雪花

獅子内京

雪花

【2007年2月25日】


「ここですね。ちょうどこのあたりで亡くなってたって話です。ごく普通のサラリーマンだったらしいんですけどねえ……」


 そう言うと、男は口を一文字に結んで神妙そうな表情をしてみせた。かと思うとすぐに、いかにも重苦しい空気を変えたそうに明るい声で続ける。


「とはいえ一応ね、壁紙も変えてあるし、床もこの部分だけ傷ひとつないでしょう?しっかりその辺はね、ここのオーナーさんがしっかりしてるから。綺麗なもんですよ」


 その言葉のとおり、腰ほどの高さから頭の上あたりまでの、この部屋で唯一の窓がある一面の壁紙だけが、キャンバスみたいにさらりとして無表情だった。そして、窓の右下のあたり、射し込んでくる光がちょうど当たらない部屋の角のフローリングの一畳ほどだけが、明らかに新しくみえる木材にすげ替えられて覆われていた。

振り返ってキッチンへと続く部屋の反対側を見ると、その壁や床は築数十年の物件らしく若干日に焼けてくすんだ色をしている。沈んできた暖色の陽光が、久しぶりの来客で浮遊する埃をはっきりと照らし出していた。


「まあ築年数だけはそこそこ経っちゃってますけど、駅も近いですし、一階だけど日当たりもいいでしょう?それに水周りの設備は数年前にいちど全部入れ替えられてますから、最新式ですよ!」


 結婚式場にでもいるかのように嬉しそうな顔をした男をよそに、俺はゆっくりと視線を戻した。前の住人の死体があったという部分の取り繕ったような白さが、明るく清潔でありながら死の匂いを充満させている病院のイメージと重なった。そうだ、人死になんか病院では毎日のように起きていることだ。ただ、死を忘れて生きていかなければならない人間のために、病院も、この部屋の壁紙も、ただそれを覆い隠して白く明るいのだろう。

しかし時々、ここで死んだという前の住人のようにふらりと向こう側へと踏み切る人間がいるのだ。何故彼は死んだのだろうか。つい考え込んだ俺の顔を、男がのぞき込んだ。


「どうです?」


 俺は男の顔に目を向けて、その顔面に張りついた笑顔につじつまを合わせてやるように微笑んで応えてやる。もうすでに、俺の腹づもりは決まっていた。


「そうですね。うん、これくらいだったらやっぱり全然気にならないですよ。なんたって家賃も相場の半分くらいですもんね」


 男は我が意を得たという様子で首を縦に振り、改めて駅からの距離の近さや独立洗面台の素晴らしさについて演説を始めた。物件資料と目の前の光景を見れば分かる話だった。上滑りしていく男の声に苛立ちそうになった俺は、つい男の話を遮った。


「そうですね。ここに決めようと思います」


 ふいに話を遮られた男は不満を見せるでもなく、既に限界を超えていたかに思われた口角をさらに引っ張り上げて、心底嬉しそうな笑顔を作って見せた。しかしその目に一縷の哀れみのような色が溢れていることに俺は気がついていた。それが俺に向けられたものなのか、彼自身に向けられたものなのかはよく分からないが、どちらにせよ同じことだろう。


「そうですか!いや、本当にお目が高いというか、気にさえしなければこれ以上ないくらいの物件ですから。ただ、これから戻って契約するときには一応、こちらから説明を受けましたよ、という念書にサインを頂くことになりますので、ええ。本当に、ここは礼金もないですし、気にしなければお得ですからね……」


……


【2007年3月7日】


「じゃあ最後に、トラックの中にお客様の荷物が残ってないかだけ一緒に確認していただいて、作業完了のサインをいただくので、お願いします」


 引っ越し屋の男はそう言うと、軽く屈んで黒いゴム製のドアストッパーを外し、無造作にズボンの左ポケットに押し込んだ。俺は言われるがままに男についていく。俺の部屋は表通りから一本奥まったアパート前の砂利道の一番突き当たりのところだった。とはいってもこの小さな建物には一,二階を合わせて八部屋しかない。人間の生活を詰め込むのにもっとも適した単純な構造をしている。

