10 精霊に仕える者
アキラは生まれも育ちも公国で、隅々まで知り尽くしていた。
今日は商店街、次は子供たちの遊び場である北区広場、アキラの家にも連れて行ってもらった。世話焼きで肝の据わったお母さんがいて、海音は自分の母との違いに驚いた。
「自分で帰るから迎えに来てくれなくていいよ」
日暮れ近くまでアキラと一緒にいることが増えて、関所の外で待っている惶牙には自分で帰ることを告げた。
「……ああ、わかった」
惶牙はうなずいたが、浮かない表情を隠すようにうつむいた。
「今日はどこに行ったのだ」
「はい。えっと、お城の庭が開放されるってアキラが言っていたので、一緒に外庭を見てきたんです。花がいっぱい咲いていて綺麗でした」
シルヴェストルは海音が友達との話をするのを、うなずいて聞いていた。よかったなと相槌を打つ精霊に、海音は嬉しそうに微笑みかえした。
惶牙はいつも何か問いたげにシルヴェストルを見ていた。
海音は言葉を順調に覚えて、公国の子供たちにも慣れていった。相変わらず朝は惶牙の毛皮に包まれて目覚め、朝夕の食事はシルヴェストルと会話を交わす。それ以外は友達と遊んだり、勉強をして過ごす。
(まだかな)
海音には気になることがあった。碧の瞳の青年のことだった。
(シヴ様は必ず会わせると仰ったけど、なかなか居場所のつかめない方なんだろうか)
シルヴェストルを疑っているわけではないが、海音は徐々に焦り始めていた。
(傭兵だもの。こうしている内に公国を離れてしまったらどうしよう)
言葉を一生懸命覚えるのは、彼と話がしたいという思いも大きい。
いつになったら会わせてもらえるのかと問うこともできないまま、一月ほどが過ぎていた。
アキラを連れて行って以来、海音はセネカの家を訪ねて稽古をつけてもらうことが増えた。
ある日海音がセネカの家を訪ねると、先客がいた。
「お久しぶりです、海音さま」
「元気だったかい?」
海音を公国に連れてきた二人組、グロリアとゼノンが畳の上でくつろいでいた。
「あ……お元気でしたか?」
懐かしい銀と金の旅人を見て海音が声を上げると、銀の髪の少女は少しだけ心配を浮かべて言った。
「私たちは変わりがありません。そちらは生活に慣れるのが大変だったでしょう。何かお困りのことはありませんか?」
「いえ。シヴ様も惶牙もとてもよくしてくださいます。こんなに大事にしてもらっていいのかなって思うくらいに」
海音が困ったように目をそらすと、ゼノンは目を細めて柔和に微笑む。
「いいんだよ。マナトは精霊にとっても国にとっても大切な存在なんだから。君は元気でいてくれるだけでいいんだ」
海音の隣に座って、ゼノンはその頭を優しく撫でる。
「足りないものや欲しいものはない? 精霊様たちに言いにくいことなら私たちに教えてくれないかな」
海音ははにかんで首を横に振る。
「いえ……本当に何もないんです。僕をここに連れてきてくださったこと、ずっとお礼が言いたかった」
ヴェルグで生活していた時も葵や清華の商人たちが親切にしてくれた。だが家族のように海音を守り、育ててくれたのはシルヴェストルと惶牙だ。
海音は公国に来てふた月の出来事を話した。惶牙のことはもちろん、精霊のことは特に熱心に語った。市場で怪我をしたらシルヴェストルが慌てて医師に見せてくれたこと、雨の日でも買い物に行って海音を気遣ってくれたこと、毎日海音の話に耳を傾けてくれること、話すことはたくさんあった。
「私から見ても、精霊様は海音をとても大切にしていらっしゃるようでしたよ」
話の合間にセネカが言葉を挟んだ。
「今海音に武術を教えているんですが、それも反対されているくらいですからね」
「武術ですって?」
グロリアは少し驚いて声を上げた。
「海音さまはそんな危険なことをなさっているんですか?」
「あ、いえ。護身術程度です」
「護身術ですか」
彼女は眉を寄せて思案顔を作る。
「確かに私たちが常にお守りできるわけではありませんが……」
「いいことじゃないか。体を動かすことは健康にもいい」
ゼノンは助け舟を出すように口を挟む。
