アレグロ・アジタアト
龍馬錬路
序章 運び屋の少年
1.
絆という物の存在を、貴方は信じるだろうか。
ヒトとヒト、モノとモノ、ヒトとモノ……。あらゆる事物を繋ぐものとして存在すると言われる概念。時折、
「――は? オレが、何だって……?」
「ですから、君の
とある街の路地裏。
早朝のため誰も通る者のいない場所に、今、二人の男が立っている。
「分かりませんか? 君の力は、この世界のバランスを根底から崩してしまいかねないと判断されたのです」
静かだが重い声でそう告げたのは、いかにもインテリジェンスな外見をした青年。程良い長さの
その佇まいは堂々たるもので、ピンと伸びた背筋や相手を捉えて放さない静謐な視線からも相当な実力者であることが窺えた。
「オレの力……?! 意味が分からない! 単なる運び屋に、何の力があるって言うんだ!?」
一方、狼狽えた声を上げるのは、雑然と伸ばした黒髪に黒い瞳を持ち、体型に合っていないロングコートを羽織った少年だ。中身の詰まった大きい革鞄を右肩から斜めに掛けている。
「それを
涅色髪の彼は、右手の指を一度軽快に鳴らすと一歩前へ進み出た。
「大人しく我らの監視下に置かれるのか。それとも……ここで死ぬのかをね」
「……っ?!」
黒髪の少年は困惑する。今日も、いつも通りの一日が始まると思っていたのに。今日も、ひたすら“想い”を届けるはずだったのに。
目の前の現実は、少年にいきなりの無理難題を押しつけてきた。
「――――」
これまでの人生で、殺気というものを感じたことは無かったが、おそらく
自分の命が狙われていると嫌が応無く自覚させられる鋭い気配。思わず吐き気を催すような強烈な不快感。
「――ッ!」
それらから逃れるために、少年は踵を返して走り出した。
物の運搬を生業とする運び屋という職業柄、持久力には多少の自信がある。この街の地理に関しても、誰より詳しいという自負があった。
「はッ! はッ……!」
時折、革鞄を建物の壁に衝突させながらも、少年はひたすらに走った。複雑な路地裏の道を全て正確に把握している者は、地元民にすらそうはいない。
意図的に多くの角を曲がり、多くの用水路を飛び越え、彼はただ恐怖からの逃走を図る。途中で一度後ろを振り向いたが、後ろから誰かがついてくる様子は無い。
(……逃げ、切った?)
その安堵感からか、夢中で走ったことによる負担が一気に彼の心肺へと襲い掛かる。
「ッはぁ……! はぁッ……!!」
両膝に手を置いて、彼は
「――息は整ったかな?」
「ッ?!」
俯いたままの少年の前方から何者かの声が掛かる。
(……嘘だろ?)
顔を上げた少年が見たのは、まごうことなく先ほどの男。平然と、息一つ乱さず、青年はそこに立っていた。
(……あり得ない!)
なぜ地元民でもない彼が自分に追いつけるのか。そもそも、これだけの距離をこの短時間で移動して、どうして汗一つかいていないのか。
酸素不足も手伝い、少年の思考能力ではそれらに対する答えは見つからなかった。
「さて……。逃走したということは、先ほどの選択は後者ということで良いのかな?」
眼鏡の位置を正しながら、青年はゆっくりとこちらへ歩き出す。
「く、来るな……!」
準備運動も無しに長い間全力疾走したせいで、黒髪の少年の脚には、もはや満足な力が残っていなかった。それ故、無駄と分かっていても拒絶の言葉を発するしかない。
「悪いが、これは命令でね。……私も命が掛かっているんだ」
歩きながら右手を差し出した涅色髪の青年は、黒髪の少年の頭部へと掌を向けた。
「――――」
まるで金縛りにでもあったかのようにその場から動かない少年は、非常に複雑な表情をしている。
恐怖、理解不能、拒絶、哀願――。
様々な感情がない混ぜになり、今の彼の
……無理もないな。
涅色髪の青年は心中で独りごち、ついに黒髪の少年をその手中に捉える。
「サヨナラだ。アスカ・ティタジア君」
「ッ!? ――――……」
直後。脳をぐるんと掻き回されたような感覚とともに、黒髪の少年の意識は、いとも簡単に闇へと落ちた。
「…………」
力無く前方へと倒れてくる彼を支えて地面に横たえた涅色髪の青年は一度嘆息し、空を見上げる。建物と建物の間から覗く白んだ空には、未だに月が残っていた。
「許せ、少年。これは世界のためであり――」
青年は眼鏡を外すと、地面に伏せった黒髪の少年を見ながら告げる。
「――君のためでもあるのだ。〈
2.
