【皐月・彰子視点】伝わる柔らかさ
・皐月Side
夏になると、決まって公開される夢がある。
気がつくと川の濁流の中で孤立しており、必死に足元を取られまいと私は近くの木にしがみついている。
もちろん、現実でこのような体験をしたことはない。
なのに水の冷たさや激しい雨音、ずぶ濡れのまま耐えしのぐ寒さと冷えのあまり、手足の感覚がだんだん鈍っていく恐怖。
こういった感覚は生々しく再現されていて、夢だと気づくまでにはいつも時間がかかってしまう。
その間にも豪雨は止むことなく降り続け、川はどんどん水かさを増していく。
そして。
上がり続けた水位はついに堤防を超えて、街中まで一気に押し寄せた。
見慣れた景色が、一瞬にして濁流にあふれ飲み込まれていく。
自然の脅威に牙を剥かれ、汚泥に沈む街並みを。
私はただ、傍観することしかできない。
感覚が無くなったかじかむ指を灰色の空に伸ばして、声にならない叫びを放つのだ。
「…………」
暗闇に沈んでいた意識が這い出して、徐々に睡魔の沼から五感が浮上していく。
最初に感じたのは、真新しい敷布団の匂い。
反発力にすぐれ、ほどよい弾力で体を包み込んでくれる快適なひと品だ。
大事なパートナーからのプレゼントでもある。
和室の静謐な空間に敷いているからか、夏の蒸し暑さの中でも空気は澄んでいるように錯覚する。
畳に布団って、こう、いいよね。
眠気がまとわりつくまぶたは、まだ開くことを拒んでいる。
つぶっていても闇の外は明るくて、カーテン越しの太陽みたいに漏れる光を感じた。もう、朝方か。
それから、隣で響く安らかな寝息と人肌の熱さ。背中に回されている引き締まった腕。
いつからか後頭部をこうして支えるようになった彰子の手が、ゆっくりと動いてかき撫でていく。
意図的なのか無意識なのか、起きると頭を撫でられている体勢になっていることが多い。
もっとその感触が欲しくて、私は頬を寄せる。
この季節だからくっついて寝ると暑いけど、代わりに絶大な安心感をもたらしてくれる。
あらゆる意味での家族となった、彰子と添い寝するようになってから。不思議と悪夢を見ることはなくなった。
眠りに落ちるのが恐かった夏の夜も、あなたがいるだけで乗り越えられる。なんて、口にしたら恥ずかしがるかな。
だから、私は幸せな夢を見続けるために彰子にしがみつく。
あの夢で命綱となっている木と重ねて。
だけど、これは逃避行動でもあるのかな。
安眠のためにパートナーを利用するのは、頼りにするのとは違う。
繰り返し脳が見せてくるのは、深層心理で忘れたくないと思っているからか?
そろそろ、私も向き合うべき時なのかもしれない。
ひとつの目標が立ったので、私は再び目を閉じた。
なめらかな肌触りの布地と、伝わる彼女の体温にまどろみながら。
・彰子Side
今年も夏休みがやってきた。
7月も下旬だというのに、蝉の声はまだ聞こえてこない。梅雨が長引いていた影響もあるか。
梅雨明け宣言からはや一週間。
今日は日野の実家からご両親が来るらしい。県内に住んでるから日帰りで。
まさかもう義両親にご挨拶かと気の早さに驚いたけど、本当に家族としてわたしを紹介したいだけだそう。
……あれ?
