ただの幼馴染です

ペボ山

第1話



「片桐くんと仲良いの?」と、女性徒aは尋ねる。

 俺は「勘弁してください」と言いたいのをグッと我慢して、「そうだよ」と答える。食い気味で。「片桐くんの連絡先が知りたいの」と、女生徒a。「じゃあ、本人に確認しとくよ」と、俺は片桐くんにメッセージを送る。以下、意味のないスタンプの応酬。

 これは中学に上がって以来、100回以上繰り返してきた作業だ。「食い気味で」と言うのは、片桐くん本人からの指導だし、スタンプ合戦を始めるのも毎回片桐くんの方だ。指導に背くと、『泣き喚く片桐くんをあやす』と言うタスクが増えるので、俺は今日もマニュアルに忠実だ。

 マニュアル通りに、手を振りながら女生徒aの背中を見送って。俺は教室の隅っこの席で、漸く仕事終わりの間食にありつく事ができる。バッグから飛び出してきたクリームパン。

 セピア色の記憶が蘇る。

 忘れ物のお弁当を引っ提げて、お兄ちゃんのバイト先のパン工場に行った。そこで見たのは、流れてくるクリームパンに、ひたすらペタペタシールを貼るお兄ちゃんの姿だった。今の俺と全く同じ表情をしていた。

 あの時の兄も、もしかしてこんな気持ちだったのだろうか。

 感傷に浸りながら食べるクリームパンは、少ししょっぱかった。



 ***




 片桐秀治の事は、ボンヤリと知っていた。

 いつも体育館の半分で、バスケットボールを叩いていたアイツだ。ダイナミックかつアクティブな動きは、本人の体格の大きさにも相まって、同い年とは思えなかった。


「片桐くん、カッコ良いよね」


 そんな、たった週3回のたった数時間。互いのスポーツクラブの練習場所が被る、と言うだけの接点だった彼の名が、よく耳に届くようになったのはいつからだったか。

 確か、小学校4年生くらいからだったかもしれない。

 元々足が速いだか何だかで人気者だった彼が、さらに超の付く美丈夫だと周りにバレたらしい。

 人の顔が急に変形する事はないので、どちらかと言うと、周りの人間が色気付いただけだと思う。

 兎にも角にも、『穏やかで優しくて、何でもできるカッコ良い片桐くん』のウワサは、3クラス隔てた俺の耳にも届くようになっていた。


「きみ、すごいね」

「……おれ?!」

 だから、咄嗟に飛び跳ねてしまった。だってあの、有名人の片桐くんに話しかけられるだなんて。

 小学4年のドッヂボール大会。

 皆に体育委員を押し付けられた俺は、居残りでボールを片付けなければならない。

 がらんとした体育館で、一人寂しくボールカゴを片付ける。倉庫から出てきた俺を待っていたのが、鍵の束を持った片桐だった。

「きみ、すごいね」と、鍵の束をジャラジャラしながら笑うそいつに、「おれが?」と尋ね返す。

 片桐は、「うん」と答えながら、倉庫の鍵を閉めた。

「2組が優勝したの、藤白くんのおかげでしょ?」

 そう微笑んだ片桐の笑顔は人懐こい。取り敢えず笑い返す事はできたと思うけど、言っている意味はわからなかった。

 確かに俺のクラスは優勝したけれど、俺は特に目立った活躍はしていない。疑問が顔に出ていたのか、片桐は困ったようにまた笑った。

「さくせん考えたの、きみでしょ。指示出してたのも、きみ」

「それは、どのクラスの体育委員もやってるよ」

「みんなが当たり前に指示に従うのは、すごい事だよ。特に渡辺くんと加藤くん。どうやったの?」

 少しだけ考える。考えた結果、俺は渡辺くんと加藤くん、その他のクラスメイトの性質について語り尽くす事しかできなかった。渡辺くんは目立ちたがり、加藤くんは喧嘩っ早い、野沢さんは動体視力が良い、川崎くんはゆみちゃんが好き。

 そんな要領を得ない説明を、片桐はずっと笑顔で聞いていた。

「やっぱり、藤白くんはすごいね」

「うーん」

「よく人のこと見てるんだなって」

 そう締めくくると、俺の手を取って、「おれは片桐」と笑った。さらに下の名前を付け加えようとするので、俺は思わず、「秀司くんでしょ?」と食いついていた。

「え、なんで」

「きみ、有名人だから」

 言えば、片桐は少しだけ眉根を下げて、「そっか」と笑う。

 どことなく哀愁の漂う表情だと思った。

 俺は何か間違えただろうか。終始笑顔だった分、その表情には胸が騒つく。

「藤白くん、おれね」

 キャラメル色の目が、不意にこちらを向く。

 人形みたいな睫毛が、音を立てたような気がした。勢いのまま握られた手は、真っ白で柔らかい。

「おれ、きみと仲良くなりたい」

「仲良く……」

「そう。明日から、2組に遊びに行って良い?」

 小首を傾げれば、細い黒髪が、天使の輪っかみたいに光を反射する。目の前にいるのが実は女の子なんじゃないかって気になってきて、急に恥ずかしくなってくる。

 二重幅の広い大きな目に見つめられれば、もう限界だった。

 なんで、だとか、そういえば最初から俺の名前を知ってたね、だとか。色々な事を考えながら、絞り出せたのは「うん」と言う一言だけ。「よろしく……」と付け加えられたのは、ちょっとした奇跡だ。


 ***



 次の日から、本当に片桐は俺のクラスに来るようになった。

「藤白くん、いっつも隣でバレーしてるよね?」

「ずっと話してみたかったんだけど、きっかけがなくて」

 俺の机に寄ってくるなりそう口火を切った片桐に、膝を打った。だから彼は、俺の名前を知っていたのだ。認知されていた事に驚きつつ、直近の記憶を漁る。

「片桐くん、この前試合中にコケてたでしょ」

 少し考えて言えば、片桐は、複雑そうな表情で「覚えてくれてたんだ、嬉しい」と答えた。全然嬉しそうに見えない。

「俺、藤白くんに覚えられてないと思ってたから。昨日は、バスケしてるって言えなかったんだよね」

 悔しそうに唸る片桐。

 だから昨日、「有名人だから」と返した時に、複雑な顔をしていたのか。きみバスケしてるよね、と俺もあそこで言えばよかった。あれが葛藤の現れだと知って、申し訳なさやら面白さやらが鬩ぎ合う。

 その後も、不思議と片桐との会話は途切れる事が無くて、クラブチームの先輩の話に、昨日のオリンピックの話。給食の話に、家族の話。たくさんのことを話した。

 片桐の御両親は海外出張中で、片桐は、今は母方の叔母の家で過ごしている、なんて話もしてくれた。「変なこと聞いてごめん」と言うと、「でもここの学校だから、藤白くんに会えた」と笑う。

 片桐は、大人な奴だと思った。

 次の日からも片桐は頻繁にやってきたので、ほぼ毎日顔を合わせた。違うクラスなのに、いつも、気付けばアイツが隣にいた気がする。

 半年くらい経つ頃には、毎朝校門で待ち合わせるくらいの距離感になっていて。片桐はいつも早くから待っているから、「先に入ってて良いよ」と言うけれど、頑として待つのをやめる気はないようだった。

「今日放課後、一緒に体育館まで行こうよ」

 ある朝、揚々と告げられた提案に、少しだけ口籠る。エナメルバッグを一瞥すると、片桐は不思議そうに首を傾げた。

「学校から直接行くでしょ?」

「……うん」

「俺とはいや?」

「嫌……では無いけど」

 少しだけ迷って唇を尖らせる。あまりにも悲しそうな顔をするから、困ってしまう。

 片桐が嫌では無いのは本心なので、余計に。

「おれ、市民体育館までいっつも走って行ってる」

「ランドセルとバッグ持ったまま?」

「うん。こー君……先輩たちもそうしてるから。おれ体力付けなきゃだし」

 反応を伺うみたいに片桐を見たら、「いいね」と笑った。予想とは違った顔をする物だから、少しだけ驚く。

「俺も一緒に走って良い」

「え、」

「俺も体力つけたい。あと、ランニングも一緒にしない?俺、9時からいっつも公園で走ってるんだ」

 きゅ、と弧を描いた瞳には、きらきらした星が散っているみたいだった。

 サラサラ揺れる、細くて真っ黒な髪の毛。

 手が温かい。片桐の前髪から手へと視線を移せば、また両手を握られていた。

「うん」

 何気なく落とした言葉は、想像していたよりもずっと弾んだ物だった。




 ***



「俺はね、人より劣ってるんだって」

「そう?」

「そうだよ。だから、人より頑張らなきゃダメだよって、父さんが」

「そう」

「だからこうしてトレーニングしてるのに、皆は『可笑しいよ、お前』って。難しいね」

 …………俺はどうしたら良いんだろうね。


 そんな会話をしたのは、いつだったか。小学校6年生の、冬くらいだった気がする。

 夜の公園。

 隣でクールダウンをしながら滔々と語る片桐に、驚いたのを覚えている。

 この頃の話題といったら、専らトレーニングだったりスポーツの事だったから、こう言った湿っぽい話題は珍しい。

 けれど、お互い高学年になって忙しくなって、一緒にいる時間が前よりも少なくなった。特に片桐は、キャプテンになってから色々考え込む時間が多くなった。そして暫く会わないうちに、少しだけ影ができたように感じられて。

 大人になるってきっとこう言う事だと思ったけれど、悩んでいるのなら、出来るだけ力になりたいと思った。

「俺は片桐が『劣ってる』とは思わないよ」

 まず第一に、体格、センス、メンタルを総合して、片桐が『劣っている』わけではない事は明らかだ。

 そしてそれは、バスケットボールと言うスポーツを知らない俺にすらわかる事であって。

 誰よりも優れた人間が、純粋に、疑いもせず、「己は劣っている」と思い込み、ひたすら自分を追い混む。その姿は、隣でプレーするチームメイトの目にはさぞや不気味に映るのではないか。

 それを伝えるべく口を開くが、すぐに閉じる。

 彼のそのコンプレックスは、非常に深刻である事を知っていたからだ。

 何度諭そうと、「でも、父さんがそう言ったから」の一点張りで、聞きやしない。話を聞く限り、幼少期の御両親の言葉が原因らしい。片桐は特別盲信的だと言うわけではないし、親の言葉を子が真に受けるのは、特に珍しいことでもない。

 ただ特別厄介なのは、片桐の御両親が片桐の側にいないと言う事だ。その認識の歪みを、払拭できる人間がいない。

 御両親も全く、厄介な呪いを置いていった物だと思った。

「百歩譲ってお前が『劣ってる』としても、やり過ぎはよくないよ」

 悶々と考えた結果出たのがそんな言葉なんだから、本当に救えない。

「どれだけ頑張っても、怪我したら訳ないんだから」

「……大丈夫だよ、念入りケアしてるから」

 寝耳に水だ。根底にある間違いを正さない限り、俺の言葉は片桐には届かないんだろう。

 視線を上げれば、優しげに細められた双眸と視線がかちあう。

 乾いた夜風が、細い髪をさらっては吹き抜ける。甘い制汗剤の匂いが鼻腔をくすぐった。

「侑希はわかるよね。おれの気持ち」

「……?」

「おまえはこっち側の人間だから」

「…………『劣ってる側』の?」

「違うよ。誰ともわかり合えないひと」

 清々しい笑顔だった。体育館が開くまでの時間、一緒に鬼ごっこな宿題をした。その時に見せる笑顔と同じ顔だった。

 ただその言葉だけが、アンバランスなまでに重く響いて。

 目の前の少年が、全く違う人間に成り代わってしまったような錯覚を覚えた。

「…………」

 腹を捌き、ずっと目を逸らしてきた病巣を鼻先に突きつけるような。はたまた、デタラメなレントゲン写真を差し出して、ありもしない体内の異物を指差すような。そんな感じ。

 この少年は、果たして医者なのか、詐欺師なのか。

 図りかねているうちにも、耳障りの良い声が、絶えず俺を『同類』だと言い聞かせる。

「信じられるのは、積み上げてきたものだけ。苦しいのからしか、実感が得られない。自分のサイノウも、運も、何一つ信じられない」

「けど周りの人間は、もっと信じられない。だって根拠のない『普通』で此方を否定する。誰かが言ってくれる物なの?お前は頑張ってるね、お前は正しいね。胸を張って生きて良いよって」

「そんな無条件に与えられる自尊心一つで、どうして生きていられるのかなって。おれからしたら、そんな人達の方が怖いよ。きもちわるいとすら思う。その薄っぺらい物のどこに、自分の価値を見出せるの」

「お前もそうだから、人を管理するし、執拗に自分を追い詰めるんでしょ?自分も他人も信じられなくて、前にも後ろにも、誰もいないから」

 延々と吐き出される言葉に、気付けば俺の眉間には皺が寄っていた。片桐の口に、手元のタオルを突っ込んでやりたいと思った。叔母さんの前で同じ事を言えるのかと、問い詰めたかった。

 片桐のそれは、『こうである』と言う事実ではなく、『こうであれかし』と言う願望──なんて生易しい物でもない。『こうでなければならない』と、事実すら歪めてしまう呪詛である。

 そんな呪詛を、熱に浮かされたみたいな表情で延々と俺に吹き込んで。

 片桐は、俺を一体どうしたいのだろう。

「だから、侑希はずっと俺の隣にいるよ」

「…………」

「おれとしか分かり合えないから、お前はおれを拒絶できない」

「別に、分かり合えても分かり合えなくても、拒絶したりはしないよ」

 そう答えて、また視線を地面へと落とす。

「そもそもおまえが言ってる事、よくわからない。俺は俺の事、あんまりわかってないから」

「……おれは分かってるよ」

「たまたま目的地まで同じ道だったから、一緒に走ってる。それじゃだめなの」

 動機とかは俺にとって重要じゃないから、そう言った。

 片桐は、一瞬だけショックを受けたような顔をして、唇を尖らせる。拗ねた時のいつもの表情だ。少しだけ安心する。

「目的地って何?侑希はどこに行きたいの」

 スクイズを傾けて、夜空を見上げる。少しだけ考えて、「行けるとこまで」と答えた。

「なに、それ」

「お前も、そうした方が良いよ」

「おれも?」

「うん」

 きっとそれが良い。

 人間って何十億人もいるらしいから、『完全な孤独』なんて物は存在しないんじゃないかと思う。『唯一無二の関係』なんて物も。

 それでも動機だとか、人種だとかで人を区別して寂しくなるなら、同じような人達が住む場所に行けば良い。

 ……これは勘ではあるけれど。

 片桐みたいな人種は、上に──遠くに行けば行くほど、多くなるんじゃないかと思った。

 俺たちが本当にずっと隣にいるのなら、たどり着く場所も、そう変わりはしないだろう。

 なんて語るのは小恥ずかしいので、察してくれと目線を送る。片桐は何故か、薄気味悪い温度で笑っていた。

「じゃあ、俺もそうする」

「……それが良い。行けるところまで行ったら、多分もう、全部どうでも良くなってる」

「本当かなぁ」

「多分って言った」

「ええ?そんな無責任、おれは許さないよ」

 少しだけ腰を折って、態とらしく目を見開く。

「自分の言ったことには責任を持たなきゃ」

 米神を伝う汗の感触を、ヌッと伸びてきた冷たい指が拭う。

 最近伸びてきたらしい前髪が、真っ白な顔に影を落とす。

 前髪の隙間から覗く目は、人懐こくたわんでいるのに、全くと言って良いほど光を反射しなかった。


「一緒に、行けるところまで行こうね。侑希」


 頬をなぞった指が、やけにゆったりとした動作で、今度は俺の横髪を耳にかけてくる。

 ────運命共同体。

 頭に脈絡もなく浮かんだ言葉を、すぐに振り払う。少しだけ広くなった視界で、片桐の双眸を見つめ返した。



[newpage]




