衝撃的な寝坊

 優が目を覚ましたのは、知らない天井の部屋だった。知らない香りのベッドから飛び起きて一番に抱いた感情は見知らぬ場所で寝ていた恐怖心などではなく、焦りだった。


「い、今の時間は……っ!?」


 覚えのないながらに充電されていた自らのスマホを開き、現在時刻を確認した。ただいまの時刻、昼の十一時。

 今日の優の仕事は、モノマネ番組収録終わりの礼子を車で拾って、家へと送り返すことだった。深夜帯の収録だったから、翌日はゆっくり寝てもらおうと思っていた。モノマネ番組の収録は、とっくの昔に終わっている時間。


 やってしまった。


 優は顔を青くし、立ち上がった。昨晩着ていたスーツは、今も着たままでベッドに潜っていたために少し皺になっていた。

 そして今更になって、優は自らの置かれた異質な状況に気付いた。


 見知らぬ部屋。

 スーツのまま寝るだらしない行い。

 そして、寝坊。

 昨晩の記憶も酷く曖昧だった。なんとか頭を唸って思い出そうとするも、相当疲れが溜まっていたのか、記憶は朧気だった。


 その時だった。

 二LDKの間取りの室内。隣のリビングから、キーボードを叩く音が漏れていた。


 訝し気にしながら、優は一歩一歩と隣の部屋へと歩いて、襖を開けた。


「お、起きたか」


 そこにいたのは、優のマネジメントする礼子の晩酌仲間、健太だった。健太はパソコンに向かって、仕事に精を出していた。所謂在宅勤務中であることは、まもなく気が付いた。


「良かったな。今日俺が在宅勤務の日で」


「……あたし、どうしてここに?」


「覚えてないのか? 昨晩、俺を叱りに来て、あんた過労で倒れたんだ」


「……過労で?」


 まもなく朧気だった記憶が、優の中で蘇ってきた。再び、優は顔を真っ青にさせた。そう言えば昨晩、目の前の男にも疲労を指摘されていた。責めなければならない相手に、弱みを見せてしまったことに、気分が優れなくなったのだ。


 ただ、そんなことで落ち込んでいる場合ではないことに優は気付いた。


「吉田さんには、妹は久しぶりに我が家に遊びに来て、俺を散々付き合わせた挙句に寝坊してしまった、と連絡しておいた」


「……え?」


「なるべくあんたも吉田さんも非を感じないような言い回しを心掛けたが、代わりに今晩三人で夕飯を食べましょうと誘われた。付き合えよ?」


 ぽかん、と優は口を半開きにさせた。思考の整理がまとまらなかった。しかし、少し考えて気付いたのは、自分が過労になってしまった際、最も自責の念に駆られるのは間違いなく礼子であることだった。

