ベランダ

あべせい

ベランダ



 突然、大きな音が店内に響き渡る。

 テーブルから、箸立てが落ちたのだ。ここは、広い駐車場がある、郊外型のセルフサービスの定食屋。

 床に落ちた箸立てからは、たくさんのプラスチック製の箸が転がり出て、床一面に散らばった。

「すいません……」

 30代前半の女性客が、小さな声で言い、テーブルのそばにしゃがみ、床に落ちた箸を拾い集めている。料理を載せたトレイをテーブルに置こうとして、誤って箸立てを床に落としたようだ。

 店員は細長い厨房に3人いるが、だれも気がつかないのか、仕事にかかりきりで動こうとしない。

 すると、若い男が、女性のそばに腰を落とし、一緒に箸を拾い出した。男は速い。両手で箸をかき集めて束ね、握り締めると、

「奥さん、これ、もう使えないから、気にしなくていいです」

 と言った。

「エッ」

 女性は男を見て、彼が店の従業員かと一瞬、錯覚した。

「ありがとうございます」

 そう言って、頭を下げる。

 男は空の箸立てと束ねている箸を手に持ったまま、厨房の前に行き、

「これ、床に落ちたから、返却口に置きます」

 と、言った。

 この店は、客が厨房の前のカウンターに並ぶさまざまな惣菜から好みのものをトレイにとって勘定するシステムであり、ホールを専門に担当する店員はいない。

 男は、呆然としている女性の前を通り過ぎ、隣のテーブルに腰掛けた。

 食事の途中だったらしく、彼のテーブルには、焼き魚、玉子焼き、おしたしなどが並んでいる。

 女性は、小さなこどもの手を引いて男のテーブルの前に行くと、

「ありがとうございます」

 もう一度、深々と頭を下げた。

 男は、ニコッと笑みを浮かべて女性を見ると、

「ここ、人手が足りないから、すぐに対応する人間がいないンだ。許してやってよ」

 と言う。

「いいえ、そんなこと……」

 男は、女性の脇にくっつくように立っているこどもの顔を見て、

「お嬢ちゃん、いくつ?」

 こどもは、小さな手を広げて、指を4本立てる。

「お口で言わないとダメでしょ」

 女性が叱るが、こどもは恥ずかしそうに母親のスカートを掴んだまま、母親の体の陰に隠れた。

「そうか、4つか……」

 男は、何かにとらわれたようにちょっと天井を仰いだが、すぐに、

「早く召しあがってください。この店の料理は、冷めたらうまくない。これは余計か」

 と、言って笑った。

 男は大手宅配会社のトラック運転手。荷物を積んでこの街をぐるぐる走り回っている。テレビCMでも流れている制服を着ているから、女性にもわかる。胸には、刺繍で「藤矢真」とある。

 女性は、

「藤矢さんですか」

 藤矢は、胸の名前を見て、

「こんなもの、縫い付けているから、悪いことが出来やしない」

 と苦笑した。

 10数分後。藤矢は夕食を平らげると、隣のテーブルの女性に、

「おれ、まだ仕事がありますから。お先に」

 と言い、彼女の娘には、右手の4本指をニギニギさせ、「バイバイ」と言いながら去って行った。

 

 藤矢真(ふじやまこと)は、32才。宅配便トラックを運転して、もうすぐ3年になる。その前は喫茶店のバーテン、菓子屋の店員など5、6の職を転々として来た。長くて1年だったから、いまの仕事が最も長続きしている。

 一度結婚したが、3年の結婚生活の後、2年前に別れた。

 原因はいろいろある。最後の行き違いは、ペット。女房はイヌかネコを飼いたいと言い出し、真は反対した。こどもがいないからというのが、女房がイヌネコに拘る理由だったが、こどもはそのうち生まれる。イヌやネコが家にいると、糞や毛で家の中が臭く、汚くなるというのが、真の言い分だった。

