人生とやらを歩んでいるのだろうか。幾日も幾日も彷徨い続けて、夜は適当な民家に身を寄せて。一人きりの世界で発狂しそうになった時。

 人を見つけた。

 芥川を見つけたのだ。

 その時の驚きと云えば何と表現すれば善いのか解らない程、嬉しかった。例え、芥川が自分の事を覚えて居らず、何故か自らは学校の生徒だと信じて居ても。周りの景色など見えないとばかりに振る舞っていようとも。自分は、其れに付き合おうと決心した。


 芥川は、必ず晴天の、古ぼけた学校の屋上に現れた。自分も其れに付き合い、まるで同い年の学生のように振る舞った。芥川は、死ぬ間際まで止まらなかった咳をしていなかった。顔色も、心なしか善いように見えた。それだけで敦は幸せだった。ふらりふらりと、自らが生きているのか死んでいるのかもどうでも善くなる位には。

 夜には芥川がどこへ『帰って』いるのかは解らなかったが、追おうとは思わなかった。会えただけで幸せだったのもあるし、自らが芥川に近付き過ぎる事で、彼奴をまた失う事だけは避けたかったのもある。

 だが、大切な事をする為でもあった。それは、大事な人たちを形にするという作業だった。一人ひとりの名前を書き、どういった人物であったかを記す。ノートは、無人のコンビニに在った古ぼけたノートを使った。ポケットにあった数百円のコインを、レジに置いて。

 懐かしい名前ばかりが記されるそれに、何度泣き出しそうになったか解らない。皆、自分たちを守るために散って逝った。それに感謝してもしきれないし、けれどその結果がこれなのだと云う罪悪感があった。自分は、どうしても弱く、愚かだと、知らしめる行為でもあったが、それでもやり遂げなければならないと、毎日のように歯を食いしばった。一言一言を刻みつけるように、執念でもって書き綴った。

 けれども。どうしても、芥川の死因と自分の事に関してだけは駄目だった。何度書こうとしても、震えて仕舞ってどうしようも無かった。ノートを壁に放り投げ、けれどそれが大事なものであったから、拾いに行って。

 然うして、ノートを抱きしめ泣き続けた。

 過去は戻らない。

 犯した事は二度と償えない。

 解っていた筈だったが、知らなかったのだと、敦は漸く実感したのだ。




 敦の告解が終わった。

 二人は、誰も居ない世界でただ只管黙っていた。この場所が本当に現実なのか、前世というものは本当に存在するのか。抑々自分たちはここに本当に存在しているのか。

 何も解らないと、敦は泣く。

 ごめんなさいと、敦は泣く。

 芥川は、そんな敦を見て、何かもやもやとしていたものが晴れる思いがした。

 そうだ。此奴はと思い出したのだ。

 この思いが、記憶が、『前世』の事なのか、それとも今現在の事なのかは解らない。ただ純粋な庇護欲が湧き出てきてどうしようも無かった。そっと、隣の敦の肩を抱く。敦はビクリと震えたが、久しぶりに感じる芥川の温かさに、酷く安心したようだった。

 フェンスを握りしめる。それは風化しきっていて、握った傍からぼろりぼろと崩れていく。呼応するかのように、フェンスそのものがガシャリと音を立て、ビルから落ちていく。二人は無言でそれを見送った。


「敦、貴様は」


 態と、口に手をやる。咳を止める仕草を真似るように。敦は、それに少しだけ笑った。


「今、幸せか?」

「どうだろう」


 敦は少しだけ首を傾げる。けれどその表情は笑みに彩られていた。


「でも、お前と一緒なら嬉しいし、怖くないよ」


 足を踏み出す。強い風が二人の髪をばさりと羽ばたかせた。二人で、手を握り合う。

 もう、善い加減、夢から覚める時間だ。

 二人の影が一瞬重なり、そして消えた。




 二人の行方は、誰も知らない。




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