その日その日

二六イサカ

ハングリー・ハート

第1話 いつもの朝

 (なんてこった)幸乃は心の中で呟いた。


 灯りのない教室には誰もおらず、ただ窓から差し込む朝日が静かにカーテンの影を床に落としている。


「なんてこった」今度は声に出して呟いた。


 壁の時計は7時半を指していて、HRまではなんと1時間もあった。


 幸乃はふらふらと自分の席に着くと、鞄を机の上に放り投げ、どうしてこんなことになってしまったのか考えることにした。でなければ、正気を保てそうになかった。


 もしかしたら、自分は酷い欺瞞と裏切りにあったのかもしれない。


 朝、布団の上で太陽の光を浴びて起きた時、完全無欠で何も怖いものはなかったのに、今ではもう駄目だった。


 あの時、スマホの時計は確かに6時のハズだった。でも思い返してみれば、それはきっと5時だったのかもしれない。


 目が覚めて居間に降りた時、母親はまだ弁当を作っていた。だがきっと、それすらもおかしなことだったのではないだろうか。


 いつもなら母親は、幸乃が降りてくる頃には既に弁当を作り終えていて、二度寝をしているか、つまらなさそうにテレビを観ているかのどちらかだったから、母親は娘が時間を間違えたのを知っておきながら、それを敢えて言わなかったかもしれなかった。


 毎日料理を作ってくれ、洗濯をしてくれ、くだらない冗談を聞いてくれ

あの母親が、自分を裏切ったことを考えて、幸乃は思わず唾を飲み込んだ。


 きっと母親は今頃、自分の可愛い娘を陥れたことに、ほくそ笑んでいるのかもしれない。

 

 だがあるいは、幸乃が時間を間違えたことに本当に気づかず、娘の珍しく真面目で前向きな態度を観て、心から可愛い娘のことを誇りに思っているのかもしれない。いや、そうであって欲しい。


 幸乃は椅子に深くもたれ掛かり、父親がよく観るアメリカの犯罪ドラマに出てくるFBI捜査官のように考えた。


 だが最早そんな行為は無意味であり、どちらにしろ母親にささやかな楽しみを与えることができたのなら、それで良いのだと、幸乃はしおらしく思うことにした。


 なんだか、飼い主に捨てられた子犬のような気持ちだった。だが結局悪いのは自分であり、母親の真意も、今日という1日が終わるまでは分からないしで、全てがどうしようもないのだ。

 

 けれども若い幸乃にとって、時間はまだ人生の味方だった。


 そうこうしている内、階段を登って自分の教室に向かって歩いてくる足音が聞こえてくると、それが普段は余り親しくない相手であっても、「君、可愛いね」と声をかけてやるのだと、幸乃は俄然やる気になった。


 とにかくこの侘しささえ無くなればなんでも良いのだ。だが果たして、扉を開けて入ってきたのは、親友の萌だった。


「何してんの?」


 教室に1人ポツンと座る、哀れな親友の姿を認めた萌は、人生が楽しくて仕方がないという風で、幸乃から見て斜め左前のいつもの席に座った。


 自分とは正反対に、人生を謳歌する親友の姿をみて幸乃はムッとしたが、ごそごそと鞄をいじる萌の横顔を見、直ぐにそんな考えは引っ込んだ。

 

 幸乃はミャンマー人(その響きは何故か、太陽に照らされた雨上がりのアスファルトの匂いを思い起こさせた)の血が半分入った親友の顔を前々から美しいと思っていたが、今この瞬間に観る萌の横顔は、自分がこれまで観た全ての人間の横顔の中で最上のものであるように思えた。


 眼は新品の消しゴムのように大きく、鼻は削りたての鉛筆のように整っていて、肌は完璧なあんぱんのように健康的な小麦色。


 口元には小さなほくろが一つあって、それがワンポイントになって肌色の良さを際立たせている。


 何という美しさ。


 しかし、どうしてふとこんな事を思ったのだろうと驚いた幸乃は、またFBI捜査官のように考えた。萌が、そんな斜め後ろの親友の方を向いて言った。


「1人やったんならLINEせえよ。走って来たのに」


 幸乃は親友の顔を見つめるだけで、何も言わなかった。


「どうしたん? なんかあったん?」


 幸乃は親友の顔を見つめるだけで、何も言わなかった。


「何? どうしたん? なんでウチのこと無視すんの?」

 

 それでも幸乃は黙ったままだった。萌の顔は明らか不機嫌そうだったが、それでも美しかった。


 その時、確かに幸乃はその理由が分かった。


 普段見慣れている親友の顔が、突然光り輝いて見えたのは、おそらく自分がとてつもなく惨めだったからであり、逆説的に、きっとそれが萌の美しさを一層際立たせたのだ。


 そうにちがいない、そう思った幸乃は興奮し、小さく「ふん」と鼻息を立てた。萌は、自分にとって闇夜の月の光に違いなかった。


 闇夜の月の光は自分で見上げるものであって、LINEなんかで呼ぶものではない。それでは有り難みがないだろう。


「もしかして怒ってるん? そんなら、なんで怒ってるんか言えよ。何も言わないなんて気分悪いやん」

「ごめん。ただ見惚れてただけ」


「見惚れてるって、何に?」

「萌に」


 親友は呆れた顔をして顔をそらした。幸乃は少し不安だったが、萌の耳が赤くなっているのをみてホッと胸を撫で下ろした。


 気付けばぞろぞろと朝に急かされた学生たちが、教室に集まり始めている。全能感を取り戻した幸乃は、黙って左斜め前の萌の背中を眺めた。


 自分と萌がどうして同じように、今日だけ学校に来るのが早かったのかは分からなかったが、この偶然を幸乃は幸せに思った。


 もし自分が5時に起きず、もし母親が自分を止めていたら、きっとこんな気持にはならなかったのだ。

 

 もしかして、母親はそうなることを知っていてわざと自分を止めなかったのだろうか。そう考えれば考えるほど、全ての辻褄が合うような気がした。


 結局、「私は常に正しい」という母親の口癖は本当なのかもしれない。


「おい、アホ。英語の課題ちゃんとやったんか?」


 萌はもう機嫌を直したようだった。


「これが、やってないんだよね」

「3限目やで、どうすんねん」


「まだ1、2限と休み時間があるよ」


 親友がそう言うと、萌はため息を吐きつつ、自分の英語のノートを差し出した。


「ありがとう」幸乃が言うと、「これっきりやで、ホンマに」と萌は一昨日と一週間前と、そのまた一ヶ月前と同じ言葉を吐いた。

 

 萌の中身は、外見に負けず劣らず大したものであるということを幸乃は改めて理解した。


 照明はそれだけでは明るくならず、中の電球があって初めて輝くのだと幸乃は思ったが、これは余り的確な例えではないような気がした。


 幸乃は今すぐにこの教室を飛び出し、次に学校、その次は街、お次は国、最後には地球を飛び出して、親友の素晴らしさを声高々に叫びたい気持ちだったが、恥ずかしがり屋の萌が嫌がるようなことはしたくなかった。


 思春期特有の熱気がこもる教室に先生が入って来て、チャイムが鳴った。何のことはない、結局いつもの朝だった。

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