二人

九詰文登/クランチ

第一部

 俺の朝はいつも絶望から始まる。もう何度鳴ったかわからないスマホのアラームで目を覚まし、眠り眼を擦りながら時間を確認する。

 大学の四年間で磨き上げられた怠惰は社会人生活を一年送っても治ることはなく、今でも大抵寝坊で寝汗とは違う冷たい汗を感じていた。大学時代はもう間に合わないと思ったら、友人に一通、『代返頼む』と送るだけでもう数時間の睡眠を手に入れられたというのに、社会人という地位を引き換えに得た責任という重圧によって、ここでの選択肢は飛び起きる一択だった。だからか最近の朝は適当なものが多くなっていた。実家暮らしだった日常から一人暮らしに変わった俺は、果物が意外にも高かったことに気付き、朝バナナだけ食べていくとかも出来なくなっていて、スーツに着替えながら、食パン一枚をトースターに放り込む。

 女にモテたいからと大学時代凝っていた料理も一切やらなくなっており、トーストに目玉焼き、サラダ、スープといった絵に描いたような朝食を食べなくなってどれくらい経つだろう。そんなことを考えている暇もなく、髭をざっと剃り終えた辺りで、チンッとトースターから音が鳴り、パンが飛び出した。

 嗚呼、タイマー設定を間違えてしまった。トースターから飛び出した食パンは両面見るも無残な黒に染まっており、手に触れずとももう食べることができないとわかりきっている。

 俺は少しの申し訳なさと共にごみ袋へその焦げたトーストを投げ入れ、もう一枚の食パンを改めてトースターに入れようとしたが、時計を見る限り、もうそんな時間はない。今日も食事をあきらめて、俺は歯を磨き、ネクタイを締め、鞄を取り、玄関から飛び出した。

 駅までの距離は徒歩で約十分。走ればまだ十分始業には間に合うだろう。ワイシャツの下に来たシャツは汗でダメになるなと溜息をつきながらも、俺は走った。革靴で走るのももう慣れたものだった。


「ギリギリだな」

「すいません……」

 その一言が皆に嫌われる一因だと気づいていない上司から、鋭く飛び出した言葉に、謝罪を述べながら自らの席に着く。ぎっしりスケジュールの埋まったカレンダーに、経費削減という体で買い替えられていない数世代前のパソコンに少し――いやだいぶ汚れているデスクはもう俺の心を映しているように疲弊しきっていた。

 五分近くを走り続けた俺の体からは既に眠気は消えており、その代わりにシャツがぺたりと背中に張り付く不快感があった。始業が終わったら着替えてこようと思い、ただこの不快感から解放されることだけを楽しみにどうでも良い上司の言葉を聞き流す。

 それからさっさとシャツだけ着替えた俺は、指示されている取引先へ向かうため社用車へ乗り込む。使い込まれた車の――色々が混ざった匂いのする社内に、旅先へ思いを馳せる仲間たちは居らず、ブルートゥースで流れている曲は大学時代から変わらないことが寧ろ変な寂しさを助長させた。

 それでも始業しているのだから早く出なければならない。社会で手に入れた責任は何かと急がせるように俺を焦燥させる。でも今日は夜あいつと飲みに行くから。そんな大学時代では当たり前だった幸せに縋り、俺は車を発車させた。

 飲み会の時の疲弊とは違う。体力的ではなく心の疲れがサラリーマンに着いて回った。アイドルは笑顔を売る仕事だなんて言葉を耳にするが、営業も言うなればそれと一緒で、ふと鏡に映る俺の笑顔がどうも歪んでいるのではないかと違和感に苛まれる。

 スマホのアルバムに残っている仲間たちとの写真には屈託のない笑顔を浮かべる俺がいて、でもその仲間たちとも一か月、二か月と月日が経つにつれて、連絡を取る回数は減ってきていて、今では昔のような気軽さはなく、全員どこか余所余所しさを覚えるほどだった。そんなことを考え始めてしまう俺は、やはりこの仕事は向いていないのかもしれない。人当たりの良さがあるということで営業を選びはしたが、俺にはもっと心の底から自由が必要だった。旅人みたいな。


 でも昔からのさぼり癖というか、なんというか、仕事においてもそういった癖は抜けずに、上司の目を盗んでは怪しまれない程度のサボりを続けてきていた。だからこそ意外と仕事が終わる時間は案外早く、今日も気付けば日が落ち始めていた。