 ところが、離婚してから妻の妊娠が発覚。真は、知らせを受け病院に駆けつけたが、赤ん坊の顔を見ただけで、よりを戻す気持ちは起きなかった。

 こどもを認知して、養育費を払うことで話し合いはついた。その子、「緋茄未(ひなみ)」はことし4才になるはずだ。面会交流権はあるが、この1年、真は娘に会っていない。

 真は、ひとりの生活がよくなった。好きで結婚したのだが、家庭があると思い通りにいかない。当たり前のことだが、独身の頃のように、あれを見たい、あれをしたいと言っても、妻と意見が合わないことが多い。すると、つい我慢してしまう。それがストレスになり、次第に妻への嫌悪に変わっていった。

 いざ、離婚してみると、周りの女性がよく見えて仕方がない。職場にも、5人の独身女性がいるが、みんな好みの女性に見えてしまう。しかし、一緒に食事がしたい、一緒に旅行がしたいという気持ちはあるが、その一方で、関係をもった後のことを考えると、声を掛ける気力が失せる。

 その日。

 藤矢真は、通常通り、市内の配達に出た。

 彼の会社の営業所は、その市内全体をカバーしている。

 正午少し前。時間指定の荷が一つ残っている。午前10時から12時までの指定。うっかり忘れていたらしい。真は、急いでその家に向かった。

 9階建てマンションの7階。建物は築20年以上で、2DKと2LDKの部屋が多い。

 インターホンを押す。

「ハーイッ」

 明るい声がする。

 真は、

「宅配便です」

 と応える。

 まもなく、ドアが開いた。

 真は、ドアから現れた女性の顔を見て、一瞬時間が止まるのを感じた。このひと、見覚えが……。

 次の瞬間、唖然となった。あのときの……。

「奥さん……」

「ご無沙汰しています」

 しかし、違う。印象がまるで違う。

 1ヵ月以上前になるが、あのときは……、まず髪型が、肩まで垂らして、ほつれ毛が頬にかかり、暗い印象を受けた。が、いまは短く切ったのかどうかわからないが、後ろで束ね、きれいにまとめている。

 第一、目が美しい。化粧のせいだろうが、目がくっきり、ぱっちりして、男心を引きつける。美人だったのか、は失礼な感想かも知れないが、真はあまりの変わりように、目を疑った。

 服装の違いもあるだろう。定食屋では、アイボリーのコートを羽織っていた。いまは、オレンジ色のカーディガンに、スカートは純白のタイトだ。

 街ですれ違っていたら、1ヵ月前の彼女とは気がつかなかっただろう。

 真は、配達伝票を改めて見た。

 宛名は「季山希江(きやまきえ)」とある。差出人は、静岡県藤枝の「季山シズ」。

「その節はたいへんお世話になりました。ありがとうございます」

 希江は、そう言って、深々と頭を下げた。

「いいえ、そんな……」

 真は恐縮する。

 このマンションには前に配達に来たことがある。7階の配達はあったかどうか、記憶は怪しいが、これまで季江を見た記憶はない。

「お嬢さんはお元気ですか?」

「はい。おかげさまで……」

 季江は奥を振り返って、

「カナちゃん。いつもお話している、お兄さんがいらっしゃったわよ」

 大きな声で言った。

 まもなく、「ハーイ」の返事とともに、あのときの娘が、手にサルの小さなぬいぐるみを持って、駆け足で現れた。

 そのサルは、両手で両目をふさいでいる。いわゆる三猿の一つなのだろうか。

 娘は真の顔を見ると、恥ずかしそうに希江の体の陰に隠れた。あのときと同じに。

 その頃、希江の部屋のちょうど真下、その6階の部屋を2人の男が訪ねていた。

 2人は警察手帳を示して中に入ると、玄関に現れた女性に、刑事の一人がこう切り出した。

「半年ほど前、このマンションで転落死亡事故があったのをご記憶だと思いますが……」

 女性は、夜の銀座で働くホステス、牧泉美(まきいずみ)42才だった。

「よく覚えているわ。あの日は日曜でお店がお休みだったから。この上の、7階に住んでおられたご主人だったでしょう、転落なさったのは……」

「奥さんはこちらにひとりでお住まいですね」

「主人がいたけれど、2年前に離婚して、いまはひとり。お店やご近所には、未亡人と言っているの。そのほうがお客のウケがいいから。内緒よ」

「転落死した季山さんですが、現場の状況では、ご自分の家のベランダから、真下にあるこちらのベランダを覗いていて、誤って転落したと考えられます」

「そうらしいわね。事故があってから、すぐに警察の方がお見えになって、いろいろ聞かれたから。でも、どうして、うちのベランダなンか、覗こうとしたのか……わからないわ」

