サークルの姫を抱いてしまった女の話
4kaえんぴつ
第1話
炭火と油、レモンと酒の匂いが席に充満する。仕事帰りの労働者たちがグラスやジョッキを交わす音、談笑や爆笑が居酒屋に響き渡っていた。
そんな居酒屋の一角に十数名の若い男女が居た。それなりに騒がしいものの、居酒屋という場を考慮すると、寧ろ行儀がいいくらいの集まりであった。
「それにしても、畑野がこういう集まりに来るとはな!」
集団の一人、髪を茶髪に染めた地味な顔立ちの青年が、一人の女を指で示して笑う。既に席について大分の時間が経過しているからか、顔は真っ赤だ。そんな彼に名を呼ばれた女――畑野は、青年からの言葉を鬱陶しく思いながら眉を寄せ、「私?」と吐き捨てる。畑野もまた、それなりに酒が回っているようで、顔がほんのりと染まっている。
肩にかかる程度の長さの黒髪と、シックな服装。可愛らしく着飾ることはしないものの、最低限の身だしなみを整える、そんな二十一歳の女であった。
「そう、お前! お高く止まってんのか知らねえけどさあ、普段はこういう集まり来ないじゃん! 何? 今日はどういう風の吹き回しで来た訳?」
疑問に感じたのなら素直に聞けばいいものを、口が悪く、相手の感情を考慮せずに話す。人のことを言えた立場ではないが、畑野は彼のそういうところが嫌いだった。この大学の文芸同好会という日陰者の集まりの中では、二番目に嫌いだ。
「そもそも『文芸同好会』が週一で酒を飲み交わす意味が分からない」
「出たー! まーたお高く止まっちゃってえ! そういう大口はプロになってからにしろよな! ワナビちゃーん」
青年はけらけらと笑いながら酒を呷り、周囲は愛想笑いをしたり嗜めたりする。いつものことで、当の畑野がそんな彼の言葉に躍起になることもなく、溜息で聞き流しているから、周囲もそう深くは咎めようとしない。しかし、今日はいつもと少しだけ違った。
「やめろよ飯塚。今日は俺が呼んだんだ――つい三日前に小説公募の締め切りがあってな。俺も彼女も投稿してたから、お互いに労おうという意図で呼んだ」
そんな青年こと飯塚を制止したのは、座席の中心の方で苦笑を浮かべる綺麗な顔立ちの男性だ。この同好会の中どころか、一日中渋谷駅に張り付いてようやく見つかるかといった具合の美形で、彼を目当てに入会する女子も少なくない。「志島が言うならしょーがないか!」と、先程まで喚いていた飯塚は、彼の制止に言い返すことはできず、黙る。
本当にどうしようもないことに、カーストなんてものは十数名の集団でも構築される。比類なきトップは言うまでもなく志島であり、彼の言葉はこの集団の中では正義だった。
「悪いな畑野、本当はもう少し作品の話とかしたかったんだけど」
「いいわ、別に。次は来ないだけだから」
畑野は苛立ち混じりに吐き捨て、志島は申し訳なさそうに苦笑するだけだった。
「えー、志島さんってプロデビューしてるんですよね? ああいう新人賞って、アマチュアの人が投稿するものなんじゃないんですかぁ?」
そんなとき、肩を露出させる服装をした、整った顔立ちの小柄な女子が、志島に甘えた声を出す。名前を篠宮といい、彼女もまた、志島に負けず劣らずの美形だ。
美しいというより、可愛らしいと言うべきか。
栗色の髪を肩先まで伸ばし、綺麗な黒瞳は上目でしかモノを見ない。そんな彼女が、ほんのりと赤く染まった顔で、上目遣いに彼に語り掛ける。ここぞとばかりに、狙ったように志島との会話を試みる彼女を、他の女子数人は疎ましそうに見た。
志島――彼は、若くしてミステリー小説の大御所出版社開催の新人賞に受賞し、学生作家として脚光を浴びた、天才作家だ。その卓越した文章や緻密なトリックの構成で、本屋大賞まで獲得している。正直なところ、畑野も彼が羨ましいし、彼を尊敬していた。
「ああ、中にはアマチュア限定の公募もあるよ。でも、出版社によって色々方向性が違ったり、売れなくなったり――そんな理由でよそに行く人も居るから、プロでも募集を受け付けているところがほとんどなんだ。俺も、好きな作風を通せる場所に挑戦してる」
「へぇー! 志島さんって向上心高いんですね! 憧れちゃうなぁ」
女子――中でも飛びぬけて顔の良い篠宮の甘えた声に、さしもの志島も相好が緩む。そんな篠宮の抜け駆けのような行動を周囲の女子は苛立ち混じりに見て、飯塚ほか数名の男子は隙を見て篠宮に声を掛けようとしている。
