第10話 仮面《ペルソナ》

「――どうぞ」


 突然、村越絵里先輩とかフルネームで呼ばれて、驚いた。

 でみそれは「演技」の時の彼なんだって気づいて、私は一つ息を吸った。


 日常の中で突発的に起こす小芝居。エチュード。

 そういうのが好きな役者もいる。そもそもそんな変人の集団こそが演劇部なんだ。


「僕は宮藤先輩を知りません。僕は村越先輩を知っています」

「うん。だよね。分かるよ」

「いいえ、分かっていないです。僕は村越先輩をそれなりにリスペクトしています」

「リスペクト?」

「あ、横文字わかりにくいですか? 要は村越先輩の演技が好きってことです」


 ――好き!?


 両頬の表面温度が急上昇する。

 リスペクトrespectって言葉の意味がわからないと思われたことも心外だけど、それをその後の「好き」という言葉の破壊力が上回った。

 楡井くんに他意は無いのだろうけれど。ちゃんと、分かって使っているのかなぁ!

 この子のコミュニケーション能力は致命的におかしいかもしれない。


「ありがとう。……褒めても何も出ないわよ」

「別に何か欲しくて褒めてるわけじゃないですから、いいですよ」


 飄々と返してくる。なんだか可愛げがない。

 横顔を見ていると、そこで彼の目が細められたのに気づいた。

 その目は、何かを見透かすように、繊細に、前を見ていた。


「でも、お陰様でなんだか色々繋がったっていうか、――もやもやとしていたことに一本の筋が通りました。どうして村越先輩が、村越先輩として演出していないのか。……どうして僕がこんなに苛々するのか」

「私が、私として演出していない? ――苛々していたの?」

「そんな感じです」


 どういうことだろう? 何が言いたいんだろう?

 不意に首筋に汗が滲んでいることに気づいた。夏の暑さが体中を蒸し上げる。

 

 そういえば日焼け止めって、まだちゃんと生きているっけ。黒くなるとやだなぁ。

 人間の皮膚は体の鎧であるとともに、心の鎧でもあるのかもしれない。


「先輩はきっと宮藤先輩としての演出を『演じて』いるんですよ」


 演出を演じている。宮藤先輩を演じている。

 何かの役割を演じるということは、「Play a role ofプレイ・ア・ロール・オブ X」と言う。

 ここで演じるというのは、英語での演劇を意味する プレイplayと同じだ。


「でも、私は演出だよ。演出だから、演出の役割を演じるのって、普通じゃないかな――」


 楡井くんは、私の言葉に直接返答することなく、言葉を繋げる。


「村越先輩、演出としてステージを見る時、パイプ椅子に座って見上げていますよね。それで演技を止める時は、脚本を丸めて左手を打つ。――あれって、村越先輩のもともとの癖ですか? 少なくとも僕は読み合わせをしている時に、先輩がそういう風に脚本を扱うところ、見たことないです」


 そう言われて、初めて気づく。自分自身を振り返る。

 ステージの床で円になって皆で読み合わせをする時、私はどんな姿勢をしていただろう?

 正座を斜めに崩して、床にまっすぐ脚本を広げて、真ん中で折り目をつけて、広げる。もしくは手に持って開く。

 脚本は丸めたりしない。

 だって入部したときには、「脚本は丁寧に扱うように」って教えられるし。


「あれ、なんだか、村越先輩っぽくないんです。――きっと、宮藤先輩の癖なんじゃないですか? 演出をしている時、村越先輩は宮藤先輩のことを演じているんじゃないですか?」

「そんなことは――」

「無いって言い切れますか? 現に川添先輩に確認もそう言ってましたよ。あれは宮藤先輩の癖だったって。それを聞いて、そういうことなんじゃないかなって思ったんですよ」


 なんで裏まで取ってるのよ。まさかの探偵気取り?


