雨天遠足
土曜日がやってきてしまった。
今日は6月では唯一ともいえる学校行事。遠足の日だ。
遠足、といっても2年生は地味。
冬に実施される修学旅行の集合練習のため、羽田空港に集合すればあとは自由。
点呼の時間まで東京中をてきとーに遊んでて、となんともまあ。投げやりなプランだ。
ちなみに1年のときは東京○イツ村だった。
3年生はデ○ズニーらしい。
3年連続東京を冠する場所巡りか。そのうち2つはエセ東京だけど。
ちょっと運賃と時間はかかるけど、路線はシンプル。最寄り駅から終点の品川まで乗って、京急本線に乗り換えればいいだけだから。
乗り換えまで、あと1時間。
あくびを噛み殺して、わたしはぼーっとドア付近にもたれていた。
遠足日和とは程遠い、雨に濡れたガラス越しのにじんだ景色を眺めながら。
最寄り駅からひとつ前の駅は乗降率が高く、空いてる座席はほとんど埋まってしまう。
この街に来てから朝座れたことって、滅多にないな。
「けっこう本降りだね……他の学年が気の毒になってくるよ」
雨足が強くなり、ばしゃばしゃとしぶきを上げて大粒の雨が電車に降りかかる。
くもったガラスをのの字になぞりながら、日野がため息を吐いた。
「梅雨時に行事予定組めばそうなるよ。晴天率4割くらいじゃないの?」
「4月は早すぎるし、5月と7月はテスト期間だし。1学期内でちょうど良くねじ込めそうなのが6月しかなかったんだよー」
「確かになんもないけどさ6月」
今日は遠足のため、服装は私服。
制服じゃなけりゃ怪しまれることも少ないだろうと見込み、わたしは日野の出発時間に合わせて乗車した。
当然教員は生徒より早く着いていないといけないので、クラスメイトと出くわす可能性も低いだろう。
一緒に家を出たのは、わたしが日野といる時間を確保したかったからだ。
「ん?」
カーディガンの裾を引く。
次の駅でたくさん乗ってくるから、入り口付近から移動しようと。
「そうだね。ここにいても邪魔になるし」
まもなくXX駅ですとアナウンスが流れたタイミングで、わたしたちはすぐ横のつり革へと移動した。
日野は座席の一番端にある手すりをつかむ。身長的に、つり革は腕の負担になるのであまり使わないらしい。
「…………」
隣に立つ日野を横目で見る。
セットアップで、伸縮性のあるゆったりとした生地と涼し気な若草色のブラウスが上品さをかもし出している。
きゅっとウエストを胸下で絞り、足首まですらっと伸びたガウチョパンツは脚長を演出している。
黒一色の辛口なボトムスと対象的に、腰からひらひらとなびくリボンがフェミニンでいいアクセントになっていた。
薄く化粧を施し髪を下ろした日野は、いいとこのお嬢様感がすごい。
私服の日野を前に、本職を答えられる人はいないんじゃないかなとすら思う。
学校行事だから、気合が入っているのか。
それとも、誰かに見せるためのおしゃれなのか。
あることないことをもやもや考えて、頭の中がざわついていく。
無意識につり革を握る指に力をこめていた。
それもこれも、例の日付が今日だからだ。
『土曜日どうですか?』
あの、日野のスマホに送られてきたメッセージにわたしはずっと心を曇らせている。
さすがに無断で中身を確認する、はしなかったけど。
中途半端に謎で終わったぶん、知りたい気持ちがしぼむことはなかった。
学校行事で見知らぬ誰かと密会するなんて、職業倫理に反することはしないだろうし。
他の先生方とどこで食事するかプランを立てているだけ、とも考えられる。
正直そっちの可能性のほうが高い。
デートまでなら許す、と本人に宣言までしたのに。
いざ疑惑が出てくると、割り切れず嫉妬心をたぎらせている自分がいる。
人間って醜いなあ、思い込みだけでこうなれるんだから。
『ご乗車、ありがとうございまーす』
次の駅に着いて、どっと人がなだれこんできた。
大きい駅だから降りる人より乗る人のほうが遥かに多い。
残念ながらわたしたちの前の席は空かず、中程まで入ってきた人の波に押し流されて日野がもたれかかってきた。
「わわ、」
日野が立っていた場所は、ドア付近で陣取りたい人たちの激戦区。
詰め寄せる人が多すぎて、日野の掴んでいた手すりはあふれてきた誰かにかっさらわれてしまった。
中ほどまで進んでスペースを開けろと、無言の圧力が日野へと押し寄せてくる。
しぶしぶ、わたしたちは中央に移動した。
「大丈夫?」
「うん……」
手すりを追われた日野は仕方なくつり革に掴まっているけど、腕はぴんと伸び切っている。
つり革が長めの優先席前に移動すればよかったかもしれない。
