鳥共はなく

湯湯

第1話

 鐘の音が昼下がりだとお告げになった。

 良い天気とも悪い天気ともどっちつかずな空模様である。晴れだと言われれば戸惑いながらも肯定は出来はするし、雨が降りそうだと言われれば適当にハアと頷ける、要するに微妙な天気であった。シスターはそんな空をぼんやりと見上げながら、今日も慈善活動に励んだ後、外の掃き掃除をしていた。

 ザアと春の訪れを知らせる風に吹かれ、新しい草や葉が既に掃いた地に舞い降りた。さっきからこの調子であるから埒が明かない。仕方なく一旦手を止めて前を見遣ってから、そこで初めてシスターは異変に気が付いた。


 ここの福祉施設は少し遠くの賑やかな街と比べると随分と辺鄙というか、田舎である。穏やかで自然溢れると言えば耳触りが良いけれども。まあ決して人が来ないというわけでもなく、人通りもきっと少なくはないが、それでも人数が限られている。いつも見る顔がやって来ることが多いのもあって、初見の顔はとても新鮮なものだ。


 だからだろうか。やけに目を惹かれたのは。


 シスターの見知らぬ少女が施設から少し距離を置いて立っていた。帽子やオーバーサイズの服で体つきが誤魔化されているが、年齢が二桁になってからそう経っていない、あどけない顔付きの女の子だ。周りを挙動不審に見渡すこともせず、視線を前へ固定したまま大きなバッグを持って大人然として佇んでいる。

 シスターはかなり面倒な気配を読み取った。負の感情があるわけではなく、ただ単純にこの子どもが訳アリであることが一目見て嫌なほど分かったからだった。


「そこの君。どこの子ですか?」


 とは言えど、問答無用で突き返すわけにはいかない。万が一のことがあって、そうして被害を被るのはシスターの方である。最悪の事態は避けたいのだ。もあったことだし──。

 少女はパチリとまあるい目を数度瞬かせてシスターの方をゆっくりと見る。それからあどけない表情を浮かべたのち、子ども特有のソプラノボイスがころりと笑った。


「シスター。ここの道抜けたらさ、中央街のとこ行けるんだよね?」

「そうですよ。迷子ですか? 送って差し上げましょうか」

「ううん。親戚のお家が向こうにあって」

「へえ、そうなんですね」


 嘘だな。シスターは少女を可愛がるようにニコニコと微笑みながら内心長いため息をついた。

 年齢のわりに人を見る目が肥えているシスターであるが、これまた面倒な訪問者であるなと脳内で頭を抱える。事情も何やら複雑に絡み合っていそうだし、何より……。

 気を緩めたらつい顰めてしまいそうな顔の筋肉をどうにか笑顔にして、はてさてどうしようかと思案する。ただでさえシスターは宙ぶらりんな立場にいるのだ。少女が訳アリというのがすぐに分かったのはこのせいでもある。権力というのは厄介なものだ。……。

 マァそれはそうとして、自分自身の境遇を思い返したシスターは、八つ当たりのようにこの子どもを少し恨めしく感じながらじいと少女と視線を交えた。当然そんな葛藤を知る由もない少女は不思議そうに白い瞼を何度か短く晒すだけだった。


「いやあ。でも君みたいな子が一人だと危険もあるでしょう?」

「うーん……ボクのお兄ちゃんが案内してくれるから」

「お兄さんが?」

「そう。だから心配しなくても大丈夫」


 平気でペラペラと嘘を吐く口の端がにっこり上がる。愛らしい笑顔はやんわりと拒絶の意を示していた。納得したように相槌を打つが、被った猫を脱ぎ捨てて良いのなら、シスターの眉間には今頃たくさんのシワができていたのだろう。

 この少女がならシスターとてこんなに執着して脳を無理に疲弊させる必要はないのだ。もしそうであったならまだ見てみぬフリをして「お気を付けて」と適当に祈って見送ることだってできる。というかする。一番平穏なやり方であるから、平和を望むシスターは切実に今すぐ少女に手を振りたかった。大変残念ながら、叶わぬ夢である。

 現実逃避はおしまいにして、改めて少女の頭から爪先までくまなく見つめる。しばらくシスターの探るような目線が刺さっても、彼女はものともせず目を逸らさなかった。まるでこちらが追い詰められているのかと錯覚してしまう。


「あのさ」


 風で揺れていた明るいブラウンのおさげがピタッと止まる。たったそれだけのことで何故か世界が一瞬止まったようであった。今この空間の全ての権限が少女にある気さえして、思わずシスターは数歩退きそうになる。

 小さな手で握られていた鞄は持ち主を失い、ドサッと地面に落とされる。静寂の中でその音が妙に響き渡っていた。


「何、見てるの」


 背後で蠢いている何かと目が合った。

 少女の影から出現する、粘着性のある黒い液体がボコリと泡を立てる。泥のようなものを撒き散らしている化け物は、少なくともシスターには明瞭に視界に映っていた。それは襲ってくる様子は無いものの、確実に良くない気配を纏っている。少女が今の今まで生きていたのが不思議なくらいであった。自然と背中に冷や汗が滲む。

 シスターは一応おとぼけがお得意なので、薄灰の双眸をニコリとして首を小さく傾けることはできるのだ。何やら言いたげな視線が寄越されたが、気にするだけ負けだ。少女は諦めてふうと息を吐いてまた微笑む。


「ねえシスター」


 子どもらしかぬ笑みを浮かべる彼女に、自分はとんでもない厄介事を掴まされたのだと理解した。

 これは、確かに──。


「天使って信じられる?」


 明るいブラウンの瞳がきゅうと細まった。

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