 片桐は全国大会の3回戦で負けた。俺は大会にすら出られなかった。

 いくら上手になっても、4人では公式大会には出られない。地元でバレーボールをしている同級は、何人か県外の私立に行ったけど、俺はジュニアの先輩がいる公立中学校に上がった。県大会常連、過去10年で、数回は全国にも駒を進めている強豪だった。

 ここの地区はそこそこスポーツが盛んで、そこそこ強いジュニアチームが沢山あるから、そう言った事は珍しい事でも無いらしい。


「……おれ、先輩に目ぇ付けられちゃったかも」 


 中学1年生。青い顔で言う片桐は、すでに身長が170を超えていた。

 ジュニア上がりの逸材がそこそこ来るとは言ったが、片桐はその中でも、頭一つ抜けているようで。

 下からの脅威、過ぎた被害意識、認知の歪み。

 そんな要素が絡み合って、片桐は先輩から過剰な圧を受けているようだった。

「人一倍働いて、真面目に謙虚に過ごすんだ」

「やってるよぅ。頑張ってるよぅ。そろそろ自分が人間か働き蟻かわからなくなりそう」

「じゃあ、別に気に病むことは無いだろ」

 出来ることをやっているのなら、何も負い目に感じる要素は無いだろう。困ったようなポーズを取ってはいるが、片桐は人当たりが良い。愛想も良い。コミュニケーション能力も高く、よく気が回る。なんだかんだ、どうせ上手くやる。

 実の所、「不味い」だなんて微塵も思ってはいないんだろう。

「胸を張れよ」

「堂々としとく」

「そうしとけ」

 頷いて、昼食を掻き込んだ。授業開始10分前の予鈴に、片桐はせこせこと自分の教室へと帰っていく。クラスの友達と食べれば良いのにと思った。アイツなら、後からでもどうとでもなるのかもしれないけれど。



 ***



 こうなることを知っていたら、無闇矢鱈に片桐を受け入れる事はなかった。最初の一か月は毎時間俺を訪ねてくる物だから、『クラスの一員かな?』ってくらいクラスに馴染んでたし、何なら俺よりクラスに溶け込んでた。


「片桐くんと仲良いの?」


 入学して3ヶ月くらい経った頃から、そう言った質問を多く受けるようになった。

 いつもはああ、だとかうう、だとか答えて、「告白したいの!協力して!」か、「片桐くんについて教えて!」と続く。そして、「片桐はバスケットボールと一緒に寝てる」と教えてあげる。

 けれど今日は、早く昼練に行きたかったので、「特には」と正直に答えた。

「ごめんな、付き合わせて」

「いえ、俺もボール触りたいので」

 いそいそとシューズに履き替えて、体育館に入る。

 すでにこーくん……浩平先輩は、ネットを張った後で。不覚だった。妨害さえ入らなければ、先輩に準備させる羽目にはならなかったのに。

「そんな顔するなって。練習に付き合ってもらってんだ。準備くらいするよ」

「明日はもっと早く来ます」

「……なんか、侑希に敬語使われると寂しいな。2人の時くらい、タメで話しても良いのに」

「いや……」

 郷に入れば郷に従えってあるし。後輩1人特別扱いされているようで、少しむず痒くなってまう。

 遠慮願いたいと言う意志を込めて首を振れば、こーくんは少し寂しそうな表情をして、ボールを投げる。

 回転をかけてそれを打ち返せば、無駄のないフォームでレシーブして。

 少しのパスだけでも、彼の技術の高さが垣間見える。ここに来て良かったと思った。

「……レシーブの時、どんなこと考えてますか」

「え。こう、包み込むように……たまご割れないように?」

「…………」

「俺教えるのめっちゃ苦手」

「見て覚えます」

「真面目だねぇ、おまえは」

「上手になりたいから」

 今度は俺が、回転の掛かった軟打を受ける。

「ウヘェ」と舌を突き出すこーくんは、ジュニアの時とあまり変わっていないように見えた。

「お前が言うと、何かイヤミに聞こえるわ」

「イヤミ?」

「そー、新入生粒揃いだろ。最近2、3年ピリピリしてるんだぜ。特にお前は、無名のルーキーだから何モンだ!って」

「おれはスパイカー」

「お前はさぁ……」

 こーくんは半目になって、パスを止めてしまう。

「浩平先輩のトス、いっぱい打ちたい」と言えば、フフンと笑って、ネットを潜った。

 サーブの練習を始めるようだ。

 示された位置で構えれば、こーくんがエンドラインから助走分下がる。

「お前、ほんと俺の事大好きな」

「はい」

「同い年とも、仲良くしろよ」

「…………っ!」

 ジャンプして、ボールを叩いて。ほぼ叩きつけるようなサーブを受けて、体勢を崩す。

 落としはしなかったが、ネットを超えてしまった。

 ボールを弾いた手首が、ジンジンと熱を伴って小さく痛む。

 ……やっぱり、こーくんはすごい。

 熱っぽく溜息が漏れて、興奮に頬が緩む。トスを上げ助走をつけるその姿を、網膜に焼き付けるみたいに見つめた。



 ***



「片桐くんと仲良いの?」


 入学して半年くらい経っても、その言葉からは逃げられなかった。変化と言えば、お互いに部活の友達とつるむようになったと言うくらいだろうか。

 咀嚼した鶏肉を呑み下して、「特には」と正直に言う。

「でも、あれは知ってる」

「あれ?」

「いっつもバスケットボール抱いて寝てるって」

「か、かわいー!」

 そう言って、キャアキャアと友人の元へと戻っていくクラスメイト。その背を見送って、また鶏肉を摘んだ。

「片桐くんと仲良いの?」

「む」

「本当のところどうなの?」

「うるさい」

 鶏肉を戻し、隣の席を見る。

 ニヤニヤと笑っているのは、右成夕陽。部活の同期である。

 県大会で、ジュニア時代に優秀選手賞を取った逸材。私立に行った双子の兄に反抗して、この学校にやってきたらしい。

 練習時は、彼にしか見えないお兄さんに叫んだりしてる。

 こうして話すようになったのはつい最近だ。

 俺の水筒から勝手に麦茶を飲んで、「なんかすっぺえ!」と殴りかかってきたのだ。その水筒は前日学校に忘れて帰った物だから、変な味がするのは当たり前だ。多分、発酵していたんじゃなかろうか。

 不潔野郎!ぬ、盗人猛々しい!うるせえ腐ったモン飲ませやがって!と怒鳴り合い掴み合いの大喧嘩になって、気付いたらこの距離感に。

 人生はわからない物だと思った。

「……なんで皆おれの方に来るの。本人に直接話かければ良いのに」

「そりゃあ、ねぇ?あの片桐くんだし。あとバスケ部って、なんか仲良過ぎて入れねぇっつーか」

「へぇ」

「一人一人は良い奴なんだけど、群れになると急に排他的になるんだよ。で、片桐クンはいっつも輪の中心にいるだろ?」

 そう言われて、回想する。

 片桐以外の顔はボンヤリとしか思い出せないが、確かに、よく部員同士で集まっているとは思った。

『仲が良いな』『なんだかんだ上手くやっているな』程度の認識だったので、あれが排他的と呼ばれているのかと少し驚いた。

「同小なんでしょ、お前ら。クラスとか同じだったの?ご近所さん?」

「いや?一年もクラス被らなかったし、特に近所ってわけでも」

「マジの謎コミュニティじゃん……」

「なんか、いっつも隣のコートでバスケしてた」

「同じ体育館だったわけ?」

「そう。そっから暫く、一緒に体育館行ったり、トレーニングしたりして」

 言葉を切る。目を皿みたいに丸くして、右成がこっちを見ていたからだ。

 爆弾おにぎりをハムスターみたいに頬張って、モグモグと咀嚼した。俺は俺で、モソモソした鶏肉を咀嚼する。右成の目を見ながら。

「競技違うのに?」

 漸く飛び出てきた言葉は、概ね予想の範囲内の物だった。

「必要な筋力も身体能力も違うのに?一緒にトレーニングして意味あったのかよ」

「だから、最近はやってない」

「ふーん」

「トレーニングって言ってもランニングだけだったから。持久力がないとまず始まらないのは、共通してる」

 一応納得したような表情をして、今度はおにぎりを一口で丸呑みする。蛇かコイツは。

「じゃあ、」と間延びした声と一緒に、ぴ、と指をさされる。癪に触ったので、すぐに叩き落とした。

「やっぱお前ら仲良しじゃん」

「そう?」

「そうでしょ。接点無くなった後に、他クラの好きでもない奴の所に通うかよ」

「ふぅん……」

「なんだよその返事……」

 最後の一欠片を口に放り込んで、弁当箱を閉じる。丁度、始業のチャイムが鳴り始めた所だった。視界の端で、右成が渋々と言った様子で風呂敷包みをしまうのが見える。

 どうにしろこの関係を、仲良し友達と形容する気にはならなかった。


 ***


 昼休みの自主練は、最近は専ら右成としている。

 10分休憩の間に昼飯を掻き込んで、昼休みは体育館に駆け込んで、ネットを張る。

 俺がこーくんと自主練をしている事を知ると、「なにそれズルい!いいな!」と、大喜びで付いてくるようになった。

 一番初めに他の同期を誘った時、「頑張られすぎるのも迷惑なんだよな」と微妙な表情で断わられた分、右成の反応は新鮮である。右成は、馬鹿で傲慢で、頭も性格も悪いけど、バレーに対しては誰よりも真摯だった。

 けれど逆に、こーくんは来なくなった。

 今思えば、俺がこーくんの練習に付き合っていたのではなく、こーくんが気を遣って、俺に練習する口実を与えてくれていたのかもしれない。

 こーくんは練習しなくても、すごく上手だから大いに有り得ると思う。

「……こーくんと右成が交換になるのは、余りにも駒損……」

「あ?何か知らんけど、お前今悪口言ったろ」

「下手糞」

「わざと飛ばしたんだよ!ほら行けよ、走って拾え!」

 見当違いの方向に飛んでいく青と黄色のミカサのボール。

 パスの途中だった筈だが。

 脚を回転させて、落下してくるボールと床の間に手を差し込む。ボールを上げて、胸から地面に着地して。滑り込みの当為とは次の動作への滑らかな切り替えにあるので、そのまま立ち上がって右成へと向き直った。

「ムカつくやっちゃ」

「こっちのセリフだ」

 掴んだボールをお返しとばかりに遠くに投げたら、「クソクソクソ!」とか叫びながら追いかけて行く。

 ちゃんと追いかけてしまうあたり、難儀な奴だと思う。

「何笑ってんだ藤白!」

「笑ってない」

「笑ってる!鏡見ろ!」

 遠くから吠える右成。

 ペタペタと顔を触れば、たしかに少し、頬の筋肉が強張っているみたいだった。

 俺は割と、此奴とバレーする時間が好きだ。こーくんとの時間には及ばないけど。全然、全く。


「……あー、片桐ね」


 ふと、聞き覚えのある名前に、思わず振り返る。

 体育館を2等分する緑色ネットの向こう。即ち、普段はバスケ部かバドミントン部が使っているコート。

 そこで立ち話しているのは、身長170センチ前半の男子生徒達だった。恐らくバスケ部、一つ上の先輩だろう。

 片桐の姿を探すが、体育館には見当たらない。

 だとすればこれは、『世間話』と言う物だろうか。

「良いよなぁ『ジュニア上がり』ってやつは。スタートが違うんだから」

「俺達はこうして健気に、昼飯食う間も惜しんで練習してんのになぁ。馬鹿らしくなってくる」

「この時間も呑気に飯食って、女とイチャついて。それでレギュラー取れるんだから、何つーか」

 ──────卑怯だよなぁ。


「だから万年補欠なんじゃない」


 朴訥とした言葉に、一気に体育館の温度が冷え込むのがわかる。

 あれ、声に出てたか?今。

 そう思って咄嗟に口を抑える。ヒョッコリと俺の背後から顔を出した右成に、思い違いである事を悟るのだけれど。

「あ、誰?」

「一年じゃん。なに、俺らに言ったの、今」

 バスケ部の男2人が、此方へとユラユラ近づいて来る。完全に臨戦体勢だった。

 右成が、どうしよう!みたいな顔で此方を見てくる。その顔をしたいのは俺の方なんだけど。

 素か。本当に素で今のをやらかしたのか。

 小声のつもりだったのか?俺に話しかけたつもりだったのか?

