第45話 誰だ?

 不快だ。


 ただこの気持ちだけが心を支配する。不快の原因は足元に浸っている水だ。何故足元に水が溜まっているかは分からないが、そのせいで水に濡れた靴が不愉快な感触だけ伝わってくる。


『気持ちわりぃな』


 言葉にしようとするが、理由は分からないが言葉が出ない。声に出そうとした言葉が何故か脳に反響する。


『?』


 周りを見渡すが何もない。ただ青い光景だけが広がっている。青一色だけが広がっている光景は長時間見ていると気がおかしくなりそうだった。気味の悪さを感じ、正気でいるため不愉快な感触に耐えて歩き出す。


 歩くたびに靴は吸った水を発散、そしてまた吸収を繰り返す。軽くなったり重くなったりする靴とは逆に、俺の気持ちはただ重くなり続けている。


 未だにここが何かもわからぬまま、さらに言葉も出せないとなると気は重くなる一方だ。


 水をかき分けて進むが、誰も見えない。誰の気配も感じない。さらに、進むたびに水嵩が増してくる。初めは足首までだったのが徐々にふくらはぎ、そして今では太もも辺りにまで増水している。そのせいで進むのも辛くなってきた。


『何でこうなったんだっけ?』


 当然の疑問。けれど、その疑問に答える人はいない。疑問は疑問のまま。形を変えることなく俺の心に居続ける。


 そして、水が俺の腰にまで侵食してきたとき、ついに歩みを止めてしまった。これ以上は進めない。足を動かそうとしても動かせない。もう意思の力だけで歩める状態ではなくなった。腰に伝わってくる冷ややかな水が俺の気持ちを冷ましてくる。


「このまま沈んでしまったら? 楽になれるよ。もう進まなくていいんだ。ほら現に君はもう進めないだろ?」

『いや、進める。俺はまだ……』

「それは本当に進んでるのかい? ただ過去を繰り返しているだけで、進もうとしてないじゃないか」

『? 何を言ってんだ。進んでるだろ。だから』

「金城と堀に手を差し伸べたと?」

『……嫌々だがな。助けるつもりは無い。俺にはそんなことは出来ない。けど、そんな俺でも手を伸ばすくらいは』

「勘違いをしていないかい?」

『勘違い? 一体何を』

「君が手を伸ばそうとした理由は何だ? 彼女らを助けたいと思ったから? それとも自分がそうするべきだと思ったから?」


 違う。俺が手を伸ばそうとした理由はじゃない。俺が手を伸ばしたのは……


「それに疑問を抱かない時点で君はまだ進めていない。ただ繰り返しているだけだ」

「今はそれで良いかもしれない。けど、この先何も気が付かずにそのまま進むのであれば、君は自己矛盾に食い殺される。必ずだ」

『それの――』

「……もう時間か。仕方ない」


 言葉が脳にも反響しなくなっていき、視界も揺れ始めた。揺れる視界とは反対に体は何故か水の中に倒れこむことをせずただ立ち続ける。意識は少しずつ削られていき、視界が薄くなってきた。そして、最後に意識が消える傍らで誰かも知らない言葉が耳に届く。


「最後に、あまり簡単にこっちに来てくれるな。それはあまりに彼女が報われない」

『   』


 叫ぼうとした瞬間に意識が戻った。目を覚ますと周囲の光景は見慣れた我が家だった。青一色の世界ではなく、色に溢れた世界。戻ってきたと思うと同時に、ほんのわずかに無念を感じる。しかし、過ぎたことはどうしようもない。


 とりあえず普通に目が覚めたという事だろう。だが、目が覚めたという事は俺は意識を失っていたという事だが、そうなるに至った理由が思い浮かばない。そんな簡単に人は意識を失わない。それなりの衝撃か毒でも盛られない限りそんなことは起きないはずだ。


