林道クマ

北見崇史

林道クマ

「うっわあ」


 いやいや、なんだよ、おい。

 マウンテンバイクで林道を走っていたら、ヒグマと遭遇してしまったよ。気分よくペダルを漕いで、お気に入りのアニソン唄って風切ってたら、突然真横にクマがいたんだ。

 こ、これマズいっしょ、死ぬでしょう、って思って、それからは全力疾走だべさ。

 むおおおおーってペダルを漕ぎまくってんだけど。こんなに気合入れたのは、自室でアクロバティックな自慰行為していたら母親に見つかって、恥ずかしさのあまり家を飛び出して、西の彼方に全力疾走したとき以来だよ。ありゃ高校二年生の春だったなあ。

 あひゃあ。

 クマでけえ。すんごくでけえ。

 普段さあ、クマを見ることなんてないじゃんか。夏休みに家族と旅行に出かけて、クマ牧場で見たくらいだけど、リアルクマってデカいんだよ。

 俺のすぐ後ろに迫っているんだけど、これがまた息がくせえんだ。背後にいるのに臭いが前のほうから押し寄せてくるって、おかしいだろう。科学的に、なんかおかしいだろうって。

 それにしてもこのヒグマ、しつこいぞ。

かれこれ二十分は走り通しだけど、まだ追ってくるんだよ。ハッヘハッヘと息を吐き出しながら、それでも涼しい顔して走っているんだって。

 なんか余裕ぶっこいているように見えるなあ。たしか野生のヒグマって、本気出すと猛烈なスピードだって、ネットの落書きで見たことあるぞ。

 ホントは追いつけるのに、ワザとそうしないように走ってるんじゃないか。だってさ、ときどき横見たり、あくびしてるんだぜ。

 そうか、わかったぞ。

 こいつ、俺を追いかけまわして遊んでいるんだよ。腹へって人を喰いたいんじゃなくて、たまたま自分のテリトリーに侵入してきた人間と、まったりとした午後を一緒に戯れたいとの遊び心なんだ。

 だが、断る。

 俺はか弱き人間で、おまえは自然界最強のビーストなんだ。下手にじゃれ合うだけで、人の身体はズタズタに引き裂かれてミンチ肉になっちまうからな。遊びたいなら知床行って仲間とシャケ獲って、好きなだけドツキあってくださいよ。人間相手はダメだって。ダメダメよう。

 ギャオオー。

「あひゃあっ」

 や、やばっ。

 肉食獣に追いかけられているのに暢気なこと考えていたら、ビーストが気合を入れてきた。ギャオギャオ吠えて、さらに疾走しながら前足をブンブン振ってるんだ。あぶね、あぶねえって。

「ひゃあ」

 これ、ビーストの爪が少しでも掠れば、俺の背中がえらいことになるぞ。

肉がえぐられて、場合によっちゃあ背骨までもっていかれるっしょ。身体から背骨引き抜かれたら、いったいどうなるんだろう。考えただけで、膀胱が痛痒い。

 お、前の方に誰かいるぞ。二人だな。帽子かぶってナップサック背負って、地面を一生懸命に見ている。たぶん、キノコ採りだろう。この季節に山菜はほぼないからな。この辺って、テングダケとかイッポンシメジとかコレラタケとか、美味そうなキノコがいっぱいあるんだよ。

「おーい、逃げろ。クマだ、クマがいるぞー」

 大声で叫んだけど、二人はキノコ探索に夢中で顔をあげない。道ばたに貼りついているウンコを棒で突つきまわす小学生みたいに、地面に対して、とにかく無駄な集中力を発揮しているようだ。

「おい、やべえって、逃げろ」

 すれ違う時に、俺は言ってやったんだよ。

 だけど、二人の反応は鈍かったね。そんだら、顔をあげようとする前にクマが突進して、彼らに絡まったんだよ。

 絡まったって表現はおかしいだろうって思われそうだけど、まあ見たまんま言うと、そうなんだわ。 

「ギャアア」

「助けてー」

 いや、無理っしょ。もう助けられないってさ。

 だって、ヒグマが二人の人間に絡みつくように抱きついて、その凶悪な爪でズッタズタに引き裂いているんだから、もう終わりだよ。だから、逃げろって言ったのに。ちゃんと聞いとけって話だ。

 オゲーっ。

 これは酷いなあ。

 たぶん、中年の夫婦だったと思うんだけど、ものの見事に二山の肉片になっちまったよ。クマのやつ、おばさんの鼻の穴に爪を突っ込んでグリグリしてるなあ。脳ミソとかほじくり出してんのかな。あれは死ぬほど痛すぎますよ。そのへんが血だらけだし、切り株の上に内臓がデロンデロンしてるし。