 それから本社へと車で戻り、勤怠管理をした俺は胸を躍らせて、あいつとの待ち合わせである居酒屋へと向かった。別に大学時代の親友とかではなく、サークルの内の一人があいつだった。バックナンバーみたいに言えば知人Bのような。最近仕事に嫌気がさしたとき、サークル仲間のインスタグラムを見て回っていたら、そいつの投稿を見つけた。大学時代は襟シャツに黒スキニーで眼鏡といった感じで、サークルというよりかは文化部のような真面目君だったそいつは就活に失敗して、今バイクで日本を旅しているらしく、その備忘録をインスタグラムで俺が見つけたということだった。

 何を思ったか、そいつであれば俺の悩みを解決してくれるのかと思ったのかダイレクトメッセージで飲みに行く約束をしていた。




 真面目というのが取り柄みたいであったアイツが遅刻してくるなんて意外だった。俺は大学の卒業祝いに両親から貰った時計に目を落とし、集合の時間から既に三十分近く経っていることに気付く。まだ何も頼んでいないこの状況が故に、店員の目も痛くなってきた。するとまた新たな来客があり、アイツが来たのではないかと思い、店の入り口に目を送るが、そこには変な格好な上に、この時期にマスクすらしていない奴がいて、あいつじゃないと思った俺はもう一度向き直る。

「あぁいたいた」

 そんな声が聞こえ、改め振り返るとその変な奴がこちらに手を振っている。よく目を凝らすと髭や長髪でわかりにくいものの、そのは俺が約束を取り付けていたアイツであることに気付く。

「お前めちゃめちゃ変わったな!」

 こんなご時世でマスクをしていない奴がいたらそいつを睨むような奴だったのに、とは口に出さない。でも彼はその「変わった」という言葉に何か思うことがあるのか、少しバツが悪い表情を浮かべた。

「まあ変えたよね」

 と笑いながら、彼はおしぼりで顔を拭った。

「ご注文は……?」

 痺れを切らした店員が不機嫌そうに尋ねてきた。三十分以上注文しなかったのは申し訳ないと思うけれど、客にそれを態度で見せるなよと思いながら店員の顔を見ると、マスク越しでもわかるほどに若さを悟らせるような風貌をしている。寧ろかつての自分の様で、自分は客にこんな態度を取っていたのだろうかと不安になり、ふと謝罪が口から出た。

「ああ、すいません。俺はビールで」

 この店員が俺たちの卓に備えているのが嫌になり、取り敢えずと気分を変えようと思った飲みの場で、いつも通りの一杯目を頼んでしまう。その一言に彼は驚いたように目を丸くして俺の顔を見つめる。

「なんだよ」

 突然久しぶりに会った男友達に見つめられて、懐かしい気持ち悪さみたいなものを感じた俺は半笑いで彼に尋ねる。

「ビール嫌いじゃなかった?」

 まるで子供がその好奇心を満たすために、大人へ質問するように、彼は質問を質問で返した。

「営業の性だな」

 大学時代は黄金色の酒の魅力というものが全く以てわからなかった。高校生から大学生へと変わり、酒を知った風な口を利いて、そこまで美味しいと思っていないビールを「取り敢えずナマ」という言葉を言いたいがために注文する波に、俺は乗れなかった。

 舌を撫でる顔を歪めたくなる様な苦さとか、炭酸が喉の奥でぴりぴりと響く感じとか、せっかくの飯を前にして腹に溜まっていく感覚がどうにも好きになれなかった。

 でもいつからかだろうか。飲み会を一杯目から楽しめなくなったのは。ビール。皆がビールだから俺もビール。同僚が、先輩が、取引先の人が。それで嫌々飲むようになったビールはいつの間にか、喉越しが利いている、味わい深い苦みを感じられる飲み物になっていた。

「大変だね、サラリーマンは。あぁこっちは食べ物か。意外と飲み物の種類ないな」

 店員に気を利かせて、ナマを頼んだと言うのに、彼は一杯目を何にしようかと、ドリンクメニューを端から端まで見た後、裏面まで見て、悪態をついた。

「じゃあ僕はハイボールでいいや」

 なんだかその身勝手な態度に、ムカつくほどではないが疑問のようなものが浮かんだ俺は率直に浮かんできた言葉を彼に投げかけた。

「全体の空気を読んでビールを頼む奴だったのにな」

 その言葉に彼は何も気にしていないかのように一言「浮世離れだね」と、返してきた。浮世離れという言葉を聞いて、彼に聴きたいことがあった俺は早速その話について切り出す。

