第3話 巻き込まれた

 エルチェが教室に入る頃には、一番後ろに空いた席が二つ並んでいて、有無を言わされず座れと示される。授業を続ける先生も、ちらりと一瞥をくれただけで他に反応はなかった。

 ただ、生徒たちは別だ。

 エルチェと並んで座った美少年を振り返っては、ひそひそと囁き合っている。落ち着かないエルチェとは裏腹に、少年は興味深そうにエルチェの教科書を覗き込んできた。

 どうせ大して聞いてない、と教科書は少年――レフィの方に押しやってしまう。


「ノートはとらないの?」

「うるせぇって」


 ふぅん、と薄笑いしながら、レフィはパラパラと教科書をめくっていた。

 次の授業が終わって昼になっても彼はそこに居た。エルチェの持ってきたサンドイッチをじっと見つめている。

 荷物らしい荷物は持っていなかったわけで、当然弁当などありはしないのだろう。根負けして、エルチェはひとつを掴み上げると残りをレフィに押しやった。

 なんで自分が、と思わないでもなかったが、彼は弟妹達にたかられるのに慣れていたので、染みついた習性とも言えるかもしれなかった。

 レフィは小さく笑ってひとつを取り上げ、「ありがとう」と礼を言った。ゆっくりと食べてしまうと、いつもの冷たいアイスブルーが少しだけ緩んでいるように見えた。


「美味しかった。お母様によろしく伝えておいて」


 『お母様』なんてガラじゃねぇがな、なんて思っていたところでレフィが立ち上がる。同時に教頭がやってきた。教頭が口を開く前に、レフィは彼に向かってひとつ頷く。


「じゃあ、またね」

「は?」


 そしてあっさりと、教頭について行った。

 遠巻きにしていたクラスメイトが、何人か好奇心に負けて集まってきたけれど、エルチェはどの質問にも上手く答えられなかった。



 *



 それからしばらくは何事もなかった。忙しなく収穫の手伝いをして冬支度をして、路地裏組も似たようなものだったのだろう。トラブルもほとんどなかった。

 普段あまり見ない大人が遠巻きにエルチェを窺っていることがあるくらいで、それもエルチェの生活に支障はなかった。

 その日は、両親に客が来て、弟妹達の面倒を押し付けられるのが嫌だったので、エルチェはさっさと外に繰り出していた。

 とはいえ行く当てもない。弟妹達の行かないような人目の少ない場所を選んでいくうちに用水路へと出た。収穫も終わり、畑にも人気ひとけはない。

 そういえば、その辺に銀貨を投げた奴がいたなと、水の少なくなった川底を覗いてみる。もう拾われてしまったのか、錆びついてしまったのか、それらしく光るものは見当たらなかった。

 今更未練たらしく(暇だったのもあるのだけれど)中に下り立って、足先で底をつついてみたりもした。


 しばらくそうしていたけれど、寒さも染みてきて、エルチェはそのまま用水路の中を歩き始めた。大きな川の方へ出ようと思ったのだ。なるべく濡れないように端の方を歩く。

 そろそろ正規の路へ出ようかと登れそうな場所を探している時だった。

 足音が近づいて、

 その人物が宙にいる間、エルチェは目が離せなかった。驚きに見開かれたアイスブルーが、次の瞬間、鈍く光ったような気さえしたのに、とっさに出してしまった手を引っ込められなかった。

 抱き留めて、衝撃に何歩かよろける。無事に着地したレフィは、間を開けずにエルチェの腕を引いて走り出した。


「ナイスキャッチ!」

「いや……おい?」


 元来た方向へ戻ることになって、エルチェは少しだけ抵抗してみる。けれど、背中で小さな舌打ちを聞いて、考えを改めた。真面目に走ることにする。


「……何やったんだよ?」

「何もしてないよ」


 楽しそうに口角を持ち上げる顔はどうにも嘘くさい。

 何もしていない奴は大人に追いかけられたりしないのだが。

 エルチェがそんなことを考えているうちに、後ろから水音が追いかけてきた。


「しつこいなぁ。君がいてもダメか」

「人通りの多い方に出た方がいいんじゃねぇの?」


 レフィはちょっと考えて、小さく肩をすくめた。


「この格好で行きたくないな。どこか隠れられそうなとこはないの?」


 格好を気にしている場合かよ、と呆れてみたものの、パリッと金持ちのお坊ちゃまな格好は、路地裏組には目に毒かもしれない。息抜きでもなんでも、まだあの辺りに通いたいのなら、その容姿も相まって確かにちょっと目を引きすぎる。

 夏に生い茂っていた草や木もほとんど枯れ果てているし、隠れられそうなところなど……と、しばし頭を悩ませて、エルチェは「登るぞ」と少し前方の土手を指差した。用水路の壁となっている土手の上部が、わずかに傾斜が緩やかになっている。

 レフィの前に出て彼を手で制し、足を緩めるように促す。先に行くと振り返って腰を落とし、土手を親指で指してから膝を叩いた。

 レフィはまっすぐ突っ込んできて、エルチェの思惑通り膝を踏み台にする。上手く土手を登り切ったのを振り返って確かめると、自分はまた走り出そうとした。


「エルチェ!」

「もうちょい向こうにもっと登りやすい場所がある。お前は行け!」


 また逆方向に走れば、だいぶ距離を稼げる。少し戻れば、確か農具を入れておく納屋があったはずで、上手くいけばレフィはそこに隠れられるかもしれないという思惑もあった。

 けれど、レフィの瞳は迷うわけでもなく、不安がるでもなく、真直ぐにエルチェを見据えていた。大地を掴むように手を土につき、体勢を低くしてもう片方の手を伸ばす。小柄な彼ではエルチェを支えきれない可能性もあった。にもかかわらず、エルチェにその手を掴むこと以外を良しとさせなかった。


 エルチェは走り出そうとした方向を変える。

 目の端に近づきつつある追手を捉えたまま、レフィに手を伸ばす。

 しっかりと組み合った手が、ベストのタイミングで引かれた。

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