ケンちゃん


 心療内科の待合室で、彰は大学時代の友人であるケンちゃんのことを思い出していた。

 彰とケンちゃんは、大学時代に出会った。ケンちゃんは入学初日から髪を明るく染めていてチャラチャラとした雰囲気だったが、性格は天真爛漫で、すぐに同じゼミの中で人気者となった。ただし、人気者というのは、揶揄われる立ち位置としてだった。

 ケンちゃんは毎日、ゼミのメンバーに揶揄われていた。ファッションセンスが変だとか、サッカーが下手だとか、歌が音痴だとか。ケンちゃんは在学中に彼女を作ったが、その彼女のことを揶揄う者もいた。


 ケンちゃんを揶揄う人間には、主に二つのタイプが存在した。一つは、あくまでも友人として、常識の範囲内と思える揶揄い方で、普段は仲良く接するタイプ。基本的に、本人が不快に思いそうなことはしない。もう一つのタイプは、彼の意思など関係なく、常に彼を馬鹿にしているようなタイプ。

 彰は前者のタイプだったと自覚している。ケンちゃんが彰をどのように思っていたかは知る由もないが、彰はケンちゃんを見下したり、馬鹿にするといったことはなかった。彰と同じタイプの人間はもう一人だけ。その一人も彰の友人で、三人は普段からよく行動を共にしていた。この三人を含めた同じグループに、およそ十人程度の友人がいた。この中の殆どの人間は、ケンちゃんを馬鹿にしていた。少なくとも、彰にはそう思えた。


 ケンちゃんが仲間内で揶揄われるようになったのには理由があった。ケンちゃんは高校時代まで友人が殆どいなくて、中学時代は虐められていたという。そのことを、ケンちゃんは何ともないように笑い話として語っていた。その話を聞いた周りの人間が、それを面白可笑しく囃し立てて彼を揶揄うようになった。

 大学では揶揄われながらも明るく振る舞うケンちゃんだったが、ある日ゼミのメンバーでケンちゃんの地元近くへ車で出掛けたときに、ケンちゃんは賑わう車内でいつの間にか元気をなくしていた。無表情になるケンちゃんが珍しく、仲間内の一人が言った。


「ケンちゃん、地元やと暗くなるやん! お前、昔虐められていたもんなぁ!」


 彰は普段からケンちゃんに対する周りの人間の接し方は好きではなかったが、なんだかんだで一緒に遊ぶし、共通の趣味については楽しく会話する関係だった。決して心を許してはいなかったが、浅い友好関係として割り切っていた。

 しかし、流石にその言い方は⋯と、彰が不快に思っていても、ケンちゃんはすぐに笑って、


「この辺に帰ると、思い出してしまうわぁ! ハハハ!」


と、また笑って受け流すのであった。

 ケンちゃんは決して人を傷つける言葉を言わない。誰かと揉めているところを見たこともない。ケンちゃんは、優しい。優しいケンちゃんに、周りの人間は言いたい放題だった。


 彰は不思議に思っていた。ケンちゃんは、本当に何も感じていなかったのだろうか。友人がいなくて、過去に虐められていたという話は本当だったのかと疑ってしまうくらいに、ケンちゃんはいつも明るく振る舞う。彰には、ケンちゃんの本心が分からなかった。


 就活の時期になると、彰はそのゼミのメンバーから距離を置くようになった。キャンパス内で会えば普通に挨拶するし、ゼミが一緒なので当然同じ講義を一緒に受けることもあった。しかし、以前のように、大学以外の場所でそのメンバー達と時間を共にすることはなくなった。「就活に集中したい」と言えば、それで済んだ。

 大学卒業後、彰はケンちゃんを馬鹿にしていた連中と縁を切った。彰にとっては、どうでもいい人間達だったから、そのことを気にすることはなかった。


 ただ、ケンちゃんのことは、友人だと思っている。けれど、ケンちゃんの本心は分からない。ケンちゃんは大学生活を楽しめたのだろうか。かつて虐められていたことを、本当に笑い飛ばすことができていたのだろうか。あのメンバーの中にいて、嫌じゃなかったのだろうか。

 そうは思っていても、彰がケンちゃんに何かしてあげたかというと、何もしていない。ケンちゃんを気の毒だと思いつつも、他人の人間関係に深く突っ込みたくはなかった。彰は、どうでもいいと思っていた人間に対しては適度に距離を置いていた。ケンちゃんもそうすればいいのにと思っていた。


 他人の心の内側なんていうものは、誰にも分からない。ケンちゃんは傷ついていたかもしれないし、何とも思っていなかったかもしれない。そもそも、彰のことも友人だと思っていなかったかもしれない。彰はケンちゃんを庇うことをしなかったし、ケンちゃんの心を正面から向き合って知ろうとしなかったから。


 そう、他人なんて、そんなもの。だから彰には分からない。友人だと思っているケンちゃんのことも。人を貶す言葉を平気で投げかける人間のことも。他人を平気で無視できる人間のことも。不甲斐ない自分の傍にいてくれる紗椰のことも。自分の心が壊れているのかどうかも分からない、彰自身のことも。






「山川さん、どうぞ」


 診察室に呼ばれた。

 理解される筈のない心の内側を診てもらうために、彰は扉を開けた。

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