 なぜか、今ごろになってクマ除けの鈴がチャリンチャリンなってるんだけど、なんだか哀愁が漂うな。はい、ご愁傷さまです。

「おっとー」

 マウンテンバイクを停めて殺戮の現場をのんびりと眺めていたら、ビーストがこっちをガン見してるぞ。なに見てんだコノヤロウって、おっかねえ顔してるわ。これは、タバコ吸っている場合じゃねえな。

 ギャオオオーー。

「あひゃあ」

 やばい、ビーストがこっちに向かってきたー。これはダッシュでしょう。猛烈に出発でございますよ。

「むおおおおおー」

 具合のいいことに、林道がちょうど下り坂に差し掛かったぞ。このまま全速力で漕ぎまくれば、きっと奴を振り切れる。そしたら早いとこ家に帰って、エロゲーしよう。

「ととととと」

 なんだよ、おい。右側の林から唐突になんか出てきたぞ。またクマか、別のビーストなのか。

「なんだなんだ」

 人間のオッサンだ。中年で頭の禿げた男なんだよ。もちろん、俺の知り合いではない。

「な、なして裸?」

 しかも、なぜか素っ裸だ。

 だらしない太鼓っ腹の全裸オッサンが、俺と並走してるのよ。

 こっちはめっちゃ気合入れて漕ぎまくっているのに、裸で小太りな中年オヤジが遅れずについてくるって、これ、なんの奇跡なんだよ。しかも、ビーストが筋肉質な毛皮をゆっさゆっさと波打たせながら、追いかけてきてるのに。

「アイちゃん、大好きだよう。もう、好き好き、ちゅきっ」

 その全裸のオッサンがさ、生白いぶよぶよした肉をたっぷんたっぷんしながら、キモいセリフを叫んでるんだよ。

 おえー、中年のキモオタかよ。なして唐突に現れたんだよ。異世界からぶっ飛ばされてきたとかか。

 だいたい、アイちゃんって誰だよ。アイドルかAV女優か、それともキズナ的なあれか。なんだか知らんけど、休日の林道で全裸疾走する理由にはならんだろう。

「あ、いてっ」

 オッサン、躓いて転んでしまったぞ。膝を擦りむいたみたいで、地べたに尻をつけて、のん気にフーフーしてるよ。

 おいおい、クマがすぐ後ろに迫ってんだぞ。とりあえず服着ろや。

「あひゃっ」

 ビーストに強烈な右爪フックをかまされた全裸オッサンの首が、吹っ飛んだーっ。

「うわあ、ああ、」

 首がコロコロ転がって俺の後をついてくるう。しぶとく追っかけてくるう。

 下り坂になっているから、上りになるまで永遠についてきそうだよ。これ、なんの都市伝説だって。

 ギャオオオ、グアア、ギャオーー。

「うっわ」

 クマが激しく吠えながら追いかけてくる。

 キモいオッサンに触っちまったから、機嫌悪くなっちまったんじゃないか。よだれ垂らしてハッフハッフ息を吐きながら、ヤバそうな顔してるよ。

 死にたくねえ。絶対に死にたくねえって。

 俺はまだ若いんだよ。二年前に就職したばかりなんだ。非正規でも派遣でもないぞ。ご立派な正社員様なんだからな。ここで死んだら、ムダに無職を喜ばせることになるっしょや。

 そうだ、助けを呼ぼう。警察や自衛隊や地元の猟友会、正義のヒーロー、とにかくなんでもいいから電話をすればいいんだ。きっと助けに来てくれるさ。

 ところで、俺のスマホはどこだ。ポケットにないぞ。どこかで落としてしまったのではないか。まいったな、ケイタイがないと助けを呼べないって。

 おっとっと、そうだった。ハンドルに固定していたのを忘れていたよ。GPSに使ってたんだった。目の前にあるのに、その存在に気づかないなんて、いまの俺はよほどテンぱってるってことか。

「は~い、毎度ありがとうございまーす。ミルキーハウスでーす」 

 あ、マズい。110番にかけるはずが、なぜかいつもお世話になっているデリヘルに電話してしまった。

 なんせさあ、マウンテンバイクをほぼ全力疾走しながらの操作だから、手元が大きく狂っちゃったんだよ。

「佐々木さんですね。いやあ、いっつもありがとうございます。そんで、今日はどの娘にしますか。小雪ちゃんとミクちゃんは休んでますんで、ええーっと誰がいたかな。あ、そうだ、カワイイ新人が入ったんですよ。しかも女子大生っすよ、生女子大生」

