11 公子アレン

 海音は学校が終わった後に北区の広場でシルヴェストルと待ち合わせて、例の青年の元に連れて行ってもらうことになった。

(僕、ちゃんと公国の言葉で話せるかな。あ、でも初めて会った時、あの方は宵月の言葉で話していらっしゃったっけ)

 海音はそわそわして授業の間も落ち着かない。

(……あの日、いつの間にか宿屋にいた)

 大陸にたどり着いたばかりの海音はひどい熱を出して、森でうずくまっていたところを彼に助けられた。

 彼はどこの誰とも知らない子どもを宿屋に泊めて、数日分の食料と路銀を与え、生活をしていくには清華家の商館を訪ねるといいことまで教えてくれた。

 別れ際、彼は海音に言った。

――私は戻らないといけない。また会うことはできないかもしれないが、君を見守ってる。

 不思議なのは、会えなくても見守ると言っていたところだった。

(本当ならヴェルグにいてはいけないのに、こっそりいらしたような口ぶりだった)

 海音はそう整理してから思う。

(ヴェルグでのことは話さない。この間傭兵団として駆けつけてきてくださったことのお礼だけを言おう)

 口を引き結んでいる海音を、隣の席のアキラは不思議そうに眺めていた。

「今日、気合入ってるな。何かあるのか?」

 昼休みにアキラに言われて、海音は照れたように笑った。

「うん……でも、秘密」

 午後になって、学校が終わる時間になった。海音はいそいそと支度をして、真っ先に外に飛び出していこうとした。

「あ」

「わっ、ごめんなさい」

 戸口で入ってきた誰かとぶつかって、海音は慌てて頭を下げる。

「大丈夫?」

 うつむいた海音に手が差し伸べられる。その手を見て海音ははっとした。

 長い指だが硬く、癖のあるたこが出来ている。武人の手だった。

 慌てて顔を上げた。背の高い男性だとはわかったが、逆光で海音は目を細めた。

「久しぶり、海音」

 名前を呼ばれて、海音は大きく目を見開く。

 彼は帽子を取って脇に抱えて、金髪が肩に流れ出た。

 一目見て、まぶしいほどに凛々しい男性だと思った。

 年齢は二十歳前後で、すっと通った鼻筋にくっきりとした目鼻立ち、優しい碧玉の瞳を持つ彼は、海音をヴェルグで拾ったあの青年そのものだった。

 海音は言葉を失った。ずっと会いたかったその人が目の前にいる。

 彼がいなかったら命を失っていたかもしれない。希望を持つこともできず、マナトとして精霊や聖獣に守られることもなかった。

「あ、あの……!」

 お礼を言わなくてはと海音は拳を握り締めるが、ふいに背後で上がった声に海音の声はかき消された。

「ヴァン・アレン様!」

 子どもたちが口々にそう叫んだ。海音をおしのけるようにして、子どもたちは我先にと青年を取り囲む。

「みんな、よく勉強してる?」

「はい!」

「アレン様はお仕事ですか? それともお忍び?」

 子どもたちの目が輝いているのを、海音はぼんやりと見ていた。

「……アレン様」

 海音も聞いたことくらいはある。先生が、事あるごとに将来はアレン様の下で公国を盛り立てていくようにと言っていた。

 海音の言葉に、アキラがぽつりと答える。

「うん。公子様だよ」

 もう政治から身を引いた大公に代わって統治を行っている、公国の頂点に立つ人だった。

 ……海音のような庶民では、きっと会うことすら難しい人。

 海音は顔を伏せた。目をかげらせて、床をみつめる。

(じゃあヴェルグにはお忍びでいらっしゃったんだ。一人だったし、きっとお付きの人には内緒で)

 海音は考えを巡らせる。

(会えないのは当然だよね。公子様が、どこの者ともわからない子どもと関わっちゃだめだ)

