第4話 私の弱さ

 彩音は何度も好きだと、愛していると言ってくれた。すごく嬉しい。そう言われるたびに私の心が温かくなるし、満たされる。彩音とのセックスは好き。気持ちいいし、心と体が今までにないくらい幸福に包まれる。もし彩音とセックスをせず、添い寝をするように一緒に寝るだけの日が続いたとしても不満はない。彩音がいれば、彩音と一緒にいられれば、私にとってそれで十分だ。

 人から好意を向けられるのは気分がいい。それが強ければ強いほど。それが彩音であればなお。彩音から向けられる強く、痛いほどの愛情は心地いい。彩音の腕の中で抱かれるのも心地いい。私は彩音に愛されている。傍から見れば、小動物系と、自分で言うのはあれだがクールなカップルといったところか。二人にしか分からないことが色々ある。

 私は彩音に好きだと一度も言ったことが無い。それは事実で、彩音はずっと前から気が付いていたし、気にしていた。彩音のことは好きだ。友情じゃない。愛情だ。彩音に恋をしている。彩音は私の恋人で、誰にも渡さない。頭ではそう考えている。彩音に初めてキスされた時は嬉しかった。嫌悪感を抱くかと思ったが全くそんなことはなかった。むしろもっと欲しかった。高校生の時から彩音との物理的距離が近かった。嫌じゃなかったし、それどころかもっと近くにいてほしかった。もっとべたべたしたかった。それが叶った。布一枚隔てた距離じゃない、手や足など誰でも見ることが出来る部位以外で肌と肌を合わせる事が出来る。彩音が好き。彩音が大好き。彩音を愛している。そう、頭の中は彩音のことで一杯だ。

 自分の意思や考えを口に出すのが苦手だ。いや、苦手というよりは出来ないと言った方が正確だろうか。小さい頃は違ったと思う。やりたいことや自分なりの考えは喋っていたはずだ。でなければ母親に様々なことを否定され続けた記憶が残っているわけがない。私は受け身な人間になってしまったのだ。流れに身を任せ、来るもの拒まず、自分の意思で動き出すことが無い。いつもそうだった。彩音と仲良くなったのだって、彩音が話しかけてきてくれたらからで、私と一緒にいるために努力したんだと今になって思う。彩音が私のことを好きだと言った時、どれほど勇気が要ったか、どれほど怖かったか想像がつかない。私が彩音の立場だとして、大好きな親友でいられなくなってしまう覚悟を、私が持てるとは思えない。

 私は彩音にいつも甘えている。いつも彩音が何かをしてくれて、私はそれにのっかているだけ。彩音は私の甘えを許してくれていた。私は気が付かず甘えていた。

 口に出すことが出来ない。一言「好き」と言えばいいはずなのに。

 私が彩音を好きだと言って彩音が否定するはずがない。彩音も私を好きなのだから。否定されるはずがない。それなのに私は母親と自分の性格を言い訳にして何も言わなかった。

 私は最低な人間だ。


 一度も好きだと言ったこと無いよね、と言われたあの夜、私は氷のように固まった。何か言わなければと思うも、頭と口が動かなかった。

 ただ沈黙するだけの私に、彩音がどう思ったかは推し量る由も無い。いや、失望しただろうか。それとも絶望しただろうか。私は彩音の事を何とも思っていない、と勘違いされているかもしれない。

 彩音はそれ以降何も言わず、しばらくしてから静かに寝息を立て始めた。

 私の頭は冴えわたっていたが、気が付いたら眠っていた。

 彩音が起きると同時に、私も目が覚めた。既に十二時を過ぎていた。

「起こしちゃった?」

「ううん」

 彩音はシャワー借りるね、と言ってお風呂場に直行した。いつもなら起きてすぐに私に甘えるように密着してきて愛されるのに、今日はそれがない。当然か。昨日あんなことがあって今まで通りだったらそれはそれで怖い。でも起きたらいつもの彩音がいるんじゃないかと、都合のいい考えをしている自分もいる。