「そうだよ、浮世離れ。日本中旅してるんだって?」

 彼は恥ずかしそうに目線を外す。

「二十四で自分探しなんてくだらないだろ?」

「いやいやそんなことないさ。自由って感じで憧れる」

 心の底からの言葉だった。しかし彼は自分のその境遇をあまりよく思っていないようで、今までとは違い、怒りのような感情を露わにして、でも声色はそこまで変えずに続けた。

「憧れる? 僕はただの社会から見放された浮浪者だよ。寧ろ地に足付けてる君のほうが羨ましい」

 地に足のついた? いや周りに流されているだけだ。

「意外とさ、窮屈なもんだぜ? 接待接待接待。大学時代の先輩みたいなあんなフランクな感じは一切なしだ。乾杯」

 卓に届けられたジョッキを手に、彼のハイボールのグラスにそれを打ち付ける。

「乾杯。それでも一定の所得と、普通っていう社会的地位が手に入るじゃないか」

 知ったような口を利くな。そんな言葉が頭に浮かんでしまった俺は、それをビールで流し込み、なるべくオブラートに包んで返す。

「社会的地位? そんなのに何の意味があるんだよ。生きるのに必要か?」

「同調圧力の日本では必要だよ」

 まるで何度もこんな話をしているかのような切り替しに俺は反論の札を失い、一言「そうかな」と尋ねることが出来ない。

「そうだよ」

 理想の食い違いによって会話にブレーキがかかった俺達は一度食事を頼むということで、いったんの会話を区切りにした。


 それからサラリーマンのメリットデメリット、旅人のメリットデメリットについてすり合わせた後、日本一周についての話に話題は移っていった。

「なんで日本一周なんてしようとしたんだ?」

「日本にいるけど四十七都道府県全部行ったことがなかったからさ」

「景色なんて大体一緒だろ?」

「海外好きとかは皆そう言うよ。でも良く見たら全然違う。たまに歩いている人の感じとか、生えている木の種類とかも少しずつ違う気がするよ」

 何か強い志があってかのことだと思っていた手前、気がするという返答に少し拍子抜けした俺は笑いながら返す。

「気がするかよ」

 その言葉に彼はまた一口ハイボールを飲み、どこか遠くを見ながら、呟くように言った。

「でもそういうのでいいんだ。自分だけでもその魅力がわかってればさ」

「お、今のなんか旅人っぽかった」

 この世界の人間ではないような素振りというか、身なり、口ぶりに何だか妙な憧れのようなものが沸いてしまった俺は茶化すことしかできない。

「茶化すなって。でも考えとかは変に偏っているんだろうなって思う」

「そうか? 周りにいないタイプだから話していて面白いぞ」

「それは偏ってるからなんだよ」

「そういうことか」

 前はもっと冴えない感じだったのに、今はどこか落ち着いているように思う。しかも何よりこんなに酒が強かったことに驚く。また空けやがった。まだ話始めてから三十分くらいしか経ってないのに五杯くらい飲んでいる彼に俺は驚きを隠しきれなかった。隠し切れなかったから何てことない感じで俺は彼に尋ねる。