 やはりヴェルグでのことは言えない。憧れの人に悪い印象など持たせたくなかった。

「海音、今日は君に会いに来たんだ」

 アレンはもう一度海音の名前を呼んだ。子どもたちを何とか宥めて解散させたのか、子どもたちは遠巻きに見ているだけになっている。

「ゆっくり話がしたい。清華の商館に来てくれるかな? ご馳走するよ」

 流暢な宵月の言葉で言われて、海音は思わず首を横に振る。

「そんな、できません。恐れ多いです」

 もっと話したい。そう思いながらも、海音は正反対のことを言っていた。

「何を言うの。君は市場の平和を守ったんだ。それはたっぷり褒められることだと思うよ」

 アレンは朗らかに笑う。子ども扱いしているが、それは少しも嫌ではなかった。

「葵が君のことを教えてくれてね。久しぶりに一緒に食事をしたいと言っていたし、私もそこに混ぜてくれないかな」

 結局、数刻後には帽子で顔を隠した彼と並んで商館まで向かうことになっていた。

「あの、公国の言葉、で。僕、まだ、下手です、けど」

 海音がたどたどしい公用語で話しかけると、アレンは碧玉の瞳を優しく細めた。

「ありがとう。君はよく勉強してると先生から聞いたよ」

「いいえ。僕は」

「宵月人は自分を誇ることをあまりしないね。頑張っていることは堂々と自慢していいんだよ」

 いつの間にか自分のことが調べられているという事実も気にならないくらいだった。公子という立場ならかかわる人間のことくらい調べる。

「あの、北区広場、人、会う約束、あって」

「ちょうど通るよ。近くで待ってるから」

 シルヴェストルを待たせているかもしれないと思って言ったが、アレンは海音を解放しなかった。北区の広場で立ち止まると、言った通り少し離れて待っていた。

 噴水は弧を描くように水のアーチを作っている。その周りにシルヴェストルはいると言ってたが、彼の姿は見当たらない。

「あ、ちょっとここにいてくれるかい」

 ふいにアレンは近くの露店に足を向けて店主と交渉を始めた。

 海音は傍らで見ていたが、早口なので全部は聞き取れなかった。ただ所々聞き取れた内容に、海音は不謹慎にも笑ってしまう。

「おいおい、焼き上がりじゃないんだからもっと下げてくれ」

「お客さん、うちほど美味いところはないよ? これ以上は駄目だ」

 公子様は値切った後、二つの串を持って戻ってきた。

「見た目は悪いけど、美味いのは本当なんだ。この串焼き」

 海音に渡されたのは何の肉からわからないものにたっぷりタレのかかった串焼きだった。

「これ、何、肉、ですか?」

「羊だよ。食べたことない?」

「初めて。どんな、動物、です?」

 宵月ではあまり肉を食べない。野うさぎや鹿は口にしたことがあるが、羊という動物の姿は想像もできなかった。

「羊は肉もおいしいけど、毛がとても長くて、防寒具に重宝するんだよ」

「毛が、長い?」

「うん。もくもくとね。西に放牧地があるから行ってみるといいよ。大人しい動物だから」

「もくもく……」

 ぽんと浮かんだのは雲みたいな動物だった。海音は自分の想像に楽しくなって笑った。

「公国は楽しいかい?」

 ふいに真顔になって問いかけられたが、海音は微笑んで頷いた。

「はい。僕、ここ、好きです。人、優しい」

「何よりだ」

 アレンは公国女性がうっとりするような麗しい笑顔で応じた。

 海音は辺りを見回して言う。

「僕の、ご主人、いない、みたいです。たぶん、お帰りに」

 シルヴェストルはどこにいても海音の様子がわかると言っていた。たぶん公子と一緒のところを見て、待ち合わせをやめたようだった。

 実際、目的のその人に会うことができた。海音は心が浮き立つのを止められなかった。

 北区の商館に着くと、葵が出迎えてくれた。

「来たわね、アレン」

 親愛の情を示す……というよりは、ふてぶてしい態度でアレンを見上げた。

「私をダシにしてかわいい海音にまで手を出そうだなんて。今度は何をたくらんでるの?」

「これはまたご挨拶だね。元婚約者に向かって」

