母の日(前編)
あれから一晩が経過して、冷静に戻ったわたしは布団の中で『んなあほな』とつぶやいた。
あれは吊り橋効果の一種で。
自己否定から抜け出せず深く潜っていくところを、肯定でもって引っ張り上げられたからそのまま舞い上がっているだけで。
親愛を勘違いしているだけで。
単なる家族としてもっと仲良くなりたいの表れで。
だから、断じて。そっちの気では。
日野も言ってたじゃないか、一時の感情に流されるなと。
近頃のわたしは振り回され過ぎなのだ。
「おはよう」
いつもは日野が起こしに来るけど、今日は逆。
起こされる前に居間へと現れたわたしに、日野はおやっと意外そうに目を丸くさせる。
「大丈夫? 気分が悪いとかはない?」
「触ると痛みはあるけど、日常生活に問題はないよ。痕もそのうち消えると思う」
「そっか……うん、」
よかった、と言いかけた途中で。日野は言葉を飲み込んだ。
唇を固く引き結び、眉をわずかにひそめて。
怒りそうになるのを我慢している顔だ。
表情にあらわれていることに気づいて、あわてて日野は口角だけを上げる。
「ごめんね、朝からこんな顔をして」
やられた側の非はあれど、やっぱり娘に怪我をさせたことの正当化はできない。
割り切れない感情を日野は話してくれた。
「それに、報復が今回きりとは限らない。エスカレートしないとも限らない。その可能性を考えたら、次は被害届を出すよ」
「わたしはそうされても仕方ないとは思うよ。それだけのことをやってしまったんだから」
でも、その危害がわたし以外の誰かに向けられるのであれば別だ。
まだ、わたしにはつけなければならないけじめがある。
昨日は自暴自棄になっているところを日野に止められて、なんとか我に返ることができた。
そこまでだ。解決には向かっていない。
具体的にどうすべきか、わたしは一晩悩んで答えを出した。
今日やるべきことは、そこからだ。日野にも具体的な要件を伝える。
「もう、二度と暴力は振るわない。あんなに痛くて、深い傷を遺してしまうってわかったから」
わたしが傷つけたのはきっと、あの子だけではない。その罪の重さを考えたら、地獄に落ちたって足りやしないだろう。
考えるとまた自死の選択に逃れたくなるけど、思考が闇に傾くたびに日野の悲しげな顔が浮かび上がってくる。
傷つくことに慣れているはずの心に、するどい痛みを覚える。
彼女の期待を裏切り、救いようのない罪を重ねるわけにはいかない。
そう心に刻むことで、わたしは今日もぎりぎり踏ん張れている。
誓って、朝食後にわたしはやるべきことへと踏み出した。
まず、警察から勧められた”話し合い”の続きを。
わたしは女子の家に向かい、誠心誠意過ちを詫びた。
自分のことは一生涯許さなくて構わない。
だけど、怒りはすべてわたしだけに向けてほしい。それだけを懇願した。
相手はもちろん赦すつもりはないが、復讐はこれっきりにする。金輪際こちらから関わる気はない。そう静かに答えた。
昨日の激昂ぶりが嘘みたいな、恐ろしく落ち着いた調子で。
淡々と、女子との会話は終わった。
謝罪したところで、当然楽になるなんてことはない。
むしろ冷静に、きちんと話し合いに応じてくれた女子に感謝すべきだ。
「あのさ」
「ん?」
「ごめん」
靴を履いたタイミングで、それまで無言だった女子からいきなり謝罪の言葉が飛び出してきた。
ん? 聞き間違いか?