そんな様を俯瞰して眺め、畑野はため息をこぼす。
この大学の『文芸同好会』は、実に三つのグループで構成されている。
まず、畑野や志島といった、小説を書いたり読んだりと、文字通りに文芸に触れる者。
次に、篠宮やその他女子のように、志島を狙いに来た者。
最後に、飯塚のようにそんな女子たちを狙いに来た者。
そう頭の中で整理した途端、畑野は思わず吹き出すように笑ってしまう。しかし、乾いた笑いしか出てこなかった――こんな文芸同好会を疎ましく思う反面で、畑野は創作活動に関して志島から学べることも多いだろうと、それでも在籍を続けていた。しかし、実際のところはただの大学生の交流サークルに過ぎなかった。別に、色恋沙汰に一切の興味が無いわけではないが、結果は出ずとも真剣に取り組んでいる事柄に、そういった事情を持ち出されるのは少々疎ましかった。
「私、ちょっと飲みすぎちゃったかも……」
篠宮が赤く染めた顔で上目に志島を見る。誰の目にも、きっと志島自身も理解しているだろうが、露骨だ。しかし、腹が立つことに、それを理解しても尚、『それでもいいか』と思わせるだけの蠱惑的な魅力が彼女にはあった。悪い女である――余談だが、この形骸化しつつある文芸同好会の中で、飯塚よりも嫌いな人物が彼女である。
色男に媚を売るだとか、そんなことはどうでもいい。しかし、彼女は類稀な美貌を持ちながら、その癖、ただのしがないサークルで男を誘惑する程度のことしかしようとしない。
ルサンチマンのようなものかもしれない。平々凡々、努力して少しだけ報われて、そうして生きてきた畑野にとって、彼女のように持ち前のモノで戦わない人間は、酷く羨ましく、妬ましかった。だから、彼女は悪い人間ではないのだろうけど、嫌いだ。
ああいった人間が、世界で一番嫌いだった。
呷ったレモンサワーに、少しだけ苦みを感じた。
それから一時間ほど経過して、二十二時ごろ。ようやく飲み会はお開きとなった。
面々はそれぞれの帰路を辿って、また明日に備えて眠る。一日の消化試合とも言える夜を平和に過ごすはずだったところ、爆弾が投下された。
それは、篠宮の一言だった。
「ごめんなさい、少し飲みすぎちゃって……誰か送ってくださいませんか?」
篠宮は真っ赤に染めた顔と潤んだ瞳で、志島に寄り添うように彼を上目遣いに見た。家でゴキブリでも見付けた時のようなおぞましい表情を浮かべる同好会の面々――正確には、凄絶な怒気と嫌悪感を隠そうともしない女性陣には近寄りがたかった。
反面、鈍い男性陣の数名は素っ気なさを装いながらも耳を傾け、隙あらば送り狼にでもなろうかと画策していることが明らかだった。当の志島は、申し訳なさそうに手を合わせる。
「あー、ごめん。俺はこの後、地元の友達と会う約束していて……」
そう詫びる志島に、篠宮は眉根を微かに震わせ、露骨に不服そうな顔をする。しかし、数秒としないうちに笑みを浮かべて「そうですか、残念です……」と肩を落とす。それから、捨てられた子猫のような顔で男性陣を流し目で見て、寂しそうな顔を作った。
「お、俺でよかったら送っていくよ!」
「いや、俺タクシーで帰ろうと思ってたから、ちょうどいいかも!」
「子供じゃないんだから一人で帰れるでしょ。だよね、篠宮さん?」
おぞましい光景であった。沸き立つ男性陣と不服そうな女性陣が、アピールと牽制を繰り返す。付き合いきれない、と畑野はそんな光景を尻目に駅へと向かおうとするも、地獄の汚泥に咲いた志島という蓮の花が、場を宥める。
「ま、まあまあ! 確かに少し飲み過ぎていたみたいだし、こんな時間だ。若い女の子が泥酔したまま帰るのは危ないかもしれない――畑野、頼めるか?」
不意打ち気味に飛んできた白羽の矢が、畑野の側頭部をぶち抜いた。
思わず立ち止まって振り返ると、同様に信じられないと言いたげな表情を浮かべる篠宮と視線が交わった。互いに別世界の別の思想を持ち合わせた相容れない両者だと考えていたが、この瞬間だけは完全に思想が合致していた。
「なんで私が」
額に手を当てて吐き捨てる畑野だったが、志島が申し訳なさそうに手を合わせる。
「分かるだろ? この場ではお前しか居ない」
分かるに決まっている、彼は善人だ。少なくとも、本人が誰かに送ってもらいたいという願望を提示した以上はそれを肯定し、しかし男性が送ることによる過ちの発生には否定的だ。特に、彼女が泥酔しているのは本当で、意に沿わない出来事があれば問題だろう。
