第19話 黒蠟濡の森
さて、何から話せばいい?
とりあえず今わかっているのは、どういうわけかあの娘はもうロベリアじゃなくって、今は『ピオニス』と名乗っているという事だ。名付けたのがあの司祭ってのが気がかりだが、縁起の悪い名前じゃねえからまあいいだろう。
ピオニスにはロベリアだった時の自我ってのが無くなっている。記憶も似たようなもんだが、言葉やら身近な人間の事はだいたい覚えてるみたいで、俺やジョーラム、それから司祭とは普通に話ができる。
自分自身が何者なのか分からないってのは不幸かもしれない。歳は十二なのに、ピオニスはたった今生まれたばかりみたいなもんだ。困難だろうが、これからゆっくり『ピオニス』としての人生を歩んでいけばいい。
それよりも困ったのは、ピオニスが母親を必死に探す事だ。
「お母さんはどこに行ったの?」と何度も訊ねてくる。母親がニルンだってこともしっかり覚えてるみてえなんだが、時折ハッとしたように「私のお母さんって、誰だっけ?」と分からなくなる時もある。そうして、町中を駆けまわって母親を探すんだ。「お母さん!お母さん!」ってな。……やりきれねえよ全く。
俺とジョーラムはニルンの家に住み、ピオニスの世話をしている。司祭の野郎も頻繁に顔を出して様子を見に来るし、俺達が仕事に出てる時は以前と同じように聖堂で他のガキどもと一緒に面倒を見てくれてる。
俺達についてきた魔物の犬は、町に戻って来た時はまだ元気で、ピオニスを守るようにずっと傍から離れなかったが、二日くらい経つと急に弱りだして、何を思ったか庭の地面を掘り返し始めた。そして自分が掘った穴に入ってそのままくたばった。
近くでその様子を見ていた俺達三人は犬公の意思を酌んで丁寧に土をかぶせて墓を作った。
数日して、犬の墓から芽が出てきた。
最初は驚いたが、よく考えたらあの犬は木の魔物だったんだからそれほど不思議な事じゃない。ただ、この芽はあっという間に成長して小さな庭木くらいになった。
『エスティスの木』と司祭は名付けた。『結界』を意味するんだと。
その後「ニエルティが消えた」という噂が耳に入ったのは、俺達が町に戻って数日してからの事だ。
それほど日にちが経過したわけじゃないが、俺と司祭はもう一度『黒蝋濡』の様子を見に行くことにした。ジョーラムはピオニスと留守番だ。
黒蝋濡は文字通り姿を大きく変えていた。
「まるで世界樹のようです」と司祭は言う。
確かに、でけえ。
こんなに巨大な樹はお伽噺でしか聞いた事がねぇ。
それに大きさの他にも変わってる所がある。
特徴的だった蝋のような黒色ではなくなっている。よく見ると、黒蝋濡の周りに生えていた樹木が螺旋状に覆い樹皮のようになっているのがわかった。
あの中に、黒蝋濡の禍々しい本体があるのだろう。
ニエルティはあの黒蝋濡に飲み込まれ地面の下。都市に住んでいた人間は全てあの魔物の糧になってしまったというわけだ。
たくさんの命と、たくさんの呪いを吸って、あれほどに膨れ上がったのか。
人の怨念とは、斯くも悍ましく育っていくのか。
こんなにも、多くの人を撒きこんで不幸をもたらすのか。
「ザックが、こんなことを望んだのかよ」
「……呪いとは、そういう物です。自分が望んだとおりになるとは限らない。歯止めがきかず広がっていき、容赦なく蝕む……自分自身ですらね。術として修めた者でないのならなおさら」
「チッ……なんでこんなことになっちまったんだろうな」
「それを一番知りたいのは、……彼かもしれませんよ」
司祭が黒蝋濡の森を見つめる。
俺も同じ方向を見る。森の周りの大気が赤く染まっているかのように錯覚する。
怒りに震えているのか。それとも、泣いているのか。
声なき叫びを感じた。
「……ああ、そうかもしれねえな」
納得は出来ないが。
あいつがもうザックじゃないなら、人間としての苦しみを持たずにいるなら、それがせめてもの救いだと、思いたい。
だが、あの黒蝋濡という魔物が今何を思っているかなんて、誰にも分からいはずだ。
いつか聞いてみたいみたいもんだ。あいつの口から直接。
「へっ……口がありゃあな」
「どうしました?何か面白い事でも」
「いいやなんでもねえ。つまらねえことだよ」
馬に乗り道を引き返す。
その時ちょうど向こうから馬車の一団がやってきた。消えたニエルティと黒蝋濡の森を調査しにきた王都の役人や兵士達だろう。
すれ違いざま彼らの無事を祈り、俺達はペンゲルースの町へ戻った。
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