「あ!! 起きた」

「ほんとですわ。よく生きてましたわね」

「……何があった?」


 目覚めたばかりの耳に居候二人の声が聞こえてくる。そいつらの言葉には俺がまるで死んでいたかのように俺が目を覚ましたことに驚いている。聞きたくは無いが、自分の記憶に意識が無くなる原因となったものに覚えがない。


「何って私のご飯を全部食べたと思ったら急に天井に張り付いてそのまま落ちてきたの」

「は?」

「嘘じゃありませんわよ。蜘蛛みたいに天井にビタッと張り付いたと思ったら次の瞬間そのまま床に落ちて意識を失っていましたの。覚えていません?」

「全く」


 二人して同じ話をしてくるが、到底信じられない。そんな物理法則を無視した現象が起こってたまるか。しかし、ちらりと俺が座っていた椅子のすぐ上を見ると、よーく見て気が付くくらいだがほんのわずかに人型の跡が残っていた。そして、その跡は女の体型ではない。男の体型だ。となるとうん。そういうことだろう。


「――金城」

「何?」

「二度と飯は作るな。一生。金輪際だ」

「えぇーー!!」


 二度目でこれだ。最初である程度失敗したから二回目はと考えは甘かった。これで三度目なんて考えるとこれ以上のものを出される恐れがある。これ以上は耐えられる自信が無い。


 若干痛む頭を押さえながら体を起こす。意識を失う直前は食卓の椅子に座っていたはずだが、今は食卓から少し離れた床に寝かされていた。体を起こすと腕に鳥肌が立っているのが見えた。腕をさするが鳥肌が消える気配はまだない。長時間触れられたという事だ。まだ意識が無かっただけありがたかっただろう。もし意識があれば発狂していたかもしれない。


「俺はどのくらい意識を失っていた?」

「ほんの十分くらい。三十分経っても目が覚めなかったら救急車か渡辺さんでも呼ぼうと思ってたけど、よかった」

「全然よくないけどな」

「本当ですわ」


 もう少し弾劾してやりたかったが、生憎そんな元気はない。明日には色々とやらなければならないことがあるのだ。その前に気を使い切ってしまうのは俺も避けたい。


「金城。お前風呂は?」

「まだ。というか、いつも君が俺よりは先に入るなって言ってるじゃない」

「そうだったな。……今日は先に入っていいぞ」

「珍しい。何? 私に何か頼み事でもあるの?」

「正解。堀と一緒に入ってくれ」

「……あのね女同士でも恥じらいはあるんだよ?」

「知らん」

「私は良いけどさ。祈は良いの?」

「構いませんわ」

「ならいっか。じゃあお風呂に行こっか」

「ええ」

「ゆっくり入ってこい」

「あっ!!」


 突然堀は大声を出したかと思うとすぐに自分の手で口を押さえた。顔も何故か真っ赤になっている。当然何か問題があるということだろうが、それが何かは俺には分からない。


「突然どうしたの? やっぱり嫌だった?」

「いえ、そういう訳ではないんですが……。やっぱり何でもありませんわ」

「そんなわけないでしょ。一体どうした……あぁ、もしかして替えの下着が無い?」

「……はい……」


 湯気が出るほど顔を真っ赤にし、金城の予想を肯定する堀。そういえばそうだ。堀を初めて見た時も手ぶらだったのだ。替えの下着や服を持ってるとは考えにくい。堀はそれに気が付いたが、どうしようもないから悩んでたってところか。