「なんか昔は大学一年生の女が飲んでいるような甘いやつばっか飲んでいたのに、ハイボールしか飲まないんだな」

「ああ、健康志向ってやつ? なんかハイボールはカロリーゼロだっていうじゃん?」

 新たに届けられたハイボールをまたぐいと飲んで、そう言った。

「健康志向なやつは酒飲まねえんだよな」

「一時期太ってさ」

「ひょろがりオタク眼鏡で通ってたお前が?」

 過去の容姿を弄られた彼は少し恥ずかしそうに、眼鏡をくいと上げた。

「田舎のコミュニティに好まれたら、毎日酒三昧なんだよ。しかも大抵日本酒とか麦とか。これが太る太る」

「あぁ、なんか漫画とかでそういうの見た覚えがあるわ。本当にそうなんだな」

「まぁ田舎だからね。カラオケも、映画もないから酒くらいしか暇つぶしの道具がないんだよ」

 だと言うのに彼は活き活きとしているのはなぜなのだろうか。俺の周りにはカラオケも、映画もあるのに。しかしそんなことを声にするようなことはせず、元の道に戻る。

「だからハイボールに?」

「個人的に飲むときくらいは、な」

「楽しんでるな」

「酒は楽しむものだろ?」

 このひと会話でまたグラスを空けた彼は今日初めて本当に楽しそうに笑った。俺は未だ半分も減っていない二杯目のレモンサワーから湧き上がってくる泡をふと見つめる。

「接待ばかりだから、緊張とかで馬鹿みたいに酔っぱらうことはなくなったよ」

「公園の噴水に飛び込むことも?」

 かつて怯えたような表情を良くしていた彼が不敵に笑い、俺の顔を見ている。その期待に応えなければと思った俺は、残ったレモンサワーを飲み干し、そのグラスをテーブルに叩きつけ、啖呵を切った。

「久々にやるかぁ!」

 今と過去のギャップを哀しみながらも二人は、思い出に花を咲かせ、店員が驚くくらいの量を二人で空け、フラフラになりながら、居酒屋を後にした。


「さあこれからどうするか」

「あれ、まだ乗ってるのか?」

 日本中をバイクで旅をしていると言うことは、今日も乗ってきているだろうと思い、尋ねてみる。すると予想通り、今日も店の近くに停めているらしく、彼は快くその場所まで案内してくれた。

「うおー! こいつだよ、こいつ! 相変わらずカッコイイなぁ!」

 その時の俺はまるで子供が憧れの電車や飛行機を見るように、輝いた眼でそのバイクを見つめた。恐らく子供が車や電車や飛行機に憧れるのは、自分が保護下にあるが故、自由に憧れるからだと思う。彼らであればどこにでも行ける。そんなワクワクが込み上げてくるのが乗り物というものなのだろう。

 それは今の俺にとっても同じで、彼のバイクは自由の象徴だった。

「カッコイイのを選んだからね」

 皮肉っぽく返す彼に対し、俺も皮肉と言うか直接的な悪口を返す。

「オタシャツで眼鏡のお前が唯一、輝いてた瞬間だったな」

「酷い言い方だな。まあ振り返ってみたら、一人浮いていたあのサークルで、いじめとかにならなかったのはこいつのおかげかもしれない」

「馬鹿にしたりはするかもしれないが、いじめとかやるような奴らじゃないよ」

「流石代表、みんなへの信頼が違うね」

 彼はバイク駐輪場に停まっているバイクのシートを触りながら、昔から変わっていないヘルメットをぽんっと俺に投げた。それから鍵を回して、エンジンをかけ、シートに跨る。

「様になってんじゃん。昔と比べてめちゃめちゃカッコいい」

「そんな感じで褒められると気持ち悪いな。メットつけて、乗れよ」

「え、お前」

 彼は人差し指を立てた右手を口元に添えて無邪気に笑った。二人してフラフラだった手前、心配のほうが圧倒的にワクワクより強かったが、もしここで死んだら会社に行かなくてもいいのかもしれないということが、頭をよぎり、こいつの指示通りバイクへ、俺も跨った。

「死んだら会社に行かなくてもいい――」

 ふと思った言葉が、口に出ていた俺ははっと息をのんだ。

「東京の道だから気を付ける……けど、日常茶飯事さ」

「はっちゃけてもルールは守るやつだったのにな。変わるな」

 俺は彼のラフな格好とスーツの自分の姿を見比べて、やはり時間の経過を感じた。

「変わるさ」

 その言葉と同時にこいつはアクセルを捻る。エンジンの駆動音と共に、太い二つのタイヤは回転を始め、すぐに俺たち二人を風へと導き始めた。

 ヘルメットをしているから自分の口から吐き出されるアルコールの匂いに不快感を覚えていたが、それを吹き飛ばすくらいに爽快な風が流れていく。エンジン音のせいで全くと言っていいほど周りの音は聞こえないし、彼とも話すことはできないが、それを抜きにしても最高といえる気持ちよさだった。