 海音は一瞬聞き間違えたのかと思って、首を傾げながら問う。

「こんやくしゃ?」

「結婚の約束をしてたってことだよ」

「けっこん……」

 海音ははっとして、慌てて頭を下げる。

「すみません、存じませんでした」

「破談になってよかったわよ。こんな性悪公子となんて、政略結婚以外ないでしょ」

「しょうわる?」

「やめなさい、葵。純情な少年の教育に悪影響だよ」

 公子はにこやかに返して海音の肩を叩く。

「さ、食事にしよう。海音は何が好きかな?」

 清華の商館の中には有名な食堂がある。世界各地を旅してきた料理人が腕前を披露してくれるので、評判の食事処だ。

「お腹空いたでしょ。海音の分は私が選んであげる」

 葵は料理人を呼んで海音の分と自分の分の注文を済ませる。アレンは自分で苦笑しながら注文したが、帽子を取って顔を見せた彼に料理人はさして驚く様子を見せなかった。

「これはこれは、公子。また抜け出してこられたのですかな」

「やだな。ちゃんと大臣には書置きを残しておいたよ」

 それどころか壮年の料理人は公子をからかって笑う。

(公子様、よくいらっしゃるんだ。なじんでる)

 食事時とずれているから一般の客はいないが、清華家の商人らしき者たちは出入りしている。彼らは公子に礼を取ってはいるものの、気安く冗談を言っていて緊張感はあまりない。

 宵月で皇族は神と同義語だった。顔を見ることすら不敬罪とされ、粗相があれば容赦なく首をはねられる。こんな風に王族が城下の食堂に入ることも、海音のような庶民に声をかけてくれることなど想像もしていなかった。

「串でお腹ふくれちゃったのかな。こっちはどう?」

 つい緊張して食が進まない海音に、アレンはくすくすと笑いながら料理を勧めてくる。

「うん、うまい」

 アレンは小柄な宵月人である海音から見るとよく食べた。けれど手づかみで食べる料理でさえ、指があまり汚れない。背筋も伸びていて肘をついたりもしていないのに、ゆったりとくつろいでいるように見える。

 ふいに葵は不愛想に言葉を切り出す。

「で、あなたは呑気に食事しに来たわけじゃないんでしょ。さあ、とっとと用件に入りなさい」

 葵の言葉は、海音の内心の思いでもあった。公子という立場の人間が、ただの気晴らしに庶民の子どもと食事をしに来たとは思えない。

「いや半分以上は呑気に食事するためだよ? 案件がやっと通ってさ」

「ああ、今審議の時期だったわね。また古狸たちと一戦交えてきたわけ?」

「古狸はよしなよ。若輩の私を導いてくれる、尊敬すべき卿たちだ」

「腹の中じゃいつ後ろから蹴りとばしてやるか計ってるくせに」

 にこにこしているアレンと葵は早口で何か言い合っている。海音はきょとんとしながら聞いていた。

「まず、この間はありがとう。海音」

 ふいにアレンから話しかけられて、海音ははっとする。

「一月前、市場でひったくりが多発していてね。組織的なものだった。傭兵団が張っていたんだが、もう少しで取り逃がすところだったんだ」

「いえ……あの」

「君はすごいね。誰に武術を習ったの?」

 アレンの声は優しげで心地よい。つい海音は本当のことを話してしまいそうになって、首を横に振って顔を上げた。

「僕、違う、です。一緒の、ご主人、が」

「いや、君だったよ。男の眉間にあったのは子どもの靴の跡だったから」

 さっと顔色を変えた海音に、アレンは何気なく言った。

 アレンの微笑に海音は抗いがたいものを感じた。彼は海音が隠そうとしていることを知っている。それを一瞬で察したからだ。

「君は側仕えの教育を受けてる。そうだね?」

 いつの間にか周囲に人がいないことに、海音は遅れて気づいた。誰でも出入りのできる一般の店を選ばなかったのはそういうことなのだと、自分の迂闊さを呪う。

「そばづかえ?」

 海音は父に教えられた通りに否定した。首を傾げて、怯えた子どもを演じる。

「僕、見せ物の芸、持ってる……だけ」

 これでも追及がやまなければ、父に固く言いつけられていたことがあった。

(……死んでも何も教えないこと)

