蚕は空に羽ばたけない

佐倉島こみかん

第1話

 妹の悲鳴、床に散らばる無数の白い芋虫と桑の葉、台所からは焼きそばの匂い。

 ああ、確率の問三は余事象で解かないといけなかったと課外授業の内容を思い浮かべて、冷えたリビングの惨状から現実逃避したくなる。

「お母さん、何これぇ!」

「ああもうアンタ何やってんの!」

 妹――紗也佳さやかのキンとした甲高い声も、焦ったような母の声の大きな声も、炎天下を自転車で帰宅した私には堪えた。

「ただいま。手伝おうか」

 ずしりと重い革の鞄をその場に置く。

 先端にゴムカバーがついたピンセットを手に、芋虫が元々入っていたらしき箱へ、それらを拾い集める母の元へ歩み寄った。


 混乱を極めたこの状況について話を聞くと、紗也佳の夏休みの自由研究のために、母が紗也佳に事前の確認もなく職場の人からかいこを譲ってきてもらってきたのが原因らしい。

 蓋代わりの籠を被せてリビングの机に置いて母が離席していたところへ、好奇心旺盛な紗也佳がリビングにやって来て見慣れない箱に興味を持って籠を開けてみたところ、白い芋虫が無数にうぞうぞと這いまわっていることに驚いて、蓋にしていた籠で箱を思いっきり振り払ってしまったらしいのだ。

 紙製の軽い箱はその勢いで端まで滑っても止まらず、机から落ちて、その中身を――つまり、四十匹あまりの蚕蛾の幼虫とその餌であるところの桑の葉を――フローリングに盛大にぶちまけたらしい。

 制服姿のまま、母からもう一本ピンセットを借りて蚕を拾い集めながら説明を聞いて、溜息がこぼれる。蚕にとっては、この上ない悲劇だ。

 幸い蚕は毒を持つわけでもなく、動きの速い虫でもないので、すぐに全て元の箱へ収まることとなった。箱が床に落ちた時に潰れたものもいて、完全に全部というわけではなかったけれども。

 蚕の体長は二センチ、太さは二ミリ強くらい。目元のように見える所がアイマスクのような形に焦げ茶色になっており、そこと同じ色をした口元と節に二つ並んだ斑点以外は真っ白い。毛は生えておらず、柔らかそうな皮膚はすべすべとしていた。

 私も虫が得意というわけではないが、ピンセットで拾い集めるくらいは問題ない程度には耐性がある。

「私、絶対世話なんてしないからね」

 焼きそばが三つ並んだ食卓で、紗也佳は不機嫌そうに断言した。

 六つ年下の紗也佳は、もう小学五年生。この手の幼虫に無邪気に興味を持てる年頃ではない。

 それでもここまではっきりと拒絶の言葉を口にできる妹を、別の生き物を眺めるような気持ちで見遣った。

「言うと思った。世話はお母さんがやるからいいわ。でも、餌だけは採ってきなさい。裏の藪に、桑は沢山生えてるから」

 焼きそばを啜った母は、苦笑してあっさりと返した。

 母は、顔も性格も自分によく似たこの年の離れた妹に甘い。小学校の頃の私は、全部一人で、母に決められた通りやったのに。

「えぇっ、やだよ、蚊に刺されるもん」

「紗也佳の自由研究でしょう、それくらい採っておいで」

 渋る紗也佳に眉をひそめて、私もたしなめた。

「ええ……姉ちゃん、手伝ってくれる?」

「飼育書を読んだけど、あの数なら、私も手伝うほど沢山は要らないみたいだよ。紗也佳一人で十分」

 妹が甘えて言ってくるので、蚕の回収後にちらっと目を通した飼育のハンドブックの情報を伝えた。

「姉ちゃんのクソ真面目」

「アンタがいい加減すぎるの」

 悪態をつく紗也佳に、私は呆れて小言を言う。

「そう言わず、真由美も手伝ってあげてよ」

 そんな私に、母は苦笑して言った。

「お母さんは紗也佳に甘すぎ」

「一人で行って、何かあったら危ないでしょう」

「……まあ、別にいいけどさあ」

 人気のない裏の藪で不審者でも出たら、ということだろう。

 溜息交じりに頷けば、隣で紗也佳がガッツポーズした。

 私は手のかからないしっかりしたお姉ちゃんだから、手のかかる妹の面倒を見るものだと言いたげな、信頼と優しさという名の呪いがかかった母の微笑みから視線を逸らして焼きそばを口に詰め込む。

