note.9 幻なんかじゃない。

 そんな知り合いはいただろうか? ついぞ、上京してからは友達と呼べる者はいない。


(さっきのサラリーマン風の人は……夢……だったのか? ああそうか、昔の、日本にいたときのことだったな。あれ? ここ……日本じゃ、ない……んだっけ?)


「キングってば!」


(そうだ……この声はリッチーだ!)


 意識が急浮上する。一面乳白色だった頭の中に、色彩が舞い戻る。


「はっ……!」


 まぶたを開けると、視界には三人のもふもふ――心配そうにのぞき込むリッチーと親方と、おかみさんがいた。


「ギ、ギター! 俺の、俺のギターは!?」

「起きて第一声がそれかよッ!」


 キングは見慣れた自分の相棒を探そうと、上半身だけを起こして辺りを見回す。周囲のサイズ感が、小さい。

 違和感だらけの景色だが、すぐ隣にギブソンが横たえられてるのを確認できると、やっと肺の中の古い空気が漏れていった。


「……でも良かった。びっくりしたんだよ、突然倒れるから」

「ん? 倒れた、俺が? ……お前は、リッチーだよな?」

「えっ、僕はリッチーだよ! まっまさか今ので意識障害が……!?」


 慌てるリッチーをそっちのけに、キングは親方の顔をじっと見ている。


「……人を感動させようなんて思って歌っちゃダメだ。人を感動させるのはそんなに簡単じゃない」

「ん? なんの話だ?」

「リッチーが好きな歌と、親方が聞きたい歌、俺が支えられた歌……全部違うはずだ」

「はあ……?」


 親方は自分に話しかけているものだと思って、首をかしげてた。

 キングはさっきまでの自分とリッチーとの間にある何かを考えていたのだ。


 きっとリッチーは、あの歌を好きになってくれた。それは間違いなく、嬉しい出来事だ。歌手にとって、ファンはどれほど金を積んだり土下座をしてみたところで得られるものではない。

 自分の好きな歌を、自分の大切な人に聞かせたいと思うリッチーの気持ち。それも凄くよくわかる。誰にでも覚えのある同じ心理がリッチーにも働いたのだ。


 けれども、音楽はその瞬間だけの芸。CD再生ならまだしも。キングがやっていることは、その場限りのライブなのだから。


「リッチー、もう一度やろう。次は違うのを」

「キング……!」


 ところが、再び視界がよろめいた。身体からだがうまく動かせない。


(また? 何で? さっきと同じだ、力が入らない……変な物食ったっけ? いや、知らない物は食べたけど、アレのせいなのか……?)


「キングくん」


 リッチーにゆっくり寝かし直されながら、額に脂汗を浮かせているキングに話しかけたのはおかみさんだった。


「私はモルットの村の医者なのだけど、キングくんはもしかしなくても具合が悪いのね?」

「えーと……まあ……、ちょっとふらつくんですけど」

「人間は診たことないけれど、モルットにも同じ症状があるわ。昔は、キングくんみたいに突然倒れてしまう人がここにも沢山たくさんいたのよ」

「そう、なんすか……それって食中毒とか、大変な病気とか……」


 おかみさんは薄い桃色の唇でにっこりと微笑ほほえんだ。


「いいえ、栄養失調よ」

「え、栄養……しっちょー?」


 思い返せば、キングは日本人でも大きめの体躯たいくでありながら、かなり節制した食事をしていた。節制というよりは、金が無かったから食えないに等しい。はっきり言えば、貧乏だったので。


 時給や日雇いで働きつつ、路上で歌ったりした時の収入は、ほぼ全て楽器や活動のための資金にしていた。家賃は払うがその他インフラは止められることもしばしば。上京してから電気、ガス、水道の順番でサービス停止されるのだと、初めて知ったのも今となっては良い思い出だ。


「俺、死ぬの?」

「すぐには死なないわ。ただ、体を元のように動かせるようになるには少し休息が必要よ。それから、美味しいものを沢山たくさん食べて、元気を養わないといけないわね」

「食って寝れば良いってこと?」

「そう、それが生き物にとってのいちばんの休息になるの」


 そういえば、睡眠もろくにとってなかった。

 寝る間を惜しんでという言葉があるが、キングにはその通りで、起きてる時間は歌やギターの練習、活動資金工面のために昼夜問わず働いた。また、休日の明るい時間帯には家にこもって作曲などに勤しんだ。夜間に家で作業をすると、どうしても電気を点けなければならないので節約だ。


(全部音楽のためにやって来たことだったのに、肝心のライブ中にぶっ倒れるなんて……俺めちゃくちゃダセェな……)