 え、マジかよ。生女子大生って、俺の大好物じゃないか。ホントは生女子高生とエッチなことしたいんだけど、さすがに未成年はヤバいからな。

「いつもの120分コースでいいッすか。すぐ手配しますんで」

 思わず、うん、と返事を返すとこだった。

 生女子大生とスケベなことをしたいのは山々だが、いまはそれどころじゃないんだって。なんせ、狂暴なヒグマに追いかけられているんだからさ。

「いや、ちょ、いまはマズいんで。とにかく、警察を呼んでくれよ。俺、いまヤベえんだって」

「ちょっとう、警察は勘弁っすよ。トラブルは他でやれよ、ケツモチ出すぞ。まあ、そういうわけで、ロングコースでいいっすね。毎度ありーっ」

 おいおい、まてまて。

「だから、いま外出中で家にいないんだって。ちなみにビジホでもないからな」

「わかってますよ。そのケイタイのGPSを追跡してますんで、場所は大丈夫っす」

 え、マジかよ。

 最近の風俗業者って油断ならんぞ。CIAみたいなことをやってるんじゃないのか。俺のプライバシーがダダ洩れだって話だよ。

「とにかく俺は」

 あ、ちくしょう。切りやがった。

 せっかく助けを呼んでもらおうと思ったのに、注文だけ取りやがって。

 いや、そもそも俺は頼んでないからな。いまはそれどころじゃないんだ。もう一度、今度は間違いなく110番しよう。それ、ポチポチッとな。

「あぎゃっ」

 な、なんだよ、なんでだよ。

 ウサギが飛び込んできたぞ。

 横の草むらから白いモフモフが突然跳躍して、そんでハンドルに激突して、空中でくるくる回りながら吹っ飛んでいったさ。

 おかげで固定していたナビ兼ケイタイもどっかにいっちゃったよ。この林道って、なに気にすごいぞ。

 クマだけじゃなく野ウサギも出てくるし、ヘンタイの全裸オッサンも出現するし、まったくもってレジェンドだよ。

 うわ。

 ぐしゃっ、って白ウサギがビーストに踏み潰されました。熟れたトマトをぶっ叩いたみたいに弾けて、中身の赤いのが散らばったあ。これはグロでつ。

「あのう、ミルキーハウスから来たバーバラ、で~す」

 うっわ、後ろ見てたら、いつの間にか隣に女の子が並走してるじゃないか。

 ミルキーハウスからって、デリヘル嬢かよ。こっちはチャリで結構なスピードが出てるのに、遅れずにぴったりとついて来るよ。すげえ足速いぞ。てか、来るの早すぎ。おまえ、ぜったい林道近くで待機していただろう。

「あのう、どこかにシャワーないですか」

 ねえよ。あるはずないだろう。

 おまえはアホか。ここは山の中だぞ。林道にシャワーがあったら、どこの異世界だよってことだって。異世界でコインシャワー屋をやったらビーストに追いかけられましたって、ラノベ書けそうだよ。

 てか、姉ちゃん、ここでやる気か。山の中を全力疾走しながら、エッチなサービスに勤しむ気か。デリヘルという職業に根性かけ過ぎだぞ。

「あたしの源氏名、バーバラっていうんだけど、それっておかしくね。ぜっていダサいよね」

 知るかー、んなこと。

 いや、確かにババア臭いな。しかも欧米かっ、てやつじゃんか。キラキラ名でもいいから、ふつうに日本的な名前がいいよ。

「じゃあ、とりあえず脱ぎますんで。あ、それと、ちょっとお腹壊して下痢してるから、気をつけてくださいね」

 風俗嬢が下痢したまま接客すんじぇねえよ。こっちは万円単位の金を払うのに、下痢便が怖くて集中できないだろう。どう気をつければいいんだよ。

 いやいや、いやいやいや。

 この非常時に、俺は風俗嬢と遊ぶほどアホじゃないぞ。

 だって、後ろのクマ野郎はすでに三人の人間を惨殺して、さらにモフモフなウサギをなんら良心の呵責なく叩き潰したんだ。いつ俺も餌食になるかわからないのに、エッチなことしてる場合じゃないのですよ。