 健太はそれにいち早く気付き、礼子も、また優も望まぬ結果にならないように取り計らってくれたらしい。


 優の口から、お礼の言葉は漏れ出なかった。


「あまり、無理はするなよ」


 椅子に腰深く寄りかかって、健太は言った。


「頑張るのは自由だが、さっきも言ったけど、お前には守っていかなきゃいけない相手がいる。その人を悲しませるようなこと、するべきではない」


 感慨深そうに語る健太に、優は言葉が出てこなかった。


「……偉そうに」


 ただしばらくして出てきた言葉は、有名人の礼子の将来を危ぶもうとする男の癖に、滅多なことを言うな、という対抗心だった。


「あなたに、何がわかるっていうの」


「わかるさ」


 健太は、パソコンから目を離した。


「俺、将来を添い遂げたいと思った恋人がいたんだ」


 礼子を毒牙にかけようとする男の自白に、優はただ驚いた。


「好きだったんだよ。彼女と一緒に行く海はどれだけ茶色くても綺麗に見えたし、雲がかった空だって情熱的で真っ赤な夕日に負けないくらいに美しく見えていた。

 でも、誤解してしまったんだ。

 彼女との将来を考えて、俺は一層仕事に精を出した。彼女を放って、彼女の将来のためにと仕事にかまけて、そうしてすれ違いを生んだんだ。

 その果てに、俺は彼女にこっぴどい振られ方をしてしまってな」


 健太は、まだ割り切れない当時の話に、目を閉じていた。


「仕事とあたし、どっちが大事なの? そう彼女に聞かれた時……不思議だよな、最初は彼女のために働いていたのに、俺は即答出来なかったんだ。

 ……それが俺達の最後の会話だった」


 傷心な気持ちになりつつあった健太は、優が悲しそうに自分を見ていることに気付いて、少し喋りすぎたと後悔した。


「つまりさ、お前も吉田さんのことが大切だと思うのなら、キチンと対話するべきだ。今回の結果は、間違いなく失敗だった。誰よりもお前が倒れて悲しむのは、あの人だ」


「……はい」


「……ただ別に、落ち込めって言っているわけじゃないぞ」


「え?」


「あんた達は、最悪な事態は防げたわけだろう。まだやり直せるんだ」


 健太とえりかと違い、礼子と優の関係は、まだ如何様にも変えられるのだ。


「終わっていないなら、失敗は成功の糧にすればいい。それだけのことだろう?」


 だから、今度からは礼子との会話は独りよがりになるなよ。

 言外から、優は健太の意図を察した。そして同時に、これまでの自らの行いも悔いていた。


「……どうも」


「それはお礼か?」


 苦笑する健太に、優は頷いた。


「いいよ、お礼だなんて」


 健太は、パソコンに向き直って仕事に戻った。


「その代わり、これからもあの人と仲良くしてやってくれ。友達なんだろう?」


 友達。

 優は思い出していた。礼子と優は、仕事ではバディである前に、友達だったのだ。酸いも甘いも一緒に味わうのが、正しい友達の在り方なのではないだろうか。


 ……ただ。


 礼子の友達は、もう一人。

 今目の前にいる……異性の彼も、そうだった。


「あなた、さっきの恋人の話……吉田さんにはしたんですか?」


 優は懸念していた。

 健太と礼子が、一線を超えることを。礼子の将来を案じて、そうなることを未然に防ごうとしていた。


 ……さっきの話はつまり、健太が今、フリーであることを意味している。

 そんな話を礼子にすれば、健太への想いが溢れる彼女は、もう留まることが出来ないだろう。


「するわけないだろ」


 即答だった。

 正直、優は意外だった。


「どうして?」


 目の前にいる健太のことを、優はもっと薄情でクズな人間だと思っていたのだ。芸能人に取り入る一般人を、優は決まって敵視していた。芸能人は金を持ち、発信力を持ち、他人の憧れであるから、それを利用しようとする連中しか、周りに寄ってこないとそう偏見を持っていたのだ。


 健太は、逡巡していた。


 言えないような理由なのか。


 優は、健太を訝しんだ。


「……女々しいだけさ」


 俯いた健太に、優は首を傾げた。


「まだ俺は……昔の恋人のことを引き摺っている。それだけだ」


 悲しそうにそう言う健太に対して、優の胸中では罪悪感が芽生えていた。

 そして同時に、さっきまで抱いていた健太に対する印象がガラリと変わるのに、時間は必要なかった。


 優は気付いた。


 健太は言っていた。

 礼子と晩酌するのも。礼子とカラオケに行ったのも。


 全て、礼子を想っての行動だったと。


 優はそれを責めた。そんなはずがない。あなた自身がそうしたいと思ったから、そうしたのだ、と。


 健太はそれを口では認めた。

 でもそれは結局、心の底から礼子を想っての行動だったのだ。礼子を悪者にしないように、自らが泥を被ったのだ。


 そうだ。

 健太はいつだって、自らの非は認めた上で礼子との関係を継続させることを望んできた。


 その場限りの関係で良い人が、わざわざ親身に得にもならないそんな行いをこうまで繰り返すだろうか?


 健太がそうしなかったのは……恋心ではなかった。健太は未だ、昔の恋人のことを愛している。


 で、あれば……。




「あなた、相当なお人好しですね」




 どうやら健太は、思わず優が呆れてしまうくらいのお人好しだったらしい。

 バツが悪そうに黙った健太に、優は可笑しい人だと思って、優しく微笑んだ。

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