女性陣は間違っても彼女の為に動かないだろうし、そうなれば必然的に、動けるのは畑野だけであった。どうにも都合よく動かされているような気がしないでもないが、畑野とて、血の色は赤いし、血は温かい。彼女が問題に巻き込まれるのは不快だ。
「は、畑野だって面倒くさいだろ!? 俺が行くよ!」
場の空気を読まずに介入してくるのは、地味な顔立ちの飯塚である。そうだよな、そう言えよと言いたげな視線で畑野を見てくるのだが、大きく膨れ上がった股間と充血した眼球、欲望を隠そうともしない表情は少々不安で、ここで断れば彼が連れ帰る大義名分ができるかと考えると、断るのは難しかった。
篠宮は「えー」だとか「あー」だとか、畑野のエスコートを断る文句を探しているが、酔っているのは本当らしく、呂律も回らなければ頭も回らず、言葉は出てこない。酔っているのはこちらも同じだが、いい気なものである。
「分かった、分かった――私が送り返すから。さっさと解散するわよ」
少なくとも送り狼の中に赤ずきんを放り投げては寝覚めが悪い。渋々と承諾をすると、多種多様な反応が返ってきた。中でも最も善良な安堵の表情を見せた志島は、「悪い。今度、添削とか付き合うから」と手を合わせてきて、畑野は少しだけ、溜息を短くした。
確執の残りかねない形で解散した後、畑野は篠宮の腕を掴みながら駅へと向かう。両者の表情は非常に不服そうで、誰も得をしない結果となった。
「最悪ですよ、なんで畑野先輩なんですか……」
「そういうのは陰で言いなさい。送ってやってんだから」
「陰で言ったら陰口じゃないですか」
「面と向かったら悪口なのよ」
本性を隠そうともせず、非常に不服そうな真っ赤な顔で文句を垂れる篠宮。彼女の足取りは確かに覚束なく、酔ったふりで男に送らせる、という器用な真似ができない人物だということを、出会って数か月目にして初めて知った。
「志島さんがよかったぁ……そうでなくとも男の人がよかったぁ」
唇を尖らせ、ぶつぶつと文句を言い始める。これが本性とは、あざとい姿が演技だったのだと確信を得た畑野は、溜息混じりに愚痴に付き合う。
「そんだけ面が良いんだから、男なんて選り取り見取りでしょ」
「……別に、男の人が好きな訳じゃありませんよ?」
「は?」
意味が分からず眉を寄せる畑野に、篠宮が赤い顔でへらへら笑いながら呟く。
「『酔った可愛い女の子を送る』っていうのは、私の可愛さを認めてくれてるってことじゃないですか。で、男の人がそうすると、女の人は私に嫉妬するじゃないですか」
「まあ、そのせいでさっきは地獄だったけど」
「嫉妬は、羨望ですよ。私を認めてるようなもんです」
ふふん、とどこか誇らしそうに言う彼女。彼女がどうしてそんなものにこだわるかはともかく、言っている言葉には理があった。確かに、近寄りたいという欲求も、男にチヤホヤされる人物に嫉妬する感情も、ひいてはその人物の能力や現状を評価することだろう。
「だから先輩が嫌いなんですよ。私を好きじゃないのに嫌いじゃない――世界一ですよ。たぶん、世界で一番私は先輩が嫌いかもです」
「あっそ、よかったよかった。私もアンタが世界で一番嫌いだから」
酔っぱらいの戯言に付き合っても仕方が無い、と畑野は軽口を叩く。
「あー! 悪口言った!」
小学生の子供のような物言いを聞き流し、畑野は掴んだ腕を離したくなる衝動に駆られる。しかし、ガードレールを越えて倒れでもしようものなら、夢にでも出てきかねない。鬱陶しく感じながらも彼女を引き摺って駅まで歩いていく。
「で、駅は?」
「立川です」
「はぁ!?」
畑野はスマートフォンを取り出して時刻を確かめ、「正反対じゃないの」と舌打ち混じりに呟く。ここから立川まで行き、それから来た道を戻るように自宅へ――生憎と、田舎だ。間違いなく終電には間に合わない。
「終電無くなるから、後は自分で帰りなさい」
「えー!? 無責任! そういう時はタクシー使ってでも送り返してくらさい!」
既に言葉尻も呂律が怪しかったが、覚束ない足取り、閉じかかった瞳、寝過ごすくらいならともかく、駅から自宅までの帰路で何かがあっても面倒だ。タクシーで送り返すなんてリッチなことはできないが、見捨てるのも憚られた。
「節度を持って飲め」