 アパートの廊下は砂利道よりも一段だけ高くなっていて、男はその段差を跳ぶようにして下りた。引っ越し屋の2トントラックは部屋のすぐ目の前に止められていた。小さなアパートとそれを囲む住宅街の風景のなかで、それは異質な存在感を放っていた。のぞき込むと、大きく開いた荷台の奥に俺の荷物らしきものは何も残っておらず、引っ越し屋が家具を包むのに使ったクッション性のある布製の青い袋がいくつか立て掛けられているだけだった。


「荷物、大丈夫です」


「はい!じゃあ、こちらにサインをお願いします」


 流れるようなスムーズさで、男は俺にボールペンを渡して、サインを促した。彼のきびきびとした動きがそうであるように、この確認作業も義務的なものなのだろう。それでも男の顔は達成感に満ちていて、額には汗が光っていた。そこには嘘がないように思えた。俺は丁寧に礼を言って、その男と、アルバイトと思われるもう一人の若い男がトラックに乗り込むのを見送った。砂利をぱちぱちと弾く音を響かせながら、トラックは表通りへと去って行った。


……


【2007年3月15日】


「いやあ、いくら家賃安くてもわたしは無理だわあ。夜、なんか出たりしないの?」


「いいや、ぜんぜん。なんともなさすぎて拍子抜けした」


「へえ、そんなもんか。まあ住めば都っていうし、何もないなら家賃が安いだけお得ね」


「そういうこと。しかも、お花もついてくる」


「お花って?」


「それがさ、いつ来てんだか知らないけど、たぶん前の住人の家族か誰かが玄関の前にお供えの花を置いていくのよ」


「うわっ……柄にもなく家庭菜園でも始めたのかと思ったら、それはきついなあ……」


「うん、でもまあ、悪いことじゃないし、お供えされてるってことは幽霊も成仏しやすいだろうさ」


「いやあ、でもそれは精神的にきつくない?大家さんとかに相談して、やめてもらえないの?」


「まあ……正直言うと、怖いとかそういう気持ちよりも気分が重くなるわ。多分俺が仕事で部屋あけてる時間帯に置いていってるんだよね。見かけたことないし。まあ直接会っても止めてくださいとは言いにくいしなあ」


「私ならはっきり文句言うけどな」


「確かに言いそうだな。とりあえずはしばらく様子見て、いつまでも花置いていくようだったら管理会社にでも相談してみるよ」


「うん。そうしたほうがいいってマジで。縁起でもないじゃん」


「あ、そういえば、もうひとつ怖いことあったわ」


「なになに。ちょっとやめてよ」


「なんか掃除してたらクローゼットの隅の方に黒髪ロングの髪の毛が一本だけ落ちているのを見つけてしまった。前の住人は男って聞いてたのに」


「いや、それは別に……怖くないというか、あのね、君は知らないかもしれないけど、世の中にはおうちデートっていうのがあってね」


「いや、馬鹿にしすぎた。ていうかそうだ。それこそ今週末の飲み、うちでどう?」


「いやいやいや、君の部屋行くのは色んな意味で怖いから次の飲みもいつもの居酒屋でよろしく」


「色んな意味ってなんだよ。まあ飲めればどこでもいいけど。んじゃあ、また連絡するわ」


「はあい。おやすみね」


……


【2007年5月17日】


 玄関ドアの磨り硝子の向こうに、誰かがいる。昼前の白い陽光が、ドア前で何かしているらしいその人影の動きを、克明に映し出していた。何か物を置いたような低い音が、ドアの向こうから微かに響いてきた。

