五、レイガー⑨

(これじゃあまるで、私の方が獣だわ……)


 人間としての理性を溶かされて、ただの獣に成り下がっていたのは、ゼールの方ではなくシェルだったのだ。それに気付いたシェルは今までとは違う羞恥心にさいなまれてしまう。

 本物の愛も知らず、レイガーの衝動で抱かれていただけなのに何を勘違いしていたのか。


(私、浮かれすぎ……)


 これではゼールでなくてもそばに置いておきたくないと考えるだろう。

 自分が目指していた姫としての目標も何もかもを忘れてしまっていたのだ。


(明日から……、明日からちゃんとしよう……)


 シェルはそう自分に誓うと、ゆっくりとまどろみの中へと落ちていくのだった。 

 そうしてシェルが帰国する日の前日がやって来た。

 シェルの熱はフォイの看病もあって翌日には良くなっていた。それから今日に至るまでシェルがゼールの部屋に呼ばれることはなかった。きっともう、レイガーの衝動も治まってきた証拠だろう。

 シェルは寂しい気持ちをどうしても覚えてしまったが、そのたびにもっとしっかりした人間にならなくては、と自分に活を入れていたのだった。


 そうして帰国するための準備を進めながら、ゼールの世話係としての仕事もこなしていたときだった。突然、ゼールがシェルを呼び止めた。シェルは何か言いつけられるのかと思ったが、ゼールの口から出た言葉は意外なものだった。


「シェル、今夜、時間を作っておけ」

「え? 今夜、ですか……?」

「そうだ」

「わ、分かりました……」


 レイガーの衝動が治まってきているゼールからの突然の呼び出しに、シェルは何事だろう? と少し身構えてしまう。何か至らぬ点を指摘されるのだろうか?


(どうしよう……、私、ちゃんとゼール様のお世話ができていなかったのかな……?)


 不安になるシェルの頭にゼールは手を置くと、


「そんなに不安がるな。悪いようにはしない」


 そう言ってくれる。その大きな手の温かさが伝わってきて、シェルは一気に幸せな気持ちになるのだった。

 そうして一日が終わり、すぐに夜がやって来た。シェルはゼールに言われた通りの時刻に中庭のベンチへと座っていた。

 今夜は月も出ておらず、星のきらめきがより一層明るい。キラキラと輝く夜空を見ていると、ソワソワしていた気持ちも落ち着いてくる。

 シェルは夜空を見上げながら、ゼールが来るのを待っていた。


「早いな」


 そうしているとすぐにゼールの声が降ってきた。シェルは声のした方へ顔を向けると、笑顔を浮かべる。そこには部屋着に身を包んだゼールが、シェルの方へと向かってきていた。


「ゼール様」


 シェルは笑顔のまま、ゼールへと呼びかける。そうして落ち合った二人は、


「出かけないか?」


 そう言うゼールの言葉に、シェルはうなずいた。

 今まではゼールの部屋に呼ばれていた。それから身体を重ね、朝を迎える。

 しかし今回はどこかへゼールが連れ出してくれるようだ。こんなことは以前にはなかったことだった。


(まるで、デートみたい……)


 シェルは無意識にそう思ってしまう。すると心が浮き足立ってしまうのが分かった。


(お、落ち着いて、私……。調子に乗っちゃ、ダメなんだから!)


 そう言い聞かせるシェルに、


「行かないのか?」

「い、行きます!」


 シェルはゼールの背中を追って駆け出したのだった。

 二人がやって来た場所は、人間国の王宮にもあった、町を見渡せる高台だった。

 シェルは高台からみた町を見て感嘆の声を上げる。


れい……!」

すごいだろう?」


 息を飲むシェルの様子に、ゼールは満足そうに言った。


「この夜景は、国民たちの努力のあかしだ。俺は時々こうしてここに来て、国民たちのことを思う」


 明かりの下でまだ一生懸命働いている国民もいるだろう。

 また、子供を寝かしつける親もいるだろう。

 いとしい人の帰りを待つ者もいるだろう。

 そういった一つ一つのことを想像するのだと、ゼールは言った。


「願わくば、この一つ一つの明かりの下にいる国民たちが、みんな笑顔でいるといいな、と思うんだ」


 その笑顔を増やすために自分にできることは何か。

 これからしなくてはいけないことは何なのか。

 ゼールは迷ったり、不安になったりした時にこうして町の明かりで国民を感じ、自分を鼓舞していくのだ。


「だって、この明かりは国民たちが一生懸命生きてる証拠だからな」


 そう言って町を見下ろすゼールの横顔は、夜景に照らされて美しかった。

 シェルは思った。

 ゼールの元の造形が美しいだけではない。彼の輝きはその内面から来るものなのだ、と。


(私も、しっかりしないと……)


 熱に浮かされるように、ゼールに溺れている場合ではない。

 いつか、こんなまぶしいゼールの隣を歩いても、影にならないように自分を磨いていかなくてはいけない。

 そうして、


(いつか、ゼール様の隣を、本当の意味で歩めるようになれたなら……)


 そう思うのだった。

 そのためにも、自分には自国に戻ってやらなくてはいけないことがあるような気がした。それに気付かせてくれたのも、やはりゼールだった。


「ゼール様、短い期間でしたが、ありがとうございました」


 気付けばシェルはゼールへ頭を下げていた。この行動にはさすがのゼールも面食らったようで、


「お前、何してるんだ?」


 そう言う声は、普段の雄々しいものではなく、戸惑いを含んだものだった。シェルは頭を上げると、


「私、この獣人国に来られて本当に、良かったです」


 そう言ってにっこりとほほんだ。ゼールは少し照れたような表情を見せると、


「お、おう……」


 そう言って、そっぽを向いてしまうのだった。

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