木漏れ日差す家の庭。
家主の趣味なのか、多種多様な植物がよく手入れされた状態で居並んでいる。
「――ひ……ひぃぃっ?!」
「……逃げないで」
そこに一組の男女がいた。
「く……来るな、バケモノぉっ!!」
男の方は恐怖に歪んだ顔でじりじりと後退を繰り返している。
「どうして……? 私はただ、落とし物を渡しに来ただけなのに……」
一方、長い灰色の髪に紅い瞳を持つ少女は、その手に一本のペンを持っていた。
「う、嘘だ……ッ! その灰色の髪に緋色の瞳……! ここ最近、出没している殺人鬼はお前だろう……?!」
「“さつじんき”……? 何のことか分からないわ……」
彼女はそう言うと、一歩前へと進み出る。
「と、止まれっ! それ以上近づくなぁっ! ――ええいッ……!」
それを見た男は心底取り乱した様子で、手近にあった植木鉢を放り投げた。赤土で作られたやや厚手の植木鉢は、弧を描いて少女の元へと到達した。
「……っ」
少女は腕を上げて防ぐも、衝突の勢いで植木鉢が割れ、中の土を頭から思い切り被る羽目になる。
「……分かったわ。ここから投げて渡す。だから……」
それでも、少女は怒った様子もなく、手に持っていたペンを優しく持ち主へと放り投げた。
「――さよなら……」
そして、放り投げた途端。相手が受け取ったかどうかすら確認せず、彼女は踵を返して走り去る。
「……おっと」
高く弧を描いて飛来したペンを、男は安堵の表情を作るとともに受け止めた。
「――が、っごぉ、っほ……っ?!」
その瞬間。受け止めた男の指を折り飛ばし、そのまま首に直撃したペンが、男の首をいとも簡単にへし折る。
それでもまだ止まらないペンは、一瞬で絶命した男を引きずり、庭の壁に男の後頭部を激突させたところで、ようやく動きを止めた。
急に力を失ったペンは、めり込んだ首から外れて、草の上に落ちる。
後には、物言わぬ主人と、それを黙って見守る植物たちだけが残された。
3.
「…………」
ある晴れた正午過ぎ。暖かい日差しが、灰髪紅瞳の彼女を照らす。
平和を象徴するかのような穏やかな天候の下、彼女は今、泥だらけで歩いていた。
擦れ違う人々の視線を一身に集めながらも、それらを一切気にしていない様子で真っ直ぐにどこかへと向かっている。
(……どうして、どうしてダメなんだろう……)
物心ついてからずっと裸足で歩いているために爪も剥げ、皮もボロボロの両足をぼうっと眺めつつ、彼女は思いを巡らせる。
(……何で、私は怖がられるんだろう……)
細い通りを抜け、森に入り、辛うじてそれと分かるような獣道を進んでいく。その間、鋭く尖った枝葉が身体を傷つけていくが、彼女は全く気に留めていない様子だった。
(……落とし物や無くし物を届けることが、そんなにいけないこと……?)