「それは、あなたを見たかったからというのは……」

「それはありえない。前の刑事さんにも言ったのよ。上のご主人は、わたしは好みのタイプじゃなかったみたいで、エレベータでお会いしたときわたしが挨拶しても、返事をしてもらえなかった。わたしは年も食っているし……」

「しかし、あなたが下の部屋にお住まいだとはわからなかったわけでしょ。エレベータで会っただけでは……」

「わたしのネグリジェ姿でも、見たかったってこと?……」

 刑事は、季山が階下のベランダを覗き見しようとした理由にこだわっていた。

 季山は、女房の希江が入浴している時間を利用して、わざわざベランダにダイニングの椅子を持ちだして、その上に立ち上がり、下を覗いていたと考えられた。


 どうしてこんなことになったのだろう。

 真は、季山家の食卓で、希江と果菜母子と差し向かいで、カレーライスを食べている。何かがおかしいと感じながら……。

 希江は未亡人だった。自ら名乗ったわけではない。娘の果菜を使ってアピールしたのだ。

「カナちゃん。このカレー、お父さまに上げてきて……」

 希江はそう言って、小皿に取ったカレーを娘に持たせた。娘は、「ハーイ」と元気な声で返事をして、いつもしているのだろう、奥の部屋に行き、小さな仏壇に小皿のカレーを供えた。

「カレーはお好きですか?」

 希江が、スプーンを口に運びながら尋ねる。

「は、はいッ」

 真はそう言ってから、昼食はカレーやラーメン、カツ丼などを交互に食べていることを思い出した。

 食は満たされれば、いい。真はそういう人間だった。

 真がカレーを食べ終えると、希江はパーコレータで淹れたコーヒーを出した。カレーと同様、予め用意していたような手際のよさだ。

「初めてお伺いして、こんなにご馳走になっていいのかな」

「ゆっくりしていってください。お車はいいンでしょ?」

 宅配のトラックはマンションの駐車場に駐めてある。しかし、訪問客用には1台分のスペースしかない。

「でも、もう行かないと、みなさんにご迷惑がかかります」

「こんどはいつ配達に来られますか?」

 希江は、そう言って、すがるような目を向ける。

 そんなことはわからない。このマンションのある地域は住宅の密集地で、真を含め3人のドライバーで配達している。このマンションに配達する荷物があっても、真が配達するとは限らないからだ。

