1-27 夜灯に弾ける




 カミヤに手を引かれて歩いて行くうちに、少しずつ人通りは少なくなって、灯篭の数も減っていく。


 薄暗く、少し物寂しい上り坂を歩きながら彼女の背中を眺めている間、レリアは少し違うことを思い出していた。






 ◇ ◆ ◇






「―――ついた。今日から、ここで診療を行う事になるよ」


 セブレムの研究施設の地下。

 特別に作られた、真っ白な病院のような空間に連れてこられた彼女は、女性の職員に優しく手を引かれて歩いていた。


「エドは?」

「彼は別の用事があるって。大丈夫、またいつでも会えるから」


 辿り着いたのは、質素でやや広い病室。

 綺麗に整えられたベッド、鏡のついた洗面台。

 暮らすのに必要な設備は一通り整えられていて、恐らくは患者にストレスを極力与えないように配慮された造りになっているようだった。


「…」

 ベッドに腰掛けた後、ふと病室の出入り口のほうに目をやると、マリーが大柄の男性と何か話し込んでいる様子が伺えた。

 なにやら難しい話をしているようで、その内容は理解できない。


「苦しかったり、頭が痛かったりはしない?」

「うん」

 女性の職員は、こうして時折レリアの体調を窺ったり、顔を覗き込んだりを繰り返していた。

 レリアから見ても、大袈裟なほどに気を遣われているのが分かる。


「どれくらい、ここに居ることになるの?」

「それはね、はっきりとは言えないんだけど…早ければ、二、三日。長くても一週間、って聞いてる。もちろん、あなたが帰りたいと思ったら尊重するよ」

 レリアは、わかった、と小さな声で答えて頷いた。


 暫くすると、先程までマリーと話していた大柄の男性が、レリアの様子を伺いながら部屋の中へと入って来た。

「こんにちは。体調はどうだい」

「大丈夫」

 強面で大柄な男性だが、ベッドに座ったレリアよりも視線が低くなるように屈んで、出来る限りの優しい笑顔を作って彼女に話しかける。

「ここの所長の、ギャレット・クラフェイロンだ。顔はこんなだが、怖いおじさんじゃないから安心してくれよな」

「うん。…あなたは、お医者さんなの?」

「ああ。お医者さんだし、科学者でもある。君の体の具合がよくなる薬も、道具も、何だって作れる凄い人なんだぜ」

「そうなのね」

 特段大きなリアクションをするでもなく、レリアはただそう呟いた。


「もうしばらく休んだら、おじさんと少し話をしよう。君のことはマリーから聞いているけど、直接話して聞いてみたいこともたくさんある」

「わかった」

 素直すぎる彼女の様子に、ギャレットの表情はほんの少し不安の色を示す。


「施設の中を歩き回っていてもいいし、寝ていてもいい。こっちの準備が整ったら、声を掛けるよ」

 そう言って、彼は病室を一旦後にした。



 病室の壁は、窓が無い代わりに、水色の絵の具で空の絵が描かれていた。






 ◇ ◆ ◇






「先輩、翌夜祭の篝火、見に行かないんすか?」

「ああ、ちょっとやりたいことがあってな。クロは行ってきてくれ、折角の祭りの日なんだから」

 セブレムの敷地内、屋外の暗がりの中でユアンは何やら大掛かりな機械をいじっていた。


「俺はさっきも一通り回って色々と眺めて来たんで別にいいんすけど。先輩、ずっとここでその機械弄ってますよね?それ、なんか大事なもんなんですか」

「まあ、な。随分前に頼まれてたもんなんだが、すっかり忘れてて。意外と付け焼刃でも間に合いそうだから、作ってみようかと」

「間に合うって、翌夜祭に?」

「ああ」

 クロは、ふうん、とよくわからないままに鼻を鳴らした。


「お楽しみかなんかですか?」

「まあ、そんなもん」

 振り向く事もなくユアンはそう答える。


「あ、そうだ。クロ、悪いんだが、これをノエルかフェリスに渡しといてもらえるか。多分あいつらに渡しておけばなんとかしてくれるから」

「手紙…いや、台本、ですか?市内放送用の?」

「ああ」

 首を傾げながらも、クロはそれを受け取る。


 軽くそれに目を通したクロは、なんとなく彼のやろうとしていることが分かったような気がして、少しにやけた顔で彼の横顔を眺めた。

「…ほんと、先輩って、なんだかんだ人喜ばせるのが好きですよね。これ、もしかしてカミヤちゃんの―――」

「うっせ。ほんの気まぐれだよ、いいから持ってけ。お前はフェリスと仲良く屋台巡りでもしてきたらいいだろ」

「んな、よ、余計なお世話ですよ!?」


 まったく、なんてことをぶつぶつと呟きながら、クロはそそくさと彼の元を後にする。

 彼が姿を消した後で、ユアンは静かに空を見上げて、はあ、と息を吐いた。


「―――ほんと、何やってんだろうな、俺。兄貴のお人好しが移ったか」


 何かを思い出すように、彼はじっと星の見えない空を眺める。

 そうして暫く空を見上げた後、彼は「あと少し」とまた目の前の機械いじりを再開した。






 それからしばらく後。


 レリアがカミヤに連れていかれてしまったので、エリア一行はあまりその場を離れることもなく、屋台のお菓子を買い巡っては同じ場所に帰ってきて、祭りの空気感を楽しんで過ごしていた。