聴覚を疑うわたしへと、続いて女子は頭を下げた。空耳じゃなかったことと被害者から謝られたことに勢いよくいやいやいやと手を突き出し振る。
「謝る必要なんて」
「あるよ。自分がされて嫌だったことは人にもすんなって意味、今になってわかった。無抵抗のあんたをボコったってぜんぜんスカッとしなかった。そりゃそうだよね、加害者になってんだもの」
自嘲気味に、女子は息を吐いた。こんな後味悪いことあんたで最後にするからと。
ああ、だからか。昨日とこんなにテンションが違うのは。
彼女は、同じレベルにまで落ちてしまった罪の意識を覚えていたらしい。理性を失わず加減していたのにもかかわらず、それでも罪悪感を覚えていて。
昨日の病院の治療費はこちらが負担するからと、遠慮するわたしに食い下がってきたためしぶしぶ折れる。
「じゃあ」
「うん、じゃあ」
互いの意思を確認し、当事者間で何をすべきかの決着はついた。これ以上の言葉は不要だろう。
短い別れの挨拶を最後に、わたしは女子の家を後にした。
背負ってまた、ここから始める。
日野が背中を押してくれたから、わたしは進むことができた。
住宅街から少し離れた、広い畑の場所に停車する車へと。わたしは向かう。
「おかえり」
「ただいま」
それだけを交わして、無言のまま発進する。
日野はわたしを単独で行かせることに内心不安だったみたいだけど、何もなかったことを告げると安心したように表情から緊張がほどけた。
わたし以上に日野の顔は白くなっていたから、やっと血の気が戻ってきたことにこっちまでほっとする。
「えっと。お昼、どうしようか」
しばらく車を走らせたところで、たどたどしく隣から声がかけられる。
状況が状況なので無難に家で済ませよう、と言おうとしたところで。GWだったことを思い出して、わたしは言葉を変えた。
「おすすめのお店、あったら教えてほしいかな」
家にこもっていても湿っぽい空気になるだけだし、ここはぱーっと美味しいものを日野に与えてあげたい。そう伝えると、ぱっとわかりやすく日野の表情に陽が差した。
「じゃあ、混む前に行っちゃおう。何食べても美味しいから、なんでも頼んでいいよ」
「ありがとう」
せっかくのGWだからね、と多くは語らず家族サービスを忘れない日野の声はどこまでも優しい。
改めて思う。この人が里親で、本当によかったと。
さて、次は過去と決別する自分であるために。まずは迫る中間テストで点数を上げることが当面の目標だ。
昨日の夜の分の勉強がいろいろあってできなかったから、今日挽回するか。
「よし、これで30語だ。よく覚えたね」
5度めの挑戦で満点を得た小テストに、日野がさらさらと赤ペンで花丸を描く。
勉強開始時に書き出した、先に覚えた20語の英単語もまだ忘れていない。
朝復習しておいてよかった。順調にいけば、明日の夜で50語暗記のゴールにたどり着ける。
また、リスニングとスピーキングの予習も兼ねて。
単語はすべて、フォニックス(英語本来の音)で覚えている。
それもカタカナ英語からの脱却を図るため、読み仮名は振っていない。
英単語を見たらするっと読み方が引き出せるように。
文面での暗記ではなく、声に出して脳にインストールさせていく。
「ただ、日本だと日常生活で英語の音を浴びる機会はほとんどないから、まだ単語だけを覚えている段階では英会話のイメージはしづらいよね」
「識字できないうちから言葉を話せるってのは、その言語の音を普段から聞いているからすんなり順応するってことだよね」
「そうそう。彰子は洋画とか、洋楽とか好きだったりする?」
「前者は日本語字幕と吹き替えで。後者はぜんぜん聴かない」
ごめん。日本人アーティストでも歌詞のほとんどが英語のやつはあるけど。
あ、ウィ・アー・ザ・ワールドは中学でさんざん聞かされたからサビだけは歌えるわ。
「おお、歌えるってすごいじゃないか」
「や、音で覚えてるだけで歌詞はぜんぜん。途中からほにゃらら~になるよ」
「いやいや、それで十分。好きな洋楽に出会えれば、そのうちもとの単語が浮かばなくても口ずさめるようになるんだよ。識字より先に、音で覚える感覚がこれになるのかな」
次からは海外番組も見てみようか、と日野はファミリー層向けのあるドラマを流してくれた。
英語の音に慣れることが目的なので、日本語は字幕のみ。
内容は、シングルファザーの主人公が友人たちと子育てに奮闘するホームドラマ。
全体的にコメディタッチな作風で、笑うべきポイントでギャラリーの笑い声が流れるので見やすい。
役者のちょっと大げさな身振り手振りも、言葉が理解できなくても何をしているのかは分かりやすい。
字幕なしでもある程度のストーリーは掴めるほど。
なるほど、英語教材にも向いてそうだこれ。
こうして英語学習の時間は過ぎていった。
うん、やっぱり昨日のあれは思い違いだったんだ。
こうして日野とドラマ見て駄弁っていても、なんにも意識しない。
すごく健全な家族時間を過ごせていると思う。
と、思っていたのに。
「あ、そうだ。忘れていた」
ドラマを見終わったタイミングで、日野が思い出したように手を叩いた。
「どうしたの」
「満点取ったごほうび。今日は彰子に選ばせてあげるよ」
まさかの選択制?