「だって。どうする?」

「服は俺のジャージでも着せてろ。下着は知らん。それはたぶん明日なんとかなるから今日は我慢しろ。お前と堀じゃどうせサイズが違うだろ?」

「そうだけどさ。女の子に下着無しはちょっとあれじゃない?」

「……」


 恥ずかしさがオーバーフローしているのか堀は顔を真っ赤にしたまま何も言わない。そんな堀を余所に俺と金城は会話を続ける。


「下はどうにもならん。コンビニに売ってるものでもないだろ」

「だけどさ」

「あ、あの。大丈夫ですわ。ジャージを貸してくれるだけありがたいです。だから」

「良くない!!」

「はぁ。なら俺のインナーと使ってない俺の下着を使え。それぐらいしか下着の代わりになるものはない。今日はそれで我慢しろ」

「よし。それでいい」


 さようなら俺のインナーと未使用の下着。もう使う事はない。敬礼。


「良いんですの?」

「良いも何もねぇだろ。それとも必要ないか?」

「えっと……」

「なら黙って受け取っとけ」

「では、ありがたく使わせていただきますわ。ありがとうございます」

「ん。それと使った奴は返さなくていい」

「なぜです? 貴方の物を借りたのですから返すのも義務でしょう?」

「違う。貸したわけじゃない。あげたんだ。だから後はもうお前のものだ。俺のじゃない。ほら、洗面所の前に準備しておくからさっさと風呂に入ってこい」

「ですが」

「祈。素直に貰っといた方が良いよ。そうなった村澤君は話を聞いてくれないから」


 金城は堀の背中を押して洗面所の方に消えていった。我が家は洗面所と風呂が繋がっている。二人ならギリギリ入れるスペースだ。問題は無いと思う。まぁあったとしてもどうにもならないんだけどな。


 二人が風呂に入る準備をしている間に俺は自分の部屋に戻り、包装が破られていないトランクスとインナー、そして運動用に準備していたジャージを手にする。ユニセックスにデザインされたジャージではない為、女が来たら多少の違和感は生じるだろうが家の中で着る分には問題は無い。


「うわ……――ね」

「真希こそ――」


 手にした服と下着を洗面所の前に置いておく。風呂からは水が流れる音と多少の会話。聞き耳を立てる趣味も無いため、直ぐに自分の部屋に戻って明日の準備をしておく。


 明日の準備を終え、自分のベッドで横になっていると俺のドアがノックされた。あれから約一時間が経過している。女の風呂は長いとは聞くが、此処まで長引くとは思わなかった。


「誰だ?」

「私。入っても良い?」

「ダメだ。俺が外に出るから少し待て」

「もう」


 部屋には出来るだけ誰も入れさせたくない。ただでさえ居候が増えて俺のスペースが侵略されているのだ。ここまで侵略されたくない。下着と寝間着を持ち外に出るとバスタオルを頭に巻き、ジャージ姿の金城が待っていた。風呂に入ったせいか顔も赤みが増している。


「お風呂。良いよ」

「分かった。それだけか?」


 それだけならドアの前から一言言ってくれるだけでいい。しかし、それをしなかったという事は何か話したいことでもあるのか。その予想は当たったようで金城は口を随分と重そうに動かし始める。


「その……祈と一緒にお風呂に入ったんだけどさ。あの子の体傷だらけだった」

「……で?」

「私の体も傷だらけで綺麗とは言えないけど、祈はそれ以上だった。きっとうん。色々あったと思うんだ」

「堀の状態の報告か? それはいらないぞ」


 知りたいとは思わない。向こうが勝手に話すのは問題ないが、今の所約束しているのは一週間居候させるだけだ。気軽に事情に突っ込みたいとは思わない。堀が望まなければそれはただ傷をつけるだけだ。それは軽々しく行って良いことではない。


「違う。ただ君に聞きたいの」

「何をだ。聞きたいことがあるならさっさと言え。回りくどいぞ」

「君は何で祈を居候させようとしたの?」

「何でって……。居候させてくれって頼まれたからだ」

「本当にそれだけ? 女嫌いな君が素直に女に頼まれたかってお願いを聞くの? 君は違うでしょ。きっと他の理由もある。そうじゃないと君の行動に説明がつかない。お願いを聞くに至った理由を教えてほしいの」