 前の住人の遺族だ。そう思った俺は咥えていた歯ブラシを急いでキッチンのシンクに放り捨て、歯磨き粉を吐き出して、口をすすぐ。真っ白な歯磨き粉の泡が水と混ざり合いながら、洗わないまま置かれていた茶碗やコップの脇をくぐって、暗い排水管の奥へと吸い込まれていった。2,3歩進み、玄関のドアノブに手をかける。磨り硝子の向こうでは、未だ黒い影が動いていた。俺はドアに体重を預けるようにして一気に押し開けた。


「うわっ、あ、すみません!」


野太い男の声だった。ドアに押しのけられて一度は後ろずさった人影が、すぐに開いたドアの隙間から顔を出した。青いストライプのシャツに青い帽子をかぶった、色黒の中年の男だった。


「ごめんなさい。ここの花瓶倒しちゃったんです。水は少しこぼれたけど、割れてはいないです」


男の足元に目をやると、花瓶の周囲のコンクリートには黒いシミが広がっていて、花瓶の側面についた水滴が春の陽光をこれでもかというくらい明るく反射している。


「ああ、それは別に。それより、宅配……ですか?」


拍子抜けしてしまった。男の足元には伝票の貼り付けられたダンボール箱が置いてある。段ボール箱の側面には、通販サイトのロゴが大きく印刷してあった。


「あ、はい!こちらのダンボール一個です。宛先に間違いがなかったらこちらに……」


男はダンボールをひょいと持ち上げて、胸ポケットに挿してあったボールペンをその上に乗せた。


「ああ、どうも、ありがとうございます」


俺は面食らいながらも伝票を手に取り、振り返って大きさの割にやけに軽いダンボール箱を廊下に置いた。


「ここにサインすればいいんですね」


「はい!ありがとうございます。またよろしくお願いします!」


 男は大きな声で礼を言って、慌ただしくドアの隙間の風景から消え去っていった。 俺は宅配トラックが砂利を踏みながら走り出す音を聞きながら、外から無遠慮に注いでくる日光を避けてドアを閉じた。外から入ってきた空気には湿気を含んだ土の匂いと、どこかで華々しく咲いているのだろう花の香りがほのかに漂っていた。


……


【2007年6月3日】


 がたり、とドアの向こうで物音がした。何か硬いものを床に置いたような音だった。ゴールデンウィークの真ん中に、俺は部屋の大掃除にいそしんでいた。ちょうどキッチンのフローリングの溝に溜まった油とホコリの塊を爪楊枝でほじくり返していた俺は、物音を察知して即座に立ち上がった。

 ドアの方に目をやる。磨り硝子の窓の向こうには、人影があった。その様子に、ぞくりと背中が冷える。ドアの向こうの人影は真っ黒で、俺の様子を伺っているように見えた。俺の様子、とはいっても、向こうからしたら俺の方も硝子越しの影にしか見えていないだろう。向こうの人影は少し左右に揺れながら、真正面にこちらを向いている。

 十秒ほどドア越しに向かい合っていただろうか。もしかしたらもっと短かったかもしれない。一定のリズムで左右に揺れていた人影が、急にこちらを覗き込むように細い磨り硝子の窓に顔を貼り付けた。

 ぼんやりとした影でしかなかったそれは、急にモザイクの掛かった人の顔として現れた。それは鳥の雛のように血の透けたような肌色で、ところどころ黒い皺が入っているように見えるが、磨り硝子のモザイクでぼやけていて判然としない。俺は思わず一歩、小さく後ろずさった。すると、遠ざかった俺を追いかけるように、顔は磨り硝子の細い窓に完全に密着した。2メートルほどの距離がありながら、モザイクの顔に浮かぶふたつの眼球の動きすらも、ハッキリと見て取ることができた。それはまるで、磨り硝子越しにこの部屋の全てを看取しようとするかのように、縦横無尽に動き回った。

