原点に立ち返るという名目でお茶を濁す回

 最後に更新したのがいつだったか。


 毎度お久しぶりです、戸松です。


 前回は1週、今回は3週間ぶりの更新となります。次は4週間後でしょうか。


 最初に報告しておくと、進捗はゼロです。相変わらず小説について考えるだけ考えて具体的な作業は何もしてません。


 それならそれで何かしら書くことがあるだろうという話なのですが、これが堂々巡りのような内容で、けっきょくは自分の原点に立ち返りスタンスを再確認するに留まっているのが現状です。

 起動が遅いパソコンをイメージしてください。あんな感じです。CPUをフル稼働させてようやく準備が整い、ようやく作業に取りかかれるのです。

 更新プログラムがあるわけではありません。何かが変わるわけではありません。それでも重い。時間がかかる。

 スペックが不十分なのでWindows11にもアップグレードできません。いい加減買い替え時だろうとパソコンを新調しました。ウマ娘もぬるぬるさくさくです。って、これは何の話なんでしょう。いつからたとえ話をしていると錯覚していた……?



●原点


 けっきょく考えたのは何かというと、わかりやすい話は書けないなあということです。


 何が真実なのか、何が正しいのか。


 そんなものを堂々と示せるだけの人間力があるならいざ知らず、思いつくのは、辛うじて筋は通るものの現実味に乏しい真実であり正義だけです。


 それをそのまま示したところで説得力など得られるはずもなく、あの手この手を駆使して見せ方を工夫することになるのですが、それだけ作品は複雑になり難解になります。


 技巧が技巧倒れにならないよう必然性を与える作業こそクリエイティブだ、というのがモットーではあるのですけど、その必然性がどこまで伝わるかというと怪しいところです。


 別に伝わらなくてもいい、作者に何らかの確信があることが重要なのだ、とは思うのですけど、これはおそらく読者戸松秋茄子の嗜好を前提とした話で、わかりづらい話というのはわたしが思う以上に支持を得づらい気がしているのです。


 説得力などなくてもご都合主義の気持ちよさで押し通してしまえばいい、という考え方の方が読者も作者もハッピーになれるのでしょう。つまり、作者がそれを受け入れるのならば。それができない以上、机上の空論なので考えてもしょうがないのですが。


 なんでしょうね。ちょっと楽しい創作、ハッピーな創作みたいなものを意識すればするほど興醒めしてしまうんです。自分で立てた構想でも、ここエモいよねとか、このキャラが好きみたいな発想では興味が取り戻せない。本当にそんなものを描きたかったのか? と自問したくなる。


 今月の上旬はまさにそんな感じだったんですけど、あるときふと気づいたんです。そうじゃないだろうと。自分が描きたいのは、表現したいのはそんなものじゃないと。

 言葉通りじゃないもの。

 文章そのものではなく作品の構造によって表現されるもの。そこに関心があったはずだと。


 何を書くかじゃない。どう書くか。これが自分の関心ごとであり、それこそが自分が持ちうる最も雄弁な表現手段だろうと。


 つまるところ、自分の趣味があんまりにわかりづらくつかみどころがないので自分でも思い出すのに時間がかかるという話です。プロットの行間を読まないといけません。悪しき察して文化です。困ったものですね。

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