 エリアは、棒に刺さった大きな飴玉をかりかりと食べながら辺りを見回す。

「カミヤちゃん、戻って来ないのかな」

 リュックも色違いの飴玉を携えたまま、同じように周囲の様子を眺めていた。

「あの子、何にも言わないで行っちゃったもんね」

「食べ歩きでもしてるのかな?ちょっと心配だね」

 一度誘拐された身とは思えない緊張感の無さで、エリアはぼんやりと視線を動かす。

 その視線は、どちらかというと次に食べるお菓子をどれにするか考えているようにも見える。


「迷子になったら放送が来るなり、エドから着信なりくるはずだから。この際、レリアちゃんのことはあの子に任せてもいいかもねぇ」

 マリーも然程心配している様子は無く、洋菓子を手に持って少しずつ口に運んでいた。



「あ、いたいた。リュックさん、エリアさーん」

 ふと声がする方に目をやると、そこにはフェリスとノエルの姿があった。

「あ。お疲れ様、お祭り楽しんでるよ」

 リュックがそう言うと、ノエルが「それはよかった」と笑う。


 フェリスは、そこに立っているメンバーを一通り確認して、あれ、と呟いた。

「カミヤさんは一緒じゃないんですね。途中で会ったりしませんでした?」

「さっき、ちらっと姿は見せたんだけどね。すぐに居なくなっちゃったよ」

「ほんと、落ち着きのない人ですねぇ」

 彼女は少し残念そうに腰に手をやって、人混みのほうに視線を送った。


「カミヤに伝えたいことでもあったの?」

 リュックがそう聞くと、フェリスは「いえ」と首を振る。

「伝えたいこと、ってわけじゃないんですが。ちょっとクロから面白い話を聞いたので、カミヤさんのリアクションが見たかったんですよね」

「面白い話?」

「ええ。リュックさんにも秘密です、じきにわかりますから」

 そう言って、フェリスは意地悪そうに口の前で人差し指を立てた。


 そんな様子を横目に、ノエルは穏やかな目で空を眺めていた。






 カミヤとレリアの二人は、長かった上り坂の先、街を一望できる高台に足を運んでいた。


「ふいー、疲れた」

「ほんと、へとへとなのだけど」

「あは、子供にはきつかったかねぇ」

 カミヤがそう悪戯っぽく言うと、レリアは「馬鹿にしないで」とカミヤのわき腹をつつく。


「ひとしきり遊んだ後にさ。こうやって静かな場所で街を見下ろす流れって、私の地元じゃ結構定番なんだよね。楽しかったね、って振り返ったり、夜の風が気持ちいいな、って感傷に浸ったり」

「…」

 カミヤが柵に寄り掛かって街を眺めているので、レリアも真似をして柵に寄り掛かる。

 彼女の身長では少し柵が高くて、顎を乗せるような姿勢になっていた。


「これで花火でも上がれば完璧なんだけどねぇ」

「花火?」

「そ。空の上にどっかーんって、大きな火の花が咲くの。綺麗なんだよ、夜の空がキラキラに輝いて」

 そんな話を聞いて、レリアの目は羨ましそうに輝きを増していた。


「見てみたいわ。それって、どこに行けば見られるの?」

「…んー、今は難しいかな。でも、きっといつか見られるよ。この世界ならなんだってできるもん」

「…?」

 今は難しい、というのが何故なのかわからなくて、レリアは首を傾げた。

「なんでも、は出来ないわ」

「そんなことないよ、可能性は無限大だよ」

「そう、かな」

 それ以上は特に指摘もせず、レリアは眼下の景色に視線を移した。



 暫く、何も言わずにただ大通りの人波を上から眺めていた。

「お、あそこ、りゅーちゃんたちがいる辺りじゃない?見えるかな」

 そう言って遠くを指差すカミヤ。

 レリアも真似をして辺りを眺めていると、マリーの家や、市庁舎前の広場で篝火をたく準備をしている人々の姿も見える。ふと、探検をしているような気持ちになって、彼女は胸を躍らせた。