 今体を動かせば、磨り硝子の向こうの相手に俺がいることをはっきりと悟られるだろう。体中に虫が這い回るかのような感覚が俺を襲った。俺は掃除に使っていた爪楊枝と洗剤のスプレーを持ったまま、モザイクの顔を直視し続けていた。しかし、またしばらくすると、顔はゆっくりと磨り硝子から離れていった。動き回っていたふたつの眼球もぼやけて、ひとつの黒い人影へと戻っていった。俺は全身から力が抜けていくのを感じた。というより、力が抜けて初めて、自分の体中に力が入っていたことに気がついた。

 小さく、しかし気を落ち着けるために意識的に息を吐き出す。顔は消えたが、人影は未だ玄関ドアの前で何かしているようだった。あの人影が、俺の部屋の前に花を置いていた人物に他ならないらしいことは、どうやら疑いようのないことだと思われた。今頃古くなった花を新しく取り替えるかなにかしているところだろう。ドアの向こうからはゴソゴソとそれらしい音がかすかに聞こえてくる。

 俺は、無性に腹が立ってきていた。爪楊枝と洗剤を静かにキッチンのシンクに置いて、ドアの方へにじり寄る。これまで、花が置かれることは許容してきた。事故物件であるということは知っていたし、悪意のために花が置かれているのではないということは理解していたからだ。しかし、さっきのは一体なんだ。そいつは、わざわざ部屋の中を覗き見るようなことをしていた。これまで花を置いてきた際にも、俺が見ていない間にああやって部屋の中を覗いていたんだろうか。

 顔が熱くなって、体中の毛穴が開く。それでいて俺は恐怖に鷲掴みにされた冷たい心臓の拍動を感じていた。しかし、そろそろはっきりと言ってやらなければならない。既に前の住人は死んだのだ。生きて、ここで生活している俺が脅かされるいわれなどない。玄関の床に転がっている靴の中から、サンダルを足で探りつつ履いて、俺は勢いよく玄関のドアを開けた。


……


【2007年6月7日】


「うわあ、だから言ったじゃん。事故物件にはやっぱりそれなりの理由があるんだって」


「まあ……そうだなあ」


「それでそれで、はっきり言ってやったんでしょう?ご遺族さんに。どんな人だった?」


「まあな。前の住人のお母さんだったらしい。普通のおばさん、というかお婆ちゃんだったよ」


「やっぱり親御さんかあ。揉めたりしなかった?」


「いや、揉めなかったよ。花のことを口に出した瞬間に、すみません、すみませんってすごい勢いで謝られてさ。なんか部屋を覗いていたのも新しい住人が入ったのかどうかを確認したかったらしくて。そう言われたら文句も言えないしな」


「ああ……なんか普通に常識はあるっぽいね。事故物件だし、ホラーかと思ったけど。いや、マジで変な人じゃなくてよかったね」


「ん~、でもなんか変なこともあるっちゃある」


「変なことって?」


「いや、なんか謝られると同時にお礼を言われたのよ。ありがとうございます。ご迷惑おかけしましたって」


「お礼?なんで?」


「うん。なんかその婆さんが言うには、たまに自分が供えてないはずの花が増えていたり、花瓶の水が綺麗になっていたり、ってことがあったらしい」


「えっ、君がやったわけじゃないんだよね?」


「当たり前。それで俺もそう言ったんだよ。俺はお花には触ってないですよって。そしたらさ、向こうの方がなんか驚いちゃっててさ。大家さんかしら、とか言ってるのよ。なんか婆さんの知るかぎりでは、前の住人は仕事でここに引っ越して来てわりとすぐに死んじゃったらしくてさ、地元ならともかく、わざわざこの部屋に花を供えてくれるような友達とかそういう人は思い当たらないってさ」