けど、車内はぎゅうぎゅうのすし詰めで今さら遅かった。
「掴まってていいよ」
空いている肩を日野へと差し出した。
あの姿勢では腕と肩の負担が地味にきつそうだし。
せっかく日野には”会う約束”があるのにこんなとこで体力を消耗させたくない。
「え、ええ。それはできないよ。私重いから。彰子だって疲れちゃうよ」
「この電車けっこう揺れるし、だいぶしんどいと思うよ。他に掴まるとこもないんだから」
「そ、そうだけど」
タイミング良く車内が揺れて、『ひえぇ』と短い悲鳴を上げて日野が腕にしがみついてきた。
予告なしの密着にこっちまでつり革から指がすべりそうになる。
「あ、ご、ごめん」
「べつに。重くなかったから」
揺れる前につり革から指を離していたあたり、やっぱりずっと掴んで疲れていたのだろう。
席の中央に手すりが伸びているタイプもあるけど、あいにくこの電車は端っこにしかないのがねえ。
「たぶん上野あたりでばーっと降りるだろうから。空いてきたら移動するよ」
言い切って、あとは日野次第なのでわたしは会話を終えた。
悪天候で真っ白な景色を眺めていると。
失礼します、という控えめな声と一緒に、するすると服の裾に指が伸ばされた。
「し、しびれてきたら遠慮なく」
「ん」
べつに下心があって声をかけたわけじゃない。ちょっとしかない。
が、これだけ密着している状況では、意識しないほうが無理だと言える。
はじめは服の端をつまんでいるだけだったのが、相次ぐ揺れによりボディアタックをかまされ、腕を組む結果となった。
片腕は今や、日野の一部と化している。
あったかさとか柔らかさとか香りとか吐息とか、そんなんが感じ取れるくらいの距離で。
こんな大勢のいる中でよからぬ考えを巡らせてしまう自分が、浅ましくて嫌になる。
けど、頼りにされたい人に頼られている状況は。
このうえなく優越感に満ちて甘美なひとときだと、勝手に脳が麻薬をばらまいてしまうのだ。
息苦しいのも、勝手に対抗心を燃やす思考も。
頭お花畑に埋もれている脳みそのせいだ。
「頼もしいね、彰子は。自分に掴まれだなんて、少女漫画の1シーンみたいで」
密着したまま、日野が上目遣いでこちらを見上げる。
こっちはこっちで恋愛ドラマの1シーンみたいで、くっと声がへんな調子ではじけそうになった。
恋煩いと無自覚の暴力で、わたしの心は摩耗してドロドロだ。
だけど、役得だと浮ついているだけではなんの頼りにもならない。
もし痴漢を働く不届き者がいても守れるように、見張っていなきゃならないのだから。
「ぜいたくは言わないから、あと20センチは欲しかったなあ。娘より低い親なんて格好がつかないよ」
至近距離でぼそぼそ、日野が耳打ちしてくる。
吐息が触れて、鼓膜がぞわわっと震えた。
日野、さすがに20センチアップは高望みだと思うよ。それだけコンプレックスってことなんだろうけど。
「見た目じゃないよ。日野はじゅうぶん格好いいよ」
本心から伝える。
教員として、保護者として。この人の温かさと眩しさに何度救われたことか。
そういうふうに設定されているのかもしれないけど、もともとの人格も影響していると信じたい。
だから現在進行系で惹かれている……ってこれは余計な感情オプションだけど。
「本当だよ。引き取ってくれたこと、心から感謝してるし誇りに思ってるから」
「そんなに褒められたら惚れてまうやろー」
「…………」
小声で茶化した口調になって、日野が屈託のない笑みをほころばせる。
その表情で、その言葉が飛び出したことに。
一瞬目眩がした。
車内にこもる蒸し暑さが、一気に体内で沸騰する。
血液がぽこぽこ泡を吹きそうな勢いで。
ぼっと炸裂した火があちこちに散らばっていく。
冗談でも、そんなこと言わないでよ。
それか、冗談じゃなくなってよ。
口が裂けても言えない言葉が浮かび上がってきて、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
代わりに、わたしは楽な言葉に変えることによって本心を上書きした。
「そういうとこだよ」
何が? と疑問の表情を浮かべる日野に曖昧に笑って。
ふたたびわたしは口を閉ざした。
そうしている間にも、ぐんぐん景色は流れていく。のどかな田園風景から、高層ビルが建ち並ぶ都市部へと。
憂鬱な濁った空色の下、雨に打たれながら電車は目的地までわたしたちを運んでいく。
その後の自由時間でまさかの形で鉢合わせることになるとは、このときは知るよしもなかった。
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