お祝い

 中間考査の結果にわたしは確かな手応えを感じていた。

 五教科全てのテスト用紙が入ったクリアファイルを取り出し、ぺらぺらめくって得点を一枚ずつ確認していく。


 頬の緩みが止まらない。気色悪い顔になっていそうなので、ファイルで口元だけを隠した。


 全科目、平均60点をマークしたこと。

 公立校で日頃勉強してこれだから自慢できる成績ではないんだけど、これまでは平均点もいかなかったことを考えると大きな進歩だ。

 少なくとも、わたしの中では。

 次も頑張ろうって、モチベが確かに根付いている。


 もうひとつ。わずかな成績アップに気を良くした日野が、お祝いと称して外食に連れて行ってくれること。

 だらけた頬の由来はおそらくこっちだ。


 相手の期待に応えて、褒めてもらえる。子供かって単純な思考回路につっこみたくなるが、感情に嘘はつけない。

 つまるところわたしは、大いに浮かれていた。



 仕事が終わり次第向かうということで、お祝い会場は現地集合となった。

 いま住んでる街はまじで飲食店のバリエーションが乏しいから、いつもわたしがバイトしているモール内のカフェに落ち着いた。


 職場は2Fのフードコートだから、1Fのレストラン街はほとんど通ったことがない。

 毎週訪れている店なのに、新鮮な気分だ。


 席取って待っててということで、わたしはテーブルの低いソファー席へ腰掛けていた。

 ふかふかのクッションと背もたれが心地いい。勉強や仕事で何時間も居座る人の気持ちもわかる。


『そろそろ着くよ』と律儀によこしてきた日野のLINEに返信して、結露が吹き出てきた冷たいグラスに口をつけた。


 けっこう冷房が効いてて、肌寒いくらいなのに。

 喉の潤いが十分でも、無意識に指が伸びてしまう。


 お祝いくらい、口頭で褒めれば済む話。わざわざ外食に出向くほどの内容ではないのに。

 おすすめのお店をたくさん知ってほしいからと、日野はわたしとここに来る機会を伺っていたらしい。


「…………」

 柄にもなくそわそわしている自分に頭を抱える。

 これじゃデートの待ち合わせみたいじゃん。


「おつかれー」

 グラスの水が半分を切る頃、日野が入店した。

 向かい側の席に座った日野が視界に入って、挨拶の声が喉の途中でしぼむ。


 目を、奪われていた。


「待たせちゃってごめんね」

「や、そんなには……」


 わざわざ着替えてきた日野という不意打ちを食らって、無意識に姿勢を正してしまう。


 シャツワンピース、初めて見る服装だ。

 ハイウエストのデザインが縦長のシルエットを引き立てて、童顔の日野でも大人びて見える。

 飾りっ気のない無地の生地でも、美人が着るとやっぱ違うな。

 ついまじまじと観察してしまった。


 勘違いするなわたし。浮かれそうになる頭に喝を加える。

 知り合いに目撃されたら面倒なことになるから、余所行きの服装で変装的なことをしてるんであって。


 というか、わたしの格好もどうなんだ。バックプリントのTシャツとデニムボトムスって。

 部屋着レベルじゃん。

 カフェには場違いすぎて、適当にチョイスした己のセンスをちょっと後悔した。


「ここ、けっこう涼しいなあ。寒くない?」

 冷えると同意したかったが、正直に言うとお店代えようかとか気を使われそうなのでコーヒーで温まるし大丈夫よ、と意地を張る。


「猫背で腕組みながら言われても説得力ないぞー」

 これ着な、と。

 日野が羽織っていたサマーニットのカーディガンを脱いで、わたしの肩へとかけた。


 人肌のぬくい生地が、冷えた二の腕をふわりと包み込む。

 爽やかな香水の匂いも濃くなって、わたしの神経からは一瞬で冷房の寒気など吹っ飛んだ。


「あの、日野は、」

 寒くないの、と聞くと。ちょっと急いで来たから暑いくらいだよと返ってきた。

 その言葉通り、日野はヘンリーネックの襟元をつまんで上下にぱたぱた動かしている。


 ちらりとのぞく鎖骨に視線が吸い寄せられて、あわてて逸らした。

 おっさんかわたしは。


「ど、どうも」

 固まったままだと逆に日野が『人の着てたものって嫌だった?』なんて気を落としそうだから、お礼を言いつつがちがちの身体にまとう。


 さっきまで着ていたものに、腕を通すって。わー。

 活性化した脳みそに、ミーハーな言葉がびゅんびゅんと飛び交う。

 間接キスならぬ間接着ってやつか、これ。新語作ってどうする。


「おー、なかなか似合ってるね。Tシャツとの組み合わせもけっこういけるんだ」


 日野が小さく手を叩いた。さぶいぼが引っ込んだ肌に、じわーっと熱がともる。

 残り香と残温のせいだ。着ておいて早々に暑さを覚えていた。


 なんかもう、あれだ。

 わたし、完全に沼に沈んでいる。落ちている。


 ちょっと前までは屈託なく話せていたのに、感覚がもう取り戻せなくなっている。

 ふとした相手の仕草に見惚れてしまっている。

 家族に向ける優しさを、自分の都合のいいように解釈してしまう。


 こんな調子で、この先同居生活をやっていけるんだろうか。

 そのためにも今日、聞くと決めたのだから。



「ではでは、乾杯」

 熱いマグカップを掲げて、ささやかなお祝いは着々と進んでいった。


 当店自慢のブレンドらしい、深煎りコーヒーは意外にも飲みやすかった。

 濃い色合いからもっと苦味の残る後味を想像していただけに。


 スモーキーな香りと風味が五臓六腑に染み渡って、取り乱した心を浄化してくれる。