「って」

 なんだよ、おまえのその胸。ガリガリのまっ平じゃねえか。舗装道路とか病院の床レベルだぞ。俺の胸のほうがまだ膨らみがあるって。小学生女児にごめんなさいしろよ。

「今日は、そのう、ちょっと下痢気味なんで貧乳になってるのね」

 ウソつけよ。おまえのオッパイにはウンコが詰まってたのかよ。下痢したら乳がしぼんだって、そんなオッパイ、絶対イヤでしょう。

「あたし、高校のとき陸上部で、いまも体育系の大学生なんですよ。走りに特化した体型になってるんで、そこんとこは責めないでください。差別になりますから」

 おまえ、だから貧乳なのか。たしかに、陸上の女子で巨乳ってあんまりいないよな。まあ、なんにしても差別はいけないよな。人を見かけで判断するな、っちゅう話だべ。

「ねえねえ、後ろからめっちゃ野獣が追いかけてんだけど。あれって、ヤバいヤツなんじゃないの。ここでフェラして大丈夫?」

 人殺しのヒグマに追いかけられながらの性行為は、ある意味燃え上がると思うけど、まあ、十中八九行為中に叩き殺されるだろうな。絶頂を迎えるときにあのビーストの爪で引き裂かれるのは、きっと地獄の激痛だろうよ。快楽と苦痛がごっちゃになって、えもいれぬ境地に達するのだろうか。

「これさあ、ヤバい状況だから、割増しになります」

 こいつ、ほぼ全力疾走しながらいつの間にかに全裸になっていて、まだ性的サービスをしていないのに割増料金を請求してるよ。

 大胆っていうか、したたかっていうか、金の亡者だよな。それにしても何度見ても貧乳過ぎて、これじゃあクマに追いかけられている状態でなくても萎えてしまうよ。やっぱ小学生女児に詫び入れろやな。

「ちょ、ちょっと待ってよ。さすがに疲れたわ。ってか、あたしすっ裸で山のなか走ってんだけど、大丈夫なの?」

 大丈夫なわけないだろう。

「ヤッバ、あたし下痢っしょ。ちょ、野グソするけど待っててね。WWW~」

 この非常時に下痢すんなよ。おまえ、それでもプロの風俗嬢か。しかも楽しそうな顔しやがって。野グソがそんなに楽しいのか。

 あ、ホントに野グソし始めたぞ。全裸の女子大生が林道の轍にしゃがんで、しばしの脱糞タイムだよ。接客中にクソするなんて、なんちゅうスカトロ女だ。こんなの雇ったらダメだろうよ。ったく、最近の風俗店はモラルがないなあ。チェンジだよ、チェンジ。

「だっひゃあーー」

 全裸の姉ちゃんがしゃがんで下痢をたれ始めたまさにその瞬間、ビーストが激突したーっ。

「どべべべえべべえべべべええべべべ」

 おひゃあ。

 あ、あれはひでえ。クマのやつ、全裸で糞をしているお姉さんをぶっ飛ばしたあげく、その万力のような怪力で滅茶苦茶にぶっ叩いているぞ。

 風俗嬢、ウンコしたまま手足の関節や首の骨を叩き折られて、なんだか得体のしれない物体になっちまった。人間というより、壊れた人形みたいだ。子供が柔らかなビニール人形を力まかせにこね回して、丸いボール状にしましたよって感じだ。

 とにかく手足がこんがらがってしまって、なんだかわかんねえモノになっちまったんだよ。これ、ぜったい夢に出てくるよな。

 あ、なんか肉塊の割れ目みたいところから茶色のジェル状物質が出てるけど、あれ下痢便だな。あんな姿になってしまっても、ウンコしたかったのか。なんだか同情するさ。デリヘル料金、ちゃんと振り込んでおくからな。成仏しろよ。

 なんて、チャリを停めて見てる場合じゃないぞ。ビーストが、またまたこっち睨んでるよ。牙をむき出しにして、次はおまえだーっ、って顔してガンつけてるさ。

さあ、猛ダッシュだぜ。

 俺の自転車は、また走り出したんだ。そしてクマは追ってきた。

 林道はどこまでも続き、走っても走っても終わりがなかった。もうどれくらい走り続けただろうか。疲労が限界に達している。後ろを見ると、さすがのクマも疲れきったみたいで、舌をだらりと出して、口の端からよだれの泡が吹いている。


 俺たちは大きなエゾ松の木の根元で休憩することにした。辺りは暗くなり始めていた。まだ9月の中頃だが、北国の初秋は案外と寒い。ポケットから煙草を取り出して、一服した。疲れ切った身体に濃いめのニコチンが美味いと感じた。

 二口ほど吸ってから隣で休んでいるクマにも一本差し出した。ビーストは、二、三度頭をさげて申し訳なさそうに受け取った。血塗られた爪の間に差し込んで、器用に吸い始めたさ。