ご飯のリクエストでも外出でも予算1000円以内のプレゼントでもいいぞーと、日野は笑みをほころばせながらわたしからの返事を待っている。
いや、突然言われてもな。
そんなにお高い要求はできないし、どうしたもんか。
うんうん唸っていると、ふとお昼のニュース番組が流れ始めたテレビに目が止まった。
もうすぐ母の日ということで、商戦に備えて準備する花屋の特集を。
カーネーション、バラ、ガーベラといった定番の花を店頭に並べて、華やかに飾り付けていく様子が映し出されている。
その中に。ママの日だー、と花を指差し談笑する親子の姿が目に止まった。
仲良く手をつないで、あれはなんてお花? と指をさす少女に。
母親と思しき女性は、ひとつひとつ丁寧に名前を教えていく。
詳しいですねえ、と様子を見ていた店員さんが驚きの声を上げる。
その姿に、言い表せないノスタルジーを覚えた。
昔のわたしと、もう顔も思い出せなくなってしまった母。重ねるように、わたしは画面に釘付けになっていた。
「ん? あれかい?」
花が欲しいと思ったのか、日野はわたしの視線に気づいて答えを先回りする。
玄関先のお花もしおれてきたし、いい機会だねーと同意しかけている日野と打って変わって。わたしはいえいえと手を振った。
「お、お花なら。母の日に買うから」
「プレゼントの予告なんて嬉しいなー」
言えるわけがない。
わたしの目的は、花じゃなくてあの親子のやりとりで。
手をつないで歩きたい、だなんて。子供かよ。
いや、家族ならつないで並んで歩くくらい普通、だよね。意識してるわたしが変なのか? 何を意識してんだ?
わーわーとやかましくなった脳内討論をさておき、無難な答えへと逃げる。
「あ、それと。ごほうびはいつものでいい、から」
「はいはい」
いつも通り頭ぽんぽんされて、娘らしく可愛がられるだけ。
それでやる気アップにつながり、また次の勉強でも頑張れる。大事なコミュニケーションだ。
言い聞かせて、頭部への感触を待つ。
「わっぷ」
柔らかいものに頭が拘束されて、わたしは全身を硬直させる。
え、何? 頭だけだったよね?
「今日は変わり種でーす」
遅れて、つむじ付近がわしゃわしゃ撫でられているのが伝わってくる。
メニュー通りなのだ、けど。
まるで昨日のように、わたしは日野に抱きすくめられていた。気まぐれでやってるらしい。
「む、むぎゅう」
何か言おうとしたけど、顔が埋もれて声が出ない。胸部に圧迫されている状態だった。
え、ええ。待って。これはやばいでしょ。
昨日も似たようなことをされたくせに、今は動悸が止まらない。
母親からの愛情たっぷりの抱擁だって、脳が受け取ってくれない。
柔らかさとか、香りとか、声とか。五感に覚えるすべてが、わたしの心拍数を跳ね上げていく。
だって胸をめっちゃくちゃ押し付けられて、いい子いい子と頭を撫でられてんだよ。
なんかめっちゃ、いけないことしてんじゃねって背徳感が湧き上がってくる。
「はい、おつかれー」
日野なりのごほうびタイムが終わって……だめだ今の状態だと別の意味にしか聞き取れない。
無駄に汗ばみ息を荒くするわたしへと、日野が苦しかった? と申し訳無さそうに両手を合わせる。
「べ、べつに」
顔すらも合わせられなくなって、逃げるようにわたしは自室へと戻った。
どうなってしまったんだよ、わたし。
頭を抱えてベッドへと飛び込んで、枕に何度も頭突きをかます。
ちょうどひとつの答えを提示するように、しおりがはさまった文庫本が目に止まった。
あの、ここに来てすぐに作った、桜の押し花の手作りしおり。
”キャッチした花びらの枚数は、1年のうちに出逢う恋愛対象になる人の数になる”
まるでこれからのことを予見するように、今のわたしは意味深に受け取ってしまう。
……さすがに。ねえ?
相手、従姉で里親で先生だよ?
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