 量は多いのにするっと飲めてしまうあたり、やや強気の価格設定に見合った品質だ。


「それにしても、よく頑張ったね。英語なんて平均点以上じゃないか」

「そもそもあれ、平均40点だよね。教科書やプリントの復習じゃどうにもならないリスニングが中心だったから」

「彰子、とくにそこの得点が良かったろう。毎日海外ドラマを観ていた成果が表れて、先生はうれしいよ」


 勉強のためじゃなく、純粋に面白かったからドラマは継続して今でも観ている。

 まさか今回のテストで生かされるとは思っていなかったな。

 あのドラマ、ファミリー層向けだからか会話がシンプルで聞き取りやすいんだよね。勧めてくれた日野に改めて感謝だ。


「日野もすごいよ。担当教科、平均70点って。みんながちゃんと授業を聞いている証拠だよ」

「点数が高いのは喜ばしいことだけど、ちょっと簡単にしすぎたかなぁ」

「要点が把握しやすかったからだよ」


 日野が授業のやり方を変えてから、睡魔に襲われることは少なくなった。

 検定教科書の要点を箇条書きにまとめたプリント(レジュメ)で、教員の説明に耳を傾けつつ板書していくスタイルだ。

 しっかり話を聞いていないと白紙のままなので、適度な緊張感が保たれている。


 また、今回の授業内容について自分の見解を述べる項目がある。


 脳死で板書や穴埋めをするのではなく。自分で考えて行動する、という結果に繋がっているのはなかなかいい工夫だと思った。

 だからこんだけ高い平均点を叩き出したんじゃないかな。


「彰子、中間のなかではこれが一番点数が高かったね」

「もともと社会科は好きなほうだし。最初に居眠りしちまったぶんの取り返しもあると言いますか」


 あなたの授業だから、いい点数を取って喜ばせてあげたい。

 その一心でだらけた心体が引き締まるあたり、わたしは単純だ。


 点数で一喜一憂している間に、料理が運ばれてきた。


「このサンド、ボリュームすごいね。他の店の薄っぺらいサンドがぼったくりに見えてくるよ」

「サンドイッチは具だくさんじゃないと、食べた気がしないんだよなー」


 深煎りコーヒーと並ぶ人気商品、クラブハウスサンドも日野が勧めてくれただけあって美味しい。

 会話もそこそこに、取り憑かれたようにわたしと日野は黙々と胃におさめていく。


 ライ麦パンのちょっとクセがある香ばしさに、粒マスタードの辛味が絶妙にマッチしている。

 パンだけで美味しいのに、間に挟まったベーコン、レタス、トマトの組み合わせも絶品だ。

 弾力感と食感と酸味、異なる味わいが融合したこのサンドイッチはいくらでも胃に入りそう。


「…………」

 パンをかじりながら、わたしはじりじりと機会を伺っていた。

 まずは相手のことを知らなければ、何も動けない。そう山葉さんにも忠告されたのだから。なんだけど。


 いま、意中の相手はいますか。

 同性はそういう対象に入りますか。

 恋愛感情と性欲はイコールですか。それとも別々ですか。


 ……聞きづれえ。

 とくに最後とか、どう言葉を変えてもセクハラになるんだけど。


 逆にわたしはどうなんだ。性的指向なんて考えたこともなかったけど。

 日野とそういうことがした……できるかで不埒な妄想へと飛びそうになり、ぶんぶん首を振って追い出そうとする。


 いや、まあ、気になる相手だったらさ。

 少なからずその手の下心はある、ないことはないよ。それが普通だと思ってた。


 けど。もし相手が受け入れられない無理、と言われても関係解消まではいかないかなあ。

 それくらい手放したくない相手なら、できる限り歩み寄りたいと思うし。


「どうしたんだい、彰子」


 噴火と鎮火を繰り返す挙動不審なわたしへ、日野が怪訝な顔で話しかけてきた。


「んーと、ちょっと、」

 聞きたいことがあるんだけど。喉の途中でせき止められている言葉が出そうで出て来ない。


 言え、言ってしまえ。あわあわしてたら余計に怪しまれるぞ。

 目の前にいる人を同世代の女子だと思え。軽いガールズトーク感覚でさらっと言っちまえ。


「日野って……その。好きな人とか、いる?」

「いないけど……え、どうして?」


 いないんだ。その言葉に一瞬ほっとするものの、返事の声はぎこちない。

 そりゃそうだろう、娘にいきなり恋心の有無を探られたんだから。


「べつに。単なる恋バナ。家族間でやるかは不明だけど」

「ああ」


 もっと仲良くなりたくて、若者には定番の会話を引き出してきた。

 そう受け取ってくれたのか。日野は保護者の目線となる、柔らかい目つきになって会話に応じてくれた。


「そっかー。彰子もついにそんなお年頃になったかー」

「早熟な子は園児からそういう話してたりするよ」


 それに、今はファミサポや保育園義務教育化により、育児と仕事は両立しやすくなっている。国はたくさん産んでほしいわけだし。


 結婚年齢の平均値も、晩婚化と揶揄された時代よりはいくらか解消しているわけだからさ。

 日野の年齢的に、恋愛よりも子育てが先にくるのは不思議だと思っていた。


 そう、切り出すと。


「彰子もかあ。実は同僚にも突っ込まれたばかりなんだよね。里親をこの先も続けていくなら、結婚したほうがいいんじゃないかって」


 ……え?

 初めて耳にした情報に、わたしはサンドイッチを落としそうになった。

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