 どうにしろ、此奴が大馬鹿野郎なのは間違い無かった。

「万年補欠って何、お前俺たちの何を知ってんの?」

「頑張って練習してる人に、そう言う事言うのどうなの?」

 なんか、すごい面倒臭い。謝っておけと言う意味を込めて右成を見て、絶句する。

 なんだその目。やめろよその目。

 今までになく透き通った目で、今までになく純粋に「何言ってるんだろう、この人たち」って表情をしている。

 此奴にとっては純粋な疑問なんだろうけど、その口から出てくるのが、『煽り』一択だと言う事は容易に想像が付く。

「頑張ってたんですか?」

「右成」

「だってさっきからずっと、ボール持って突っ立ってるだけじゃん。何もせずダベって」

「右成くん」

「自己満じゃん。時間の無駄。『頑張ってる俺』のポーズとって、自分に酔ってるだけ」

「右成、分かったから黙れ!人を指差すな!先輩だぞ!」

「でもそうか。呑気に飯食って、女とイチャついてるだけでレギュラー取れるって本気で思ってるから、そんなヌルい事できるん……ベベッ!」

 俺は右成を殴った。

 ずっと先輩を指差しながら、俺に話しかけるていで先輩を煽っていた右成。

 やっと黙ってくれた。白目剥いてるけど。

 できれば小一時間は死んでてほしい。

 だってマジで怖いコイツ。何が恐ろしいって、これで多分悪気が無いところ。人でなしすぎる。

「言わせておけばァ!」

 怒涛の鬼ストレート侮辱に、やっと理解が追いついたのだろう。

 怒号と共に振り上げられた手。

 パチン!なんて気持ちの良い音が響いて、脳が揺れるみたいな衝撃に襲われて。

 視界が覚束ない。目の前に星が散る。頬がジンジンと熱を持つ。

 殴られた。

 そう理解するのに、数秒かかった。

 いやほんと、なんで俺が。


「先輩」


 思いの外低い声が出て、少し驚く。痛むので、唇を最低限しか動かせない。


「すみません、今のは此奴が全面的に悪いです。謝って済むことでは無いですけど、申し訳ないです」

「誰の努力も、軽んじられて良い筈がないのに」


 ……こいつは、相手を知った気になって、正論でタコ殴りにして、気持ち良くなってる最低野郎なんです。

 右成の前髪を掴み上げながら、そう続ける。

 俺のボソボソ謝罪に、先輩達が強張った表情で手を引っ込めた。

 漸く痛みが治まってきたけど、まだ熱い。

 頬を抑えながら、「でも」と言えば、一歩分距離が空いた。向こうが後退りしたからだ。

「俺は少し昔から片桐を知ってますが────先輩方って、小学生の頃、学校以外の時間何してました?」

「遊んでましたか、ゲームとかしてましたか。塾とか行ってました?……あいつはその時間、血ヘド吐きながらバスケしてました。4年間ずっとです。毎日毎日」

 空いた分の距離を補うために声を張り上げたせいで、ちょっと剣呑に聞こえるかもしれない。

 一歩距離を詰めて、出来るだけ柔らかく、諭すように「それを知ってほしくて」と言葉を継ぐ。

「『誰の努力も、軽んじられて良い筈がない』と思いますので……」

 ぎこちなく目を細める。

 笑っているつもりだけど、この表情で昔、『もしかして、喧嘩とか売ってるか?』とか言われた記憶がある。いやでも大事なのは気持ちだと思うし。

 届け気持ち。

「……萎えたわ」

 先に目を逸らしたのは、あっちの方だった。鼻白んだような表情で背を向けて、さっさと体育館を出て行ってしまう。

 気持ちが通じ合った瞬間である。

 息を吐き、いい加減気絶したままの右成をその場に投げ捨てる。

「痛い!」

「ちゃんと受身とっといて、大袈裟。起きてるなら起きてるって言えよ」

「起きるタイミングわからんかったし。でもお前やっぱり、大概片桐クンの事好きだよね?」

「…………」

 一本ずつポールを運びながら、眉を寄せて考える。

 俺は、どんな気持ちで先輩に弁解したのか。

 それは単純で、間違った認識を、「それは違うよ」と正したかっただけだ。

 特別片桐自体に思い入れがあったわけじゃない。多分。

「……特には?」

 そう首を振ると、また右成は目を丸くした。

 目を丸くして、そして、体育館に響き渡るくらいの声で大笑いした。


 ***


 久々の感覚に、タオルで汗を拭う。

 夜の公園、夜の風、少し甘い制汗剤の匂い。

「久しぶりに走ろうよぅ」との事で一走りしたが、これは中学に上がって以来初の会合だった。

 俺自身かなり体力はついたと思ったが、それはお互い様だったようで。俺は片桐のペースについて行くのに精一杯だった。

 是非次は、短距離ダッシュに付き合ってほしい物だが。

「片ぎ」

「侑希、俺はね」

 おもむろに切り出された言葉に、「ねえねえ走ろうよ!」と言う誘いを飲み込む。

 暗闇にぼうっと浮かび上がる真っ白な顔が、甘い匂いを伴ってこちらを向いた。

「俺はお前と、すごく仲良しだと思ってるよ」

「ン?」

「仲良しなの?って聞かれたら、食い気味にウンって答えるくらい」

「そっか……」

「侑希は?」

「ン!?」

「侑希は?」

 色々と思い当たるフシがあったので、半笑いのまま片桐の表情を観察する。

 この半年間で、身長がまた6センチ伸びたらしい。

 骨格が骨張ってきて、線が少し細くなったか。ゆらゆら揺れるブラウンの目を、ココア味のプロテイン不味いんだよな、とか考えながら眺めた。

「今日誕生日だったんだけどさ」

「え、おめでとう」

「ありがとう。プレゼントも結構貰うわけなのね」

「うん」

「15」

「なに?」

「これね、もらった抱き枕の数」

 ここに来て、ピーンと、電流のような衝撃が脳内を駆け抜ける。

「片桐くんと仲良いの?」「ああ……」「片桐くんってどんな人なんだろう」「あいつバスケットボールと一緒に寝てるよ」

「片桐くんと仲良いの?」「うう……」「片桐くんって───」「あいつバスケットボール抱いて寝てるよ」

「片桐くんと仲良いの?」「特には」「片ぎ」「あいつなんか……その、抱いて寝てるよ」

 濁流のように押し寄せる記憶。

 ここ最近特に増えたなと思ったら、お誕生日なんて言うビッグイベントがあったらしい。

 その数ざっと約15人。そして俺はその全てに、『片桐は抱いて寝ている』と言う旨を脳死で伝えてきた。

「…………侑希はさ、俺のこと嫌いだったりする?」

「事故だ」

 弁解させてほしい。切実に。

「俺はその、たしかにちょっと陰湿な人間だけど」

「ちょっと、ね」

「……結構、いやだいぶ陰湿人間なのは認める。百歩譲って。でも、この、抱き枕、インフレは、故意じゃ、ない」

 断じて。悲しき事故だ。嫌がらせとかじゃない。

 一言一言に魂を込めて、思いよ通じろと片桐の双眸を見つめる。

 格闘技かってくらい見つめあって、先に動いたのは片桐の方で。

「やっぱり、抱き枕で俺を圧殺するつもりだったんだ。俺のことが嫌いだから……」

 思い通じず。

「いや…っ、そんな事はない、マジで」

「仲良しじゃないから!」

「なっ、仲……、何?」

「えーん!えーん!」

 9歳の少女のように、顔を覆って嗚咽を漏らす。

 夜だから許されてはいるが、昼間だと多分、中々にキツい絵面だ。

 2年半くらいで、こいつも大概印象が変わったと思う。年齢的にある程度はしょうがないのかもだけど、何というか、こう、こいつ、


「侑希は俺と仲良しじゃないんだー!悲しい!」


 …………こんな、女子中学生みたいな奴だったか?


「仲良し、仲良しだから」

「ほんと?適当言ってない?」

「言ってない」

「ほんとのほんとに?」

「ほんとのほんとに……って、お前、めん……」

「面倒臭いって言ったぁ!」と、嘘泣きしながらジャージの裾を摘んでくる。クソ。こいつ確か、小学生の時はもっと大人びた奴じゃなかったか。それが今は何だってこんな、ち……ちゃんぽらんに。

 しなしなした挙動の割に、裾を引っ張る力はバカ強い。ビリビリに引きちぎられないか、これ。

「俺と侑希は仲良しだからぁ、」

「ン」

「これからは、『そう』答えるように」

 え、と。声を漏らす前に、片桐が立ち止まる。

 気付けば、丁度走り始めた地点に戻ってきていて。制汗剤とタオルをリュックから引っ張り出しながら、横目で片桐の様子を伺う。

「それはどう言う意味か」と。

 そう尋ねるのは、あまりに白々しいだろうか。

 そんな事を考えているうちに、「ね」なんて、お金を払いたくなるような笑みで念を押されて、肩が強張る。

 片桐が少なくとも好意的な感情を向けてくれているのは、よく分かった。

 けど仲が良いと答えた場合、なんか色々と面倒臭い思いをする羽目になるので、口をモゴモゴ動かして誤魔化しておく。

 時と場合によるかも。

「…………」

「…………」

「………努力ゥ、します……」

 渋々頷けば、煙る睫毛がそっと伏せられる。

 どこか不満気だが、俺だってできない約束はしたくない。やがて、「まぁ、今は良いか」と漏らして、猫みたいに目を細める。

 あからさまに、『何かを企んでいます』という表情を一瞬浮かべて、今度は、態とらしく眉を寄せた。

「ところで、藤白侑希くん」

「なんですか片桐秀司くん」

「おれ、今日誕生日なんだけど」

「おめでとう……」

「それはもう聞いたよぅ」

「そもそも、なんでわざわざ誕生日に一緒に走ろうだなんて…」

「……なんか無いの?侑希からは」

 顎を引いて、上目遣いに覗き込まれる。

 色素の薄い金眼が、ガラス玉みたいにピカピカ光っていた。

 それは期待だとか何だとか、よく分からない感情に妙に潤んでいる。

 ずっと見つめていると、何かを請われているような気になって。

 よく分からないけど、こう、持っている物全てを差し出さなければと言う気持ちになる。薄気味悪い。

「あ……」

「なぁに?」

「えっと……」

 口籠れば口籠るほど、耳を澄ますように片桐が距離を詰めてくる。

 のっぺりと伸ばされた指先に、いつかの日みたいに、頬を擦られる。カサついている。保湿した方が良いんじゃないのか。

「…………なんか奢るよ」

 睫毛と睫毛が触れ合うくらいの距離感で、片桐の目が、虚を突かれたみたいに見開かれる。

 パチパチと瞬いて、頬に添えた手を下ろして。

「叔母さんがご飯作って待ってるから、奢りは良いや」

「ええ……」

 あっけらかんと答えた後に、ぐるりと視線を巡らせる。「そうだな」と間延びした声を上げて、骨張った指先が此方に向けられる。

「へ?」

「それ」

「それ……?」

 指先を視線で追って、振り返って。

 木陰に置かれた俺のバッグを、一瞥する。

 向き直って首を捻る。眉を寄せて顎を引けば、また、片桐はニッコリと笑った。

 いや、頷かれても。



[newpage]



 我が母校の体育館は、去年の改修で、アリーナもかくやと言う広さと清潔感を誇っている。

 故にバスケやバレーの地区大会の会場になる事も多く、今日のような日は、会場準備から何からに駆り出される羽目になる。

 加えて一年ともくれば、求められる働きぶりは、馬車馬もかくやと言うほどだ。

 こちらです。あなたは?あ、〇〇高校……では、こちらを使って頂いて……。と言った具合に、続々と到着する参加校の方々を控室まで案内する。

「こら、右成!」

 武道場の鍵が、つるりと滑り落ちる。かしゃーん!と音を立てたそれを、他校の先輩が拾ってくれる。

「ありがとうございます」と鍵を受け取り、今度こそ扉を開けて。

 怒号が聞こえた方を振り返ると、右成が他校の部員に噛み付いているところだった。

 比喩とかではなく、物理的に噛み付いている。

 それだけでも奇怪な光景ではあるが、さらに異質なのは、噛み付かれた方が右成によく似た顔をしているという点。いや、似ているというよりかは、全く同じ顔面だ。

 噛みついているのは右成だし、齧られている方も右成。

「ちょうど良かった藤白!ちょっとこいつ捕獲して!」

 頬に引っ掻き傷をこさえた先輩が、必死の形相で助けを求めてくる。

 噛みついている方──右成aを慌てて取り押さえ、どうにか右成bから引き剥がそうとする。

「み、右成、やめろ。正気に戻れ」

「ガルルルル」

 だめだ人語を忘れてる。今にも野生に帰りそうな右成aに喰われながら、右成bは「元気だねぇ」と他人事みたいに笑う。あんたそれで良いのか。

 ベリ!と、ジタバタする右成aを、ようやっと引き剥がす。

「何があったかは知らないけど、まず謝れよ」

「…………」

「暴力はだめだ」

 心を込めて諭せば、少しだけ肩を震わせて抵抗を止めた。それでも頑なに謝罪をしないので、代わりに「すみません」と俺が頭を下げる。

「ああ、いやいや。大丈夫です。お気になさらず」

 右成bは、ゆったりした所作で首を振った。側頭部からピュウピュウ血が噴き出ている。

 傷害、暴行、出場停止、部活動停止。

 あまりに景気の良い出血大サービスに、一瞬でそんな言葉が脳内を駆け抜ける。

「ただの兄弟喧嘩なんで」

「は、」

 目を剥く。確かにこいつ──右成aは、他校の兄弟に対抗するためにここに来たと言っていたが。

「右成朝陽。夕陽の双子の兄です。よろしく」

「よろしくお願いします……?」

「もしかしてきみ、侑希くん?」

「ど、何処かでお会いしましたか……」

「いや、夕陽がお世話になってるみたいだから」

 穏やかな笑みのまま、右成b……朝陽さんが右成にアイコンタクトを取る。

 釣られるように右成を見ると、先刻とは違って、何処か狼狽えるように視線を彷徨わせていた。

「恥ずかしがるなよぉ。……こいつ、バレー馬鹿でしょう?」

「バ……まあ、熱意は常々感じてます」

「だから、温度差って言うの?そう言うので、チームの奴らとの衝突も多かったから、1人で上手くやれてるか心配だったんだけど」

 ────良かったね、夕陽。

 俺と右成の相貌を交互に見比べて、さらに笑みを深める。

 普段はサルみてぇな右成しか見てないので目立たないが、こうして普通に笑えば、中々に優しげな面差しをしている。同じ遺伝子でも、印象は全く違う。

 黙ってニコニコしていれば、右成ももっと友達が増えるのではないかと思った。

 憐れみの視線を向けると、何処か青い顔をした右成と目が合う。いつもはこういう時、必ずこっちを睨んでいるのに。

 何やら尋常じゃない様子に、思わず息を呑んだ。

「朝陽、他の一年はもう準備して体育館行ってるけど……何?おまえ負傷してるの?」

 冷ややかな声音だった。

 右成、と、口に出し掛けたチームメイトの名を飲み込んで、声の飛んできた方を振り返る。

 他チームの選手だった。

 恐らく年上であろうその人は、朝陽くんを咎めながら、目を細めた。

 背も高く、体格にも恵まれている。整えられた指先からは、意識の高さが窺える。

 妙にオーラがある人だと思った。

「ごめん、アオイくん。すぐ行く」

「…………敬語も使えないの?」

「すみません、アオイくん先輩」

 あんたそれで良いのか。威圧的な先輩も、あなたそれで良いのか。

 モヤモヤとさせられるやりとりが、目の前で一往復。朝陽くんはベンチコートを翻して、体育館へと向かった『アオイくん』の後を追う。

「またね」と。

 一度振り返り、唇だけを動かす。涼しげに目を細めて、今度こそ体育館へと向かって行った。

「……おまえ、大丈夫?」

 その背を見送って、未だ隣で立ち尽くしている同期へと視線を向ける。

 先輩にぶたれた時だって喧しかったコイツが、ここまで静かになるのは、ある意味大事件だ。

「…………ないのに」

「は?」

 強張った表情で、何かをボソボソ呟く。

 本当大丈夫か、お前。顔色ヤバいぞ。

「俺、お前のこと、アイツには一言も話してないのに」

「ええ……」

「つか学校の事以前に、口きいてない」

 思わず声が出る。

 アンチ兄なのは前々から知っていたが、家で口すら利いていないとは。

「ご家族に話したりしたんじゃないの、俺のこと。それなら直接話さなくても、フツーに伝わるでしょ」

「でも名前……お前の名前までは、家族にも教えてねぇよ」

「……………」

「……………」

 2人して顔を見合わせる。右成にこんな顔をさせるのは、後にも先にもあの兄だけなのだろうと思った。

 し、心配性なんデショ……。なんて呟くと、思い切り足を踏まれる。コイツマジで暴力マン。

「……カカンショー?ってやつなんだよ、あいつ」

「はぁ……」

「さっきだって、『お前もウチの学校来ればよかったのに』とか何とか、舐めやがって」

「引き抜きか?それは困る」

「困……当然、本気じゃないんだろうけど」

 少しだけむず痒そうにしながら、顔を伏せる。

 しかし、そうか。あの怒りっぷりにも納得が行くと思った。

 右成は基本、自分自身が舐められるのも大嫌いだが、自分の意志や決断を否定されるのはもっと嫌いだ。『そのチームを捨ててここに来るべきだった』と言うのは、右成にとっての最大限の侮辱なのだろう。自身はチームメイトに傲岸に振る舞うくせに、とんだジャイアニズムだと思う。

「俺のこと、何もできないガキだと思ってんだ。年も変わんねぇのに」

「………………」

「……なんだお前、怖……キショいよ……」

 無言で背中を叩くと、本気で怯えられる。

 どんな暴言よりも、何だか胸にキた気がする。

「右成!藤白!」

 前触れもなく名前を呼ばれて、肩を揺らす。振り返れば、右成も梅干しみたいな顔のまま、同じ方を向いた。

 こーくんだ。

 頬が緩みそうになるけど、どうにかして引き締める。ベンチコートを着たまま、こーくんはこいこいと手招きした。

「ユニフォーム組はアップするから、体育館上がってこい」

「あ、でも案内が……」

「良い良い。こっちは俺らやっとくから、行ってこい」

 口籠る右成に、他の先輩達が手を振る。俺たちは先刻の騒動のせいでほぼ仕事をしていなかったので、戦力的にも大きな損失にはならないだろう。

 礼をして、こーくんの元へと小走りで急ぐ。

 後ろから追ってくる右成の足音に、訳もなく耳を澄ませた。



 ***



 コートに立っていると、よく人の心が折れる音が聞こえてくる。相手からも味方からも、満遍なく。

 けれど此方の声は届かずに、徐々に呼吸の仕方すら忘れて息苦しさは増していく。

 この空気のコートは、密閉された水槽みたいだと常々思う。

 またサービスエースだ。

 何本目だ?