 蚕の騒ぎで時間が置かれたせいで、付属のソースで味付けされたキャベツと豚肉の焼きそばは、もそもそとして啜り辛く、飲み込み辛い。

「ああ、そうだ、土曜の模試だけど」

 話を変えるように、私は母に向けて言う

「ああ、例のハイレベル模試ね」

 特進クラス以外は希望者のみなのに、特進クラスは全員強制的に受けさせられる記述模試である。文系特進クラスの私もそれを受けることになっていた。

「そう。朝課外と同じ時間からあるけど、英数国で昼には終わるから、お弁当は要らないって」

「そうなの、お弁当が要らないのは楽でいいわ」

 私の説明に母は笑って答える。

「あっお母さん、土曜日はユカちゃんとミレイちゃんと一緒に市営プール行くから」

 私の話を聞いて、思い出したように紗也佳が言った。

 ユカちゃんはよく聞く名前だけどミレイちゃんはあまり聞かない名前だ。

「ミレイちゃん?」

 母も首を傾げているところを見るに、やっぱり馴染みのない名前なんだろう。

「うん、四組の子。ユカちゃんと同じ塾なんだって。この間一緒に遊んで仲良くなったんだ」

 妹は二組なのに、別のクラスの子とまで遊びに行くなんて顔が広い。そういうところが小さい頃の母にそっくりだと祖母は言う。

 三ヶ月経ってもクラスの男子の名前を半分も覚えていないどころか、女子の名前でさえたまに間違える私とは正反対である。

「そうなの。あの辺、車が多いから、気を付けて行きなさいよ。あと、ちゃんと帰ってきてから蚕の餌は採ってくるのよ」

「はあい、分かりましたあ」

 自由研究の話をされて、妹は口をへの字にして答えるのだった。



 昼食後、夏休みの課題に取り組みながら、ぼんやりと蚕のことを思い出す。

 蛾の幼虫で白い芋虫。動きは非常にゆっくりとしたもので、回収後改めてじっくり見た時は、箱の中に入れられた餌の桑の葉の上をそれぞれ好きなように這い回っていた。

 飼育ハンドブックによると、蚕はとてもデリケートな虫らしい。

 床に落ちた蚕を拾い集める時も、素手ではなくピンセットで拾い集めるよう指示されたが、素手で触ると、私たちの手に付いている菌で蚕が病気にかかってしまうかもしれないからだそうだ。

 あと、水分にも弱いため、手の汗が付かないようにという意味もあるらしい。

 さらに、蚕は新鮮な桑の葉しか食べない。枯れたり乾燥していたりするとダメらしい。また、桑の葉は洗ってよく水分を拭き取ってからあげるのだとも書いてあった。それほど水分は大敵らしい。

 そして、室温。蚕は高温がダメなのだそうだ。そうは言っても今は夏真っ盛りで、日中の平均気温が二十八度などというのもざらにある。最高気温が三十五度を超える日も少なくない。そんな日は何もしなければもちろん室温もそのくらいになるわけで、そうなれば蚕は一気に全滅だ。そのため、蚕を置く部屋は絶えずクーラーをつけておいて、蚕にちょうど良い温度にしておく必要がある。電気代も馬鹿にならないだろうに、なぜ母はこんなに面倒な題材を選んだのだろう。

 清潔でなければダメ、食べ物は新鮮でなければダメ、水はダメ、病弱、クーラーがないと死んでしまう、なんて、どこのひ弱な深窓のご令嬢だと聞きたい。

 こんなにダメなもの尽くしで、野生だった時代はどうやって生きていたのだろう。そもそも、蚕に野生だった時代はあったのだろうか。気になったので、そのうち調べてみようと思った。

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