Resign ―リザイン―
鳥尾巻
という訳で辞めさせてください
彼はおもむろに薄い唇を開くと、いささか乱暴な口調で俺に尋ねた。
「お前、誰?」
ほんの数か月前まではほとんど見ることがなかった彼――エリック・Ⅴ・エドワーズ――のつむじを見下すと、
頭脳明晰、容姿端麗、どこを取っても
遡ること一年前、
見た目こそ天使だが、裏社会では有名な男の息子である彼は、身分を隠して良家の子息が通う名門私立高校に通っていた。いったい幾ら金を積んだのだろうとは思ったが、そこは聞かぬが花だ。
身分を隠しているとは言っても、彼は後継として常に誘拐や命の危機に晒されていた。そこで
坊ちゃんは裏表があって腹黒い以外、特に問題なかった。そんな奴は周りにごまんといたし、俺だって本性は上手に隠して生きている。
俺たちは互いに猫を被り仲の良い友人のふりをしながら、その実雇用主と被雇用者の関係だった。二人で常に一緒にいると、何故か周囲の人間にあらぬ誤解を与えたが、そこは目を瞑る。
彼の父親は金払いのいいお得意様だ。お客様は神様。報酬さえ払ってくれれば友人でも恋人でも演じてやる。金は裏切らない。俺は現実的なのだ。
生い立ちや信条はどうであれ、客観的に見て俺は美少年だ。緩くウエーブのかかった金髪と潤んだ青い瞳、薔薇色の唇、小柄ですんなりとした肢体。庇護欲をそそる可憐な容姿ながら、様々な格闘術を会得し、銃器の扱いにも長けている。見た目に騙される奴は大概痛い目を見る。
俺は美少年だった――夏休み前までは。
「誰だ、お前」
のちに彼が俺に向かって言ったセリフを思わず鏡の中に投げかけた。
発した声もかなり低い。俺の美しいボーイソプラノはガッサガサにひび割れた
無精髭!?剝きたてのゆで卵のような、髭など一ミリも生えてこなかった俺のつるつる素肌が!!
ショックを受けて鏡の中を覗き込むと、目の下に隈を作ったやつれ気味の大柄な男がこちらを見返していた。
「うえ?俺えええ?」
思わず間抜けな声が漏れるほど、俺の容姿は数日ですっかり様変わりしていた。
夏休み中は『友人』としての要請があった時以外は警護の仕事をしなくてもいいので、他の仕事をしながら過ごしていたが、ある日異変に気付いた。
朝起きるとなんだか体が痛い。正確には関節が痛い。熱も出たようで、頭痛がする。だからと言って休むわけにもいかず、這ってでも仕事に行くつもりで起き上がった。
ギシギシ、ズキズキ、一歩歩くごとに体中の関節が悲鳴を上げる。これではまともに動けそうにない。偽装工作で親という設定になっている連絡係に電話をしたが、声も出にくくなっていた。
「病院へ行け。よく休め。次の連絡まで待機」
心配してくれた訳ではないのは、不機嫌そうな声と電話越しの微かな舌打ちで分かる。使えないと思われたのだろう。俺としても臨時収入が減るのはつらい。
そして一人暮らしの部屋で、数日全身の痛みにのたうち回った結果がこれだ。ずっと這って移動していたので気付かなかったが、今朝立ち上がってトイレに行こうとしたら、鴨居に額をぶつけた。
思えば、額を押さえた手が妙にゴツゴツしてでかいということにその時気付けば良かったのだ。身体が急激に成長して完全に目測が狂う。今まではすんなり入れた場所もつっかえて通れない。これでは仕事に支障が出る。
容姿が変わったのは成長期だから仕方ないにしても収入がないとこの先困窮する。お金大事。俺は震える手で電話を掴み、世話係にコールした。
「と、いう訳で、
「………アダム?」
彼は目を見開き俺を見上げた。俺の顔をまじまじと観察し、立っている俺の周囲をぐるりと回る。
「すげえ、もはや別人レベル。事前に聞かされてても信じられねえわ」
「本人ですよ。会社にDNA情報登録してありますので確認しますか?」
「いやいいよ。え?何この筋肉、ウケる」
エリックは俺の背中や胸を軽く叩きながら盛大に笑っている。起き上がれるようになってから既に再訓練は始まっていて、縦にばかり伸びていた俺の体はそれなりに仕上がってきていた。俺は胸筋を揉むエリックの不躾な手を無表情に掴んで外した。
「やめてください」
「ちっさい時はトイプーみたいだったけど、今、完全にゴリラじゃん。声も全然違う。変身しすぎじゃね?ザムザって呼んでいい?」
「駄目です。俺は転校したことにしますから。今日は手続きのために来ただけです」
誰がカフカか
「えー、じゃあグレゴール?病気療養ってことにして訓練終わったらまた俺の警護についてよ。親父に言っとくから。その方が面白い」
「………面白くはない。あと変なあだ名もやめてください。『変身』のグレゴール・ザムザ?同じじゃないですか」
「俺んち給料いいでしょ?また新しいやつと友達ごっこすんのも面倒だし」
「それはまあ……」
雇用主が是と言えば会社側も異論はないと思うが。いかにも『警護』な風貌になってしまった俺は警戒されないだろうか。昔の容貌の方が油断を誘えて相手の正体も探りやすかった。
そうそう危険が伴う訳でもない学校生活に付き添うだけで破格の報酬は捨てがたい。また戻る?この坊ちゃんを面白がらせる為だけに?
しかし結局金と自尊心を天秤に掛けた俺は不承不承頷いた。お金大事。
「分かりました」
「やった。またよろしくな、ザムザ」
嬉しげにパーンと背中を叩かれて、俺は眉をしかめた。大して痛くはないが妙に心がざわつく。世間一般の子どものように学校生活を送り、嘘とはいえ友人らしきものも出来て、少々浮ついている気がする。辞任を受け入れられなかったことが嬉しいのか…?
腹筋にふざけて拳を打ち込んでくる彼の攻撃を躱しつつ、俺は胸の内に込み上げる不思議な感情の正体について考えていた。
とりあえずザムザ呼びはやめてもらわなくてはいけない。
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