 海音は父に武術を与えられるたびに、その掟を心で繰り返した。

「ちょっと。怖がってるじゃないの。変なこと言っておどかさないの」

 葵が割って入った。うつむく海音の頭を撫でて、アレンをにらむ。

「僕、本当、何も、知りません」

 海音は繰り返しそう呟きながら首を垂れる。

 警戒の目で見られるのは悲しかった。けれど自分の身を守るためにも、この秘密は守り通さなければいけない。

 ふいにアレンはカップを置いて首を少しだけ傾ける。

「謎めいた宵月の子。……楽しそうだと思ったんだよ」

 海音は訝しげに顔を上げた。

「こういう刺激、私は大好きなんだ」

 不意を突かれて目を丸くした海音とは対照的に、葵はやれやれと肩を竦める。

「出たわ、あなたの悪い癖が。その危ない趣味やめなさいって」

 葵は頭を押さえて海音に言った。

「笑っていいわよ。うちの公子ちょっとおかしいの。ここは要衝で、子どもの頃から敵も味方も混戦してたからこうなったみたいなんだけど」

「よく、ご無事、で」

「護衛が優秀だったからだよ。あとは運かな。なぜか皆失敗してね」

 つまり感覚が狂っているということなのかと、海音はおぼろげに理解した。

「公子に生まれたのは幸いだと思ってる。毎日違う世界だから」

 ね、と笑った公子は無邪気な子どものようにも見えた。

 海音はどうしてか微笑を浮かべてしまった。

(僕みたいな子どもが思うのは失礼かもしれないけど。ちょっと……面白い方かもしれない)

 光が似合う、まぶしい金髪と碧玉の瞳の麗しい公子様。

 けれど彼が公国の民に愛されるのは、このちょっと風変わりな性格が理由なんだと、海音は何となく理解した。





 


 アレンは話し上手で、世間話や城でのちょっとした事件を冗談混じりに話してくれた。海音のたどたどしい言葉にも微笑みながら耳を傾けて頷いてくれた。

「あ」

 ふと窓の外の陽がかなり低くなってきていることに気づいて、海音は短く声を上げる。

「今日、ありがとう、ございました。僕、そろそろ、帰り、ます」

「じゃあ送っていこう。家はどこ?」

 当たり前のようにアレンが立ち上がるので、海音は慌てて首を横に振る。

「そんな、公子様、に」

「私もそろそろ帰るからね。大臣たちのお小言が待ってるが」

 海音は公子の冗談に笑いそうになったが、すぐに顔を引き締める。

「まだ、明るい、から。平気です」

「じゃあ後をつけよう」

 言葉に詰った海音に、アレンは笑う。

「君の父上にお礼を申し上げたいから」

 海音は苦笑して思う。

(強引でもそれが普通の気がしてしまうのは、やっぱり公子様だ)

「じゃ、葵。また誘ってくれ」

 座ったままの葵の手を取って、軽く別れのキスを落とす。その動作はさすが手馴れていて海音は目を丸くしたが、葵は片肘をついたまま面倒くさそうに瞬きしただけだった。

「あなたに一回付き合うごとに、税を一厘下げてくれるとかならいいんだけど」

「君は甘い男は嫌いだろう?」

 アレンは微笑を、葵は嫌そうな一瞥を交わして、それぞれ背を向けた。

 海音はこういうときのために、セネカの家に彼を案内することにした。ご主人は仕事中なのでいつ戻るかわからないと言って帰ってもらえばいい。

 街を歩きながら、アレンは海音に言う。

「海音はもう国立図書館に行ったことがあるかい?」

「あ、えと、まだ」

「本を読むのはいいことだよ。今度来た時に連れて行ってあげよう」

 海音は思わずはにかむ。今度があると言ってもらえたからだ。

 道行く人の中には深く帽子を被った公子に気づく者もいたようだが、アレンが口の前に指を当ててにこりと笑うと皆騒いだりせずに通り過ぎていってくれた。

(公子様、たぶんよく下っていらっしゃるんだな)