「ただ無理はいけないよ。セネカさんもよく言うだろう? 相手を打ち負かすことが大事ではないって」
「はい。最初に教えていただきました」
海音の頭をそっと撫でて、ゼノンはうなずいた。
「あ、僕、友達もできたんです。アキラっていって……」
海音は話題を変えることにした。それはグロリアの渋い顔を元に戻すためでもあったし、友達ができたことは本当に嬉しくて、誰かに聞いてもらいたかった。
しかし話を進める内にグロリアの表情は硬さを増すばかりだった。海音が楽しそうな声を上げるたびに、銀色の瞳に影ができる。
「……ずいぶんとその少年に好意を寄せていらっしゃるようですね」
そう切り出したグロリアは、明らかに喜ばしくない事態を語る口調だった。
「グロリアさん?」
「あなたはまだ幼いですから、いろいろなものに興味を持たれるのも仕方のないことかもしれませんが」
海音は眉をひそめている彼女の意図が読めなくて首を傾げる。
「マナトは友達を作ってはいけないのですか?」
「そういうわけではないんだけどね」
ゼノンをうかがうと、彼も笑ってはいなかった。困ったように目をそらして、頬をかいている。
「あまり精霊様の嫉妬を買うような交流はしちゃいけないんだ。生まれた時から精霊様に育てられているマナトは自然と理解するものだから、私たちもつい言いそびれてしまったけど」
「精霊様が嫉妬ですか?」
海音は首を横に振る。
「シヴ様が僕なんかのために嫉妬されるはずありません」
「いえ。あの方は確かにそれを口にすることはなさいませんが、マナトに対する執着は強い方です」
グロリアはふと声をひそめて言う。
「あなたを怖がらせてはいけないと思って申し上げませんでしたが」
グロリアとゼノンは目くばせして海音を見る。
「……マナトが原因で国を滅ぼしてしまう精霊様もいらっしゃいますから」
さすがに海音も息を呑んで、まじまじと二人を見返す。
「国を滅ぼす?」
「マナトに危害を加えた者の命を奪うこと、その者たちの土地を草一本生えない荒地に変えてしまうこと、そのようなことはいくらでもあります。精霊様が人間に災いをもたらす原因は、ほとんどの場合マナトなのです」
海音の故郷でも、精霊が人間に災いをもたらす逸話はあった。ただそれは人間たちが悪いことをした時とか、精霊をないがしろにした時のことだと思っていた。
「シヴ様は違います。た、確かに時々天候を悪くすることはありますけど。公国の人たちを本当に大切に守っていらっしゃって」
「うん、公国の精霊様は思慮深い方で、慈悲深い。でも精霊はマナトに対しては全く別の激しい感情を持っているものなんだ」
いつもグロリアを諌めるばかりだったゼノンも、この問題については海音に厳しく言った。
「だから精霊様の前で好意を持った人間のことなど話しては駄目だ。必要以上にかかわることも。辛いことかもしれないが、それがマナトの使命だから」
海音が迷いながら、その言葉を受け入れようとした時だった。
「……精霊様は君に、他の子供とかかわらないようにと言いましたか?」
ふいに今まで黙っていたセネカが口を開いた。
「い、いえ」
「友達の話をすると怒ったり?」
「それは、ないです。よかったなと仰って」
セネカは微笑んで言う。
「それなら大丈夫です。心配は要りませんよ」
おっとりとした口調でありながら、セネカはそう言い切った。
セネカは海音を穏やかな目で見て続けた。
「精霊様がここを君の仮住まいにするとお決めになった時、こちらへお訪ねになって私に仰いました。「海音には普通の子供の生活をさせてやりたい」と」
「シヴ様が……そんなことを」
驚いて海音が目を見開くと、セネカは深く頷いた。
「これは私の口から話すことはできませんが、前のマナトのことで精霊様は辛い思いをなさいました。だから次のマナトは人の世界に溶け込ませようとお考えなのでしょう」
海音は俯いて、小声で問う。
「前のマナトの方をお忘れになっていらっしゃらないことは、僕も何となくわかります……。セネカさん、僕はその方の代わりになれるでしょうか?」
「それを彼の君は望みましたか?」
海音は少し考えて首を横に振る。
「わかりません」