 いつもはギャラリーの声なんて聞こえないのに、今日だけはやけにはっきり聞こえた。

 願わくば、隣のコイツには聞こえていない事を祈るが。

「……右成」

 小さく声をかける。

 ガラスみたいな目が、きろ、とこっちを向いた。良かった。俺の声は聞こえるみたいだ。

 地区大会決勝。

 下馬表通り危なげなく勝ち進んだ俺たちを待ち受けたのは、因縁の名門私立校である。

 昔ながらの強豪で、絶対的エースを軸に、高い能力水準の選手を揃えた穴の無い構成。

 特に今年は、u15にも選ばれたセッターと、その候補と呼び声の高い新一年スパイカーを新戦力として迎えたと言う。

 そしてその天才セッターが、今朝会った『アオイくん』で、新一年スパイカーが、『右成朝陽』その人であった。

 淡々と、綻びの無いトス回しに、こちらの守備は掻き乱される。

 そして特に、右成朝陽のサーブは、守備の未熟な俺たちにとって、大きな脅威となった。

 高い打点から繰り出されるジャンプサーブは、その威力もさることながら、同世代では類を見ない精度のコントロールを誇っていた。

 的確に、そして執拗に相手の急所を抉る事に長けているのだ。

 まず一本目は、俺に飛んできた。

 経験の浅い一年生で、崩れやすいと踏んでのことだろう。こーくんとのレセプション練習が役に立ち、何とか上げることができた。

 そして2本目は、右成だった。3本目も、4本目も右成だった。

 右成が対応しきれなかったわけではない。けれど砲弾みたいなサーブを幾度と無く受れば、当然ミスも数本は出てくる。

 一度対応された時点でエースやその他にターゲットを変えるのが定石である分、その選択はあまりにも不自然に思えたが。

 ……ネット越しに見える、右成と全く同じ顔をした青年。

 表情は穏やかでありながら、双眸だけは、滾るような興奮に活き活きと色付いている。

 それを見て、ああと納得する。彼にとって、きっと合理性だとか定石だとかは、どうでも良いのだと。

 その感情の名前すらわからないが、彼はただ、楽しくて仕方が無いのだ。

 誰かの心を折る事が──否、片割れの心を折ることが、楽しくて仕方が無い。自分こそが片割れを叩き潰し、矜持も、自尊も、何もかもを蹂躙してやるのだと。

 きっと何度レシーブを上げようと、彼はこの先ずっと、右成を狙い続けるのだろう。

 真っ直ぐに右成だけを見つめる視線は、そんな、偏執的で陰惨な愉楽すら思わせた。

「負けるな」

 気付けば、そんな言葉が転がり出ていた。

 先輩や、こーくん、右成が少しだけ驚いたような表情をする。俺も自分に驚いている。やや於いて、俺は存外苛ついているのだと自覚する。ここでは上手い奴が正義で、実際に彼は結果を残している。それでも、右成朝陽の、合理性を完全に無視した自慰めいたプレーは、好きになれないと思った。

「多分先生は、タイムも交代させる気もない。一本、俺たちが自力で切るしかない」

「………ああ」

「上に上げるだけで良い」

「…………」

「俺が決めるから」

 一点決めて、あの悪趣味なサーブを切る。

 セッター……こーくんへと視線を向ければ、小さく頷いてくれた。

「舐めやがって」

「上げてから言え」

「俺は上げた」

「全部あげてから言え」

 小言を言い合いながら、ホイッスルを聞く。

 風船でも叩き潰したみたいな破裂音の後に、風圧を伴ってボールが飛んでくる。

 相変わらず右成狙いなのは変わらない。

「……ぎっ、」

 ほぼ右膝を崩すような体勢で反応。

 完璧とは言えないが、2段トスに繋げられないボールでも無い。こーくんが落下地点に走る間に、俺を含めたスパイカーが助走距離を取る。

 ライトバックから右利きライトへの2段トスは、難易度も高い。定石通りならレフト一択だが、こーくんなら、ライトでも俺に上げてくるだろう。

「俺が決める」と言い、その言動に少しでも合理性があるならば、スパイカーの意志を尊重する。

 頼もしく居て、どこまでも無慈悲だ。

 己の言動の責任を果たせと。身体全体を使ってセットアップされたトスが、そう凄んでいるみたいだ。

 角度を付け、ほぼネットに並行な位置からの助走。

 集まってくるブロッカーの隙間から、相手のコートを確認する。

 ブロック3枚。完成も早い。

 踏み込み、バックスイング。筋繊維の収縮、膨張。

 空中姿勢を保ったまま、胸を開き弓のように反る。

 自分でもよく飛べているのがわかる。

 体幹トレーニングと、腹筋、背筋、ロードワーク。

 その全ての集大成がこれだった。

 僅かな差ではあるが、滞空時間の長さは、空中戦での勝敗に直結する。

 ブロッカーが、最高到達点に登って、そして落ちる。

 その瞬間に、腰を回転させる。

 完全にブロックの上から振り下ろされた手が、思い切りボールを叩き落とす。

 鋭角なコースには確認通り人はおらず、少しの静寂を埋めるように、ホイッスルの音が響いた。

「飛ぶねぇ」

「空中で待ってたね」

「完全にブロックの上から打ったな、今」

「いっつもそれやれよ」

 先輩達が、ハイタッチを求めに来る。こーくんは頭を撫でてくれた。

 こーくんの信頼に報いれたと言う実感に、スパイカーで本当に良かったと思った。

「…………ナイスキー」

 どこか不満げに唇を尖らせる右成。「どういたしまして」と薄く笑うと、目を見開き、歯痒そうに歯軋りをした。良かった、いつも通りだ。

 ボールを受け取り、サーブを打つべくエンドラインへと下がる。

 何処か残念そうに笑う右成朝陽に、薄寒さを感じた。



 ***



 3セットまでも連れ込んだ試合は、結局終始相手の優勢で終わり、俺たちは負けた。けれども地区予選は通過しているので、県大会に上がれば、また彼らと戦う事になるだろう。

 悔し泣きする右成を宥めながら、ストレッチ。

「レセプションの練習付き合ってやるから」と言えば、鼻声で「ごぼごぼごぼ」と帰ってくる。お前は何に溺れてるんだ。

「おまえ゛くっさい……」

「は、」

 クンクンと自分の袖を匂う。

 自分では分からないが、きっとこいつだって同じ匂いだ。とは言え匂いは気になるので、バッグからシーブリーズを探し出して、首やら胸やらに塗っておく。

 ついでに汗だらけのユニフォームを脱いで、練習着に着替えた。

「ほら、お前もいい加減着替えろって」

「絶ッッ対、クソ朝陽よりうまくなる」

「そうしてくれ。ほら、バンザイしろバンザイ。脱がしてやるから」

「おまえよりも上手くなるるるる」

「わかったから、あーもう、風邪ひくぞ」

 ぐずぐずと泣きながらも、大人しくバンザイする右成。甥っ子にするみたいにユニフォームを脱がせる。右成のバッグから勝手に引っ張り出した練習着を着せて、シーブリーズを顔面にぶちまけた。 

「ぶ!」

「おまえクッサ。自分がフローラルに包まれるとわかるけど」

「びびび死、死ぬ!死ぬ死ぬ死ぬ……ん、」

 右成の目が、キョトと瞬く。

 泣きやんだかと思えば、じっと俺の手元を凝視して。

「お前、それ変えた?」

『それ』と言うのは、シーブリーズのボトルである。ガサツなように見えて、変に目敏かったりする。

「前は黄色のやつだったよな。色ウルセーってずっと思ってたから」

「変えた……というかこれは────、」

「ゆーうき」

 鼻にかかったようなテノールが、俺の言葉を遮る。

 ほぼ同時に肩に添えられた重みに、目を見開いた。

 誰だ、と言いたいところだけど、出会い頭に下痢ツボを押してくるようなヤツは、あいつしかいない。

「片桐」

「やっほ」

 肩を軽く叩いて、隣に腰を下ろしてくる。

 鼻梁のスッと通った横顔に、長くて白い首、真っ黒なサラサラヘアー。

 練習着を着ている分、普段よりも体格の豊かさが目立つ。

「お疲れ様、凄かったねぇ」

「見てたの?」

「丁度、休憩中にやってたからね」

「練習に集中しなよ」

「俺だけじゃないもん。チームの連中も見てたし、あと、結構クラスの奴とかも。『ウチのガッコ、こんな強かったの〜!?』って」

 グーにした両手を顎先にくっつけて、キショい声を出す。

 ぶに、と頬を掴めば、へらへらと笑いながら両手を掴まれる。鼻を掠めた甘い匂いに、やんわりと手を下ろして距離を取った。

「なに、何で逃げるのさ」

「汗臭いからおれ」

「ええ?部活生なんて皆同じようなモンでしょ。俺も大して変わらないよ」

 朗らかに笑いながら、同じだけ距離を詰めてくる片桐。

 さすが片桐だ。余裕も思いやりも、どこかの誰かさんとは違う。

「…………片桐、秀司くん……?」

 気配が消えていると思ったら、右成は片桐の登場にすっかり目を回していた。

「きみは、」

 俺の視線を追うようにして、片桐が右成へと目を向ける。

 その笑みは人当たり良く、初めて出会った時の彼を思い起こさせる。よそ行き用である。

「こいつは右成。同期」

「ああ、右成くん。……彼が?よく侑希から名前聞くからかなぁ。初めて会った気しないや。よろしく」

「よ、よろしく……」

 気圧されるみたいに、差し出された片桐の手を取る右成。こんなしおらしい右成は中々見る事が出来ないので、少しだけ愉快だ。

 小さく笑うと、片桐と右成の4つの目玉が、皿みたいにまん丸になった。

 なんだその目。言いたい事があるなら言ったらどうなんだ。

「お前、一生笑わない方が良いよ……」

「は?」

「笑顔キモい……」

 反射的に右成の胸ぐらを掴む。

 そのままアンチクショウの口にシーブリーズを突っ込もうとして、片桐に止められる。

「これだけはやめて」なんて言葉に、少しだけ冷静になって、肩パンに切り替えた。

「痛ーーーッ!」

「マッスルばいばいしろ」

「マ……、もしかして肉離れのことマッスルバイバイって呼んでんの?」

 何がおかしいんだ貴様。

 その大きく開いた口に突っ込んでやろうと、拳を握りしめて。

「仲良いんだねぇ、2人」

 目を見開く。

 依然ニコニコと微笑んだまま、片桐がゆっくりと立ち上がった。幾分か冷静になった頭で、俺は拳を開いてパーにして、右成は間抜けに口を開けた。

 どこまでも穏やかな声音ではあれど、その声には、背筋が伸びるような、妙な緊張感が伴っていたから。

「か、片桐?」

「そろそろ休憩終わるから、俺行くよ」

「ああ……」

「遅れたらドヤされちゃう。じゃあ、またね。侑希、右成クン」

 待合室から出て行く片桐の背に、ふりふりと手を振る。

 扉のところで、「あ、そうそう」と立ち止まるので、顎を引いて手を下ろした。

「それ、大事に使ってよね」

 それ、と。目線で示されたのは、シーブリーズである。黄色のボトルに、青色のキャップ。

 頷けば、満足げに微笑んで、今度こそ待合室から出て行く。

「…………それって何だよ」

 扉が閉まってしばらく経って、右成が半目で尋ねてくる。意味もなくパキ、とキャップを開閉して、少しだけ考える。

「ただの制汗剤」

「ウソつけよ。何、片桐クンにもらったわけ?」

「キャップだけな」

「は?」

 先程答えようとしたのだが、片桐自身に遮られたのだった。

 あの、片桐の誕生日の夜。

 何を思ったのか、アイツは俺の制汗剤の蓋をせびった。どんな陰湿な嫌がらせだと拒否すれば、『じゃあ俺の蓋あげるから』と、謎の譲歩を受けたのだ。

 それは結果的に交換でしかないし、アイツの意図も分からない。けれど何も知らないうちに丸め込まれて、俺のシーブリーズは青キャップ黄ボトルのキメラへと変貌してしまった。

「まあ、キャップがプレゼントってのは流石に酷いから、後でちゃんとハンドクリームあげたけど。アイツ意識高いくせに手はカッサカサで────、」

「……それさぁ」

 一連の経緯を聞いた後、右成は何処かゲッソリとした表情で俺を睨んだ。

「………………」

「………………」

「なんだよ」

「………………」

「なんか言えよ」

 痺れを切らして詰め寄っても、口元をむず痒そうに動かすだけで答えようとしない。

 互いに、胡乱な目で見つめ合って。

「…………いや、何でもない」

「はぁ…?」

 先に視線を逸らしたのは、意外にも右成の方だった。こう言った睨み合いの時、此奴は意地でも先に目を逸らさない。

 そんならしくない反応に毒気を抜かれると共に不安になる。

 なんだ、こいつ。敗北は人を変えるのか?

「……何でもねぇって言ってるでしょ。ほら、行くぞ。そろそろ片付け始まるだろ」

「何だお前」

 立ち上がり、誤魔化すように控え室から出て行く右成。先刻までガキみたいに泣いてた奴が、よく言った物である。

 シーブリーズを鞄に放り込んで、俺もまた、右成の後を追うように立ち上がった。



[newpage]



「片桐くんと仲良いの?」

「右成くんって休みの日何してるの?」


 俺は限界だった。ただでさえ持て余していた質問が、もう一人分増えたのだから。

 我が校で執り行われたあの大会は、成績も相まって、この学校のギャラリーをある程度集めたらしい。そこで目にした一年レギュラー右成の活躍に、ファンが生まれ、追っかけが増え。

 試合やら学校やらで、右成について呼び止められる事が最早当たり前となってきていた。

 試しにあれのどこが良いのかを聞けば、「えー、スポーツしてるところカッコ良いし!」「一年でレギュラーでしょ?すごいじゃん」「ちょっと近付き難いと思ってたけど、藤白君と話してるの見てると、割と気さくなのかなって」「つかフツーに超イケメン。背高いし」エトセトラエトセトラ……。

 右成の普段の姿を知っている人間からすれば、血迷うな、考え直せと小一時間説得したくなるような案件だ。しかし俺には、そんな余裕もリソースも親切心もない。

「我慢ならん」

「は?」

「何でお前みたいなのにアプローチしたがるんだ」

 こんな、叩いても叩いても響かなそうな奴に。

 そんな思いが爆発したのは、トイレに行くまでに3度呼び止められ、とうとう漏らしそうになった昼休みだった。

「え、なに。俺がモテるって話?僻んでるの?」

「もうそれで良いよ。とにかく、『藤白くんに俺の事は聞かないで』ってプラカード下げて生活するとかして」

「いやだ!」

 ボールをレシーブしながら、元気よく拒否される。

 頭が痛い。こちらはバレーに集中したいのに、とんだ役損である。

「もうお前、彼女の1人や2人作れよ……」

 そしてあの、健気な女の子たちを黙らせてくれ。

 そう呻くと、右成がまた「いやだ!」と声を張り上げる。

 そうだこいつもまた、バレー馬鹿なのだ。

 クラスのマドンナとボールが並んでいたら間違いなく後者を選ぶし、正直選手以外の人類の区別がついているのかすら怪しい。

「失礼だろ!」

「え、今名も知れぬ女子を慮ったの?そんな倫理観がお前に……?」

「バレーに失礼だろうが!」

「そっちか……」

 知ってたけど、半目になる。人でなしっぷりは健在である。

「兎に角どうにかして。今日の昼練、遅れたのもそのせいなんだからな」

「マジか。深刻な問題じゃん」

「さっきからずっとそう言ってるよ、馬鹿。そもそも、何で俺のところに皆来るんだ。勘弁して……」

「それはお前が一番俺に近しいからでしょ」

「は……?」

 今、俄には信じ難いニュアンスの言葉が出なかったか。近し……何?右成が今そう言った?