 それに、真はこの辺りで以前車の接触事故を起こしたことがあり、避けている。この日は親しい同僚が急に休みをとったため、配達に来たという事情があった。

「じゃこれで。ご馳走になりました」

 希江の部屋に入ってから、30分近くになる。

 昼休憩は1時間が認められているが、トラックのことを考えれば、そんなに長居は出来ない。

 真が立ちあがり玄関に急ぐと、希江は追ってきて、携帯用の保温瓶を差し出す。

「お持ちください。コーヒーが入っています」

「エッ……」

 1人用のマイボトルと呼ばれている魔法瓶だ。買ったばかりのようで、真新しい。

 真は、戸惑い、言葉が続かない。

 いったい、どういうことだ。これっきりじゃないのか。真は、上がり框から見下ろす希江を振り返って見つめた。美人なのに。どうしておれのような男に……。

「どうぞ。容器はお返しいただかなくてもけっこうです」

 希江は、真の不安を汲み取ったのか、そう言って、ボトルを真の胸に押しつけた。

「ありがとうございます。では、失礼します」

 真は、ボトルを受け取ると、足早に辞去した。


 10日後の金曜日。

 出勤すると、窓口業務の瀬戸佐久実(せとさくみ)が、ニヤッとして「マコト」と言って呼んだ。

 真を姓の藤矢ではなく、名前で呼ぶのは、親しい2、3の同僚男性のほか、女性では佐久実だけだ。

 佐久実は、離婚歴がある35才。真より少し年上だ。

「なに?」

 真は、怪しみながら、佐久実のそばに行った。

「4丁目のマンションから集荷の依頼よ。わかってンでしょ」

「エッ?」

 何を言っているのか。真はわけがわからない。

「『藤矢真さんに集荷していただきたいのですが……』って、女性の声でついさっき依頼の電話があったわ……」

 真は、ようやく気がついた。

 佐久実は、真がとぼけていると思ったのか、

「きれいな方ね。配達中、なにをしてンだか」

 と言って、またニヤニヤする。

 電話できれいかどうかはわからないだろうッ。佐久実のジョークなのだが、真はバカらしくなり、返事をしないでいる。

 佐久実はようやく、ふだんの調子に戻り、

「お客さまの名前は、季山希江……」

「そのひと、この前、そのマンションに配達に行ったら、集荷はできるのか聞かれたから、出来ます、って答えた。それだろう」

 真は、ウソをついた。

「そォ……で、マコトにご指名なの? まァ、いいわ。時間は午前指定だから」

 佐久実は、ただのお客と思ったらしく、それ以上の関心は示さなかった。

 しかし、真の心中は穏やかでなくなった。

 どうして、おれなンだ。あの女性はおれを、どうしようというンだ。真は、とりたてて美男子ではない。よくいる平凡な男だ。バツイチ、こどももいる。金だって、貯金は20万足らずしかない。

 それから数時間後。正午まで10数分という時刻だった。

 季山希江は、インターホンが鳴ったので、応答もせずに急いで玄関に出た。

「いらっしゃ!……」

 希江はドアを開けた瞬間、途中で言葉を飲み込まざるをえなかった。

「宅配便の集荷に伺いました」

 ドアの外から遠慮勝ちに言ったのは、同じ制服を着ているものの、真とは似ても似つかない男だった。

「あら、藤矢さんは……」

 希江の声は、トゲトゲしくなっている。

「すいません。藤矢は急に都合がつかなくなって……」

「お休みじゃないでしょ。電話で依頼するとき、確かめたのだから。早退されたとでも、言うの!」

 欠勤は通じない。藤矢に代わって集荷に来た掛川は、希江の強い口調にたじろいだ。

「他の営業所から応援要請がありまして、仕事のできる藤矢が狩り出されました」

 掛川は、用意していたウソをついた。

「そうですか。あなたの会社では、そういう言い訳でお客を言いくるめておられるンですか。わかりました。どうぞ、お引き取りください」

 希江はそう言ってドアを中に閉めようとする。

 掛川は慌てた。

「待ってください、奥さん。私は藤矢から頼まれたのです」

「頼まれた、ですって?」

「当社では、配達員の指名は出来ないことになっています」

 それは本当だ。しかし、指名する客はいままでいなかったから、そのことを知っているドライバーは少ない。

「ですから、藤矢は困って私に相談してきました」

 掛川が自分のトラックに荷の積み込みをしていると、藤矢が近寄ってきて、代わりに集荷に行ってくれないかと言う。

 集荷は配達の途中に行う決まりになっているから、1件くらいの集荷なら、難しいことではない。掛川が訳を尋ねると、集荷先の女性のようすが尋常ではない、と言う。藤矢を、だれかと取り違えているのか、気味が悪いくらい親切にしてくれる、と。