 街の人たちに好かれているのが、人々の見る目でわかった。少なくとも、海音の故郷では誰一人皇族をそんな目で見ることはなかった。

(宵月は道路も整備されてないし、地下水路もないし、図書館だってなかったけど。自分を包んでくれるものは、綺麗だったな)

 子どもらしい遊びをした覚えはないけれど、寝そべった大地の匂いが好きだった。見上げた空の深さが、汗を流した海の冷たさが心地よかった。

「海音?」

「……あ、いえ」

 つい故郷のことを考えてしまった自分に、海音はふるふると首を横に振る。

(馬鹿だな。僕は恵まれてる。温かい寝床も食べ物もあって、優しくしてくれる人達もいて、不満なんて何もないのに)

 海音はうつむいたまま、困り顔で呟く。

「公国、宵月、だいぶ違う、から。公国、好き。でも……」

 言葉につまった海音の頭に、そっと手が置かれた。

「誰だって故郷への思いは絶えないものだよ」

 見上げた先には、苦笑を浮かべたこの国の公子の姿があった。

「嫌なところを知っているからこそ、離れがたく感じたりね」

「公国、嫌なところ、あります?」

「たくさん」

 海音から見れば公国は美点しか見えなかった。だから公子がためらわずに言ったことに驚く。

「まあでも、私は公子だからね。何があっても国を守るが」

 海音はうつむいて思う。

(僕は逃げてしまってよかったんだろうか。僕のしたことは、裁かれなければいけなかったんじゃないかな)

 でもと、海音は思いを馳せようとして肩を震わせる。

(残っていたら、間違いなく僕は……)

 想像するのは怖かった。だから海音はぎゅっと目を閉じてまぶたの裏の想像を追い出そうとした。

 再び目を開いて夕陽の眩しさに目を細めた時、ふいにアレンが素早く動いた。

「海音、下がれ!」

 曲がり角から半月刀を持った男が切りかかってきた。アレンは剣を抜いてそれを受け止める。

 アレンは冷静に半月刀を受け流すと、懐に飛び込んで当て身をくらわせた。胸倉を掴まれての一撃はかわしようがなく、男は昏倒する。

「そっちはどうだ?」

 アレンは襲撃者とは反対側の路地に向かって声を投げると、すぐに長身の男が現れた。

「片付きました」

 短くそれだけ言って、男は別の襲撃者をひきずりながら歩いてくる。年齢は四十前後の男盛りで、こげ茶の短い髪に口ひげをたくわえていた。

「おや、今日はカナメが当番だったのか。だったらもっと遠出してもよかったな」

「またそのようなことを。城を出る時は正規の護衛もおつけになってください」

 カナメと呼ばれた男は手を口に当てて指笛を吹く。仲間に知らせているのだろう。壁や道にぶつかって、高く反響した。

 カナメは手際よく男たちを後ろ手に縛っていく。その間、公子は特に緊張感なく彼らを見下ろしていた。

「公子様……」

「ああ、ごめん。怖がらせちゃったね」

 海音は首を横に振ろうとしたが、否定するのもおかしくてこくんと頷く。

(やっぱり身の回りには危険なことが多いんだ。身分が高い人は大変だな)

 そう思って、海音ははっとする。

(微かだけど……)

 ピリッと空気が震えたのを感じた。

「伏せて!」

 思わず宵月の言葉で言ってしまったのを悔やむ暇もなかった。

 海音は公子の腰に体当たりするようにして突き飛ばす。ひゅんっと風を切る何かが迫ってきていた。

 身を捻って飛んできたものを避ける。だが完全には避けきれなかった。

「海音!」

 海音の左肩に矢が突き刺さった。海音は痛みに悲鳴を飲み込むと、屋根の上を向いて叫ぶ。

「屋根、上!」

 海音は周りに知らせたが、すぐに射手は身を翻して逃げようとした。

 そのとき、嵐のような下降気流が辺りを包んだ。

 突風に海音は転んで、アレンとカナメも思わず膝をついた。

「うわぁぁっ!」

 屋根の上にいた刺客が足を滑らせて落ちてくる。家の前に張り出した布や物干しの棒がへし折れる音が響いた。

(あ……)