彼女を見た者は皆、決まって彼女のことを殺人鬼と呼び、怖れる。それが、彼女にはどうしても理解出来なかった。
元来、人と顔を合わせることすら苦手な彼女にとって、人と会話することは己の限界に挑戦することと同義だ。
それでも、誰かが物を落とし、なおかつそれに気付いていない様子であるのを見ると、その落とし物を持ち主に届けてあげずにはいられなくなる。
(……落とし物が見つかれば、誰でも嬉しいはずだもの。……“あの人”は、そう言ってた)
彼女は幼い頃に一度、落とし物を届けたことがあった。
落とし物の主はわざわざ届けてくれた彼女を褒め、大層感謝し、遺失物が見つかった時の喜びを説いたのだ。
その体験は、人に褒められるという経験が一切無かった彼女の心を満たし、彼女が“落とし物を届ける”という行為に執着するきっかけとなっている。
(……“さつじんき”って、何だろう……?)
だが、彼女は未だに自分が持つ“力”に気づいておらず、また長時間人と向き合っていられないので、その“力”が持ち主の命をことごとく奪っていることも、皮肉なことに全く知らなかった。
だからこそ、彼女に“さつじんき”の意味を問うても無駄なのである。
(……良いや。今考えたって分からないなら、きっとこれからも分からない)
そう考えたのと同時に、彼女は自分の家へ繋がる道を抜けた。
「……えっ?」
しかしそこには、
「オマエは危険だ――」
「?!」
彼女が目の前の事態を飲み込めないで硬直していた時、何者かが樹上から降下してきた。そして、鮮やかな手捌きで彼女の首元に打撃を入れる。不意を打たれた少女の意識は為す術もなく薄らいでいった。
4.
「――――!?」
起き上がる。
軽く息が上がり、全身に嫌な汗をかいていた。
ここは窓の無い、薄暗い室内。
備え付けられたベッドの他には物が無く、簡素と言うのもおこがましいほどだ。
(……また、あの夢……)
彼女は、胸の前で己の手を握り合わせた。灰色の長い髪が微かに震え、その下にある紅い瞳が細められる。
(……私は……
握り合わされた彼女の両手は、肘から先が黒光りする金属で構成されていた。
(……
己の“手”で触れた物の破壊する力を最大限まで引き出す力――〈
あらゆるモノを破壊するためだけに存在する能力だと、〈施設〉の人間には告げられた。
(……だから……この手も壊したのに……)
彼女の手で触れた物が凶器になるのなら、その手を無くしてしまえば良い。そう考えた彼女は、施設に入れられて少し経ったある日、壁に向かって己が両拳を思い切りブチ込んだ。
思惑通りに、肉は裂け、骨は砕け散り、神経は千切れ、彼女は自身の両手に今生の別れを告げることが出来た。――相当な厚さがある施設の壁を崩壊させた代償として、ではあったが。
しかし、これで“力”と決別出来たと思った彼女は、肘から先の腕を失った次の日に、絶望を知ることとなる。
そう――“力”は無くなってなどくれはしなかった。
緊急手術で取り付けられた義手で触れたモノにも〈
だから、その場で義手を破壊しようとした彼女に対し、彼女の唯一の話し相手であった施設の所長はこう言った。
――『その力は、“手”までに留めておいた方が良い』、と。
その意味するところを、彼女は一瞬で悟る。つまり、また腕を破壊すれば、もしかしたら、その“力”の発動条件が“手”以外に移る可能性があるということだ。
きれいさっぱり無くなるというよりも、ずっとあり得る話だけに、彼女は義手を破壊するのを思い止まったという。
もし“カラダで触れたモノ全て”や“見たモノ全て”といったような、現在よりもさらに凶悪な能力へ変貌するかもしれない。その恐怖は、彼女にあらゆる自傷行為を止めさせることになった。
今ではこうして、出来るだけ物の無い部屋で大人しく過ごすことが彼女なりの
そんな生活を生きていると言って良いのかは分からないが、とにかく彼女はまだ呼吸をしているし、食事だって摂っていた。
――いつか、誰かが私を救ってくれるのではないか。
そんな淡い希望だけを胸に、彼女は今も生きている。
――“あの人”みたいな人が、また私に生きる希望を与えてくれるんじゃないか。
自分にも何かが出来ると教えてくれる人。そんな人が過去に確かに存在していたという事実が、彼女にとって、残酷な現実への最後の希望だ。
――どうか、私を救ってください。
そんなある日の午後だった。
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