 彩音はすぐに出てきた。無言で着替え、じゃあまた、と言って玄関に向かった。

 彩音の今まで見たことのない無表情な顔が私を怯ませ、強烈に脳裏に焼き付いてしまった。


 それから二週間後の木曜日。普段通りであれば明後日は彩音の家で飲み会が開かれる。そして木曜の夜になると必ず彩音から、大量の日持ちする料理とお酒の写真がお楽しみに、というメッセージとともに送られてくる。深夜一時になっても何の連絡もなかった。

 私は溜息をついた。私から何かしらメッセージを送るのが道理のはずだ。でも彩音からの連絡を待つだけ。相変わらず私は何もしない。一言送ればいいだけなのにそれが怖い。世の普通の人間はそれが出来るのだろう。うじうじした自分が嫌になる。

 翌日の目覚めは最悪だった。心労と寝不足で頭も冴えない。自業自得だが。

 仕事にもあまり手が付かず、休憩を繰り返し、自販機と自席を何度も往復した。定時間際、今日はもういいかと自販機の前で買った飲み物を飲みながらサボっていると後ろから声を掛けられた。

「和木さん」

 振り向くと今年の新入社員の手賀さんがいた。以外な人に声を掛けられ、声が出ない。

「この後暇ですよね。飲みに行きましょうよ」

 目が少し細く、色白で、表情に乏しい。手賀さんの考えというか意図が読み取れない。

「今日は、ちょっと……」

 断りの理由がぱっと思いつかず、しどろもどろになってしまう。

「いいじゃないですか。交流を深めましょうよ」

 そう言うが、あまり友好的な表情をしていない。気が進まない。仕事の悩みを聞かされても私には何も出来ない。特段情熱があるわけでもない。手賀さんと仲良くしたかと言われるとそうでもない。

「いいですよね」

 私の沈黙を了承と解釈したらしい。

「じゃあまた後で」

 手賀さんは何も買わず自席に戻っていった。

 彩音の事で頭が破裂しそうなのに、後輩とそれもよく分からない人と飲みに行くことになるなんて。私は重い足取りを引きずり自席に戻ろうとしたところで終業のチャイムが鳴り響いた。


 会社から十分程歩いた場所にあるイタリアンのお店に入った。金曜の夜とあってそこそこ賑わっていたが、大声で騒ぐような人はいない。客層とお店の雰囲気から高そうに思え、私は財布の心配をしてしまった。それを見透かしたのか分からないが、手賀さんが言った。

「お手頃価格で気に入ってるんです、このお店。安月給の私達でも安心ですよ」

 私達はお店の角、壁際に案内され、手賀さんがワインを、私はよく分からない外国のビールを頼んだ。手賀さんがてきぱきと料理を注文し、一息ついた。

 何のために誘われたのか、私は手賀さんが切り出すのを待ったが一向に口を開こうとしない。私の顔をじろじろ見るだけ。無遠慮な視線と沈黙に耐え切れず、私から話を切り出した。

「手賀さん、今日はどうしたの」

「交流を深めたくて」

 手賀さんが不思議そうな顔で言った。それは誘われるときに聞いた。何のためにか私は聞きたいのに。少しだけ苛立ちを見せながら言った。

「どうして」

「聞きたいですか」

 勿体ぶった言い方にさらに苛立ちが募る。だが次の手賀さんの言葉に私は凍り付いた。

「六車彩音先輩の彼女がどんな人か知りたくて」

 丁度そこにお酒が運ばれてきた。手賀さんはワイングラスを手に取り、テーブルに置かれたままの私のジョッキに乾杯と言いながらグラスをぶつけ、半分ほど一気に飲み干した。

「飲まないんですか?」

 手賀さんはこちらの反応を楽しそうに伺っている。おそらくこの時の私はとんでもなく間抜けな顔をしていただろう。

「彩音の、友達……?」

「違います。元カノってやつです。ちょっと前まで付き合っていたんですけどね」

 私は思わず声を上げそうになった。今は消えてしまったが彩音のSNSアカウントに写っていた「彼女」はまぎれもなく今目の前にいる手賀真穂だ。あの時、何となく見たことあるな、と思ったのはそのためか。

 料理が運ばれてきた。手賀さんは先輩に遠慮することなく食べ進める。私は色々聞きたいことや言いたいことがあり、料理に手が付かない。

「何で知っているの。私が彩音の彼女だって」

 手賀さんは口の中のものをゆっくり咀嚼し嚥下した。私の怒りのゲージが増えていく。

「見たんです。二人が彩音先輩の家に入るのを。お泊りですよね」

「友達の家に泊まっただけとは考えられない?」

 手賀さんは今にも大声で笑いそうになりながら言った。

「友達? あの距離感で? あの熱のこもった視線で? 誰から見てもバカップルって感じでしたよ」

 そもそも、家に入るのを見たってなんだ。なぜ泊ったと知っている。ストーカーか?