「そんなことなら、いくらでも代わってやる」

 掛川はそう言って、二つ返事で引きうけた。

「藤矢さんは、ここに来るのはイヤだとおっしゃったのですか?」

「いいえ……」

 そんなことが言えるわけがないだろう。しかし、藤矢は明らかに、困惑していた。

 掛川は独身だ。結婚歴はない。希江を見て、こんな未亡人を避ける藤矢の気持ちがわからなくなった。

「奥さん、失礼なことをお聞きしますが、藤矢とは以前からのお知り合いですか?」

 希江の顔色が変わった。

「そういう質問にも答えなければいけませんか」

「いいえ……」

 掛川はシマッタと思ったが、どうしようもない。

 藤矢には、集荷はできなかったと報告するしかない。掛川はバツの悪い思いをしながら踝を返した。

 すると、

「お待ちください」

 希江が引きとめる。

「せっかくですから、お話します。どうぞ、お上がりください」

「エッ……」

 掛川は一瞬、戸惑ったが、希江の射すくめるような強い視線を受け、気がつくとダイニングテーブルの前に腰掛けていた。

 テーブルには、皿に盛られたスパゲティと水の入ったグラスが2人分、向かい合わせの位置に置いてある。

「よろしければ、お召し上がりください」

 希江は言ったが、本当なら、藤矢がこの恩恵に浴したのだと思うと、掛川はフォークを手に取る気がしない。

 希江は、掛川の心の動きには関心がないようすで、それ以上強く勧めようとはしない。

「お話します」

 と言い、定食屋での出来事を淡々と語りだした。

 最後に、

「藤矢さんには、それはそれは親切にしていただいたのです。おわかりいただけますか?」

 と言った。

 掛川には理解できない。

 藤矢のしたことは、親切には違いないが、それほど恩に感じる行為だろうか。ふつうの人間なら、恐らくだれもがやったことだろう。掛川は、希江という女性がわからなくなった。

「季山さん、よくわかりました。そういうことでしたら、やはり藤矢に来させます」

 掛川はそう言うと、食卓のスパゲティにチラッと視線を送ってから、足早に退出した。

 掛川は、階段を駆け下りながら、藤矢の携帯に電話をかける。

「季山さんはやはりおまえが行け。オレじゃどうにもならない。あの奥さんは、おまえにハマっている。おまえ、何をしたンだ?」

「なに、って、箸を拾っただけだ」

「それだけじゃない。おまえは、何かしているンだ。あの奥さんが気に入ることを。まァ、じっくり考えろ。その前に、早く、ここに集荷に来い。いいな。おまえの仕事だぞ」

 掛川はそう言って、電話を切った。

 希江は掛川を送り出してから、食卓のテーブルの前にどっかと腰を下ろして、冷たくなったスパゲティを見つめた。

 どうしょう。これじゃ、もうお出しできない。時計を見ると、正午を10分ほど過ぎている。希江は、立ちあがると台所に行きガスコンロの火を点けた。

 果菜は隣の部屋で寝ている。どうも、風邪を引いたらしい。

 きょうは、亡くなった2人目の夫の月命日だ。結婚したのがちょうど一年前、亡くなってから、ちょうど半年。だから、藤矢さんに集荷をお願いした。あんなひどい夫でも、一度は好きになったのだから、仕方ない。でも、結婚生活はわずか半年。果菜の妹や弟が出来なくて、本当によかった。

 果菜の父親は最初の夫で、消防官だった。

 彼もひどい夫だった。ギャンブルに目がなく、休みの日は競馬、競輪、競艇と渡り歩き、すってんてんになるまで帰って来ない。たまに勝つと飲み歩き、帰宅は午前さま。

 こんな男と結婚したのは、果菜が出来たからで、いわゆるデキチャッタ結婚だったが、家事、育児の手伝いは一切せず、その癖外面はいい。職場など外から電話があると、希江がびっくりするような猫撫で声を出して、無理難題でも、「ハイハイ」と引き受ける。

 希江が最も耐えられなかったのは、ひとまえで希江をバカにすることだった。「何も出来ない女房です」とか、「バカな女房は一生の不作といいますが、本当です」などと言った。

 幸か不幸か、結婚して2年がたった頃、その夫は消火活動中に煙に巻かれて死亡した。殉職だ。退職金と慰労金、さらに損害保険金が出た。その夫に感謝したのは、そのときだけだった。

 半年後、こんどはトラック運転手に口説かれて再婚した。つきあっている頃は、気味が悪いほどやさしかったが、結婚した途端、本性を出した。

 ギャンブルに加え、女癖が悪く、職場の女、配達先の女、飲み屋の女と、見境がなかった。そんな女から自宅にも電話がかかり、希江が、「夫は10日も帰っていません」と答えると、相手の女は、「あんた、お手伝いでしょ。気がきかないお手伝いが、ウソばっか言って困る、ってあのひとが言ってるわよ」と、悪態をついた。

