紫陽花

ほうがん しゅん

紫陽花 1-8 ★もういいか   

 「改札口」


 急に立ち止まってすまなかったネェ、ぶつかった弾みに何か大切な物を失くさなかったかい。悪いネェ、足止めさせてさ。


 わたしが独り言を言いながら急に立ち止まったのですから非は私にあります。本当にすまなかった。

 手荷物さえ落とさなければ、間に合ったと思うが、最終電車は、もう、出てしまいましたよ。


 乗りそびれさせて仕舞ったね。どこまで帰るのかい。

 うひゃ、高崎か。高崎線だと、たしか・・五時十三分が始発の時間だなぁ。こりゃ、大変だ。始発までの時間が、エート・・五時間・・も、あるって

 いやぁ、わたしは・・あなたに済まないことをした、悪かったネェ。


 で、ほら、友達と語たろう会を兼ねた飲み会とか、仕事帰りではなかったのかい。

 ほう、デートか。そりゃ良い。彼女を送っての、その、帰りですか・・ 

 で、順調なのかい。いや、そのう・・初めてお見かけした君だが、どことなく、顔色に精気がないからね、ちょいと気になって、お尋ねしたんですが・・。

 うんうん、そっかそっかぁ、なるほど・・


 それでは深刻な訳だ・・。

 君が高崎に住んでいて彼女がこちら、なるほどネェ、それじゃぁ時間の経つのも忘れる訳だ。

 聞いても、良いかい。そのぉ、遠距離恋愛が気まずくなったその訳だがね。君からかい、それとも、彼女からなのかな。

 見たところ、君は二十四~五歳ぐらいだ。

 言葉に訛りもないし立派な関東弁だ。とすればだがね、君は元々こっちで生まれ育って最近までこっちにいたと思うのですが・・

 まぁ、違うとしても、今君は高崎で彼女はこちらだ。いや、深い詮索は野暮というもの、悪かったネェ。

 で、始発の電車で帰るのだろ、それまで、どこで、時間を潰すの。


 うん、そっか。じゃぁ、それまでの時間、わたしに呉れないか。語り明かさないかい。今夜を更待月ふけまちづきと洒落込んでさ、冷える晩だがネ、君となら共鳴できそうな晩だ。きっとなにか良いことがあるよ、夜更けにね。

 うん、それに、僕の薄汚れたこころを月に癒されたい。見知らぬ者同士がひょんなことで知り合う、これはこれで奇遇な出来事ですよ。長い人生での一コマと思って、で一夜を語り明かすっていうのも悪くはないと思うが・・、お詫びを兼ねてお誘いをしたい。どうだい。


 ありがとうヨ。この先に馴染みの屋台がある。馴染みといっても、電車に乗り遅れたとき僕が通うおでん屋ですがネ、この先にいるはず。店主は世の中を悟りきったのか見栄を張らずでね、屋号が「お粗末や」どうだい、洒落ている屋号だろ。客の注文を差し出すたびに「ヘーイ、お粗末」これしか言わない。店主はかなり偏屈者で「お粗末」以外一言もしゃべらず、世間の噂話はもとより客同士の話など聞いてはいない、さぁ、行こうかね。


 冬の夜空は不思議な現象が起こるよ。日中賑わっていた雲が夜中のこの時刻になるといなくなる。冬雲っていうのは寒がりやでネェ、お天道様の後を追うのが好きらしく、お天道様を追いかけて行くのですよ。御覧なさい、寒がりやのいない夜空を、宇宙の最果てまでを透かして視える夜空の景色は感動ものだろ。


 冬の、厳冬の時期だけに魅せてくれるのだよ。宇宙天体の神秘を感受できるこの刹那は実に好い。眺めていると吾が胸の内がうずくのです。現代社会は我侭で理不尽な刺激が強すぎる。うかうかすれば足元をすくわれてしまう、気難しい世の中です。年老いたわが胸内の古傷を想うとき空虚であり寂しい痛みを感じるのです。


 ほうら、眺めてごらんよ、都会ならではの星々が視えますよ。文明が醸す薄明かりだ。これにわが身が包まれると不思議なものだね、こころが浄化し清々しく感じるのです。まぁ、都会のど真ん中ではままならないがネ、ままならぬはこの浮世か。


 へっへ、星々を月を眺めていると知らぬ間に一つの星を見詰めちゃってるんです、すると・・己が歩んだ過去の過ちに気付かされてね、考え込むでしょ。それが未来を修正する切っ掛けになったりね、星々との会話は色々と考えさせてくれるのだから未来を感じます。


 夜空から愛する絆の尊さを教えられます。愛はこころを繋ぐ絆の在り処を示唆するのですわ。そして、夜更けてきてやがて朝を知らせるオレンジ色の雲が東の空に出てくるんだ、それは居残る夜を西へと押し退けるとき艶やかなグラデーションが現れます、その瞬間その景色に感動し興奮するのですよ。いびつな月をシャンデリアに見立てて今夜を洒落込もうと思う。えっへ、風流だろ。ささ、こっちだ。


 ん・・わたしかい。わたしはネェ、松戸の手前の駅です、知っているかい。まぁ、今なら間に合います。西日暮里か北千住で千代田線に乗り換えれば十分間に合う時間ですが、困ったことに改札口の手前で足が止まった。なんの前触れもなく心が騒ぎ始めたのですョ。それが古傷の痛みであることは直ぐにわかった。いや、なぁに、今日が初めてということではないのですよ、年を経たせいか、このようなことが間々あるのです。


 もう、今日だけで三度目だよ。その古傷は騒ぎ出すというより、そう、僕自身の心の問題、心の濁りを問う、そう葛藤だと思うが、心の奥底に張り付くあいつが叫ぶのですよ。あいつの存在を、思い出の全てを消し去ったはずなのだが、未だに居残るあいつがわたしの心の中に息づいているのです。この老いぼれの胸の中にね・・


 そいつが僕の心の中で暴れまくっているのです。所かまわずですから、始末が悪いですよ。悔しさと愛おしさとが混ざって襲い来るのです。トロイの木馬の話はご存知だろ。あの木馬が心の奥底に住み着いてから・・時々・・こうなるんです・・


 そう、おっしゃる通りです。すると、僕の身体は震え、表情は険しくなって胸は高鳴り張り裂ける。寄る辺のない哀愁を含む涙が無性に湧き出てくるのですわ。

 そうそう、あいつは僕の都合などお構いなしに背後霊のように、この胸の奥底からでてくるのです。


 うん、もう、追いやった、退治したと思っていたのですがネ、あいつはこのしなびたこころの中にまだ隠れていやがった。

 改札口の直前で足が進まなくなったのはあいつの出現です。あいつの幻を追うのは未練なのだと思います。だから、いびつな月を眺めながら、渇いてしまった心に湿り気をと思っていたのです。先月も明け方近くまで公園で悶々としていたらサ、おまわりさんに不審者呼ばわりされてしまった。

 すまないねェ、思わず愚痴を・・こぼしてしまって・・・

 屋台のオデン屋はこの先なんですよ


 つづく

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