「なら今考えるのはおよしなさい。あなたが成長するのを待っているのかもしれないし、望んでいないのかもしれない」
グロリアやゼノンも何も言わずにセネカに従っている。それを見ていたら、海音は前から思っていた疑問を口にしていた。
「セネカさんはグロリアさんのお姉さんなのですか?」
機会がなかったために言いそびれていた。するとグロリアは困ったように目を逸らして、ゼノンは苦笑した。
きょとんとした海音に、セネカだけは今までの態度を崩さずに答える。
「母親代わりというところでしょうか。こう頭の固い子に育てたつもりはないんですけどね」
海音はびっくりしてまじまじと彼女の姿をみつめた。見た目で年齢はわからないが、成人した子どもを持つようにはとても見えなかった。
「そ、それに、とてもよく似ていらっしゃいますね」
「私とグロリアがお仕えする精霊様は同じですから。精霊様に似てくるんですよ」
「どちらの国の精霊様なのですか?」
「国を持たない精霊もいるのです。人と同じで、精霊も様々なんですよ」
セネカはにこにこと笑って言った。
「公国に定住して長い。自分のお仕えする精霊様より、公国の精霊様のことの方が詳しくなってしまいました。……さ、もっと召し上がってください」
いつも来るたびにふるまってくれる焼き菓子に手を伸ばして、海音はようやく一息ついた。
それからはグロリアやゼノンの旅の話を聞いた。
大陸のことについてほとんど知らない海音は、様々な土地を旅する二人の話を聞いているのが楽しかった。
「ゼノンさん、そろそろ日が暮れます。海音さんを送っていって差し上げてください」
時間を忘れて話し込んでいた海音は、空が赤く染まり始めたことに気づいていなかった。
「大丈夫です。公国は安全ですし、一人で帰れますよ」
海音は立ち上がって縁側から下りる。
「グロリアさんとゼノンさんは明日もいらっしゃるんですか?」
「いえ、またすぐ発ちます。クレスティアのマナトに届け物をする用がありますので」
海音はちょっとだけ口元を歪める。
(忙しいんだなぁ。僕みたいに遊んでばかりいるマナトとは大違いだ)
グロリアは海音が表情をかげらせたのに気づいて言う。
「不安でしたら、ゼノンさんを残しますが」
「いえ、僕のことは何も問題ありません。気をつけて行ってらしてください」
頭を下げて、海音は踵を返す。
(大きくなったら、僕も何かお手伝いしたいのだけど)
今はそれを言っても、彼女らは到底受け入れてはくれないだろう。
馴染んだ帰り道に落ちる夕陽が少し寂しく感じた。
(あ。そういえばセネカさんにちゃんとご挨拶してなかった)
関所に近くなったところで海音は慌てて引き返す。
町外れに戻ってきて木の柵の中にそっと入る。そこで海音はびりびりと空気が震えていることに気づいた。
ごくりと息を呑んで、海音は足音を消しながら走る。
緊張に身を固くして、門の所から縁側を覗き込む。
金属同士が打ち鳴らされる音、舞い上がる土ぼこりの中で、激しく槍をぶつけあう二人がいた。
「海音。近寄っちゃ駄目だ」
思わず立ち竦んだ海音の側にゼノンが立つ。すぐ側まで彼が来ていることに気づかなかったほど、セネカとグロリアの放つ殺気は禍々しかった。
「こ、これは?」
「恒例の稽古さ」
「け、稽古?」
二人の間に手加減は全く見られないし、服には所々血が滲んでいる。
「グロリアは若くて、武術が未熟だ。けど若さは弱いことの言い訳にはならないんだよ。だからこうして定期的に稽古をつけてもらってる」
セネカの振り下ろした重い一撃がグロリアをはじき飛ばす。小柄な体が派手に地面に打ち付けられてびくりと震える。
槍を軽く片腕で振って、セネカは冷ややかに言葉を投げる。
「もう終わりですか?」
グロリアの額から血が流れている。だがそれでも、セネカは手を差し伸べずに見下ろしているだけだった。
痛々しいグロリアの姿と、かつての自分が重なる。血を吐くような苦痛と、それでも勝てない悔しさを。
「や、やめてください!」
海音は思わず間に入っていた。セネカがなお槍を振り上げていたからだ。
「勝負はもうついてます! 怪我だってこんなにひどい……」