 手賀さんはグラスに残っていたワインを飲み干し、もう一杯注文した。

「彩音先輩は和木さんを好きなんですよね。羨ましいなあ」

 一瞬だけ手賀さんの目に憎しみの炎が宿った気がした。私は敏感にそれを感じ取り少しだけ気後れした。

「私の方が絶対彩音先輩のこと好きなのに」

 手賀さんは運ばれてきた二杯目を一気に飲み干し、再度注文した。

「知り合ったのは大学のサークルでした。当時レズであることを誰にも打ち明けられませんでした。彩音先輩がそうだと聞いて思い切って相談しました。私の気持ちが少し救われました。これでいいんだって」

 手賀さんは三杯目を飲み干し、四杯目を注文した。

「それからずっと彩音先輩が好きなんです。当時彩音先輩には彼女がいて、私は何も出来ませんでした。彩音先輩は可愛いですからね、彼女が途切れることはなかったみたいです」

 手賀さんは四杯目も一気に飲み干し、五杯目を注文した。

 手賀さんが私の顔を真っすぐに見つめ、一言一言噛み締めながら言った。

「結構な人数と付き合っては別れを繰り返しているみたいですよ」

 彩音が過去に付き合った人なんて興味はない。誰と何人と付き合おうが自由だし、嫉妬したりはしない。今現在私を好きでいてくれれば。今となっては自信を持って彩音が私を好きだろうとは言えないが。私はなんて都合がいい人間なんだろうか。

「私が社会人になる前、卒業祝いということで飲み誘われました。私達はそこから付き合うようになりました」

 手賀さんが五杯目も一気に飲み干す。私は流石に心配になってきた。

「幸せでしたよ。ずっと恋焦がれていた人とデートをして、キスをして」

 手賀さんが少しだけ遠い目をした。

「セックスをして」

 目の前にいる後輩と彩音が裸で抱き合っていたというのを聞いて、胃から込み上げてくるものがあった。私はまだ飲んでいないお酒でそれを流し込んだ。彩音に昔彼女がいてセックスも当然している。そのことは気にしていないと思っていたが、いざ目の前で堂々と言われるのは堪える。彩音の柔らかな肌を、胸を、全身を触ったのだろうか。嫉妬心が燃え上がってくる。

「長くは続きませんでした。彩音先輩は二股とかかけてないんで安心して下さい」

 手賀さんが六杯目を飲み干した。このままアルコール中毒とかで倒れればいい。さっきまでは心配していたが、嫌悪感の方が強くなっていた。

「何で別れたか分かります?」

「そんなの知るわけないじゃん」

「初めてセックスした時、私の名前を呼ばないんですよ。私が指を入れると、譫言のように何度もナナミ、ナナミ、て言うんです。私の知らない女の名前を」

 最後に彩音と寝た時、行為の最中に名前を間違えると言っていたことを思い出した。それは本当だったようだ。彩音は私だけを欲していた。誰かと寝る時、私のことしか頭になかった。

「彩音先輩は私じゃない誰かしか見ていない。それから私達は全く上手くいかなくなり、すぐに別れました」

 手賀さんが七杯目を飲み干す。酒豪だ。アルコールの勢いで手賀さんの喋るスピードが速くなる。それでいて呂律はしっかり回っているから驚く。

「でも忘れられなくて。諦められなかった。誰とも知らないナナミって女の代わりでいいから恋人でいたかったんです。いつか私の名前を呼んでくれれば、それでいい。そう思って彩音先輩の家に押しかけようとしました」