 海音は屋根の上に別の人影を見た気がした。

 緑色の髪に金の輪が光る。一瞬だったが、シルヴェストルが屋根の上に立っていた。

(もしかして、シヴ様……)

 刺客が次々と来るにもかかわらず公子が無事でいられるのは、この国を守る精霊の守護があったからなのかもしれない。

「カナメ、頼む。あの高さなら死なん。依頼主を必ず吐かせろ」

「は」

「海音、傷を見せて!」

 その場に倒れた海音を抱き起こして、公子は海音の肩口を破こうとする。

 矢を受けるより鮮烈な恐怖が、海音の脳裏をよぎった。

「だ、大丈夫、です!」

 公子の手を振り払って後ずさる。

 勝手に体が震えてしまう。肩程度ならばれることはないとわかっていても、人へ体を見せることだけは嫌だった。

「少し見て応急処置をするだけだよ。痛いことはない」

 アレンは宥めるように言って海音に手を伸ばす。

 それだけの仕草に、海音は目の前が真っ暗になった。

「いやぁ!」

 海音は悲痛な声を上げて逃げ出す。

 泣きながら裸足で走ったあの日、足の裏に食い込む砂利の痛みを思い出す。

――男でないことは、そんなにいけないことだったのですか。

 母が呪いのように海音に性別を隠すように言い聞かせる理由を、海音は知らなかった。

――知られちゃいけなかったんだ。嫌われるから。

 惶牙には知られてしまった。彼は構わないと言ってくれた。けど、彼のように思ってくれる人ばかりとは限らない。

「海音、待って!」

 アレンが追いついてきて海音の手を掴もうとする。

(嫌だ。怖い!)

 海音の頬を涙が伝った。

 何かに縋るように手を前に差し伸べる。空を切るはずだったその手は、ふいに強く引かれた。

 脇を抱えられて体が宙に浮く。目の前に、人に姿を変えた精霊の顔があった。

「海音……海音!」

 シルヴェストルは自分が怪我を負ったように震えていた。彼は海音の肩に、その震える手で恐る恐る触れて、ぱっと離す。

「い、痛い……だろうな。すまぬ」

「城で手当てさせてください」

 アレンはすぐにシルヴェストルに申し出る。

「たぶん熱も出ます。私を守ってくれたのです。私の所にはよい医者もおりますから」

 海音は激しく首を横に振った。

「か、帰る……。帰らせてください!」

 ぎゅっとシルヴェストルの胸に縋る。そうすると少しだけ安心した。

「海音?」

「服……脱ぐ……いや……」

 がくがくと震えながら小声で呟く海音に、シルヴェストルは眉を寄せたが、すぐに頷いた。

「では、セネカのところに行くか。あれは怪我の手当てに慣れている」

「やだ……かえる……」

「肩だけだ。他には触れないように私が見張っておく。それで、手当てが終わったらすぐに帰ろう」

 珍しく宥めるような声で、シルヴェストルが優しく言う。海音はしゃくりあげながら首を横に振る。

「大丈夫だ。私がついている。惶牙も呼ぼう」

 繰り返し頭を撫でられながら耳元で告げられて、海音はようやく少し落ち着きを取り戻した。

「はい……セネカさんのところに行きます」

「いい子だ」

 シルヴェストルは海音を抱え直して顔を上げる。

「連れて帰る。こちらにも手当てができる者がいるから心配ない」

「二度も助けられていて何もせずお帰しするわけにはいきません」

「海音が嫌がっている。助けは要らん」

 ぴしゃりと言い放つと、シルヴェストルは踵を返す。

 ふいに目だけを向けて、精霊はこの国の公子を一瞥する。

「身辺警護を怠らぬよう。いつも偶然が守ってくれるとは限らんぞ」

 公子に目を細めてから、シルヴェストルは歩き出した。アレンは呼び止めたが、彼は振り返らずに歩き続けた。

「世話の焼ける」

「す、すみません」

 慌てて謝った海音に、シルヴェストルはそっけなく答える。

「……お前のことではない」

 海音は首を傾げたが、シルヴェストルは短くため息をついただけだった。

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