「――随分と俺のことを知っているみたいに話してるな」

「君が私のイメージとは違う動きをしてるもの」

「イメージねぇ……」

「で? その理由は?」

「教えないと言ったら?」

「それならそれで仕方ないかって諦める。しばらく君の部屋で寝るだけ」

「それは諦めてるって言わねぇよ」


 それは勘弁してくれ。本当に死んでしまう。出来るのであれば言いたくはないが、嫌だと言った瞬間にただでさえ地獄の我が家が煉獄に変わってしまう。それは避けるべきだ。


「はぁ……。これからする説明はお前を納得させるつもりはないし、追及されても答えない。それでいいなら理由を話す」

「分かった」

「随分物分かりが良いな?」


 金城はあっさりと俺の条件をのんだ。かなり粘られると思っていたから少し拍子抜けしたとともに疑問も生じる。その疑問に答えてもらわないとこちらが納得できない。


「大分無理を言ってるのは自分でも分かってるし、君がかなり融通してくれたのは分かったから」

「そうかい。――俺を助けたアイツの気持ちは何だったのか。それを確かめたい。理由なんてこんなもんだ。これ以上の理由は今の所ない」

「そっか。うん。じゃあ納得してあげましょう。どうぞお風呂に入ってきてください」

「引き留めておいて何を言ってるんだ。言われなくても入るさ。堀は金城の部屋で寝かせろ。布団はもう出してお前の部屋に置いてあるから。俺は風呂から上がったらもう寝る。良いな?」

「分かった。じゃあお休み」

「ああ」


 金城はすべて納得した様子ではなかったが、それでも幾分かの疑問が解消されスッキリとした顔になっていた。自分の部屋に戻っていく金城の背を見てから風呂に向かう。風呂からは暖かな湯気が出ているが、あの二人が入った後の風呂に入ろうという気分にはなれない。だから今日はシャワーにする。風呂の残り湯は洗濯機にぶちこめばいい。


 男のシャワーは十五分もあれば終わる。風呂場から出て寝る準備を整える。髪も乾かし、後はベッドに飛び込むだけだ。


 リビングの電気を消すと我が家は暗闇に包まれた。金城と堀ももう寝たのだろう。我が家で起きているのは俺だけ。女二人ならまだ起きて会話でもするのかと勝手に予想していたが、どうやらその予想は外れたようだ。別に騒がしくても気にはしないのだが、静かなのはありがたい。これならすぐにでも眠れるだろう。


 あくびを噛み殺しながら自分の部屋に入り、ベッドに飛び込もうとすると堀が俺のベットで横になっていた。


「はぁ!? ふざけんなよ……。お前はアン王女かよ」


 金城は何をしてるんだ。しっかり伝える様に伝えたはずだが、どうやら言い足りなかったようだ。ため息が思わず漏れてしまうが、漏れてしまったところで現状はどうにもならない。眠気も限界に来ているし、さっさと起こして金城の部屋に戻らせよう。


 直接触れたくないから今来ている寝巻の袖を伸ばし手を格納する。格納した手で俺に背中を向けている堀を起こしにかかる。


「おい!! 何してんだ!! 部屋間違えてるぞ」

「……」


 反応はない。許可なく部屋に侵入された怒りもあって少し声が強くなる。


「おい!!」

「……」


 二回目。これ以上反応しないようであれば呼びたくは無いが金城を呼んで回収してもらうしかない。頼む起きてくれと願うが反応する気配は無し。


「こういうのがあるから嫌なんだよ」


 部屋から出て金城を呼びに行こうとすると後ろからかなり大きいベッドの軋む音が聞こえた。堀が目を覚ましたのか?


「ようやく起き――」


 ベッドに体を向けると案の定堀は目を覚ましていた。だが言葉を続けることは出来なかった。それは余りにも目覚めた堀の気配が違っていたから。優し気な雰囲気が消え、荒々しい気配が堀から伝わってくる。それはただ寝起きが悪いからという理由だけでは説明がつかない。それほどの違いを堀から感じる。


「……お前は誰だ?」


 その疑問にそいつは答えなかった。ただフッと鼻で笑ったと思ったら


「お前本当に男かよ? 女がてめぇのベッドで横になってるのに起こすだけって。手でも出してくれたら楽だったのによ。あーあ、めんどくせぇ」


 と堀の声で俺を詰ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る