「ねえちょっと」
三面鏡と向き合って化粧中の、日野の背中に問う。
記憶が確かであれば、日野はDBのスペックにしか興味がない両親から冷遇されていた。
”もう連絡はできない”と(看病したときに)聞いたはず。
「そう言ったね。だから今日来るのは”育ての親”だよ」
唐突に明かされた新事実に思考が弾け飛び、なにぃと野太い声が出てしまう。
なにそれ、初耳だよ。
失敗作呼ばわりしたうえ、そのままポイ? ずいぶん身勝手な奴らだ。
いろいろ口汚くなりそうな感情を押し込め、『そうだったんだね』とだけつぶやき口をつぐむ。
「彰子の言いたいことはわかるけど、想像していることとはちょっと違うかな」
「どういうこと?」
後で詳しく教えるさとぼかしつつ、日野は化粧を終えた。
化粧、といっても薄化粧なのが羨ましい。
こっちは何色もファンデ重ねて目元盛ってそれっぽく整えてんのに、日野は化粧水とUVカットパウダーを肌になじませ、仕上げにリップを塗るだけでおしまい。
職業的に時短メイクじゃなきゃ、朝間に合わないんだろうけど。
もとが良いと得だよね。けっ。
「彰子もこれ使いたい?」
「えっ」
ちょっとしたひがみからガン見してたら、使いたくて眺めていたと思われたのか日野は色つきリップを差し出してきた。
「自然な色合いだからけばくならないし、口紅よりも荒れないよ。何色か持ってるから、試してみるかい?」
「じゃ、じゃあ」
間接キスになるんだけど、そこ分かって言ってるのかなあ。日野がいま使ってたやつを受け取って、すっと唇にすべらせていく。
おんなじリップなのに、血色感とうるおいがある肉厚の唇と比べてしまうとその差は歴然だ。
「ん?」
「なんでもない」
ぷるぷるでやわらかそう、なんて。邪な考えに飛躍してしまう。
でこちゅーは済ませたけど、こっちはまだだ。
あの日以来タイミングが掴めなくて、ずっと言い出せずにいる。
今とか? でも塗ったばっかだし、人に会う前ってのはだめだよね。
「じゃ、準備も出来たようだし出発しますか」
結局不完全燃焼な想いを背負ったまま、わたしたちは駅に向かった。
日向に踏み出すと、まぶしさと熱気に満ちた夏の空気に出迎えられる。
駅までほんの数分なのに、炎天下の日差しは強烈だ。肌がちりちりする。
梅雨の間はあんなに晴天が恋しかったのに、今度は秋の風が恋しいや。
「君が里子さんだね。娘から話は聞いているわ」
そうして日野の”今の”ご両親と初顔合わせになったわけだけど……
意外。おふた方とも性別は女性だ。
中年の婦妻で、養親の条件をクリアするだけあって恵比寿様みたいなほがらかな顔立ちをしている。
だから日野、同性愛にも抵抗がなかったのかなあ。
「単身で高校生の子を引き取って育ててるって聞いた時には驚いたけど、ちゃんと仲良くやってるみたいだね」
「は、はい。日野……さんには数え切れないほどの感謝がございます。ここに来れて、本当に幸せです」
心からの言葉を述べて、膝と額がくっつきそうなほど頭を下げてしまう。
お義母さま方は『すごく礼儀正しい子だね』と好感触だったのでほっとした。里親だけの関係ではないから、ちょっと罪悪感があるけど。
でも、なるほど。
これで当初からの疑問が、ちょっと晴れた。
なぜ、日野の名字は『富山』から変わっていたのか。
なぜ、日野はこの若さで里親を目指そうとしたのか。
「立派になったねぇ、皐月。すっかり母親の顔になって」
「大学で施設出身者に出会ったのが大きかったんだ。家族の仕送りがないって、本当に過酷なことなんだって」
「今はいろいろ制度があるからいいけど、当時は本当に施設の子のサポートは手薄かったものねえ」
ふたりの母親に挟まれて、日野は声を弾ませクッキーをかじる。
まるで今日一日の出来事を嬉々として親に報告する子供みたいに、日野は無邪気な笑顔を浮かべている。
ああ、ちゃんと愛されててよかったなあって。
お茶に口をつけてないのに胸の奥が熱くなった。
「もともと認知度はあんまり高くなかったけれど。里親って、ここ数年は本当に割合が減ってるのよね……」
おふた方の話を詳しく聞くと、科学の発展が関係しているらしい。
同性カップルはかつて、どうしても体の作り的に子供を授かることは不可能だった。
それでも子供が欲しい彼らの選択肢として上がったのは、里親として子供を育てること。
日本では同性婚法案の制定が遅れたのもあって、同性カップルの里親を認定していない自治体が多かったけど。海外ではわりとメジャーらしいね。
「ただ……今はこうして、同性間でも実子を持つことが可能になったでしょう? それはとても喜ばしいことだし、生産性がないなんてもう言わせない結果にもなったけど」
言いたいことはなんとなくわかった。
同性出産の悲願が達成したのだから、そりゃあ里親になりたいって同性カップルの割合は減るだろう。
血の繋がりが親子の絆に結びつくとは限らないことは、わたしや日野みたいな人間がよく知っている。