 目を剥けば、「じゃあさ」と朴訥とした口振りでボールをトスしてくる。

「お前の作戦、パクらせてよ」

「はぁ?俺の作戦?」

「うん」

 ちょっと理解が及ばなくて、混乱するうちに、あられも無い方向にボールが飛んでいく。

 それも難なくレシーブする右成の成長ぶりに、目頭が熱くなった。

「お前のシーブリーズ」

「おお」

「キャップ、片桐クンと交換したって言ってたじゃん」

「言ったねぇ」

「あれ、カップルがするやつだから」

「はい?」

 俺はボールを落とした。

 素っ頓狂な声は、紛れもなく俺の口から出た物だ。てんてん……とボールが小さくバウンドして、やがて完全に沈黙する。

「カッ……誰と誰が何だって?」

「やっぱ知らずにやってたのかよ。ツっこんで良いものか測りかねてたけど」

 間延びしたような、呆れたような声で指摘される。

 カップルが、何?

 シーブリーズの蓋を交換するのが?秘境とかの儀式みたいなもの?

 どんな意味と意図があるのだとか、今時の恋愛って、何て小癪なんだとか。そんな感想は隅に置いて、要点だけを吟味する。

 片桐と俺は付き合っていたという事だろうか。

 馬鹿野郎そんな事実も記憶あるはずがない。

 だが、事実として俺たちはキャップを交換した。

 それは片桐が、俺のキャップが欲しいと言ったからだ。買ったばかりだったので、当然キャップをぶん取られるのは困ると断った。すると譲歩として、交換することになった。

 これはまあ、事故だろう。事故。ぜんぜん事故の範囲内だ。

 最初の提案をしてきた片桐の真意こそ謎だが、多分カスタマイズしたかったとか、適当な理由な気がする。大概気分屋なのだ、アイツは。

 問題はそれがなぜ、『作戦』やら『女の子避け』やらに繋がるのかどうかだが。

「『藤白くんってフリーかなぁ』『でも、シーブリーズのキャップ、誰かと交換してるらしいよ!』『アーン、ほなフリーとちゃうか』」

「どうしたんだ急に。大丈夫か」

 猫撫で声の一人芝居に、ゾワゾワと腕に鳥肌が立つのを感じる。吐き気を催しながらも気遣ったのに、右成は不服ですと言う顔でボールを投げつけてくる。

「だからお前、彼女いると思われてるよって話」

「俺が?」

「そうだよ。バレーが原因で俺が目付けられるなら、お前も目付けられるってわかるだろ」

「いや……」

「でも恋のおまじないする相手が居るなら、諦めなきゃねって。ここまでがワンセット」

『シーブリーズのキャップ交換』を、『恋のおまじない』と言い換えるのが絶妙にキモい。

「でも、俺はいまだに片桐の事聞かれるけど。キャップ交換したのに」

「片桐クンは……、あれはもう、何か異次元だろ。特例。フツーは、彼女いるって分かってる相手を狙ったりしねぇわ」

 今にも鼻をほじり出しそうな同期。

 その言わんとする事が、今ようやく分かってきた気がする。俺に対する言い分の真偽は置いておくとしても、右成のその作戦は確かに効果的だと感じたからだ。

「お前が誰かとキャップを交換すれば?」

「話が早くて助かるよぉ、藤白くん」

「じゃあ俺のと交換するか」

「はぁ?」

 今度は右成が素っ頓狂な声を上げる番だった。

 それだけじゃ飽き足らず、せっかく拾ったボールをまた落とす。町一番の阿呆でも目撃したような表情だった。

「何だその顔」

「片桐クンはどうすんのさ」

「え?何でそこで片桐が出てくんの」

「いやいやいや、逆に何でそこで片桐クンを無視できるの?お前実はすごい馬鹿だろ」

『馬鹿』と。こいつにだけは言われたくないランキングが存在するなら、それは3位以内には入る言葉だろう。

 このキャップは既に俺の物だし、できるなら、今すぐにでも手を打って被害を最小限に留めたい。

「アイツは俺のキャップが欲しいって言ったんだ」

「だから?」

「交換は成り行き」

「それで?」

「ならアイツはアイツ自身のキャップがどうなろうと、どうでも良いだろ。普通に考えて」

「あー、なるほどね」

 その声には、何処か言葉通りの得心と、妙な諦観が滲んでいるように思えた。阿呆を見る顔をやめたので、ボールをぶつけるのもやめにしてやる。

 振り返って、自分のシーブリーズボトルを差し出せば、右成は眉を顰める。

 ぐる、と何かを逡巡するように視線を彷徨わせて、「まぁ、良いか」と息を吐いた。

「ほらよ」

 ピンク色のキャップを投げ渡されて、俺も同じように、青のキャップを投げ返す。

 新しくカスタマイズされたピンクキャップ黄ボトルの制汗剤は、頭が痛くなるようなカラーリングをしていた。



 ***




 シーブリーズを使い切る頃。対策が若干の効果を発揮しながらも、右成ファンはそれを上回る勢いで増加していた。

 試合どころか、練習試合、普段の練習にまで押し寄せるようになったギャラリーを見れば、驚くほどの事でも無いだろう。

「お前、すごいな……」

「今頃?俺は最初から超絶イケメンでモテモテだっただろうが」

「……?」

「本気で分からないって顔するなよ。お前、あれだな。大概人に興味ねぇな」

「いやいや、体格とかコンディションだとか人一倍見てるし」

「ほれ見ろ」

 因みに、なにが「ほれ見ろ」なのかは全く分からない。右成田からのパスを受けて、トスを上げる。

 右成は確か少し高めで余裕のあるボールが好きなので、気持ち高めに上げてやる。

 約一年前。「お前はセッターになれ」と、先生に言われ、「俺はスパイカーです」と暴れ回って反抗したあの日から。何だかんだこーくんに丸め込まれ、みっちりセッターのアレソレを叩き込まれてきた結果、かなり様になってきた気がする。

「あっ、」

 ボキ!と、枝でも手折るような音を響かせたスパイク。ボールが元気よく体育館の外へと転がり出て行く。右成はボールを追っかける習性があるため、俺が「行けよ」という間も無くそれを追ってくれる。

 1人体育館に取り残されたので、籠からもう一つボールを取り出して、ポーンと高く投げる。ボールが落ちてくる間に身体の方向を半回転させて、また、ポーンと高くオーバーして。

「あの、藤白くん」

 少しだけ高い声に、ぴたとボールをキャッチする。振り向けば、そこには見覚えのない女の子が居た。華奢で、肩も足も腕も細くて、全体的にすぐ折れてしまいそうだと思った。

「……きみは?」

「私は、あの。5組の湯田って言います」

「湯田さん。どうしたの?」

「えっと、」

 もじ、と足を擦り合わせながら、うろうろと視線を彷徨わせる。

 その要領を得ない立ち振る舞いには、既視感しか無かった。内心ゲッソリとしながら、「片桐と右成、どっち?」と開きかけた口を、思い切り閉じる。

「……藤白くんは、お付き合いしてる人とかいるの?」

 予想外にも、それは俺に対する質問だったからだ。

「お、俺ぇ?」

「?うん」

 自分でも聞いたことないような声を上げた自覚はあるが、湯田さんは気にしていないみたいだ。

 ここで何で、なんて聞くのも、少し感じが悪い気もするし。

 こちらをじいと見つめてくる真っ黒で大きな目に気圧されてしまって、結局、「いないよ」と素直に答えた。

「そ、そうなんだ!」

 先刻までの緊張からは一転、湯田さんは、心底嬉しそうに表情を綻ばせる。何だか単純に、愛らしいなと思った。

「私、前偶然藤白くんが部活してるところ見て」

「うん」

「すごく、カッコ良いなって。何より、バレーボール好きなんだなって」

「うん。大好き」

「……っ、」

 何故かここにきて頬を赤らめる湯田さん。

 その反応の真意は分からないが、他人から見ても楽しそうに見えるのなら、それはとても誇らしく、喜ぶべきことに思えた。

 先を促すように首を傾げると、赤い顔を伏せて、何かを決心したみたいにまた顔を上げた。

「あの、これからも藤白くんがバレーしてるところ、見にきても良いかな」

「たぶん、大丈夫だと思う。今も結構人来るし、練習の妨げにならない程度なら……」

 目を丸くする湯田さん。俺は何か間違えただろうか。女バレ以外の女子とあまり話す機会がない分、こういうのには慣れていない。狼狽を隠すように後頭部を掻けば、湯田さんは、耐えられないと言ったふうに笑った。

 本当にわからない。

「ふふ。藤白くん、意外と天然なんだね」

「……そうかな?」

「私ね、藤白くんが好き」

「あ、ありがとう」

「彼女になりたいなって思う」

 ここに来て漸く、湯田さんの言葉の意味を理解する。

 彼女は、俺に特別な好意を寄せてくれているのだ。……その、友愛だとか尊敬だとかとは違う、もっと、俺が知らない類の好意。

 どうして良いのか分からなくて、目を剥く事しかできなくて。

「……正直そういうのよく分からなくて。きっと、きみのこと大切にできないと思うよ。おれは、その、」

「私はね、バレーボールが好きな藤白くんが好き」

「っ、」

「だから、私は1番じゃなくても良いよ。藤白くんにとっての1番が、バレーだって知ってるから」

 はにかみながら、上目遣いで俺の表情を伺う。いじらしくて、健気だと思う。その懸命さに応えたいとも思う。

 けれど俺は、なにも分からない。だってきみのこと何も知らないし、自分のことだってよく分かってない。

 戸惑うみたいに視線を彷徨わせたら、柔らかい感触に、ぎゅっと両手を包まれる。

「っ、……?、?」

「じゃあ、連絡先だけでも交換してほしいな。少しずつでも、私のこと知ってほしい」

「でも、スマホ今教室にあって」

「だと思って、LINEのIDメモしてきたの。これだけでも受け取って?」

 細くて、柔らかくて、真っ白な指。

 サンゴみたいにポッキリと折れてしまうんじゃないかって、手を握られている方は気が気じゃない。

 少しの恥じらいと強引さを以て握らされた紙切れは、酷く重く感じられる。

 湯田さんを見て、メモを見て。また、湯田さんを見る。湯田さんは、ゆったりと目元を撓ませて、「待ってる」と笑った。

「…………」

「じゃあ、私行くね。練習の邪魔しちゃってごめん」

 プリーツスカートを揺らして、逃げるみたいに体育館から出て行く。暫く立ち尽くして、メモ用紙を、練習着のポケットへと突っ込んだ。

「…………隅に置けないねぇ」

「突っ立ってないで助けろよ」

「無茶言うなって」

 背後からヒョッコリと顔を出した右成に、呪詛を吐いた。

 とっくの昔に、ボールを回収して戻ってきていたらしい。息を顰めているつもりだったんだろうが、無駄にデカい図体がずっと視界の端でチラチラしてた。

「……こう言う時、お前はどうしてるの」

「俺ぇ?」

 さっさと練習に戻ろうと促しながら、右成が間伸びした返事をする。俺よりもずっと、こう言う機会は多いだろう。

「部活に集中したいんだよねって、断る」

「傷付かないかな」

「さぁ、知らね。俺そう言うの割とどーでも良いタイプだから」

「人でなしめ……」

「は?お前にだけは言われたくねぇよ。けどそう言うの気になる人は、受け止めるしかないんじゃない?」

 カラカラ笑いながら、こちらにボールを寄越してくる。

 軽く強打を打って、右成が拾って。そのボールを、また右成へのトスにする。

「……っし」

 床にボールを叩きつけ、着地する右成。

 釈然としないままその様子を目で追ったら、涼しげな目と視線がかち合った。

「傷つけちゃったなぁ、悲しい思いをしてるんだろうなぁ、勇気を振り絞ったんだろうなぁって。そう言うの全部、受け止めて背負うしかないんじゃない。カワイソウ」

「…………」

「辛い?」

「おれは、人でなしじゃ、ないので……」

 目を伏せると、ヌッと長い影に覆われる。

 無遠慮に伸びた手が、俺のポケットを漁って、IDの書かれたメモを引っ張り出した。

「は?右成おまえ」

 ……何するんだ、と。続けようとした言葉は、発せられることなく腹へと戻って行く。

 にぃ、と細められた目が、見たことのない酷薄さを帯びていたから。

 背筋を駆け上がってくる薄寒さに、思わず息を呑んだ。

「ビリビリにしてやろうか、これ」

「何言って……」

「それで言えば良い。『人でなしにダメにされちゃったので、連絡できませんでした』って」

「…………」

「俺はね、藤白」

 弧を描いていたはずの双眸が、思い切り見開かれる。鼻先が触れ合うような距離感で、妙に開いた瞳孔が、俺の視線を捕らえていた。

「他人が何しようとどーでも良い。俺のことどう言おうと、誰と乳くり合おうと、人殺そうと、心底どーでも良い」

「……悪かったって。どーでも良い話ふって」

「でもお前はダメだろ」

「は、」

 その表情には、何だろう。いつかの──彼の片割れを彷彿とさせる何かがあった。

「色ボケで集中できません?恋の悩みで頭がいっぱいです?他の女の顔がチラ付きます?目の前に俺がいるのに?」

「許せるわけねぇよな?お前のトスもレシーブも、全部俺のためにあんのに。マトモぶってねぇでさっさと切り捨てろよ。それができねぇなら、他の奴にレギュラー明け渡せ」

 ───なんなら俺がころしてやろうか、その女。

 そう言い切った男の相貌からは、表情の一切が抜け落ちていた。

 おまえ、右成朝陽みたいだね。咄嗟に唇を引き結んで、そんな言葉を呑み込む。正反対に見えていたけれど、所詮、血は争えないと言う事だろうか。本人がああまでして嫌悪する片割れと、今の右成はよく似ている。

 悪趣味で、陰惨で、悪辣で。

 そしてどこか、まともじゃない。

「……返せよ」

 右成の手からメモ用紙を毟り取る。

 猛禽じみた目が、きろ、とその挙動を追った。そして、獲物を見定めて、見聞するみたいに、じいと俺を観察して。

「どうでも良いんだろ、いつも通りのプレーさえできれば」

 その言葉に、漸く表情が動く。目を細め、俺の言葉の先を待っているようだった。

「できるの?」

「それ、俺に言ってるの?」

「あ?」

「俺より上手くなってから大口叩けって言ってんだよ、下手糞が。あんまイキんじゃねぇ」

 顔を顰め、片眉を上げる。

 数字は正直だ。守備成功率も、得点率も、ブロックの本数も。選手の技量、成果、貢献度全てを、詳らかに可視化してくれる。

 俺がこいつよりもそれで劣っていたのなら、幾分か素直にその恫喝を受け入れる事はできたのだろうが。

 分かってはいる。人を黙らせるために数字や事実を振り翳すのは、外道のする事だ。最も軽蔑されるべき蛮行。

 けれど、しょうがないだろう。

 お前みたいな生半可な人でなしが、1番癪に触るんだから。

 バレーを理由に誰かを蔑ろにするのなら、誰をも黙らせる正当性と説得力が要る。

 そうだろ?