「脚本もその宮藤先輩。演出も宮藤先輩のイミテーション。俺が知らない誰かが、勝手にこの舞台を支配して、俺の演技に口出しをする。それになんだか無性に腹が立つんですよ」


 宮藤先輩は私にとって当たり前の存在で、当然の存在。

 私なんて、宮藤先輩に比べたら、何者でもない。

 きっとみんな私個人の演出じゃなくて、宮藤先輩たちが作った洛和高校演劇部としての演出を期待している。そう思った。だからそれに応えたいと思っていた。


「俺は宮藤先輩を知らない。もしかしたら本当に凄い人なのかもしれない。でも俺は別にその人のことをリスペクトしてないっす。それに舞台を作るメンバーに居ない人に問いかけたって、リアクションなんて返ってこないし、面白くないですし」

「――面白くない?」


 楡井くんは人差し指を立てて「そう、面白くない」と返した。


「先輩はリベンジだって言っていたけれど。少なくとも俺はそんな動機で演劇をやってない。過去に囚われて、受賞を目指す演劇って、どんだけ意味があるんすかね? まぁ、そういう青春も『高校演劇』的かもしれないですけれど」

「――私、そういう、つもりじゃ」

「別に、悪いとか、良いとか、そういう話じゃないっすよ。ただ、俺が演劇をやっているモチベーションはそういうんじゃないんですよ」

「じゃあ、何?」

「楽しいから」


 それはあまりに、当たり前すぎて、真っ直ぐすぎる理由だった。


「ステージの上で演じるのが楽しいんすよ。よく『リアルなんてクソ』とかいう奴、いるけど、まぁ、それなりに同意しますね。だってリアルだといつも自分じゃないといけない。楡井新なんていう、面白くもなんともない存在でいないといけない。知ってます? 人格を表す英語のパーソナリティpersonalityの語源って、ギリシア劇で使われる仮面ペルソナ:personaが語源なんですって。僕らのリアルって結局、一つの名前で決められた仮面をつけっぱなしの日々なんすよ」

「その話は、――知ってるけれど」


 ペルソナ。仮面。

 心理学でもよく使われる言葉だって、国語の問題文か何かで読んだことがある。


「お芝居って、いつもの自分と違う人生に、周囲の世界ごと、飛び込める。堂々と虚構の中で、仮面を付け替えられる。それも真剣に。大マジで。――それが僕には最高に面白いんですよ。だからいろいろ試したいし、本気でその登場人物の人生を追いかけたい。それが演劇だと思ってる」


 楡井くんが語る。その視線は賀茂川の向こう岸へと注がれる。


「リアルはクソで、ただでさえ不自由な仮面の上に、いろいろな役割とか、立場とか、キャラとか、押し付けてきてうんざりする。でも俺たちには演劇がある。舞台の上なら俺たちは自由になれる。そこにいるメンバーで、素顔のままでダイブして、一緒に仮面をつける。その世界の中で」


 それは楡井くんの演劇観だった。

 ちょっとばかし癖のある言葉だったけれど、その言葉はスッと入ってきた。


 きっと私にも私の演劇観がある。

 でも、それって何だろう?

 それは宮藤先輩のコピー?

 違う。きっと違う。

 私の好きなものは、宮藤先輩の好きなもの?

 違う。きっと違う。

 じゃあ、私の舞台ってどこにあるの?

 私は何を目指していきたいの?


「俺は村越先輩が下手クソだとも、センス無いとも思ってない。村越先輩は村越先輩なりの演技をするし、舞台イメージがあるんだと思う。それが俺の知らない誰かの影響で、引っ込んでいるなら、面白くないなって、――そう思うんすよ」


 太陽は南中から西の空へと少し移動している。


 西岸の公園では、子どもたちがボールを蹴っている。

 東岸のベンチでは、私がいけすかない後輩と並んで座っている。


 それはこの瞬間の出来事。コロナが蔓延していようが、していまいが変わらない。

 鴨川の水面にはさっき飛んできた三羽のカルガモたちが、同時に羽を広げる。


「だから。演じるのは舞台の上だけで、いーんじゃないっすかね?」


 そのカルガモたちが、空へと飛び立った。


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