 八杯目。喋っては飲み、喋っては飲みを繰り返している。私は勢いに押され黙ったままだ。

「そしたら彩音先輩と和木さんが出てきました。ナナミって和木さんのことだと知りました」

 九杯目。ここにきてペースがさらに加速している。しかし手賀さんの顔色に変化はない。しかしヒートアップしているのか、口調は強くなり、心なしか目が潤んできている。

「あれからずっと和木さんが羨ましくて。妬ましくて。憎くて。どうにかなりそうです」

 手賀さんが少し切り、私をじっと見つめ、粘り気のある声で言った。

「和木さん、彩音先輩と上手くいってないんですよね?」

 私は眉をひそめ、一方的に喋る後輩を睨みつけた。

 手賀さんは楽しそうに笑った。

「ちょっとは反応してくれましたね。ずっと壁と話してるみたいでした」

「上手くやってるよ。心配しなくて大丈夫」

「心配? してませんよ、そんなもの。二人が上手くいってない方が都合いいですから」

 遂に十杯目を飲み干した。

「上手くいってないのは本当ですよね? じゃないと、先週の週末に彩音先輩の家に呼ばれた理由がないですから」

 私は驚き、手元のジョッキを危うく倒しそうになった。彩音が家に呼んだ? 元カノである手賀さんを? それはつまり……。

「何だか弱ってましたよ。今にも泣きそうで。私は弱みに付け込むことにしました」

 吐きそうだ。過去の女のことなどどうでもいい。目の前にいる女と過去にどんな激しいプレイをしていても構わない。でも、私とギクシャクしてすぐに昔の女を呼ぶなんて。そしてそれを聞かされるなんて。

 手元のお酒を掛けたい凶暴な欲求を抑えた。

「キスをして、押し倒しました」

 黙れ。今すぐ舌を引き抜いてやろうか。そんなもの聞きたくない。吐き気を抑えるのに精一杯だった。

「そこまでは良かったんですがね。唇を離したら、那奈美って一言。またかと。和木さんの代わりでいいと思ってましたが、やっぱり駄目ですね。思いっ切りビンタをしました。それきり何もありません」

 手賀さんは寂しそうに言ってから十一杯目を飲み干した。

 少しだけ安心した。彩音を取られたわけではない。だが許せない。彩音の唇は私だけがキスをしていい。押し倒した時に彩音のどこに触れた。彩音に触れていいのは私だけだ。あの綺麗な躰は私だけのものだ。

「こんな仕打ちを受けてもまだ諦められないんです。だから今日は和木さんに宣戦布告をしに来ました。後で寝盗られた、何て言われたくないので」

 十二杯目を飲み干す。手賀さんが少しだけ料理に手を付けた。すっかり冷めていておいしくなさそうだった。

 手賀さんがお酒を注文した。まだ飲む気なのか。

「和木さんが彩音先輩のことをどう思っているのか知りませんけど、私は彩音先輩を愛しています。絶対に振り向かせてみせます。和木さんから奪います。私と彩音先輩が付き合うようになっても知りませんよ」

「それは彩音が決めることだよ」

 顔に冷たい液体が掛けられた。それが十三杯目のワインだと気が付くのに時間がかかった。目に染みる。ワインが白いワイシャツに血のように染み込んでいく。

 怒りの目を向けると、手賀さんもまた怒りの炎を宿していた。

「何ですか、それ。彩音先輩に絶対選ばれる自信の表れですか? 彩音先輩に寄り添った大人な発言のつもりですか? いいですね愛される人は。余裕があって。私はこんなにも執着しているのに、こんなに愛しているのに。彩音先輩がどうして和木さんを好きなのか全然分かりません」

 手賀さんは持っていたグラスを投げつけようとしたが、思いとどまったのか、静かにテーブルに置いた。

「私が和木さんなら、少なくとも、昔の女の元に行かせるようなことはしません。私の方が彩音先輩を愛しています。セックスだってきっと私の方が上手いです。彩音先輩に相応しいのは私です」

 手賀さんはそう言って立ち上がり、素早く手荷物をまとめ、出て行ってしまった。

 私はいつまでも周りの好奇な視線に晒され続けた。

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