「…………人でなしが」

 右成は、今にも喉元に飛びかかってきそうな表情で唸る。けれども実際に飛びかかってくることも、反論してくる事もない。

 バレーを主軸に置き、望んで殺伐とした価値観に生きる此奴こそ、それを1番肌で理解しているからだ。理解しているからこそ、俺を上回らない限り、俺に逆らう事ができない。此奴が今できる事は、黙って牙を研ぐ事だけだ。

 やっと静かになった下手糞に、幾分か晴れやかな心でボールを投げる。

 いつもよりピリついた空気感が、最高に気持ち良いと思った。



[newpage]



 俺たちの代では全国に行った。

 個人では、俺と右成が県選抜に選ばれるなどした。片桐も、バスケの方のユースから招集が掛かった。

 あと湯田さんとは、連絡を何度か取り合ったあと、自然と疎遠になった。ちゃんと恋人ができたらしい。

 そして恋人も無く何も無く。俺は、お声掛け頂いた幾つかの学校の中から、伸び伸びと身軽に進学先を選ぶ事ができたわけだが。

 だからこそ、2人と同じ高校に上がるって知った時、俺は未だかつて無いくらいに驚いた。同時に、腐れ縁ってあるんだとちょっと運命の存在を信じるようになった。

「相変わらずモテるねぇ、片桐クンは」

「重い。乗るな」

 馴れ馴れしく肩を組んでくる右成は、既に180センチの大台に乗ろうとしている。俺はと言えば、175の境目をウロウロしているので、この体勢は非常に癪である。

 肩に回された腕を振り解き、サッと身を屈める。

 片桐御一行が廊下を通り過ぎるのを、窓枠の下でやり過ごした。

 片桐とクラスは別だ。けれども人情に溢れたあいつの事なので、廊下ですれ違おうものなら、きっと花が綻ぶような笑顔でこちらに微笑みかけてくるだろう。

「侑希」と。

 そこから先はお察しである。中学の二の舞だ。

「片桐くんと仲良いの?」

「仲良いよね?」

「お近づきになりたいの。協力して」

 俺の中学校生活で唯一心残りがあるとしたら、それらの質問に浪費されてきた時間であろう。

 故に俺は、心に決めていた。

 中学と同じ轍を踏まぬよう、ここでは表立って片桐と絡まないという事を。右成にも同じことが言えたが、此奴はバレーを続ける限り運命共同体のような物なので、もうどうしようもない。

 故に俺は、こうしてアイツの視界から逃げ回ってるわけだが。

「挙動不審くんは隣に立たないでもらえますか?知り合いだと思われたくない」

「何の話だ」

 大体先に絡みにきたのはお前の方だ。

 歯軋りすれば、右成が肩を竦めて顎をしゃくる。

 素直に片桐から意識を逸らせば、「イケメンくんと同じクラスになれてラッキー!」「隣の変な人ダレぇ……?地味顔の」みたいな会話が、クラスのどこからか聞こえてくる。だれだ、変な地味顔って。俺は地味顔だけど変では無いので、たぶん違う人だ。

「お前、ボッチまっしぐらじゃん。話し相手いなくなるよ」

「そんなんお前がいたら充分だろ」

 確かに、既に高校デビューに失敗している感じはする。しかしバレーボールに関わる交友関係以外がどうなっても、割とどうでも良いと言うのが本音だ。

「…………?」

 急に黙りこくってしまったチームメイトを、半目で睨め付ける。当の本人は、狐に摘まれたような表情で固まっている。間抜けだと思った。

「なんだお前。急に黙るなよ」

「……………キモぉ……」

「は?」

「キモぉ」と言い放った表情は、浴槽でデッカい蜘蛛を見つけた時のそれだった。急に変な顔で変な事を言わないでほしい。ビックリしてグーで殴ってしまった。

「ギャー!」と言う女子の悲鳴と、「暴力です!こいつ暴力マンです!」と言う右成の喚きが、教室中に響き渡っていた。



 ***




「ふ、藤白くん。片桐くんが呼んでる……」

 教室のドアから、恐る恐る声をかけてくる女子生徒。入学して3ヶ月と経たないうちに、『暴力マン』の蔑称を得た俺は、クラスメイトから遠巻きにされている。

 180の壁の後ろに隠れながら、「片桐」と言う名前に、ブンブンと首を振る。すると壁は、「今藤白いない。ウンコだって」と答える。

「えっと、お手洗いだって……」

 マイルドに、扉の向こうで答える女生徒。ここまでが、お決まりの流れだった。まだ俺が暴力ウンコマンになってないのは、クラスメイトたちの少しの気遣いのおかげである。

 スマホにメッセージ。

「最近お腹の調子悪いの」と。片桐からの質問に、「液状」と返しておく。固形のウンコくんスタンプに、便器くんスタンプを返してアプリを閉じた。

「うわ、片桐クンうんこスタンプとか使うのかよ」

 180の壁……右成が、俺のスマホを覗き込みながら目を丸くする。お前のせいだと詰め寄りたい気もするが、匿ってもらっている手前強気に出られない。

「お前ですら使わないのにね」

「ほんとそれ」

「あ、待って」

「なに」と、またスマホを覗き込んできた右成は、程なくして「うわ」と声を漏らす。

『トイレ居なくない?』

『どこのトイレ?』

『何階?』

 連続して送られてくるメッセージ通知が、少し怖い。彼は何を切羽詰まっているのだろう。まさか、『侑希、ウンコ出た?』とかトイレで聞いて回ってるわけじゃあるまいな……じゃなくて。

 これは非常に不味い。嘘が嘘だとバレてしまう。学校で関わり会いたくないだけで、諍いを望んでいるわけではないのだ。

「俺ちょっと、4階のトイレに篭ってくる」

「はァ?」

「片桐がくる前にウンコマンになる」

 1階から4階まではかなり距離があるが、中学時代の階段ダッシュに比べたら、ちょっとした段差を跨ぐような物である。片桐がトイレに辿り着く前に、虚言を現実にするべく教室から飛び出した。




「それで?」

 肘を突き、鼻下で手を組み項垂れる右成。こいつのここまで深刻な表情は初めて見た。

「付き合う事になりました?」

「いや俺に聞かれても……。俺の記憶が正しければ、お前はトイレでウンコマンしてくる!って、馬鹿みてぇなこと叫ぶなりどっか行ったわけだけど」

「その認識であってます」

「うん。それで?どうなったって?」

「カタ……ヒヒフンと、お付き合いする事になりました?」

「?……??、?……?」

 片桐くんと付き合う事になりました。

 事実を再確認した右成は、とうとう青い顔で眉間を揉み解した。俺は俺で、大袈裟な……と言いかけて顎先に触れる。いや、改めて事実を言語化してみると、確かにおかしいなこれ。

 なんでこうなったんだっけと、朧気な記憶を振り返る。

 ────『避けてるよね?俺のこと』と。

 片桐はトイレに入ってくるなりド直球で尋ねてきた。閑散とした空間に、やけに声が響いていた。ウンコを終えて絶賛手洗い中……と言う設定の俺は、手を洗うポーズのまま、すっかり固まってしまって。

「いや?」と否定するけれど、片桐は身体を少し傾けるだけだ。それは完全に出入り口を塞ぐムーヴメントで、完璧な位置取りに寒気すら感じる。何より不気味だったのは、その笑みが、本当の本当に自然で、いつも通りの物だったと言うことだ。

 ごく自然に微笑んだまま、意図的に退路を断つ。

 片桐の意図が全く分からなかった。

「なんで?俺のこと、嫌い?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ、好き?」

「うん」

 素直にそう答えると、少しだけ複雑な表情をする。ただそれも一瞬で、直ぐに貼り付けたみたいな笑みを浮かべた。

「じゃあなんで逃げるの」

 すぅと開いた眼光は、どこか悲痛だった。俺だって、片桐にこんな顔をさせたかったわけではない。

 そもそも黙っていたのは、本当の事を言ったとして、片桐的には『俺に言われても……』案件でしかないからだ。とは言え、このまま何の弁解もしないよりはマシに思えた。

「……お前と学校で絡むと、何かこう、『片桐くんとお近付きになりたいの』って子に毎回絡まれてしんどい……」

 結果、馬鹿正直に本心を吐露した俺に、片桐は目を丸くする。ぴし、と硬直して、暫し、無言のまま見つめ合った。

「そ、れはさぁ」

 沈黙を破ったのは、片桐の方である。表情は相変わらず硬い。

「右成くんにも同じ事が言えるんじゃないの」

「でもアイツはほら、部活もクラスも同じだし。ちょっと防ぎようがないだろ」

「なにそれ。俺と部活もクラスも違うから、彼を優先したって事?」

「優先って、おい何だその……ハコフグみたいな顔」

「ひどい!それならねぇ、それなら俺だって言わせてもらうけどさぁ……!」

 今にも破裂しそうなほどに頬を膨らませる片桐。あまりの剣幕にたじろぎつつ身を引くと、同じだけの距離を一歩で詰めてくる。

 肩を掴まれ、抱き込むように身体を近づけて来て。頬を掠める細い黒髪に、制服越しに伝わってくる体温、甘い香り。何事かと身構えれば、キュ、と言う音の後に、水音が途切れた。どうやら、蛇口を締めてくれただけのようだ。

「侑希だって大概モテるんだからね!?」

 再び俺の両肩を掴み叫ぶ片桐。目が完全に据わっていた。息も絶え絶え、「ハァ…?」と呻くも、変わらず本気の形相で詰め寄ってくる。

「ほら気付いてない!しかもコアなファンが多いのか、ヤバい子も多かったし……」

「ヤバい子って……」

「『真っ新で可愛い』『私色に染めたい……』『色々手取り足取り教えてあげたい』エトセトラエトセトラ」

「何言ってるの?」

「俺も分からなかったよ最初は」

 指折り数える片桐は、ちょっと驚くくらい顔色が悪い。何かわからないが、すごく怖い思いをしたのだろうなと思った。けれど記憶を遡っても、俺自身にそのようなトラウマは無いが。

「侑希に対する相談は専ら俺に来るんだよ。お前は友達が少ないから」

「…………」

「その度に俺は、お前の色々を必死で守ってさ」

「それは……ごめん?」

「本当だよ。苦し紛れのキャップ交換作戦も、裏目……って言うか、何か気付いたら他の子と交換してるし」

 ここに来て衝撃の事実だが、あのキャップ交換事件は、片桐の思いやりによる物だったらしい。本当にハンドクリームをあげて良かったと思った。あとそれは、他の女子との交換じゃなくて、右成って言う野郎との交換です。なんて訂正は、「断言するけどね」と言う低い声に遮られる。

「お前は俺がいなかったら、とっくに食われてたよ。頭からバリバリって」

 冗談よせよ、と笑い飛ばせないのが辛い。俺は母親以外の女性をほぼ知らないし、相手はあの片桐だ。俺よりもよっぽど、女性と言う生き物に造詣が深い筈。何よりその表情は真に迫った物で、説得力が違う。文字通り頭からバリバリ食べられる自分を想像して、ぶるりと身震いした。

「……なら尚更、俺と表で関わるのはやめた方が良いでしょ」

「馬鹿、それで済むなら中学で縁切ってるよ。俺は!お前を!心配してるの!」

「片桐……」

「ずっと一緒だって言ってくれたよね。行けるところまで2人で行くって。だから俺は、そう言うのでお前の足が引っ張られるのがすごくイヤ」

 目を伏せ、切なげな声音で懇願する片桐。下がった眉と、小さく震える唇。今にでも、濡れた双眸から涙が零れ落ちそうだ。泣いてる?冗談だろ。

 釣られて俺も何だか、目頭が熱くなってくる。

 そう、ここからだ。ここから何か、こう、変な空気になったのだ。

「だから高校上がって、お前が無事にやれてるか俺は気が気じゃないの」

「問題ないよ」

「本当?お前は鈍感だから、自分で気付いてないだけじゃない?中学の時のアレソレを踏まえて、本当に問題ないって言い切れるの?」

 垂れ気味の目元が、精一杯と言った様子で吊り上げている。怒涛の質問攻めに口籠れば、片桐もまた、何かを考え込むように口を噤む。

「……付き合おう」

 やがて、おもむろに吐き出された提案に、俺はしばらく口が聞けなかった。

「付き合ってる事にしよう」

 いや、聞こえなかった訳ではなく……。何故か2度同じ事を言ったソイツに、俺は「はぁ……?」としか返す事ができなかった。

 そして今に至る。


「いやいやいや、なんで?」

 右成が、頭痛を訴えながら待ったをかけてくる。普段は立場が逆な分、こう言う姿は新鮮だ。

「意味がわからない。意味が」

「いや、自分から公表するわけじゃないけど。こう、お互いの事聞かれたら、『アイツ俺と付き合ってるから』で黙らせようって話に」

「うーん……」

「win-winだねって」

「丸め込まれたの?」

「丸め込まれた……わけでは、ない……」

「本当ぉ?」

 少し考えて、俺はきつく目を瞑る。ぐりぐりと眉間を揉みほぐしたら、思考が冴えてくる気がする。スッキリした頭で考えて、冷静に事態を整理して。

「……やっぱおかしいな?」

「だよねぇ」

「いや、そうはならんやろ。まんまと丸め込まれた」

「急に正気に戻るじゃん」

 胡乱な目でマテ茶を啜りながら、右成が肯首する。昼練をすっぽかした詫びに捧げたマテ茶であるが、安上がりで本当に助かる。次の授業の準備だろう。黒板に数式を書くクラスメイトをボンヤリ眺め、椅子に深く腰掛けた。

「どうしよ」

「…まぁ、良いんでね。そんな深刻そうな顔せんでも」

 トン、と硬質な音がする。右成が、机にペットボトルを置いた音だった。

「お前が目立たなければ、万事解決」

「その心は」

「そしたらアイツは、お前関連で女子に絡まれない。なので、『お前と付き合ってる』と答える必要はない」

「あー。逆に俺がアイツについて絡まれたとしても、別の事言って適当に誤魔化せれば、無問題?」

「話が早くて助かるよぉ、藤白くん」

 豪快に笑いながら、背中を叩いてくる右成。力加減を知らないのか、普通に心臓が止まるんじゃないかってくらい痛い。俺が暴力マンなら、こいつは無自覚暴力マンと呼ばれて然るべきだろう。いや、たまにおもくそ故意に暴力を振るってくるけど。

「それより、浩平先輩のハイブリッドサーブをさ……」

 さっさと部活の話を始めるバレー馬鹿は、ひょっとすると俺のゴタゴタなど、心底『どーでも良い』のかもしれない。それでも一応相談らしき物に付き合ってくれたのは、成長と呼べるのではないか。数年前のアレソレを思い出しながら、俺は丸くなったチームメイトに目頭を押さえた。