 しかし、結婚して半年後、その夫は事故で死亡した……。

 希江は考える。幸いか、都合よく、か……。そして、また保険金が手に入った。保険金が欲しかったわけではない。その男から逃げたかっただけだ。

 事故は家のなかで起きた。ここのベランダから誤って、転落。酔っ払っていて、タバコを吸いながら下を覗いていたらしい。

 夫は、何が見たくて下を覗いていたのか。わざわざ椅子を持ってきて、その上に立ちあがって……。

 下の部屋には、未亡人の、わたしより年上の女性がいた。時刻は、午後11時過ぎ。果菜は眠っていた。わたしはお風呂に入っていた。

 許せないのは、あの男が果菜に手を上げたことだ。いくら血がつながらないといっても、相手はまだ3才の娘だ。わたしがコブ付きだと承知して結婚したくせに。

 眠っていたはずの果菜が、夫が転落した直後、リビングに現れ、その光景を目撃した。3才の娘に、何が起きたか、理解できただろうか……。 

 藤矢さんは、まだ来ない。やはり、もう来ないのだろうか。ウソの集荷がバレたのだろうか。

 藤枝にいる母に送るものなンて、何もない。仕方ないから、昨日バスタオルのセットを買ってきて荷造りをした。第一、母は去年亡くなっている。いま、藤枝の実家にいるのは、兄夫婦だけ。母の名前で出しても受け取ってはくれるだろうが、迷惑だろう。母からわたし宛てに届いた宅配荷物は、わたしが自分で荷造りして、ここから離れた営業所から出した。藤矢さんに会いたくて。

 藤矢さんは前の夫と同じトラック運転手。なのに、あんなにわたしに親切にしてくれた。わたしは、腰が抜けるほどうれしかった。

 こんなひとのためなら、なんだってしよう。そんな気持ちになった。ひと目惚れのようなものだ。でも、わたしには果菜がいる。子連れは、歓迎されない。わかっている。結婚して欲しいなンて、わがままは言わない……。