「ほう……」


「なんだよ、ほうって」


「いや、やっぱりホラーなのかと思ったけど、それはそのお婆さんの言うとおり大家さんとか、もしかしたらお婆さんの知らなかった故人さんの友達とかなんじゃないの」


「まあ、そうだと思うわ」


「うんうん。でもそれって、お婆さんからのお花攻撃は止まっても、その誰かさんからはまだ続く可能性があるってわけ?」


「ああ……それなんだけど、婆さんの方からも一年忌まではお供えさせてくれないかって言われて……」


「えっ、まさか許したの?」


「いや、断れねえよ……婆さんからしたら息子が亡くなった部屋なんだし。母親の私くらいは息子をしっかり供養してやりたいんですって目の前で言われてみろよ」


「お人好しだなあ。でも仕方がないか。じゃあ来年までお花攻撃は続くのね……」


「でも部屋を覗くのはやめてくれとか、玄関周りを汚さないように気をつけてくれとか、色々言いたいことは言ったし、何よりお花攻撃の正体は分かったからだいぶ気は楽になったわ」


「そういうもんかあ。まあ、そうね。正体がわかれば別に不気味でもないし、もうあんまり気にせずに過ごした方が精神的にもよさそうね」


「うん。そうするつもり」


「よし!じゃあ、続きはまた週末ね。いつもの居酒屋で」


「またあそこかよ。あんまり気にせずうちに飲みに来いよ」


「いや、私は気にするから。お花攻撃もまだ続くらしいし?」


「婆さんの頼み、断ればよかったわ。じゃあまた週末な」


……


【2007年8月14日】


 ふいにインターフォンが鳴った。有給を駆使して勝ち取った夏休みで、俺は昼間っから酒を飲んでいた。適当にかけていたラジオから流れるJPOPのリズムに合わせて、勢いよくソファから立ち上がる。


「はーい!今行きまーす……」


飲みすぎたのか、寝ぼけていたためか、思っていたよりも大きな声が出た。ふらふらとしながらも、床に散らばったペットボトルやゴミ袋を跨いで玄関にたどり着く。ほとんどもたれかかりながらドアを開けた。

 見知らぬ女が立っていた。フライパンの上にいるみたいな熱気が、エアコンで冷やされた俺の部屋に一気に入ってくる。女の背丈は俺の胸くらいまでしかなく、長い黒髪を後ろでゆるく結んでいて、細い金属のフレームでできた眼鏡をかけている。パステルの地味なシャツワンピースから伸びる手足の色は白く、透き通った色をしている。

 知り合いだったろうか、と考えながら顔に目をやると、めったにないほど切れ長の綺麗な目で、唇も薄く形が良い。しかし鼻だけは少しずんぐりとしていて、やけにそれが目立った。洗練されたような、芋臭いような、どちらともつかない見た目だった。

 幼気のある柔和な雰囲気をまとっていたが、それでいて表情だけはやけに冷めたような大人びた気色をしていて、真夏だというのに彼女だけが別の季節にいるみたいに涼し気だった。


「あの〜……?」


「あ……すみません。部屋を間違えたみたいです」


想像よりも低い落ち着いた声で、彼女はそう言った。見た目はともかく、実際のところは20代半ばから30手前といったところだろう。


「本当に、申し訳ありません」


噛みしめるように、彼女は俯きながら軽く頭を下げた。


「いえ……」


滅多にないことに驚きながらも、俺まで釣られて頭を下げる。用件は済んだ、というかそもそも用件はないのだが、俺はなんとなくドアを開いたまま彼女をまじまじと見つめていた。頭を上げた彼女の方も、俺の胸のあたりをじっと眺めている様子だった。その少しの間だけ、蝉の鳴き声が止んでいた。


「お花、綺麗ですね」


さっきよりも幾分高く、うわずったような声でまた、彼女の声が響いた。静寂が破られて、蝉の声がまた騒々しく鳴り始めた。何のことかと思って彼女の視線を追うと、どうやら前の住人への供花のことを言っているようだった。最近では、花のことなどほとんど忘れて生活していた。


「ああ、ありがとうございます。でもそれは別に俺が好きで置いているわけじゃないんです……」


言ってしまってからすぐに、しまった、と思った。久々に花のことを意識してしまったためか、声に棘が含まれてしまったことに自分でも気がついたからだ。


「そうですか……」


花から視線を上げて彼女を見てみると、案の定彼女は少し動揺したように軽く目を見開いていた。涼しげだったはずの彼女の首には汗がひとすじ伝っていて、それは静かに襟の中へと続いていた。