 ***




 1年のインターハイ予選で、強豪と呼ばれるチームで。そのベンチに入れてもらっただけ、有難いと喜ぶべきだろうか。喜ぶべきなんだろうな。

 ああでも、片桐は公式戦にも出してもらえるようになったんだっけ。

 駄目だなぁ、行けるところまでは一緒に行くって言ったのに。

 決勝。1セット先取された2セット目の、24-23の劣勢。

 このタイミングでピンチサーバーなんて役で放り込まれて、俺の頭にあったのは、『ここでミスしたら負け』でも、『ここで取ったらヒーロー』でもない。

『ここで負けたら、片桐に置いていかれる』と、それだけだった。

 チームを一切慮らない自己中強気サーブは、練習通り見事に相手の守備を乱し、時にはノータッチエースで得点に。

 2セット目を取り返したところで、先輩やら右成やらに肩を抱かれ叩かれ我に帰る。

 我が校のアリーナ席から湧き上がった歓声に、ゆっくりと目を瞬いた。


「『インターハイ出場を決めた大きな勝因として、男子バレーボール部主将の本村雄大選手(3年)はピンチサーバーの活躍を挙げる。「ピンチサーバーに起用された藤白選手(1年)は、ハイブリッドサーブを使います。これは、最近Vリーグなどでも見られるようになった新しいサーブです。その分習得も難しく、実際成功率も半々だったと思います。それをあの局面、あのプレッシャーの中で成功させる精神力と勝負強さには、目を見張るものがあります」そう語った本村選手は、藤白選手含めた1年生の成長が楽しみだと締めくくった。次に、最多29得点を決めたエースの、』ぶぶ……っ!」

 思い切りほっぺを掴んで、右成を黙らせる。学校新聞を取り上げようと手を伸ばすも、リーチの差で華麗に回避された。

「音読やめろ」

「クソ、クソ!藤白クンはすごいですねェ!」

「…称賛するなよ」

「は?スゲーものはスゲーだろ」

「そうだけど、お前はだめだろ」

「………?」

 怪訝な顔をする右成。本気で、意味が分からないという表情だ。どさくさで手を伸ばすが、しっかり新聞は避難させられる。クソ。

「お前は張り合って来いよ。いつも通り」

「………藤白くんはマゾなの?」

「あーそう、じゃあおれの勝ちか。良いライバルだったな、右成くん」

「バッカおまえ!」

 俺が取り上げる間も無く、右成が学校新聞を八つ裂きにする。

「お前なんてすぐ追い越すに決まってんだろ?次のはスタメン入りしてやるから、ベンチで指くわえて見とけよ」

「今回コートにすら入れなかった奴が、なんか言ってるな………」

「うるせぇ!」

 叫び、八つ裂きの新聞紙をムシャムシャとを咀嚼して、マテ茶で流し込んだ。滑らかに奇行に走らないでほしい。

「こわ……」

「腹壊したらお前のせいだからな」

「まだ発酵麦茶事件の方がお前に分があるの、相当だと思う」

「は?なんだその事件」

 俺がお前を認知するきっかけになった事件だけど。

 加害者は、自分のやった事を覚えていないの典型だと思った。『部室は綺麗に使おう』と書かれたポスターを一瞥。諦めて俺が新聞の切れ端を拾い集めるうちに、腹の虫も治ったらしい。右成が不意に、「現金だよなぁ」と溢すので、「なにが」と答える。なんでこいつが撒き散らしたゴミカスを、俺が掃除しているんだろう。

「ちょっと前までは『ボッチ・地味顔』だったのに、ヒーローになった途端、『孤高の人』扱いだもんなぁ、お前の周り」

「俺ボッチ・地味顔って呼ばれてたの?」

「そうだよ」

「そうなんだ……」

 右成だけかと思ってた、俺のことボッチ扱いする人。でも皆んな結構、右成より凄いこと言う。人間不信になりそう。

「そして『地味顔』が、『整ってる顔』に。スポーツの魔力ってすげーわ」

「そうね……」

「めちゃくちゃどうでも良さそうな顔するじゃん……。お前、さてはすっかり忘れてるだろ」

「何が」

 詰め寄ってくる右成の相貌。こう言うのは地味顔じゃなくて、せ、精悍?な顔立ちって呼ぶんだろうな。そんな事をボンヤリ考えていれば、ただでさえ涼しげな目の、眦が釣り上がる。急に真剣な表情をするチームメイトに、思わず目を見張った。

「お前がゲイだって噂が流れ始めています」

「あっ」

「『あの……藤白くんって、その、男の子……が好きなの?』とか、クラスの女子に相談された時の俺の気持ち、分かる?」

「お前、俺の知らないところでそんな目に……」

「この際目立つなとは言わんけどさぁ、片桐クンにはせめて何か断っとけよ」

 思い出すのは、数ヶ月前のトンチキ盟約である。有難い……のかは分からないが。俺に興味を持ってくれた女子に対して、律儀に『あいつ恋人いるよ』『え?誰って……俺だけど』と返す片桐の姿は、想像するだけで結構泣ける。

 というか、あれは自動的に『即ち自分もゲイである』と広がる、諸刃的な力業だ。お互いのために、性急に取り辞めた方が良いだろう。

「そうする……」

 そう呟いた自分の声は、思っていたよりも狼狽している。

 ゆっくりと右成を見ると、俺よりもずっと深刻な表情をしていた。





[newpage]



 藤白侑希とは、可能性の塊のような少年だった。

 少なくとも、右成にとっての第一印象とは、その通りである。右成がジュニア時代に得た技術・経験は圧倒的で、強豪と呼ばれる中学でも、それは充分通用する物だと考えていた。実際にその通りだったが、唯一にして最大の相違点を挙げるなら、彼自身が『1番』ではなかったと言う点である。

 そのイレギュラーこそが、『藤白侑希』だった。

 センスも、基礎体力も違う。なによりも、バレーに関する貪欲さとストイックさは、同世代では群を抜いていた。

 努力する天才。

 同世代に存在する怪物の幼体に、畏れを抱くと同時に、何より興奮したのを覚えている。

 程なくして、右成は藤白と一際深い交流を持つことになる。選手としての藤白ではなく、人としての藤白と接してしばしば感じたのは、霞を追うような掴みどころの無さだった。

 表す喜怒哀楽が常に作り物めいていて、どこか白々しい。

 感情自体が無いわけではないようだが、常に自分の手綱を握っていて、感情の発露にセーブが掛かっている。彼が『心の底から』喜んだり、怒ったりする事は無かった。

 しかし本人には悪意は無く、自覚すらしていないようだった。自分自身に対する、理解と関心の薄さが故。自分に向けられる感情には、殊更鈍感であるように感じた。

 先輩や同僚からの誹りを、全く意に介さない。逆に向けられる好意にも、全く気付かない。自分が誰にどう思われようと、心底どうでも良い。

 それ故、彼は常に満ち足りているようであったし、孤独なようにも見えた。

 そんな飄々とした男が、右成の前で初めて地の感情を顕にしたのが、『片桐くん』を庇った時だった。

 藤白に殴られ、軽い脳震盪を起こした右成。意識を取り戻して初めて聞いた声は、バスケ部の先輩に向けられた低い声である。

 肌がひり付くような殺気。

 滲み入るような、暗澹たる負の感情。

 そんな物をひたひたと滲ませた声で、藤白は確かに怒っていた。この伽藍洞にここまでの感情を向けられる『片桐くん』に、右成が少々の対抗心と、多大なる関心を向けるようになったのはこの時からである。

 元々、片桐については知っていた。それは片桐秀司と言う男の名が、学年だけでは無く学校中に知れ渡っていたからに他ならない。

 眉目秀麗にして、篤実温厚。バスケットボール部期待のルーキーで、実力は同世代の中でも群を抜いている。そして藤白の、小学校からの幼馴染。

『特定の球技を狂気的に愛している』と言う一点以外、風態も内面も、藤白の対極にあるような男である。

 それでも前々から、2人の間には独特な空気感があった。緩やかでいて排他的でいて、それが何色かはわからない。ただ、『仲が良いのだ』と言うのは一目瞭然で、誰も彼もがその関係性に興味津々でいながら、指摘する事ができないで居る。

「藤白と会ったのっていつ?」

 そう右成が切り込んだのは、片桐と直接面識を持って数ヶ月経った頃だった。予期せぬ来客に向けるような表情を、一瞬だけ浮かべる片桐。僅かに見せたその表情は、彼もまた、仮面の厚い人間である事を悟らせるのに十分な物だった。

「小学2年のとき」と。そう穏やかに答えた青年に、右成は内心、おやと首を傾げる。藤白は確か、「小学4年のドッヂボール大会」と答えたからである。

「クラブチームの練習場所がね、体育館の隣同士だったの」

「へー、結構昔からなんだな」

「うん。でも、認知されたのは多分、4年のドッヂボール大会。……おれは、最初から侑希を知ってたし見てたけど」

 照れ臭そうに笑う表情は、普段彼が人の輪の中で見せる笑顔とはかけ離れた物だった。本来こういう笑い方をする男なのだろうと思う。

 そしてここに来て、右成は理解する。

 藤白と片桐は、対極では無い。2人は非常に似た類の虚を抱えている。周りに人がいようと居まいと彼らは空虚で、何処か孤独だ。

「チームメイトとかじゃなくて、バレークラブの藤白なんだな」

「何が?」

「いや。競技違うのに、なんか特別仲良いのが不思議で」

 嘘だった。右成は本能的な部分で、2人が引かれ合う理由を理解していた。「あはは、よく言われる」と笑うその挙動を、注意深く観察する。

「小2の頃にね、おれ実は一回侑希と喋った事あるんだよね。色々あって、チームメイトとうまく行かなくて」

「ええ、片桐クンが?」

「意外?」

「うん」

「それは嬉しい。けど、昔はもう負けず嫌いでね。ハリネズミみたいって叔母さんに嗜められるくらい。それでもうバスケやめたいーってなった時に、侑希が『じゃあバレーやる?』って、誘ってくれたんだよね」

「ええ、藤白が?」

「意外?」

「うん」

 耐えられないと言ったように、また片桐が笑う。それだけの絡みを持っておきながら、すっかりと忘れてしまえるのが藤白らしいとは思う。「まあ、誰でも良いから練習相手が欲しかったんじゃない」と言う片桐の言葉に、右成は妙に納得する。

「練習が始まるまでパスして、『やっぱ俺、バスケの方が楽しいわ』って気付けたわけ。凄いよね。俺が何週間何ヶ月悩んでだ事を、侑希は10分で解決してくれた」

「……はぁ」

「いつも俺の欲しい言葉をくれるし、知りたい事を教えてくれるんだよ。侑希だけが教えてくれる。バスケの楽しさに、目指すべき場所。人の動かし方もぜんぶ」

「…………」

 キャラメル色の目に、蕩けるような恍惚を滲ませて語る。その笑みは穏やかでありながら、何処か薄寒さを感じさせるような美しさだった。

 殆ど強張った表情で、右成は回想する。

 妙に排他的なバスケ部連中に、一歩踏み込めない周りの人間。

 特に片桐を軸に回る集団は、個々ではなく、集団自体が意志を持っているような印象を受けた。それは他でも無い。

 集団の意思に見えたそれは、片桐個人の意思であり拒絶であったのだから、当たり前である。

 藤白についても、最近分かったことがある。彼は周りに無関心なようでいて、実は人一倍、人間を観察しているという事だ。名も知らぬ先輩を穏やかに諭したと思えば、右成に対しては手を上げ、『実力差』と言う事実で捩じ伏せる。それが右成を黙らせる上で、最も効果的である事を理解しているからだ。

 藤白は誰よりも、観察し、適応し、他人をコントロールする事に長けていた。

『人を動かす方法を教わった』と片桐は言った。藤白が何を片桐に吹き込んだのかは、右成の知る所では無いが。

 人に繰り糸を括り付ける喜びをこの怪物に教えたのは、少なくとも彼で間違い無いのだと思った。

 執着と盲信、崇拝。

 そんな、形容し難い悍ましい感情から逃げるみたいに、右成はその場を離れたのを覚えている。


 どれだけ人に囲まれていようと、片桐は孤独だった。藤白の孤独もまた、時が経つごとに深くなっていくようだった。少なくとも、右成の目にはそう写った。

 そして、彼のジュニア時代からの先輩が部を卒業した時に、その孤独の正体を知る。

『こーくん』と。藤白がそう口を滑らせるのを聞いた。こーくん……浩平先輩は、この部で唯一、藤白よりも上手いと明確に断言できる選手だった。そして藤白自身が、地で羨望やら憧憬やらを向ける唯一の相手だった。

「お前がいて良かった」

 ある日そう言った藤白を、保健室まで引き摺ったのは記憶に新しい。平熱である事を確かめて、「ニセモノめ!本物の藤白を何処へやった!」と詰め寄った右成。その鳩尾に拳を叩き込み、藤白は床のシミを数えながら口を開く。

「こーくんが言ってた意味が分かったかも」

「は?」

「『同期と仲良くしろ』って」

「仲良くって、もしかして俺のこと言ってる?俺のサブイボ見る?できたてのやつだけど」

「昼練、一人でする羽目になってた」

 薄く笑う藤白に、呆気に取られる。平生の朴訥とした様子からは、考えられないようなしおらしさだった。

 自分に向けられる感情に鈍感で、向けられる好意にも、悪意にも気付かない。誰からどう思われても構わない、霞みたいに掴みどころが無い。

 概ね、藤白に対する印象は変わらない。

「……お前、思ってたより人間なんだな」

「はぁ?」

 ただ、完全無欠では無かった。一人で戦い続けられるほど、人間離れしてはいなかった。

「安心しろよ。お前より上手くなってやるから」

「……」

 普段は死んだように色の変わらない目が、驚いたように見開かれる。2年目にして初めて見る同期の素顔に、右成は昂然と笑った。やや於いて少し濡れた目は、帰る家を見つけた子供のような色をしていた。


 こーくん……一つ上の代を超える功績を残した時、藤白の表情は、より一層孤独に沈んだ。そして偶像を追うように、藤白は浩平の通う学校に進学を決めた。右成もまた、同じ学校に進学した。隣に並び立てるまで、その背を追うと決めていた。



[newpage]


 母親に手を繋がれた少女が、男子中学生が。トレーにハンバーガーやポテトを乗せた女子高生が、その席を横目で見ては頬を染める。

 注文用のレジカウンターのすぐ隣。テーブル席に向かい合った青年2人は、よく衆目の目を惹いた。

 1人は襟足の長い黒髪に、二重幅の広い、深い色をしたブラウンの目を持つ。桜と一緒に攫われそうな儚さを纏う青年だった。そしてもう1人は、短く切り揃えられた濡羽色の髪に、鼻筋の通った面差しをしている。凛とした空気と、ぴんと伸びた背筋。何処か洗練された空気感を纏う青年だった。

 両者とも恵まれた体躯に、均整の取れた手足が付随しており、その一挙手一投足は銀幕の1シーンを思わせる。

 好奇、羨望、或いは期待。それらの入り混じった視線をほしいままにしながら、青年───背筋の伸びた方は、穏やかな目元を涼しげに細めた。

「片桐クンはさぁ」

 脚を組み替えポテトを咥えながら、事も無げに首を傾げる。

「藤白のことが好きなの?」

「……?」

「好きなの?」

「うん。好きだよ?」

『片桐クン』が嬉しそうにハンバーガーを咀嚼し、嚥下するのを見届けて、また気怠げに米神を揉み解す。

「…………ラブって意味で?」

 きょと、と目を瞬いて、片桐は「どうして?」と笑う。頑是無い少年のような無邪気さに、話題を振った方の青年──右成は、顔を顰める。それを自分の口から説明するのは気が進まない。この青年を誘き寄せるために捻出したジャンクフード代を数えて、席を立ちたい衝動を抑え込んだ。