「そういうことだから、しばらくリッチーのお部屋に泊めてもらったらいいわ! ね、リッチー」

「ほぇ? ぼ、僕の家にですか!?」

「近いから私がすぐに状態を見てあげられるし、リッチーもお友達が出来て良かったじゃない?」

「そ、そう……いや、うーん……」


 おかみさんの提案に、リッチーの反応は渋い。


 キングは自分に何も選択権が無いことに理不尽を覚えることはなかった。それよりも申し訳なさが勝る。日本への帰り方がわからないのだから辞退もできない。


「リッチー、お前の好きなように決めてくれていいから」

「キング……その言い方はずるいよ」

「はは、わり」

「うん。……僕も別にキングに来られることが嫌なわけじゃないんだ。ただ……キングは僕の、友達と言えるのかなって、思っちゃって。引っ掛かったのはそれだけだよ」


(本当に、リッチーは良い奴だな)


 そんなことでいちいち悩むリッチーがいじらしい。


「友達が友達の家に遊び行くのなんて、フツーじゃんか」

「そうなの?」

「そうだろ。リッチーは俺の音楽仲間だよ……俺の友達だ」


 キングは右手を握手の形で差し伸べた。


「キング……――」


 寝ころんだまま、リッチーのつぶらな瞳を見据える。


 アンプから伸びたプラグを持った時の期待に満ちた眼差まなざし。

 キングの歌を聞いて泣き出してしまった赤い目。

 心配そうにのぞき込むおどおどした気持ちがそのまま映り込んだ瞳。


(コイツと一緒に音楽出来できたの、偶然にしても楽しかった。良い歌が歌えたと思ったんだ。もっとこんな経験をコイツとしてみたい。そういう風に今の俺は思ってしまってるんだ)


 リッチーはキングの右手に、小さな両手をそっと重ねた。


「……キング」

「おう、リッチー!」


「あのね――――――オンガクって何?」


「……え?」


(何って……音楽は音楽だろ。リッチーはどういう意味で……? 俺の歌や演奏に音楽性が感じられない、とか? でも、リッチーは確かに俺の歌を聞いて泣いてたよな。どんな理由であれ、何かが心に届いたんだよな? てことはだよ、そういう意味じゃないってことだ。そもそもリッチーはそんなこと言う奴じゃねえ。ちょっとしか一緒にいないけど、それはなんとなくわかる)


 あまりに唐突かつ、あのタイミングで尋ねるには意図が不明瞭すぎた。


 悶々もんもんと問の意味を考えながら、キングは出されたクォルタンをちびちびと飲んでいる。さっきまで意識を失っていたクセに、それよりも頭を鈍器で殴られたくらいにショックだ。


 ちなみに、クォルタンとは親方の家でもお出しされた、あのオレンジ色の飲み物である。聞けば、栄養満点の飲む点滴、ということでモルットからの信頼厚い食品のようだ。病人にうってつけである。味は甘すぎるセロリ、といった感じで、決してキングにとって美味な飲み物ではなかったが。


 飲む点滴ことクォルタンを持たせたのは、おかみさんである。

 二人は既にリッチーの家に戻って来ていた。リッチーは寝間着に着替えたようで、作業着とは違う服になっていた。


「キング、具合どう?」

「おう、体がぽかぽかしてきた。やっぱしエネルギー不足だったみたいだ」


 キングが休んでいるのはリッチーの父親の部屋。

 父親のベッドも置きっ放しだったのでそこで寝てもいいということだが、頭は枕に置くとしてもキングの場合脚ははみ出てしまう。なのでしかたなく、枕をクッションに、壁に背中を預けるようにして今はくつろいでる。軽い栄養失調だがなるべく安静に、とおかみさんに言われてしまったこともある。


「そんなになるまで自分の体放っておいちゃダメだよ」

「ホントそうだよな……反省したよ。世話も掛けちまったし」

「それはいいけど」


 小さなベッドから脚を下ろして、キングはベッドサイドに置いていたクォルタンをまたちみちみと飲む。


(やっぱそうだ。リッチーはいつも通り優しい。俺をおとしめたくて言った言葉じゃない!)