 綺麗だと言われたのだから、適当に礼を言うだけで済ませればよかったのだ。俺にはそういうところがある。喋ってしまった一瞬の後には、既に喋ったことを後悔しているのだ。お互いに心中で言い訳をしているような微妙な間があいて、彼女は慌てた様子で続ける。


「そうですよね。お邪魔してごめんなさい。じゃあ私はこれで」


もう一度、深々と頭を下げて彼女は踵を返し、表の方へと歩いて行ってしまった。やはり悪い気にさせてしまったかもしれない。酔っているせいか、やけに重たい罪悪感が胸を刺した。

 せっかくエアコンで冷やした部屋の空気は、少しドアを開けているあいだに全部抜けて行ってしまったように思われた。預けていた体重を戻してドアを閉じようとすると、向かいに並ぶ住宅の屋根の上に、夏の盛りらしい大きな積乱雲が目に入った。なんだか無性に懐かしい気持ちが湧き上がってくる。閉じかけていたドアをもう一度押し開いて広く空を眺めると、幾つかの大きな雲のその向こうに、ちぎれちぎれの灰色がかった薄い雲が流れていた。大きく息を吸い込むと、地と風と、あらゆる生物たちが熱を反射し合う、夏の匂いがした。


……


【2007年10月25日】


「そういえばこの前また、婆さんに出くわしちゃってさ」


「婆さんって?」


「前の住人のご遺族さん」


「ああ、お花攻撃のお婆さんね。そういえばまだお供え続いているんだよね?」


「うん。まあ既に慣れたもんでほとんど気にせずに過ごしてるけど」


「それで、お婆さんと何か話したの」


「それがさ、寒いしさっさと挨拶だけして、部屋に入っちゃおうと思ったんだけどさ……」


「なに、押し入られた?」


「まさか。なんかね、婆さん以外にもお供えしている人がいるかもっていう話したの覚えてる?」


「なんとなく。誰かわかんないんだっけ」


「そう。その人が最近はもう来ていないみたいですって婆さんが言ってた。それで俺にその人を見かけなかったかって。挨拶したかったらしいわ。まあ知らないって答えるしかなかったけど」


「へえ。まあ半年とか?経ったからいい加減お供えはやめたんでしょ。お婆さんの方はよく続けるよねえ」


「まあ、実の息子となると仕方がないんじゃないかな」


「ふうん、じゃあまだしばらくは君の部屋で飲むことはできなさそうね」


「別に来たっていいだろ」


「いやだよ。なんとなく」


「まあ無理にとは言わないけど」


「うーん……じゃあ、代わりに今週末は私の部屋で飲もう」


「えっ、お邪魔しちゃっていいんですか」


「いいよ。特別に許可する。いつものとこ、先週飲んだとき暖房弱すぎてめちゃくちゃ寒かったし」


「確かに。そうだな、うん。じゃあお言葉に甘えてお邪魔するわ」


「うん。週末ね」


「おう。じゃあ、また」


……


【2008年2月2日】


 2月に入ると正月気分がようやく抜けてきて、ぼんやりとして重くなっていた体が外の寒さになれてきた。ベッドに入る直前に翌日が資源ごみの日であることを思い出した俺は、この機を逃すまいと段ボール箱を片手に玄関ドアの前で腰をおろす。怠けて放置していた郵便受けが紙類でいっぱいになっていた。

 遅れに遅れてきた甥っ子からの年賀状と分厚い市報、近所のピザ屋のクーポン券と水道屋のマグネット広告、そんなものに混ざって、一通の封筒が入っていた。必要なものは床へ、不必要なものはダンボールへと投げ捨てていた俺は、手を止めた。封筒の表には「お住まいの方へ」と書かれており、右側に小さく「八重樫」と署名されていた。思い当たる節のない手紙ほど、気にかかるものはない。ハサミを持ってくるのももどかしく、そのまま床に座り込んで封筒を破いた。