 吹き抜ける風が俺の心の奥底にたまっていた黒い何かを少しずつ少しずつさらっていくような感覚。

「あっ! 赤だぞ!」

 かなりの大きい声で注意したからか聞こえたらしく、笑っているのだろう、体を小刻みに揺らしながら、彼は応える。

「こんな時間だから大丈夫だよ! 止まっているほうがもったいない! しかも今死んだっていいんだろ!」

 そんなことを言った彼はもっと強くアクセルを捻る。昔は冴えない男だったこいつはいつの間にか、俺より生命力に溢れており、死んだっていいと吐き捨てているのに、死という言葉を全くと言っていいほど感じさせないほど、死からかけ離れた存在に見えた。


 腹を重く震わせるエンジンをかき鳴らしながら、二人は闇夜を駆け抜けていく。


 もうかれこれ一時間近く走ったところだっただろうか。街灯も減り始め、住宅も草木に変わり始めたころ、俺は突然この快楽から冷静さを取り戻し、あろうことか時計を見た。既にてっぺんを回りそうな時刻を見て、俺は焦り、彼の肩を叩く。

 何かを察したように彼は赤信号ですらかけることのなかったブレーキをかけ、側道に停車してくれた。

「どうした?」

 けろっとした顔で見つめる彼に俺は申し訳なさげに行った。

「悪いけどさ。そろそろ帰らねえと。明日大事な案件があるんだ」

 そんなことを言いながらヘルメットを取った俺の顔をまじまじと見て彼は今日一番かと思える声で笑った。

「なんだよ」

「昔は、早く帰ろうとする僕を君が引き留めていたのに」

 そんなことを言う彼を横目に俺は、笑顔なんて作れるはずもなく小さくつぶやく。

「大学時代は良かったな」

「人は変わるね」

 その言葉に彼は間髪入れずに、そう告げる。

「変わるさ。それでもこうやって集まってる」

「臭いことを言う癖は変わらない」

「うるせえな」

 車通りも、人通りもない静かな国道の脇で、二人の男の笑い声が響く。

「じゃあ帰るから、メット被れよ」

「いや、タクシー呼ぶよ」

「馬鹿言うな。送ってく。五秒数えるうちに被らなかったら、被ってなくても走り出すからな」

 無邪気に笑う彼の顔を見て、本当に走り出すと察した俺はすぐさまメットを被り、車体につかまる。

 準備ができたことを確認した彼は、もう一度アクセルを捻る。気を使ってくれているのか、さっきよりもっと速く走り始めた気がする。でも心の中ではもっと遅く、家についてくれるなとまで思ってしまっている自分がいた。

 現実というものからバイクで、ここまで遠ざかってきた感覚への逆行。自分がどんどんと現実に引き戻されていく――そう、まるで旅行の帰り道のような逼迫した焦りのようなものが渦巻き始めていた。


 楽しい時間が終わるのは早い。あっという間に俺の家へたどり着いてしまった俺はすぐにバイクを降りることができなかった。

「どうした、ついたぞ」

 彼のその声にはっとした俺はバイクから降りた。

「送ってくれてありがとな」

 俺の言葉に彼は静かに笑った。

「いや楽しかったよ」

「俺もだ――」

 そう言って、彼を引き留めるのも悪いが、まだ話していたいという感情のせめぎあいの中、一つこいつの言葉が響く。

「じゃ、また」

「また」

 反射のように答えたそれを聞いた彼は、俺が被っていたヘルメットを被り、「酒臭い」と一言愚痴を言って、バイクを走らせていった。

「また……か」

 そんな臭いことをつぶやいた俺は、見慣れたアパートの錆びた階段を上っていき、静かに扉を開けた。

 俺は家の扉を開けて、本当に戻ってきてしまったことを自覚する。玄関からすぐのところにあるキッチンの床に置かれた酒の空き缶や、コンビニ弁当のごみ。整えられていない布団。今日一日がまるで別世界だったかと思えるが、これが俺の日常。


 大学時代の俺からすると、なんて小さな背中だと笑われるかもしれない。でもそれでも俺はまだまだ生きていける。今日あいつが教えてくれた――思えばどこへだって行ける力が俺達にはある。

 また。その言葉を胸に、俺は一つ「ただいま」と自分の日常を優しく受け入れた。




 全く違う日常の二人が交差した瞬間――二人の日常は未だ輝きを辞めることを知らない。

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