 やっぱり走った後の一服は最高だね、と言うので、「もちろんだとも」と答えた。

 おまえさんはあれかい、休日はやっぱり風俗嬢と遊ぶのかい、と言うので、「まあ、ムラムラした時ね」と答えておいた。

「なんなら、呼んでやるよ。俺、会員だから割引になるし」と、ガラにもなく気を使ったんだ。

 だけどクマは、いや、オイラはケモノだからと自嘲気味に首を振った。日が暮れてきて空気が冷えているのか、クマの口から漏れ出た息が白く靄がかかった。暗くなってきたので、マウンテンバイクのハンドルに固定していたライトを取り外して地面に置いた。

「いや、大丈夫だよ。ほら、客っていろんなのがいるからさ。あいつらそんなこと気にしないよ。汚いオヤジでも何でも相手にするし」

 そこまで言って、俺はケイタイをなくしていることに気がついた。今さら呼べないなんて言えないなと、そっとクマを見たら奴も俺を見ていた。

 しまった、期待していたのかと焦ったさ。そしたら、やっぱりやめときますよ。さっき、一人叩き殺しちゃったし、と言うんだよ。 

「ああ、そうだよな。大事な商品をぐっちゃぐちゃにしちゃったんだから、ヘタに関わるとケツモチのヤクザに何されるかわからないし。今回は遠慮したほうがいいわ」といって誤魔化したさ。

 いや、暴力団よりも猟友会のほうが怖いっスよと、まるで俺の心を見透かしたように言うんだよ。まあクマにとっては、あの赤べストを着たおっちゃんたちが唯一の天敵なんだろうな。

 それから会話が途切れちゃって、五分ぐらいボーっとしてたら、一服したし、そろそろやりますか、ってクマが言うから、「え、なにを」って訊き返したんだよ。すると、いきなりギャオオオーーーっ、て吠えてとび掛かってきたーっ。

「おっひゃあ」

 俺は慌てて立ち上がり、すぐさまチャリに乗って全速力だよ。とっさのことだったのに、外したライトを持ってきたのはナイスだった。周辺は真っ暗だからな。夜の林道をライトなしで走るのは不可能でしょう。

 そうだよな、俺はクマに襲われている最中だったんだよ。休憩になったから気軽に話していたけど、あいつは獰猛なビーストだったんだ。人を見ると襲わずにはいられない体質なんだよ。危ない奴なんだって。

 そんなわけで、俺は野生のヒグマに追いかけられながら夜通し走り続けたんだ。

林道は切れることなくどこまで続いて、とにかく果てしない。明け方近くになって、遠くの空がうっすらと明るくなってきた。一日中マウンテンバイクを漕ぎ続けていたので、さすがに体力の限界だったよ。だから、いったん止まってクマに言ったんだ。

「どこかに泊まって睡眠をとらないか。あんたも相当疲れてるだろう」

 クマは、それはいいですね、じつはオイラのライフも下がりきっているのです、とハアハア獣臭い息をまき散らしながら言うんだ。

 少し先に一軒の建物が見える。チャリを押しながらクマと一緒に歩いていくと、看板にペンションの文字が見えた。もうさ、迷わずチェックインだよ。 

「チェックインは午後三時からになります。それと、ペットは不可ですよ」

 対応したペンションオーナーは初老の男で、いかにも脱サラしてペンション経営を始めましたって感じの冴えない男だ。おそらく夫婦で経営しているんだろうな。こんな山道で商売を始めるなんて、ド素人もいいとこだよ。

「いや、こいつはペットじゃなくて野生で、しかも凶暴なヒグマですよ。ここに来るまでに、もう何人も殺してるんです」

「へえ、そうなんですか」

 じっさいに人が叩き殺されたところを見ていないので、初老のオーナーはまったくもって危機感がない。興味なさそうにクマを一瞥しただけだ。

「ええーっと、ふつうはペット同伴はダメなんだけど、まあ、今回だけだよ。それと宿泊料は二泊分だから」

 出費になるけど、こんな時間に泊まるのだから仕方ないか。部屋はどうするか。さすがにビーストと一緒ってのはキツイよな。よし、シングルを二部屋にしよう。

「うち、ペンションだからツインしかないよ」

 ええーっ、マジか。

 ふつう、ペンションでもシングルの部屋はあるだろう。ツインだけって、融通がきかなすぎるぞ。どうせすべての部屋を同じタイプにしたほうがコスパがいいでしょう、ていうサラリーマン的な発想なんだろうな。だからこんな辺鄙な場所でしか営業できないんだよ。他に客はいないしさ。 