「年の始めに、このような形で突然お手紙を残していくことをお許しください。八重樫と申します。何度かお会いする機会がございましたが、前にこの部屋に住んでいた者の母です。これまで、私の我侭のせいで大変なご迷惑をおかけいたしました。貴方様からしたらご気分が悪かったに違いないのにも関わらず、息子へ花を供えることをお許しいただき、ありがとうございました。お陰様で無事に一周忌も済みましたので、お約束どおりこれ以降お供えをさせていただくことはございません。この手紙を郵便ポストに投函させていただく際に、花瓶の方も引き取らせていただきました。改めまして、この一年間ご不快な思いを続けさせてしまったことについてお詫び申し上げるとともに、息子への弔いとして花を供えることをお許しくださった寛大な御心に感謝申し上げます。」


 お世辞にも達筆とは言えない線の震えた文字ではあったが、丁寧に手書きで書かれた手紙だった。俺はしばらく床に座ったまま、ぼんやりと郵便受けの扉を眺めていた。俺は玄関の前に供えられた花のことなど、最近ではほとんど気にしていなかった。というか、その存在すら忘れていたくらいだ。

 思い立って腰を上げる。床に散らばった紙類を踏みつけながらサンダルをつっかけてドアを開くと、途端に冷たい風が吹き込んできて、思わず息が詰まる。いつも花瓶があったあたりに目を落とすと、そこにはすっかり何もなくなっていた。八重樫という前の住人の母親が、掃き掃除でもしていってくれたのだろう。落ち葉の欠片や、土埃のひとつもないコンクリートは完全に無表情だった。

 また冷たい風が吹いて、俺は身をすくませた。ほんの少しの爽快感と、何か茫漠とした虚しさが胸を覆っていた。そして、次に小さな罪悪感が胸を刺した。最初は不気味で仕方がなかった供花のことを俺はすっかり忘れていて、それでもいつの間にかそこにあることを当たり前に思っていた。

 あの母親は、息子が死んでからこれまで、いつも花が枯れてしまわぬうちにここへ通ってきて花を差し替えていたのだ。以前、息子は仕事のためにこの部屋へ越して来た、とあの母親は言っていた。ということは、あの母親の住むところもここから近くはなかったのではないだろうか。

 部屋に流れ込む冷気のように、誰かの悲しみが胸に入り込んでくるような気がした。廊下へ出て、後ろ手にドアを閉じると、暗くて、静かな夜の空気が俺の周囲に立ち込めていた。ゆっくりとしゃがみ込んで、いつも花瓶があったコンクリートの白い床を撫でてみる。ざらざらとして、驚くほどに冷たかった。すぐに立ち上がる気にもならずに、俺はしばらくそこにしゃがみ込んでいた。

 ふと、ここに供えられた花を「綺麗ですね」と言った、女のことを俺は思い出していた。この部屋で死んだ息子のために母親が供えて、萎れる前に取り替えられていったあの花々は綺麗だったのだろうか。どんな色の、どんな形の花が供えられていたのかすらも、ほとんど俺の記憶には残っていない。


「それでも……ここに……」


 何を言うともなく、声もない俺の小さな呟きは、白い息になって冬の空気に溶け込んでいった。ゆっくりと立ち上がり、廊下を少し歩いて表の砂利道まで出てみた。耳鳴りがするくらいの静けさの中、俺が踏んだ砂利の音だけが響いて、またすぐに静けさのなかに吸い込まれていく。この世界に俺だけが息づいているみたいだった。

 ふと見上げると、黒く透き通った空から、ひとつ、ふたつと、雪が降ってきた。ひとつ、手で受け止めると、小さな雪片は瞬く間にじわりと溶けて俺の手を濡らした。


                <了>

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