「……下がってください」
ぐいと肩が引かれた。グロリアが震える手で海音の肩を押しやった。
「事実です。私は弱すぎるんです」
「でも!」
海音がそれ以上言葉を重ねるのを拒むように、グロリアは勢いをつけて立ち上がる。
「続きを」
二歩ほどよろめいたが、グロリアは槍を構えた。セネカは無言で前へ踏み込んでくる。
「海音。君は帰りなさい」
グロリアと槍で押し合いをしながら、セネカは冷静に言った。
「グロリアに同情する必要はありません。自分で決めた道ですから」
力の差は、グロリアが両手に対してセネカが片手で応戦していることから見ても歴然としていた。
「御遣いは弱ければ命を失う。自分を守るために強さが必要なんです。覚えておいてください」
海音はうつむくと一礼して、セネカの家を後にした。
関所に入る直前、海音は市場の露店の影から現れた人影に目を見開いた。
「シヴ様?」
「遅いぞ。日没には帰れと言っておいただろう」
憮然とした様子で海音の隣に並び、頭をそっと撫でる。大きくて温かな手が海音の手を包み込んでくれたので、海音はうつむいた。
「どうした?」
海音は何か言おうとしたが、できなかった。何だか頭の中がぐるぐる回って、言葉にならなかった。
(シヴ様は何も望まないから、僕は友達も作れるし他の人たちとも親しむことができる)
「海音?」
うつむいた海音に、シルヴェストルは屈みこむ。
(グロリアさんは、あんなに強い覚悟で精霊様にお仕えしているのに。僕は……)
暗い瞳でそう思った時、海音は体が浮くのを感じて顔を上げた。
「わ……」
「グロリアたちが何か言ったか?」
シルヴェストルは海音を抱き上げて、淡い緑の瞳でみつめていた。
「あの者たちは干渉が過ぎる。一度強く言っておかねばならんか」
シルヴェストルは先ほどのやり取りを見ていたのだろうか。それはわからなかったが、海音は慌てて首を横に振った。
「違うんです。あ、あの!」
海音は言葉を急いで喉を詰らせる。
「何だ?」
シルヴェストルは焦らせずに海音の言葉を待っている。それに力を得て、海音は言った。
「僕、シヴ様がお嫌なら友達の話はもうしません。箱庭にも真っ直ぐ帰ってきます」
海音は自分にできることを考えた。でも今はできることが少なすぎた。だからせめて主である精霊の不快になることだけは避けようと思った。
「……それを望む精霊もいる。が、それは私ではない」
シルヴェストルは落ち着いて返した。
「では、シヴ様が望むことはないのですか?」
「あるぞ」
いつの間にか海音はシルヴェストルに抱かれたまま関所を出ていた。
「日が暮れる前に帰ってくること。勉強をしっかりすること。夕食の時には今日あったことを私に話すこと。何より健やかであること。いつも望んでいる」
「それは……」
「普通の子どもに望むことだと?」
思った通りを言われて、海音は黙る。
「お前はマナトであること以外は普通の六歳の子どもだと思っている。だからそれを望む。何かおかしいことがあるか?」
木々に夕焼けが映えて綺麗だった。濃い緑には淡く、薄い緑には鮮明に太陽の光が映り、まぶしくさえ感じる。
「マナトが苦しんではそれこそ悲しいだけだ。惶牙も、私も」
森の木々の間で、惶牙がこちらをうかがっているのが見えた。
海音は下ろしてもらって、精霊と聖獣を交互にみつめる。
(僕がもっと大人になったら……何か望んでもらえるだろうか)
その時が早く来てほしいと切に願った。
「明日、お前が会いたがっていた者に引き合わせてやる」
「え?」
海音はまじまじと精霊の顔をみつめる。
「今は審議の時期で城から出られなかったのだ、あれは。それが終わった明日なら城下に下りてくるだろう」
「城? 文官さん、なのですか?」
「会えばわかる」
惶牙が寄ってきて海音の袖を引く。
「そろそろ冷えてくるぞ。さ、箱庭に入れ」
「う、うん」
明日会える。そう思うと海音は心が躍ったが、シルヴェストルと惶牙の表情は晴れなかった。
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