「藤白が片桐クンと付き合ってるのって、最近クラスの女子から聞かれる」

「…………」

「それって君の提案だよね。藤白から聞いた」

「そうだよ」

 事態を理解したのか、片桐はハンバーガーを置く。長い指を組めば、がらりと空気が変わるようだった。悠然と微笑む青年に、また「藤白の事、好きなの」と尋ねる。少し考えるような素振りすら、右成の目には白々しく写った。

「違う、と思う」

「そうなの?俺はてっきり、そうだと思ってたよ」

 目を細める。宿った怜悧な光を、覆い隠すような所作だった。

「『下心無い』って言い張るのは、流石にキツくない?」

「下心」

「恋のおまじないしたり、恋人ごっこしたがったり」

「…………」

「─────藤白のこと好きな子、寝取ったり」

 湯田さん、と言ったか。下の名は忘れた。学年で1、2を争うと呼び声の高い美女で、中学の頃、唯一藤白と連絡のやり取りをしていた。

 マメな方でも無い藤白に、健気に好意を伝えていた。藤白の横から冷やかしていたから、右成は知っている。

 けれど、すぐに湯田からの連絡は来なくなった。

 鈍感、モノグサ、連絡不精の藤白に愛想を尽かしたのだと、最初は考えていた。けれどすぐに、それは間違いだと分かる。

 程なくして学年1の美男美女が付き合い、別れたと言う噂が流れたからだ。

 今でこそ断言できるが、片桐が見ていたのは、学年1の美女では無かったのだろう。昔も今も、青年の頭の中には、藤白侑希しか居ない。

「やだなぁ」と間延びした声で笑う声に、右成は表情を落とす。どう否定しようと、『自分の都合で、他人の恋心を弄んだ』と言う事実は譲らないつもりだった。

 こて、と青年が首を傾げれば、濡羽色の髪が、彫像じみた相貌に不自然な影を落とした。

「あの子は、侑希と付き合ってすら無かったでしょ?寝取り、とは全然違う。俺はただ、健全にお付き合いして、健全に別れただけ。何もおかしな事なんて無い」

「……表の文脈はね」

「そもそもね。あの子とは、身体の関係なんて無いよ。キスもしてない」

「好きでも無い相手とは、キスもセックスもできない?」

「おれってロマンチストなのかな」

「片桐クンって、意外とクズなんだ」

 声音に反して、右成の表情は剣呑さを増す。ハンバーガーを頬張って、鈴を転がすみたいな笑み聲を上げて。片桐は、悪戯が見つかった子供のような笑みを浮かべる。

「そもそもおれ、下心無いなんて一言も言ってないよ」

「…………」

「目的はちゃんとある。なんの見返りも無く頑張れるほど、おれは出来た人間じゃないよ」

「ウチの選手にゲイだの何だのの風評を撒き散らすだけの、正当な目的があるんだろうね?」

「顔が怖いよ、右成くん」

 薄い唇から、真っ赤な舌が覗く。指先に付いたケチャップを舐めて、薄らと目を細める。僅かに滲んだ、纏わりつくような悪意。それを覆い隠すのが、あの白々しい稚気なのだと、右成はまた理解する。

「おれはただ、侑希と一緒にいたいだけ」

 何が悪いの、と、言外に問いかける。

「学校卒業しても、ハタチになっても、プロになっても、おじさんになっても、おじいさんになっても、お墓に入っても。ずーっと一緒にいたいだけ」

「だから?」

「そのために1番確実なのが『恋人』なら、おれは侑希と恋人になるために何だってする」

「キスもセックスもできねぇ奴が、恋人を手段みたいに言うんだ?」

「キスもセックスも、侑希とならできるよ、おれ」

 ……侑希以外の男とは、多分ちょっと無理だけど。

 今度こそ、右成はえずいた。心の底からの嫌悪感を露わにして、心の底からの侮蔑を眼前の青年へと向けた。

 それを恋慕と言わず何と言うのか、と。

 大層な言葉で飾り立ててはいるが、この男は、自分の恋慕を満たす事しか考えていない。名もしれぬ少女の心も、藤白本人すらも。それら全てを踏み躙って、剰えそれを正当化しようとしている。

 ここまで邪悪な生き物を、右成は今日まで見たことがなかった。

「……あの子みたいな正しさも無ければ、君みたいな実直さもない」

 独り言のように言いながら、紙コップに刺さったストローをクルクルと回す。青年の声を聞きたくなくて、氷が擦れ合う音に意識を集中させて。

「おれはね、おれが無能なのを理解してる。人より劣ってる事も」

 思わず視線を戻す。

 先刻までの白々しさは無く、片桐の相貌には、得も言われぬ空白があるだけだった。オレンジ色の照明を反射した目が、冷たいだけの宝玉のように思えた。

 右成が訝しむように目を細めると、思い出したように、真っ新な顔が笑みの形に歪んだ。

「だから何かを手に入れたい時は、人よりもずっと慎重に、念入りに事を進めなきゃならない。選り好みなんてしてられないし、妥協は許されない。正当も不当も事実も、侑希自身の意思も。そんな物考えてたら、おれは何も手に入れられない」

「おれはおれのためだけに、おれに出来る最善を尽くす」

「だからコツコツ布石を打ってきたの。君が侑希と出会うずっと前からね」

 滑らかに、唄うように語る。本当に、心の内を吐露しているだけと言う様子だった。

 右成は、昔見た特撮映画を思い出す。人類の脅威となる、巨大生物の姿。

 誰よりも巨大で、強靭で、優れた怪物。

 自分が人間に劣っていると本気で信じ込み、巨腕を振り回して、我武者羅に足掻いて。周りの何もかもを薙ぎ倒し、押し潰し、蹴散らしていく。


「そういうのを恋って言うんなら、好きに呼ぶと良いいんじゃない。おれは違うと思うけどね」


 その通りだと思った。

 この男が抱える感情は、『恋慕』などではなかった。『恋慕』などと言う、生易しい物ではない。

 もっと重く、凶悪で、悍ましい何か。剥き出しの欲望だ。

「……お前が本気なのはよく分かったよ。なりふり構ってられないのも」

 強張った指を、ゆっくりと解き解す。指先の感覚を確かめながら、「でも」と硬い声で言葉を継いだ。

「あいつのバレーの邪魔すんなら、俺もなりふり構ってられないから」

「それは心配要らないでしょ。何があろうと、バレーを疎かにはしないよ。俺と違って、侑希は凄いから」

 透き通った目のまま、小首を傾げる。「それに」と言った口調は、中学の時に見せた表情と、全く同じ物だった。這い寄ってくるような悪寒に、右成は肩を揺らす。

「侑希はおれを選ぶよ」

 穏やかでいながら、確信めいた声音。それは願望でも何でもなく、ただそこにある事実を述べているだけだった。

 ────『だからコツコツ布石を打ってきたの。君が侑希と出会うずっと前からね』

 先刻の青年の言葉が、脳内を駆け抜ける。自らと出会う前に、この男が藤白にどんな種を植え付けたのかは知らない。ただこの男──どこまでも慎重で、我慢強いこの男が動き出したと言う事が、絶望的な事実を示唆しているように思えた。

「侑希は、もう俺を拒絶できなくなってるよ。あいつは孤独だから」

「孤独ではないだろ」

「そうなの?でも大事なのは、侑希から見た世界だよ。事実がどうだろうと、あいつがそう思う限り、あいつは孤独だ」

「………本当に彼奴に何吹き込んで……」

「大好きな先輩が、いつか居なくなる事を知っている。切磋琢磨してきた友達は、自分よりずっと後ろにいる」

 優しげに目元を撓ませ、口端を吊り上げた。完全無欠な笑みだった。綻び一つなく、満ち足りている。

「何でも良いんだよ。どんなに馬鹿らしくても、強引でも。きっかけさえあれば、今の侑希は落ちてくる」

「………」

「この一瞬でも、侑希に遅れを取ったのは失敗だったね」

 前触れもなく自らに向けられた矛先に、身を固くする。まるで自らが、その一端を担ったとでも言いたげな口調。身構える右成を、愉快そうに眺めて。

「ダメじゃない、ちゃんとバレー頑張らないと」

 とん、と。おもむろに伸ばされた指先が、右成の胸を軽く叩いた。

『称賛するなよ』

『そうだけど、お前はだめだろ』

『お前は張り合って来いよ。いつも通り』

 記憶と後悔が、濁流のように押し寄せる。同期の言葉が、反芻するごとに悲痛な叫びに変わっていくようだった。

 なぜ、忘れていたのか。

 あれが孤独なのは理解していた。だから、並ぶ時まで追い続けると決めた。なのに、自分は何を弱気になっていたのか。

 一瞬でも、同じ土俵に立つことを諦めた。そして、それをよりにもよって本人に悟られた。

 ……あの時、あいつはどんな顔をしていたっけ。

 呆然としたまま、目の前の男へと視線をだけを向ける。男はやはり、笑っている。

「おれ、そろそろ出なきゃ。9時から侑希とランニング」

 乾いた笑み声は、たしかに、嘲笑と呼ばれるそれだった。

 右成は、確かに自分の頭から血の気が引いていくのを感じた。





[newpage]



 こう言う改まった話は、ランニングの後に。

 そんな暗黙の了解に従って、俺は「今日走らない?」と片桐にメッセージを送った。長いこと既読無視をしていたメッセージを見つけて、少しだけ気不味かった。

 それはさておきだ。いつもの通り、クールダウン中に本題を切り出す。要点を端的に、『あの血迷った盟約をやめよう』とだけ。

「ええー」

 それで、この反応である。俺は幼馴染が、過去一で分からなくなった。分からなくなる事自体は、しばしばあったが。

「ええ〜ってなに……絶対的にやめた方が良いでしょ。間違い無いんだから」

「言い切るねぇ」

「お互いのためにならない。意味分からん誤解生むだけで」

「お互い?俺は別に、困ってないよ」

 眉を顰める。

 今は同性愛も尊重される時代だし、俺自身、偏見は持ちたくないと思っている。それでもマイノリティに変わりなくて、まだ躊躇いなく公表できる環境ではない。

 そんな深刻な誤解を生んでおいて、『困らない』とはどう言った事だろうか。

 片桐の言葉の真意が見えない。

「どう言うこと?おまえは俺のことが好きなの?そう言う意味で」

 結果出てきたのはそんな、最悪の問いだった。冗談にしては絶望的につまらないし、本気にしてもデリカシーが無さすぎる。だからこそ、事も無げに落とされた「そうだよ」なんて肯定に、頭を抱えた。

「キャップの交換と女の子の牽制は、お前を取られたくなかっただけだし、恋人ごっこはただの口実。下心しかなかったよ。お前のためにした事なんて、一つもない。全部自分のため」

「潔すぎじゃない?」

 それなら、怖い女の子を堰き止めてくれていたって話も、俺を丸め込むための虚言だったという事だろうか。尋ねれば、「いや、それはマジ」「お前のファンは実際怖い子が多いよ」と返ってくる。今の無敵状態の片桐が嘘をついているとも思えないので、こいつがいなければ怖い女子に食われていたと言うのも事実なのだろう。

「まぁ結局最後は皆、おれを好きになるんだけど」

 ────ふしぎだねぇ。

 その子たちは、本当にコイツよりも怖いんだろうか。とても信じ難いんだけど。

 貼り付けたような笑みに薄寒いものを感じて、少しだけ身を引く。

「侑希」と。

 ほぼ同時である。両手を取られた時には、先刻までの笑みはすっかりと消え失せていた。貫くような真っ直ぐな目で、どこまでも真摯な表情で。たっぷり間を開けて開かれた唇は、これから吐き出す言葉の重さを物語っている。

「……いつか言ったよね。行けるとこまで行けば、わかり合える人に会えるって」

「…………」

「おれはね、まだ侑希だけ。今までも、それで多分、これからも」

 淀みない口調だ。けれどその耳や頬は、見た事も無いくらいに赤くなっている。

 ここで茶化すべきでは無い事は、流石の俺にも理解できてしまう。片桐のこの風態を見れば一目瞭然だし、何より、これまでの奇行の説明としても1番納得のいく物だからだ。

 片桐は本気だ。本気で、俺の事を恋愛対象として見ている。

「おれを恋人にして、侑希」

 甘い声が、神経毒みたいだと思った。

 毒には関わった事すらないけど、こう、思考が先端から麻痺していく感じ。

 縋り、乞うような声に、柔らかに包まれる両手。

「……なんか無いの?侑希からは」と。

 そんな、いつかの夜を彷彿とさせる。全てを差し出さなければと言う気にさせられる。この手を振り払えない時点で、俺もどこかおかしいのかもしれないけれど。

 鈍い頭を必死で動かしてみても、今ここで片桐の告白に答えを出すことができない。その沈黙をどう受け取ったのか、「わかってる」と呟いた片桐の表情は、何処か哀愁の漂う物だった。

「おれのした事は、許されない事だ」

「……………」

「お前を騙して、ある事ない事吹聴して回って」

 手を伸ばして、俺の頬を擦る。相変わらず手がカサ付いてるな、なんて考えるうちに、無理矢理双眸を覗き込まれる。物鬱げに伏せられた睫毛の下で、澱んだ瞳がこちらを見ていた。

「だからお前が拒絶するなら、おれはもうお前に関わらない」

「…………拒絶は、しないよ」

「『分かり合えなくても』?」

「そう。0か100かじゃない。何事も」

「0か100かだよ。少なくとも、おれに取っては」

 ず、と。瞳孔が開く。

「おれはね、きっと耐えられないよ。お前がおれ以外の誰かと付き合って、結婚して、ガキこさえるなんて。近くに居たら、殺しちゃうと思う」

 心臓を握り込まれたような痛みが、胸を軋ませる。身体が動かない。いつかの夜の答えが、眼前に突き付けられるようだった。

「……おれは、」

「読んだよ、インターハイ予選の記事」

「なに?」

「凄かったんだってね。1年で唯一公式戦に出て、結果残して」

「本当、何、いきなり……別にピンチサーブだけだし」

 脈絡の無い話に、さらに思考を掻き乱される。後頭部に回った手が、俺の頭髪にくしゃくしゃ絡んだ。0になった距離で、耳元に寄せられた唇が、薄く笑った気配がする。

「サーブの時、何考えてたの?」

 心臓が跳ね上がるみたいだった。

「試合のことかな。自分のこととか。あとは先輩に……ああ、右成くんのこと?」

 違う、おれは。

 ──── 『ここで負けたら、片桐に置いていかれる』

 俺は確かに、片桐のことを考えていた。片桐の事だけを。

 妙に視界がブレると思ったら、身体か小刻みに震えていた。

「ほらね」と。

 温い吐息の囁きに、肩が強張るみたいに跳ねた。尾骶骨から痺れが駆け上がってきて、呼吸が浅くなって。

 片桐の居なくなった未来を、想像する。想像しようとする。途端に、まるで世界に一人きりになってしまったような孤独感に、呼吸の仕方を忘れそうになる。

『だから、侑希はずっと俺の隣にいるよ』

『おれとしか分かり合えないから、お前はおれを拒絶できない』

 愕然とした。

 無邪気に主張する片桐を、俺は何て諭しただろうか。もはや思い出せなくなっていた。足場が崩れ落ちていくような感覚に、片桐の胸に縋る。枯れた喉で、息を吸って、目を見開いて。

「おれは───、」

 やっとのことで吐き出した言葉に、キャラメル色の目が幸せそうに撓んだ。

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ただの幼馴染です ペボ山 @dosukoikokoi

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