けど、やっぱり自分たちの子供って甘美な肩書には惹かれてしまうものなんだろうね。自分の子供はかわいいけど他人の子は嫌いって意見もよく聞くし。
残る疑問は、里子になった経緯だけど。
日野にちらちら目配せをしていると、『はいはい』とうなずくジェスチャーを送った日野がリモコンを手に取った。
「ちょっと早急かなとは思ったけど……どうしても今日にしておきたかったんだ」
いくつかチャンネルを回して、ひとつのニュース番組のところで日野がリモコンを置く。
『あの豪雨災害から、きょうで10年の月日が経ちました』
画面は中継に移り変わり、大勢の人が河川敷で手を合わせている映像になった。
川沿いには大量の花束が備えられている。ちいさなぬいぐるみや、ビールまで。
様々な年齢層を想定したお供えものだ。
この映像に切り替えたってことは、まさか。
『黙祷』のアナウンスに合わせて、日野とお義母さんたちは目をつぶり両手を合わせる。あわててわたしも続いた。
その態度が答えだった。
「私はたまたま、友達の家に泊まっていたんだ」
当時のことを振り返るように、日野が重たげな声で状況を説明する。
夏休みに入り、日野は友達の家で宿題を一緒に片付けていた。やれるものは早めに終わらせて、残り期間はぱーっと遊ぶぞと目標をかかげながら。
雨は朝から降っていたが、夕方頃には雨脚はさらに強まり市内各地で冠水が始まっていた。
山に近い地域では、土砂災害警報も流れた。
夜になってもその勢いはまったく衰えず、帰宅時間帯と重なって、多くの車が冠水による立ち往生を余儀なくされてしまった。
そこへ、氾濫した川から溢れ出た水が一気に押し寄せたのだ。
「塾に行った弟を迎えに行って、帰る途中だったらしい。車ごと濁流に呑まれて、何十キロも離れたところで発見された」
淡々と語る日野の声は、悲しみを押し殺しているようで胸が締め付けられるのを感じた。
もう連絡はできないって、そういう意味だったんだ。
「でも、今はそんなに寂しくないよ。3人も家族ができたのだから」
重くなってしまった場を払拭するように、日野が必死に声を明るくして取り繕う。
わたしも、お義母さん方も。
なにも言わず、うつむく日野へと寄り添った。肩を叩いたり、背中をさすったりしながら。
これからも家族なかよく過ごすんだよとお義母さん方からの祈りを受け取って、ふたりを駅まで見送った。
「ごめんね、名字が変わった理由とかもっと早く言うべきだったんだろうけど」
帰宅して、日野は真っ先にこう謝ってきた。
ううん、と首を振る。家族を災害で亡くしているなんてそう軽くは言えないだろうし、告白と同じようにこういう話題はタイミングがある。
それをわたしに打ち明けてくれたということは、日野からも信頼を置かれてる証なのかなとちょっとうぬぼれそうになった。
「やさしいお義母さんたちだったね」
「うん。はじめの頃は母親がふたりとか、本当の親じゃない人と家族みたいにできるんだろうかって不安だったけど」
家族を喪った日野は、誰が引き取るかで親戚中をたらい回しになった。
誰もが彼女の境遇に同情しつつも、子供一人を育てる余裕がある家庭は少ない。
結局アテがなく施設に入り、その後運良く里親候補が見つかるも。
さんざんお荷物扱いを受けた日野は、すっかり心が擦り切れていた。
「どうせすぐ邪魔になる、って最初は疑ってかかってたね。でも一緒に過ごすうちに、自然とお母さんって呼べるようになってた。ふたりは心から親として私を愛してくれたから」
愛さえあれば、年齢や立場関係なく家族になれる。
日野自身もあんまり年齢差がないわたしに、親として真剣に愛を注いでくれていた。
その真っ直ぐな情熱に、最初は無理だと思っていたわたしも少しずつ惹かれていったのかもしれない。
「皐月」
改めて、その名を呼ぶ。
隣に座る日野の手に自身の手を重ねて、向き直る。
「今はまだ未熟だけど、ぜったい追いつくから。隣でずっと、あなたを支える」
「頼もしい娘と彼女を持ってうれしいなあ」
少しおどけるように笑って、日野がにじんだまなじりを拭った。
あとは、言葉はいらなかった。
わたしも、日野も。
その先にある想いはひとつとなって、少しずつ距離が縮まっていく。
吐息を、心音を、おんなじルージュの赤さを。徐々に感じるようになる。
氾濫した川は平常時は流れが少なく、まさかこのような水害を引き起こすとは誰も想像していなかった。
だけど事実は小説より奇なりという言葉通り、ときに想像を超えて日常を奪い去る残酷さといつだって隣り合わせである。
決して他人事ではない。
だから、いま目の前にいる人との一日一日を大切にしていこう。
家族としての思い出を、たくさん作っていこう。
先のことは誰にもわからないけど、いつかはいまじゃないから。
その今に、愛を伝えよう。
わたしは、そう心に刻んだ。
やがて。
2つの影が、重なった。
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