 玄関チャイムが鳴った。

 希江はインターホンを取る。

「はーい。季山です……」

「荷物の集荷におうかがいしました」

 季江は有頂天になった。

 藤矢さんの声だ。明るくて、あま―い響き……。

 うれしい。時刻は、正午から30分以上たっている。スパゲティはうまくゆであがっている。あとはトマトソースをまぜ、皿に盛るだけ。

「お待ちください」

 季江は玄関に走り、ドアを開く。

「どうぞ、おあがりください」

 彼をひっ張り上げ、ダイニングに連れ込んだ。

「あのォ、集荷のお荷物は?……」

 藤矢は、仕方なくテーブルにはついたが、どうすべきか迷っている。

 テーブルには、湯気を立てているパスタ皿がある。

「お昼は、まだなンでしょう?」

 希江の問い掛けに対して、藤矢は答えを用意していた。「すませました」と。

 しかし、希江の顔を見ると、言えなくなった。実際、昼食はまだとっていない。

「はい……」

「じゃ、食べてくださらないと、いけません」

「はい……」

 藤矢はフォークを手に取って、尋ねる。

「カナちゃんは?」

 希江は隣の部屋を振り返り、

「果菜はいま保育園です。午後から、わたしはパートに出ます……」

 希江はなぜか、ウソがすらすらと口から出た。バートは本当だが、きょうは休むと電話してある。

「そうですか。だったら、こうして、ここに2人だけでいるのは、よくありません」

「どうして?」

 希江が、あまえるように言う。

「ご近所の噂になります」

 希江は、真の目を見て、

「いいンです。わたし……」

 真は、希江を見つめ返して、

「奥さん……」

「わたし、希江といいます」

「希江さん……」

 真は、頭を振り払うようにして、

「もう、やめましょう。こんなこと……」

 希江の目が、ギラッと鋭く光った。

「真さん、どうして、ですか」

 希江は初めて彼を下の名前で呼んだ。

「ぼくは、いま独身ですが、去年、離婚して、果菜ちゃんと同じ、4才の娘がいます」

「知っています」

 真は、驚くが、受付の佐久実が教えたのだろうか。佐久実はおしゃべりな女だ。

「だったら……」

 だったら、なんだと言うンだ。真は、自分から言っておいて、言うべきことばを失った。

「わたし、何かして欲しいなンて思っていません。時々、こうしてお会いできたら、いい。そう思っているだけです」

 真は、希江の澄んだ眼を見て、考える。

 この女性は正気なのだろうか。昼間に、ひとりだけの家に、男を引き入れて。間違いがあってもいいというのか。

「奥さん。ぼくは毎月、娘の養育費を前の女房の銀行口座に振り込んでいます。それだけの男です」

「真さん。わたし、ご無理なことをお話していますか?」

 ときどき会うくらいなら、いい。それはいいが……。

 真は、やさしい笑みを浮かべている希江を見て、違和感を覚える。なぜかわからないが、彼女には何か、とてつもない大きな秘密があるように感じる。それは、他人には決して明かすことができない秘密……。

「ときどき集荷におうかがいするということでいいのですか?」

「はい。集荷に来ていただいて、ご一緒に食事をする。そして、お時間のあるときは、夕食も……」

 昼食の次は夕食か。

 そうやって、際限なく、関係が密になっていく。真は、2度と結婚しようとは思っていない。結婚生活に絶望している。しかし、ここでそんな話をしても時間の無駄だ。ここは早く切り上げて……。

「承知しました」

 真は、スパゲティを食べ終え、立ちあがった。

「もう、お帰りですか」

「はい」

 そのとき、希江の背後にある隣室のドアが開いた。

 真は振り返り、思わず、

「カナちゃん」

 いるはずのない娘がいた。

 希江が、悪びれたようすもなく、

「言い忘れていました。きょうは、具合が悪いので、保育園はお休みさせました」

 そォか。それだけか。しかし、母親が娘の存在を忘れるものだろうか。

 すると、果菜がぼんやりした顔で、希江に言った。

「お母さん、お父さんは?」

 希江は怖い顔になり、

「お父さんは亡くなったでしょ!」

「でも、お父さんがいまベランダに……」

 果菜がベランダのほうを見つめながら言った。

「エッ!?」

 真も希江と一緒に、ダイニングルームの外に見えるベランダを振り返る。

 ひとりの男が、椅子の上に立ちあがり、身を乗り出して、ベランダの下を覗いている。

「希江さん、だれですか。あのひとは」

「知りません!」 

 そう言いながら、希江はベランダに走った。

 半年前の悪夢が蘇る。

 あのとき、わたしは、下のベランダを覗いていた夫の足を力いっぱい持ち上げた。そうしたら、夫は簡単に下に落ちて行った。

 お風呂に入る前、わたしは夫に言った。「下の部屋の未亡人が、この時間になるとベランダに出て、携帯で電話して困るの。あなた、注意してみて」と。

 その前に、ダイニングの椅子を一つ、ベランダに何気なく置いておいた。その上に立ちあがることを期待して。

 女に見境のない夫は、期待通り、下のベランダの、顔も知らない未亡人を覗いた。バカなやつ。転落死は、自業自得……。

 希江は勢いよくガラス戸を開いて、ベランダに出た。

 真も続く。

 椅子の上に立って、下を覗いていた男が、希江を振り返り、

「もう一度、おれを突き落とすつもりか!」

 と、叫んだ。

「ギェーッ!」

 希江は大きな叫び声をあげ、その場に気を失った。

 男は、階下で聞き込みをしていた刑事だった。

 隣室から、希江の部屋のベランダに移り、一芝居打ったのだ。

 真は、刑事から、希江が失神した理由を聞かされたが、納得できない。

 呆然としている果菜を自分の娘と重ね合わせながら、希江が刑務所から出てくるまでの間、果菜の面倒をみるのは自分しかいないと考えていた。

                (了)

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ベランダ あべせい @abesei

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