「先払いですよ」

 くっ。

 二人分と二泊分の宿泊料を支払って、俺たちは部屋へと行った。

「あの、静かに歩いてくださいね。爪をたてたりしたら弁償してもらいますから。このフローリング材、特注品で高いんですよ」

 クマはノッシノッシとついて来る。

 オーナーのオッサンが、クマの爪や体重で床が破損するのではないかと心配しているが、そんなの知ったこっちゃないな。請求はビーストにしてくれってもんだ。

「うわあ、なんだよ」

 部屋に入って驚いたのは、ツインじゃなくてダブルだったことだ。あのペンションオーナ、部屋のタイプとか知らないんじゃないのか。これでツイン料金なんだから、すごい損した気持ちだぞ。

 まあ、でもしょうがないな。とにかくヘトヘトに疲れているから寝ないとさ。そう思ってベッドを見ると、すでにクマがいるよ。冬眠するみたいに丸くなっているのかというとそうではなくて、人が寝ているみたいにふつうに仰向けになって毛布をかぶっているさ。ジッと天井を見ているよ。

 おいおい、なんだよ、このシチュエーションは。まるで新婚夫婦の初夜みたいじゃないか。

 そういえば、こいつって雌なのかな。あの凶暴さを見ると女の子とはとても思えないけど、なんせビーストだからな。雄でも雌でもケダモノな獣であることにかわりないか。見た目はどこから見てもクマだし、美人ならぬ美クマとかはねえだろう。まあいい、とりあえず寝るか。

「し、失礼します」

 なんか緊張するぜ。そうっとベッドに入って、クマの隣に横になったけど、これは落ち着かないな。俺って、人殺しのクマと一夜のベッドを共にする最初の人類じゃないのかな。

「しっかし、狭いなあ」

 クマがベッドの8割がたを占拠しているので、とても窮屈だった。仰向けになることが難しく、身体を真横にして幅を節約しながら寝ている。

 野生動物ということで、タダでさえ臭いのに、一日中走り続けたり人間をぐちょぐちょにしたためか、どうにも生臭くて獣臭い。そして、なんだか痒い気がする。こいつ、きっとダニとかノミとかいっぱい付けているんだろうな。

 これは眠れんぞ、と思って羊を数えていたら、オイラ、生まれてこなかったほうがよかったんじゃないのか、なんてことをクマが言いだしたんだ。

 毎日毎日、ドングリや雑草食ったり、川でシャケ獲ったり、時たま人を襲って肉を喰ったりで、なんら意義のある生き方をしてないとボソボソ言うのだ。

「いやいや、人生なんてそんなもんだよ。意義なんてあるようでないようで、要するにボヤ~っと意味なく生きてるのが、なにがしかの役に立っているというか、意義があるというか。ドングリ食ってシャケ食ってクソしたら、それが肥料になって森が豊かになるし、生態系の中で、クマって結構重要なんだよ。まあ、人は襲わないほうがいいと思うけどな」

 クマは天井を見たまま黙っていた。俺様のありがたい人生訓が効いたのかと思いきや、ぶっふぁー、って屁をこいたんだよ。布団の中にだぜ。それは反則技だろう。屁コキ虫だって、いったん尻を外に出してからやるって。

「うっわ、くっせ」

 これがなんともまあ、激臭いんだよ。

 何だろう、このニオイは。腐ったカニ味噌に糞尿を振りかけて、そんで半年間熟成発酵させたような悪臭だな。

「あ、こら、やめろ」

 クマのやつ、布団をパフパフと煽るから、足のほうに溜まっていた空気が顔に押し出されてくるじゃないか。

「オエー、吐きそうだ」マジで臭いって。なに食ったらこんなに臭くなるんだよ。

 リスですって。

 おまえリスなんて食ってるのかよ。え、するとこのカニ味噌糞臭はリスかよ。リスって消化したらこんなニオイになるのか。これはトリビアだよ。また一つ賢くなってしまったさ。

 ふー。いろいろあった一日だけど、とにかく寝るよ。もうお日様がのぼっているけど、昼まで眠れば疲れもとれるさ。じゃあな、おやすみクマさん。

 それからちょっと眠ったさ。

「ふあ~あ、よく寝たなあ」と呟きながら俺は目覚めた。

 正直いって寝足りない気もするけど、起きることにするよ。時刻はお昼になっているようだ。腹が減っていたし、とりあえず朝飯を食いに食堂へ行ったんだ。そしたらクマが先に来てたから、おはようって声をかけようとする前に俺は腰を抜かしたんだ。

「おっぎゃあー」

 なんだよ、この惨劇は。

 あやややや。

 あの脱サラリーマンオーナーのオッサンがバラバラじゃないかよ。手足が千切れてるってレベルじゃねえぞ。食堂のいたるところに皮膚と肉片が散らばって、そんですごい血だらけだ。サム・ライミもビックリなビジュアルだって。

