出立ちの日

「じゃあ、ばあちゃん。準備はできたか?」

「はい。準備は万端ですわ」


 それから一ヶ月後、山の恩恵のおかげかエリザベスの怪我は驚異的な速さで回復し、普通に立って歩けるどころか走ったり飛び跳ねたりまで出来るようになった。うすら緑がかった痩せ細った体は回復を見せることはなかったが、骨は丈夫のようだ。令嬢だった頃は走ったり飛び跳ねたりなどしたことはなかったが、ひと月の間に村人たちは親切にも厳しく、禊という名の教育をエリザベスに施し、山での生活について、それこそ手取り足取り懇切丁寧に教え仕込んだ。


「お山の途中にね、魔女が住んでいた小屋があるはずなの」


 エルマ曰く、山の中腹に、昔魔女が住んでいたと言う小屋があるらしく、もし山神様のお情けがいただければ、そこまで辿り着けるはずだという。


 木こりのジャックは斧の使い方を教え、エリザベスでも扱える小さなハンドアクスをエリザベスに差し出した。狩人のハンターは特にエリザベスを心配し、弓の使い方から罠の掛け方、矢の作り方まで教え、解体用のナイフを渡して、動物の捌き方まで手解きした。最初は青ざめていたエリザベスも、生きていくための必要な知識として真面目に取り組んだおかげで、ウサギや鳥はなんとか様になるようになった。


 本来、罪人に斧やナイフなど渡せばどうなることか、と心配もするものだが、今や村人たちはエリザベスが罪人などとは思っていない。子供達に文字を教え、遊び、笑い合う極悪人などいるものか、と。


 村の女たちは、籠の編み方や、機織り、燻製肉や保存食の作り方を教え、村長は薬草の知識を与え、薬の作り方という手書きの本も渡した。たったひと月という期間ではあったが、エリザベスは持ち前の勤勉さで朝から晩までよく学び、知識をつけていった。スキやクワも扱えるようになったし、薪割りもお手の物だ。魔女の言う通り、体力は老婆のそれではなく、数日の筋肉痛に悩まされたものの、朝から晩まで動いても平気な程に回復した。


「皆様、本当に今までお世話になりました。皆様からいただいた知識でわたくし、逞しく生きながらえて見せますわ」

「ふふ。その調子だよ、ばあちゃん。寂しくなるけど、私たちはいつでもここにいる。お勤めを果たしたら帰ってきてね」

「婆ちゃんの回復力はきっと山神様が与えて下すったもんだよ。だから大丈夫。お山でも生きていけるはずさ」


 七年と七ヶ月。セントポリオンの中腹で生き抜かなければならない。令嬢としての甘えはとうに捨てたし、王都に未練は無い。気がかりなのは両親とハルバートだが、追放されたエリザベスにもう出来る事はないのだ。


「俺が途中まで一緒に行こう」

「ハンターさん、よろしいのですか?」

「ん。入ってすぐに行き倒れされても夢見が悪いからな」

「まあ、わたくしこれでも体も鍛えましたし、色々覚えましたのよ。でも、初めて入るお山ですから心強いですわ。ありがとうございます」

「ばあちゃん、籠の中に数日分の食料は入っているからね。あと、ツキグマの毛皮も入っているよ。夜は冷えるからちゃんとくるまって寝るんだよ」

「ありがとうございますエルマさん。皆さんも。それではお元気で。行ってまいります」


 村人に見送られ、エリザベスはハンターと共に歩き出した。


 山を登り始めた頃はまだ見えていた芝や青々とした木々も、だんだんと物寂しくなっていく。見上げれば、万年雪の積もる山頂が入山を頑なに拒んでいるようにも見えた。


「ばあちゃん、本当はあんたを一人にしたくないんだが」

「ハンターさん」


 黙々と前を向いて何匹かの獣を狩っていたハンターだったが、あるところまで来て振り返った。


「あんた、悪い人間じゃないと、俺は思う」

「…ありがとうございます」

「だけど、掟は掟だから…。」

「ええ、わかっていますわ。大丈夫。あれだけ皆様に厳しく教えていただいたんですもの。わたくし、頑張りますわ」

「この方向、あそこの一本杉を目標に目標にして真っ直ぐ行くと良い。地図上では、あの方向に魔女の小屋があるはずだから」

「わかりました」


 ハンターは、おそらくエリザベスより数年は歳上と見られる。ハルバートと同じか少し上か。深い海のような青い瞳は、狩りをするせいか鋭い目つきで、筋肉質の体つきと灰色の髪が、絵本で見る神の使いの銀狼のようだ。エリザベスは自分の短くなった髪と少し似ているなと思う。


「本当はご法度なんだけど」


 少し気まずそうに視線を逸らし、頭をぼりぼりと掻きながら、ハンターは口を開いた。


「名前、教えてくれないか?」


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