苛立ち混じりに説教をするも、「男の人はちゃんと送ってくれますから。身体目当ての人も居ますけど、別に構いませんし」と、へらへら笑いながら答えた。しかし、表情はともかく、その言葉の内容は笑えない。性に奔放というよりも、まるで他者に求められる行為にこそ意義や価値を見出すような生き様が、危うく、不快だった。
畑野はガシガシと頭を掻いて、力強く溜息を吐いた。
「……今日は私の家に泊まっていきなさい」
「えー!? 先輩の家!? 変な病気になりそう!」
一億歩の譲歩にも関わらず、不服そうな篠宮。その栗色の髪を引きちぎってやりたい衝動に駆られるが、篠宮は深く長い嘆息の後に、肩を竦めた。
「……まあ、仕方が無いんで泊まってあげます」
自宅に帰った頃には、既に日付も変わろうかという時間帯だった。
バイトをしながら一人暮らししている畑野のアパートに辿り着く頃には、既に篠宮の意識も途切れかけていた。ベッドやソファ、テーブルが纏めて置いてある安いワンルームに、半ば背負うような姿勢で彼女を運んだ畑野は、「ごくろう」と夢心地に呟く篠宮を荒い呼吸と殺意に満ちた瞳で睨む。殺してやろうか、この女。
とはいえ、ここで殺めては骨折り損である、と、畑野は死に物狂いで彼女の華奢な体躯を自身のベッドに放り投げ、「きゃん」と可愛らしく鳴く彼女に唾を吐く。真っ赤な顔で純白の枕に頬を埋める彼女は、それ以上言葉を交わすこともなく、熟睡の姿勢を取り始めた。
もはや聞いているかも定かではないが、言うべきことだけ済ませて自分も寝よう、と、同じく酔いの深い畑野は、瞳を瞑る彼女に告げる。
「私は明日講義があるから、私が家を出る前に起きなさい」
「んー」
「あと、クリーニング費用は追って請求する。アンタの使ったベッドで寝たくない」
「ういうい」
「最後に、私はソファで寝るから有難く思いなさい」
「えあー」
人間の発する言語ではなくなりつつあったが、眠気が酷かった畑野は怒る気力も湧かず、寝息を立て始める彼女を見て、自分も寝ようと意識を切り替えた。周期的な寝息を立てる彼女に、秋風で風邪をひかれても厄介だと、掛布団を放り投げた畑野は、近くのブランケットを担ぐようにしてソファに倒れ、リモコンで部屋の照明を消した。
最初に感じたのは、自分のものとは違う誰かの吐息だ。自身の肺の動きとズレた呼吸音に違和感を覚え、次いで、自分の知らないシャンプーの香りが鼻孔を突いた。最後に、カーテンの隙間から届く陽光が朝を訴えたから、畑野はようやく目を覚ます。
そして、視界に広がる篠宮の寝顔を目の当たりにして、一気に眠気が覚めた。
「――は?」
数秒、脳が理解という作業を拒んだので、何を考えることもできずに疑念を呟くだけだった。しかし、しばらくして、昨日の夜は篠宮を連れて帰ったのだということを漠然と思い出す。二日酔いの頭痛に苛まれながら、それで彼女と一緒のベッドに寝ているのかと得心する。
得心しかけて、踏み止まった。いや、自分はソファで寝たではないか。
そう思いながら恐る恐ると身を起こそうとした畑野は、途端、肌寒さに身を抱く。そして、己が一糸纏わぬ裸体であることを遅れて認識した。
嫌な汗が首筋を伝い、現実逃避に珈琲を淹れに行こうとする。しかし、事実の追及は必要だろうと、畑野は恐る恐る、掛布団に隠れた篠宮の身体を覗く。
彼女もまた、素っ裸であった。気付いて、まずい、と動悸が激しくなる。
真っ先に考えたのは自己弁護で、「どっちだ」と誰にでもなく震える声で呟き、しかし、ソファで寝ていた筈の自分がベッドに来ていることからも、寝込みを襲った人物は明白で――速やかな証拠隠滅をするべきだと理性が叫ぶ。先ずは彼女に服を着せて、自分も服を着て。後はどうすればいいのか、そんなことを焦燥と共に考え始めた時、「ん」と篠宮のくぐもった声が畑野の鼓膜を叩く。
彼女は枕に顔を埋め、その綺麗な手でシーツを握り、掛布団をかぶり直した数秒後、何かを思い出したようにぼんやりと目を開いた。焦点の合わない彼女の瞳が、冷や汗を流す裸体の畑野を捉え、数秒、硬直した。
そして先程の焼き直しのように、一瞬で目を見開いた篠宮は、それから何かを確かめるように手を掛布団の中で動かし、下腹部をまさぐるような動きを見せた。自身も裸体であることに気付いた篠宮は戸惑った様子で畑野を見て、そっと、困惑を口にした。
「……え?」
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