「あのさ」「あのね、キング」


 ほとんど同時に口を開いた。


「あ、お先にどうぞ」

「いやいや、リッチーも何か用があったんだろ? いいよ先に」


 無益な譲り合い。

 わちゃわちゃボディランゲージで牽制けんせいし合った結果、キングの先行に落ち着いた。


「音楽が何か、って話だったけど……あれはどういう意味だったんだ? 音楽仲間って俺はリッチーのこと、そう思ってるんだけど、もしかして嫌だったりする?」

「えっ、そんなことでなんか落ち込んでたの!?」

「そんなこと!? って別に落ち込んではいねえけど」

「じゃあ、何で元気なさそうなの? あ、元気ではないか」

「まあ……ってそうじゃなくて! いてるのはこっちだろ。音楽って何って、どういう意味で言ったんだろって、ずっと考えてたんだ。俺の歌聞いてくれて、勝手にリッチーは俺のファンになってくれたんだって思ってたけど、違うんだな……」


「ん?」


「え?」


 リッチーがつぶらな瞳を丸くして、首をちょこんとかしげた。

 キングの方は違和感しかなくて、首をかしげた。


「な、なんだよその反応は……」

「それはこっちのセリフだよ。大体さ、知らない異国文化を『それはなんですか?』って聞いただけで、何で僕がキングのことキライみたいなふうに取られてるのか意味不明なんだけど! 僕達、友達じゃなかったの……?」


 しゅん、と長い耳を下げたリッチー。


 ここでキングに仮説が浮かび上がる。


(まさか、モルット族って音楽の文化を持たない人種なのか?)


 それは衝撃的な、まさにカルチャーショックであった。


「キング?」

「ああ、音楽の説明の続きだったな。そうだな……んーと、どう表したらいんだろうな……」


 しかし改めて音楽とは、と問われても、その意味は言葉で容易に表せるものでもない。キングは困ってしまった。


「うーんと、音楽は簡単に言うと、リズムがあってテンポがあってメロディーがある」

「……これ以上知らない単語増やさないでくれる?」

「えっえぇ~……マジ? リズムとかわかんねえ?」

「聞いたことない」


 もちろんだが、リッチーにふざけている様子はない。大真面目に首を横に振っているのだ。


(これは本気で、音楽が『無い』のかもしれない……もし日本に帰れなくなったら、一生音楽が無いままで暮らすのか?)


 多すぎるイフがキングの脳内に湧き出す。

 とんでもないところに来てしまったのかもしれない。


 キングは、自分が音楽に愛されていると思ったことはなかった。でも嫌いになったことはないし、消えてしまえと思った事も一度だってない。

 どれだけ追いかけてもつかめない。形の無い幻のようなもの。けれど、ひとたびギターをかき鳴らせば――腹から湧き上がるものを大きな声で叫べば、そこに確かに顕現する。


 幻なんかじゃない。


(音楽はある! ただ、ここのみんなの心にそれがまだ認識されてないだけなんだ! 音楽がみんなの心に無いなら、俺が歌えばいい! ……でも売れなかった俺が――プロでもない俺が、それを出来るのか?)


「どうしたの?」


 突然黙り込んでしまったキングをリッチーが見つめる。また体調が悪くなったのかと心配したのだ。


「……何でもねえよ、大丈夫だ。音楽の話はまた明日でもいいか? もう少し考えたいんだ」

「構わないけど……体、ムリしないでね? いっぱい食べて、いっぱい休めば元気になるっておかみさんも言ってたし。しばらくはキングのおうちに帰ることより、自分が元気になること考えて」

「ああ……そうだな」


(ここの人はみんな優しい……でも音楽が足りないんじゃ、俺は……身体からだがたとえ元気になったとしても、何もめでたくねえ)


 おやすみ、とリッチーは部屋を暗くしてくれた。サイドテーブルのランプが消えてしまうと、洞穴の中の住居は今度こそ真っ暗闇に包まれる。

 その中で、キングは目を開けたままサイズのあわないベッドに寝転んだ。


 音楽の道をひた走っていた東京での暮らしが思い出される。

 それは迷路というよりは、長い長いゴールのわからないマラソンを走らされている気分だった。


 周りではどうやらゴールがあるコースを走っているらしく、メジャーデビューするバンドや、ちょっとフォームを変えたらプロデューサーに声を掛けられた歌手もいた。


(これからモルット族のみんなを歌で元気にするとしたら……あのおっかない親方も笑顔になっちまうような歌を歌うなら、どうすればいい? アイツらはリズムもメロディもテンポも知らないんだ。俺のコースはどこにつながってしまったんだ?)


 日本で芽が出ず、ここでも己の信じた音楽を拒否されたら。少しだけ怖さを感じている自分がいる。

 ふうっと息を吐いて、目閉じた。


(考えてるだけじゃらちが明かねえ。もう寝よう。安静にって言われちゃったし、もともとろくに寝てなかったんだった)


 足りない毛布を手繰り寄せると、嗅いだことのない香りがした。干し草のような茶葉のような、芳しい香り。


 好ましい香りに包まれて眠りに落ちる、と思った瞬間だった。


 己の衣擦れなんかとは明らかに違う物音が聞こえた。ふとまぶたを開ける。


「……っ、またかよッ!」


 見えたのは白い天井。

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