《Preview》さざなみの向こうで

しどろ

3月15日

 薄暗い家屋かおくに置かれたぼろソファ。そこに深く腰かけて、色褪せた本を読む女が一人。不定期にめくる紙の音。静寂を紛らわすように、部屋に彼女の鼻唄が響く。(十数年前に流行ったコマーシャルの曲だ。)

だが、その空間に居たのは彼女一人ではなかった。ページをめくる音と共に、一歩、また一歩と、怪しい人影が彼女のソファに忍び寄っていた。

影は息を潜め女の背後に近づいた。そして静かに立ち上がり、じっと女を見下ろした。女はまだ気づかない。

「へへっ…」影はにやりと笑う。両手を広げ、狙いを澄ませて……

直後、突然女の首元に飛びかかり、大声で叫んだ。

ちゃんっ!」

「うわああああ!!」

壁が震えるほどの絶叫と共に、真羽まうと呼ばれたその女は大きく後ろにけ反った。少し間を置いて、ボトリと本が床に落ちた。

薄明かりに照らされ浮かび上がった影の正体は、中学生くらいの女の子だった。

「へへへ、どう?びっくりしたでしょ?」

女の子はニコニコした(いや、ニヤニヤだったかもしれない)表情を浮かべて真羽を見つめている。一方の真羽はしばらく狼狽していたが、

「はぁぁぁぁぁ……。ほんっっと、お前」

深くため息をついた。それから何度か深呼吸し、少し落ち着くと、席を立って落ちた本を拾おうとした。だが、少女は逃すまいと背後から首元を腕で挟みこんだ。まるでジェットコースターの安全バーのように。

「やめろって」

真羽は首筋にまとわりつく手を無理やり引き剥がすと、ソファの左隣をあけた。

「座りな」

「ありがとう」

少女は嬉しそうに真羽が座っていた場所に腰を下ろした。椅子のぬくもりが嬉しいのか、何度も座面を撫でている。

少女に作業を邪魔されるのはこれが初めてではない。一週間前、真羽が少女に餌付けをしてからずっとこんな感じなのだ。

真羽は落ちた本を拾い上げ、ソファを撫でている少女の右隣に勢いよく腰をおろした。

「うわっちょっと!あたしの脚に真羽ちゃんのお尻が落ちてきたらどうすんのさ!脚折れちゃうかもじゃん!気をつけてよ」

「別に当たってねーだろ。ていうか、お前それ私に対して失礼じゃ」

「そーゆー万が一を考えられないとこ、治したほうがいいんじゃないの。だいたいそんな本のどこが面白いのさ」

少女は真羽の本を一瞥した。表紙にはかなり色落ちした『大型免許一発合格』という文字。少女の興味は惹かれなかったようで、真羽の脚の上にごろんと寝っ転がった。

「どーせその本もゴミ捨て場で拾ってきたやつなんでしょ。きったな。ゴミじゃん。ゴミよりあたしのほうがかわいいのにな〜。真羽ちゃんはもったいないな〜」

ふくれっ面でジタバタしている少女。

「似たようなもん……」

ボソッと真羽が呟く。

「え、何?」

「あ、いや、なんでもない。そうだな、お前のほうがかわいい」

真羽は目を瞑った。こいつのせいで、いや、こいつを一週間前に拾った私のせいで、ずいぶんと苦労した。お金が無いのに働かない。私の作業の邪魔ばかり。そのくせご飯はよく食べる。性格もかなり面倒くさい。迷惑かと言われたら間違いなく迷惑だ。だが同時に、徐々に愛着がわき始めているのも確かだった。

肌がちょっと焼けていて、黒髪のショートカット。クールな見た目なのに、実はとっても甘えんぼ。そんな少女が、こんな私を好いてくれている。私にも、人に好かれる権利があったんだ。これがきっと普通の人の暮らしなんだ。このまま彼女と一緒に暮らせば、幸せになれるかもしれない。そんな小さな希望が芽生え始めていた。

無意識に、少女の頭を撫でていた。

詩衣しい

真羽はつぶやいた。

「たしかお前、詩衣って名前だったよな。詩衣。詩衣ちゃん」

詩衣と呼ばれた少女の顔がパッと明るくなる。

「えへへ、そうですよう。詩衣ちゃんです!」

そうだよな。お前お前って、それは名前じゃないもんな。

少女……詩衣は、餌を待つ犬のような表情で真羽を見ている。

「ねえ真羽ちゃん、あたしの名前もっかい呼んで!もっかい!」

「え〜。もういいだろ」

「やだ!じゃあね、クイズ。あたしは誰でしょう。ヒント。『お前』じゃありません」

「……詩衣ちゃん」

「せーかい!えへへ〜〜」詩衣は、顔を赤らめて喜んでいた。子供みたいだ。いや、子供だったが。

ふと、詩衣は「良いこと思いついた」と言うと台所に向かった。冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえたあと、缶ビールを二つ持って帰ってきた。

「いやいや待て待て待て。お前……じゃねえや詩衣ちゃんは酒飲めるわけないだろ。勝手に二本取ってくんな。おい今いくつだ言ってみろ」

必死で止める真羽だったが、詩衣は「いや、あたし自分の年齢わかんないし、大丈夫大丈夫」と気に留める様子もない。プシプシッと続けざまに缶を開けると、「はい」と片方を真羽に手渡した。

「ああ……私が大事に取っておいたやつを二つも……」

「出会って一週間記念だよ。ほら飲も」

「うー……」

渋々缶を受け取る真羽。冷蔵庫が壊れているせいで、缶は生ぬるかった。

「本当に……最初からこんな厄介なやつだって分かってたら」

やれやれ、と言うように真羽は眉を潜めた。

「さぁさ、それじゃいくよー」

詩衣が合図をかけた。

「おう」

「かんぱーい!」「かんぱーい」

振り上げた手にこぼれたビールは、しゅわしゅわと彼女たちの腕を伝っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

《Preview》さざなみの向こうで しどろ @dnm_b

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る