 つか、内臓はどこよ。肉片ばっかり散らばってっけど、ホルモンがないじゃんか。俺やだよ、踏んづけてしまって、あっちゃあ、ぼうっとしてたらオッサンの直腸ふんじゃったよ、ってのは。

 え、喰いましたって、喰ったのかよ。

 一番おいしいとこだからって、そういう問題なのか。人様の内臓なんだぞ。もうちょっと敬意をもって接してもよかったんじゃないのか。

 てか、俺の朝食はどうするんだよ。こんなグロすぎる現場で飯が食えるかよ。人間の血だらけ肉片だらけな食堂で、ハムエッグとか無理だろう。

ぶふぉお。

 うっわ、唐突に屁をこくなよ。殺人現場で屁をこくなって言ってるんだ。

 ああ、もう、臭いなあ。なんか、あのオッサンがつけていた整髪料の匂いがするんだけど。激屁臭い中に、ほんわかとした中年男性らしさを感じるんだが。これ、死んだ父ちゃんと同じだよ。あっとごめん、まだ死んでないんだけど。

 え、これから奥さんを叩き殺しに行くって。

 ちょ、おま、なに言ってんだよ。こんな悪逆非道、悪辣無比、テキサスチョーンソーなことして、まだ物足りないのか。カルテルだって、オエー、これってグロすぎねえか、って言うレベルだぞ。

 あぎゃあ、な、なんか踏んだ。肉っぽい弾力のsomethingを踏んづけてしまったよ。なんだこれ、どの部分だ。あのおっさんのどこにこんなモノがあったんだ。

 あーっ、チ〇コじゃないか。オッサンのチ〇コ踏んじゃったよ。

 これって縁起悪いんじゃなかったっけ。たしか、オッサンのチ〇コ踏むってダメだったよな。呪われたりするんだったよな。どのように呪われるんだっけなあ。テレビの画面からチ〇コが出てくるんだったっけ。つか、内臓と一緒に喰っとけよ。中途半端に残すんじゃないって。

 うっげやあ。

 び、びっくりしたあ。

 突然、マネキンの首が飛んできたよ。四方の壁にバチバチと当たりまくって、最後には俺の足元に転がって止まった。おばさんのマネキンかよ。なんでこんなものが景気よくぶっ飛んでくるんだ。

 いや、本当はマネキンじゃないってわかっているんだ。

 クマが奥さんの首を叩き落としたんだよ。ちょうど台所に入ってきて、床一面に散らばった旦那の肉片を見て茫然としている時に、ビーストの爪が凶行に及んだのさ。一瞬だったから苦しまずに死んだと思うけど、なんかいろいろ申し訳ない気持ちがするわ。


 そんなわけで、俺たちはペンションを出たんだ。いちおう金は払ったんだから文句はないよな。死んでいるから、文句を言いようにも無理だと思うけども。そもそも俺がやったわけではないし、あの夫婦の死については責任ないよ。

 チャリを押しながらクマと一緒に林道を歩きはじめた途端だよ。ヤツがガオオーーーって唸りながら襲ってきたんだ。これで何回目だってさ。 

「あひゃあ、さっそくかよ」

 俺はまたまた慌ててマウンテンバイクに乗って、とにかく全速力よ。昨日、一緒に寝て人生を語り合っていたのに、ホントになんだよ、このビーストは。意味が分からんぞ。寝起きで朝飯も食ってないのに、全力を出させるんじゃないってさ。

 それよりこの林道はどこまで続いているんだよ。昨日から延々と走っているのに、いつまでたっても町に出ないよ。いや、舗装道路さえ見当たらない。俺って、こんな山奥まで入っていたっけ。

 でも不思議と食堂やらコンビニやらはあるんだよな。民家も街灯もない山奥の林道なのに、ときどき樹木の間から店が現れるんだよ。

 昼になったら牛丼屋に入って夜になればビジネスホテルや旅館に泊まった。温泉宿に泊まって雪見酒で一杯やったこともあるし、映画館でアニメを視たりもした。もちろん、いつもクマと一緒だよ。金がなくなって、クマと土木作業員として日銭を稼いだりもしたな。非力な俺はともかく、バカ力なあいつはよく稼いださ。

 とにかく俺たちは林道をひたすらつき進んだんだ。

 毎日毎日、雨の日も風の日も雪の日も、背後から日が昇り、真正面で陽が沈むまで走り続けたよ。鮮血をぶちまけたような見事な夕陽もあれば、曇り空で明るさだけが消失した朝もあった。夜は睡眠に費やしたが、気合の入った日などは深夜まで残業した。クマが蜂の巣を突いて、ブンブンの大群に追われた日もあったなあ。お互いの鼻先がまん丸に膨れて、腹を抱えて笑い合ったっけ。

