5-4 かわいいは正義、ふしぎだいすき

「まもるぅ、こんな面白いこと、なんで話してくれなかったのよぅ!! かわいいは正義! ふしぎだいすき!」

 姉は目をきらきらさせて方違さんに顔を近づけた。

「くるりちゃん! 月曜お休みの時、またお姉さんと遊ぼうね! こいつはほっといて」

「えと、あの……」

「女の子同士だったら温泉とかも行けるわよ。露天風呂から地下トンネルに流れ込んでたりしたらワクワクしない?!」

「姉ちゃん、前見ろよ!」

 僕は運転席の背もたれを叩いた。

「そうやって無責任に面白がるから姉ちゃんには言えないんだよ。方違さんは真剣に悩んでるのに」

「わたしなら悩むより楽しむけどなあ」

「その考えが無責任なんだよ」

 方違さんは黙ってうつむいている。

「ごめんね。わたしは全然迷惑してないから気にしないで」姉は方違さんの頭を撫でた。「この状況も、あなたたちと一緒なら楽しいし、わたしは弟の好きな子を嫌ったりしないよ。わたしもくるりちゃん大好き。めっちゃかわいいし、いい子。それが言いたかったの」

「……ありがと……ございます」

「ま、十二時までのことなんでしょ? 東京ではそれくらいまで友だちと遊んでるし」


   ◇


 無限に続きそうに思えた一本道だったけど、ヘッドライトの先に建物が見えてきた。

 五台分くらいの駐車場で道は終わり、その横には小さな建物があった。


 周りは、暗い海だ。


 駐車場に入ると、ヘッドライトに浮かび上がったのは古い木造の平屋。トタンの壁には白いペンキで「中道臨海食堂 ゐらっしゃいませ」と書いてあった。


「お、食堂だ! こういう汚い店が逆においしいのよ」

「苗村くん、また『るらっしゃいませ』って書いてるよ。大丈夫かな……」


 ガラス戸をがらがらと開けて入ると、ほんとに汚い。壁も床も油煙で黒ずみ、貼られたメニューはほとんど読めない。天井の蛍光灯はちかちかして、時々真っ暗になった。


 出てきたのは汚いエプロンをしたおばさんだった。

「らっしゃいね。麺つゆ丼はどうね。ここの名物さね」


 僕たちはがたがたする椅子に座って、その「麺つゆ丼」というのを食べた(というか、僕と姉はほぼ食べなかった)。

 味については、なんていうか、あんまり何も言いたくない。方違さんはおいしそうに食べてたし。


 汚いふきんでテーブルを拭いているおばさんに、姉がたずねた。

「わたしたち道に迷っちゃったんですけど、ここから陸にはどう戻れば近いですか」

「急ぎなら、中道マリンライナーに乗ればいい。あれがいっちゃん速い。乗り場はうちの裏にあるさね」

「それって、船ですか?」

「そうさね、船というかね、飛行機というかね。裏の岸壁につないであるから見てみなね」

「へえ、面白そう。見てみようよ」

 姉が立ち上がった。


 僕は顔が冷たくなるのを感じた。

 中道マリンライナー。

 嫌な予感しかしない。姉ちゃんはああいうのが大好きなのだ。


 その時だった。

「だ、だめです、お姉さん」

 方違さんが小さな体で姉の前に立ちふさがった。

「苗村くんは、そういうのは乗りません!」

「なに? どうしたの。乗らないわよ、車あるし。見るだけ。ねえまもる?」

「だめ!」方違さんは両腕を広げて、首を振った。「苗村くんは見ません!」

 姉はレッサーパンダに威嚇されたような顔をした。

「分かった分かった。いや分かんないけど。まもるのために言ってくれてるのね?」

「……はい……」

「君たち、なんか独特の世界ができあがってるのねえ」


   ◇


 駐車場で方向転換して、来た道を戻る。

 方違さんは助手席で眠ってしまった。

 姉が眠くならないように、いろいろ話をした。大学やアルバイトのこと。池袋や秋葉原のこと。アニメやゲームのこと。共通の昔話。それから方違さんのこと。


 一時間ちょっと走ったところで、道は終わった。

 そこは五台くらい止められる駐車場だ。古い木造の平屋が、ヘッドライトに浮かび上がる。トタンの壁に、白いペンキで書いてあった。


『中道臨海食堂 ゐらっしゃいませ』


 姉はため息をついて、ハンドブレーキを引いた。

「十二時まで寝るわ」


   ◇


 窓を少し開けておくと潮風が入ってきて、寝苦しくはない。

 ぐっすりと眠ってしまった二人の寝息と、さざ波の音を聞きながら、僕も眠りに沈んでいった。


 夢うつつの中で、ドアを開け閉めする音を二度聞いた。


   ◇


 走る車の揺れで目覚めた時には、窓の外はブルーで、山の輪郭が見えた。


「……姉ちゃん?」

「起きた? もうすぐくるりちゃんちに着くよ」


 でも姉の隣に、方違さんの姿は見えない。

 なんだか暑い。

 体が痛い。

 そして、重い。

 左腕がしびれている。

 なにか冷たい、柔らかいものが頬に当たる。胸の奥に入ってくるような甘いにおいがした。


 状況を理解して、僕は「わっ」と叫びそうになった。

 僕の頬に触れているのは、方違さんの頭のてっぺんの髪だった。


 後部座席に斜めになった僕の体に、方違さんがのっかかるみたいにしがみついて、すーすーと眠っているのだ。小さな左手が、僕のシャツの胸をぎゅっとつかんでいた。


「起きて、起きて、方違さん」

 肩を叩くと、方違さんは「うー」とか言って僕の肩に頬をこすりつけた。普段は夏服でもほぼ意識することがない、彼女の胸の柔らかい部分を腕に感じた。


「ほ、方違さん! 朝だよ、ねえ、起きて!」

「寝かせといてやんなさいよ」

「いや、でも……」

「見なよ、その幸せそうな顔」


 言われてみると、方違さんは母猫の胸で眠る子猫みたいな顔をしていた。小柄な彼女だけど、こんなにあどけない顔は初めて見た。


「自分の気まずさや恥ずかしさのために、その子の幸せ奪っちゃだめじゃん。その幸せ、あんたがその子にあげたんだよ」


 そうかもしれないけど……。


 緊張で出てきた唾液を、音を立てないように飲み込んでから、僕はささやいた。


「……ごめんね。おやすみ」

「二人そろった寝顔の写真、さっき撮ったから送るよ」

「今すぐ消せ」

 って言おうとしたけど、なぜかその言葉が口から出なかった。

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