 そうして、クマに追いかけられてから五十年近く経った。

 自慢だった脚力もすっかり衰えて、今では一番軽いギヤでペダルを押し込むのがせいぜいになった。

 追いかけてくるビーストも年老いてしまい、黒褐色が逞しかった獣毛は、今では艶と色がすっかりと抜けて真っ白になってしまった。ヒグマがシロクマになったようだが、もっとも北極で威勢を張っている個体と比べれば、なかなかに貧相でみすぼらしく、猛獣といえども思わず同情したくなるような様になっていた。

「おい、相棒さんよ」

 やや湿っているがポカポカと温かい春のある日、俺は自転車を降りて林道わきに設置された東屋に入った。年代物の木製ベンチに腰かけて一息つくと、路上にいるビーストを建屋の中へと手招きした。

 ああ、今日はいい日だねえ、と言いながら白髪のヒグマがやってきた。瘠せてアバラ骨が浮き上がった体躯を重そうに抱えて、俺の横に座った。野イチゴでも食っていたのか、甘い香りの息を吐き出しながら気だるそうな姿勢だ。

「俺たち、ずいぶんと走ったなあ。もう、この星を何周したのか見当もつかないよ」

 そだね~、とクマが答えた。

「この林道って、どこまで続くのかな。どこまで行ったら終点なんだろう。いや、そもそも、なぜ俺はここを走り続けたんだ」

 俺の何気ない問いに、オイラにはよくわからないが、と前置きしてからクマはボソボソと呟き始めた。

 結局、走り続けるしかないんだよ。神様なんていないけど、誰かがそう決めたんだ。そりゃあ、立ち止まって考える時間もあるさ。後退してもいいかもしれない。でもな、何もかもが進んでいくのに、オイラ達だけ動かないなんてことはないんだよ、って言うんだ。

「へえ~」

 もう、だいぶ昔だな。クマは自分の存在というものに悩んでいたことがあったけど、走っているうちに何かを悟ったのかな。俺の後ろばかりだったが、いつの間にか先に行ってsしまったのかもしれない。

「運命ってことなのか」

 運命なんて、神様を知らない奴らが思いついた戯言だよ、ときたよ。

「でも、神様なんていないんだろう」

 オイラにはいるけどね。

「俺にはいないのか」

 そだよ~。

「なして」

 人間だからだよ。オイラのようなケモノには神様が寄り添うんだ。人間は神様を信じようとするじゃないか。そりゃダメだね。冒涜だよ。神様のことを考えてはいけないんだよ。

「ああ、そうなのか」

 老いぼれたクマの話はとりとめないが、なんだか納得できるものがあった。


 ところでこれは非常に言いにくいことなのだけど、と白髪の老クマが俺の顔をじっと見つめて言うんだ。

「なんだい」

 オイラ、おまえさんを喰わねばならないから。

 これから、おまえさんの腹を引き裂いて内臓を引きずり出して喰うから。生きたまま喰うから。おまえさんが七転八倒するのをチラ見しながら、おまえさんを喰うんだよ。 

「え、マジか」

 正直、意外だった。

 だって、半世紀も一緒に追いかけっこしているのだ。気心の知れた仲になって久しいし、もう親友といっていいだろう。それが惨殺してやるという。クマの性質として仕方ないのかもしれない。なんだかなあ、って納得いかない気がするんだけど、やっぱりそうされるのが当然のような気もするんだ。

「悪いけど、痛いのはイヤだから一瞬で殺してくれないか。そのう、申し訳ないんだけど」

 そんな残酷な死に方はできれば避けたい。俺はもう若くないんだ。これくれいの希望は叶えられるだろうと楽観していた。

 だがしかし、俺の予想は甘かった。そういうことはできないんだ、猛獣らしく酸鼻を極める現場にしなければならないんだと、クマが言うんだよ。

「親友じゃないか」

 親友とかじゃないんだよ。終わりはこうしなければならないんだ。オイラとおまえさんの出会いは、もともとが破局していたんだ。おまえさんの人生は、絶望をダラダラと先延ばしにしただけで無意味だったのだよ、と落ち着いた口調で諭された。

 まあ、「なるほどな」と思ったね。


 クマが俺の前に立った。

 痩せこけてはいるが、振り上げた手の爪はきわめて凶悪である。せめてタバコを一本吸うまで待ってもらいたいけど、どうせダメなんだろうなと絶望しながら、俺はポケット中に手を突っ込んだ。


                                 おわり

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林道クマ 北見崇史 @dvdloto

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