 また、カミヤが別の方向を指差す。

「あっちの川の向こうがセブレムだね」

「…」

 また、彼女が指差す方向に視線を送る。

 ただ、先程までのように楽し気に、という様子ではなく、何かを考えながらゆっくり目を動かした後、流れるようにその視線を手元へと移した。


 彼女の様子が変わったことに気が付いて、カミヤはすぐに振り向く。

「…レリちゃん?」

 レリアは黙り込んで、柵に預けていた体重を自分の足で支えるよう姿勢を戻した。


 カミヤが視線を送っても、相変わらず彼女は自分の手を見つめたままで動かないでいる。

 カミヤは、聞こえないほどの小さな声で、「…マズったかも」と呟いて額を押さえた。


 しばらくの間じっとした後、レリアは何か嫌なことでも思い出したかのように短く息を吐いて、自分の顔を押さえてしゃがみ込んでしまう。


「どしたの、お腹痛い―――わけじゃ、ないよね」

「うん」

「ちょっと今、つらい気持ち?」

「うん」

 顔を押さえて表情を見せないまま、彼女は小さく頷く。

「なんか嫌なこと、思い出しちゃった?」

「うん」

 カミヤは、そっか、とだけ返しながら、隣に屈んでレリアの頭を穏やかに撫でる。


「大丈夫、大丈夫」

 カミヤがそう諭しても、レリアは、首を横に振った。

「大丈夫じゃ、ないの。私が、全部壊してしまうの」

「…」

「このお祭りも、皆が楽しそうにしてるのも、私が間違って手を振ってしまえば、全部壊してしまう」

 絞るような声で少しずつ話すのを、カミヤは黙って聞いている。

「忘れられないの、何度も夢に出てくるの」


 彼女が魔女であることには、カミヤはなんとなく気が付いていた。

 今まで見聞きしたことから、彼女の過去に何かがあることも察している様子で、何とも言えない表情を見せている。


「夢の中で、みんなに責められるの。でも、何も言い返せないの」

 カミヤは屈んだままで、レリアの頭に顎を乗せるようにして抱きかかえる。

 そのままレリアの髪を撫でながら、どうしたものか、とぐるぐると考えを巡らせた。


 堰を切った感情が抑えきれなくなって、レリアは顔を押さえたまますすり泣く。

「私、帰らないと。ここにいちゃ、駄目だから」

「帰らなくていいよ、ここにいていいんだよ」

 そう言っても、レリアは「駄目なの、帰るの」と首を横に振り続ける。



 しばらく経って、ようやくレリアの気持ちが落ち着いてきた頃。

 ずっと同じ姿勢で彼女のことを抱きかかえていたカミヤは、「落ち着いた?」と小さな声で囁きかけた。

「…」

 自分の前髪をくしゃくしゃに掴んだままで、レリアは何も言わないでいる。

「顔、あげてみ?」

「…嫌」

「大丈夫、さっきと変わんないよ」

 何秒か固まっていた後、彼女はゆっくりと、怖いものを見るように街のほうへ視線を送る。


 街の様子は先ほどまでと変わらず、祭りの熱気を帯びて穏やかに輝いていた。


「今日、ここに来るまでに食べたお菓子、美味しかった?」

「…うん」

「風船配りのおっちゃん、おもしろかったよね。通りすがりのわんこにびっくりして、風船全部ばらまいちゃってさ」

「うん」

「そういえばさ、気付いた?すっごい豪華なドレス来てた貴婦人さん。ああいうドレス、人生で一回くらいは着てみたいよね」

「…それは、別に」

「んはは、そっか」

 そう笑いながら、カミヤはまた少し彼女を抱き寄せる。

「こういう楽しい時に限ってさ、嫌なこととか、怖い夢のこととか思い出しちゃうの、すごい分かる。でも、それってやっぱ勿体ないと思うよ」


 カミヤは街のほうを眺めながら、また沈んだ顔のレリアの頭を撫でた。

「レリちゃん、思い出してね。今日は、『楽しい一日』、だったんだよ」

「うん」

 レリアはそう言われて、漸く首を縦に振った。

「今日からは、楽しいお祭りの夢を見るんだよ」

「…頑張るわ」

 そんな無茶な、と言いたげな顔をしながらも、彼女はまた頷く。


「よっし、そろそろ行こっか」

 そう言って、カミヤはレリアの両脇に後ろから腕を入れるようにして、彼女を抱き上げる。

「あ、わ。いいわ、自分で歩けるわ」

「ええ~いいじゃん、ちょっと抱っこさせてよ」

「ええ」

 最初に少し抵抗はしたものの、歩き疲れ、泣き疲れた彼女にそれ以上の体力はもう無く、結局は猫のように大人しく抱きかかえて持ち上げられてしまった。

「髪の毛いい匂いするねぇ」

「嗅がないで!」

 怒って身体をじたばたさせても、カミヤは笑うだけで、彼女を降ろさず抱きかかえたままだった。


「さて、また下り道長いぞぉ」

 そう言って、彼女が踵を返して高台を去ろうとする。


 その時だった。



 誰かが笛を吹くような、細い音が空中に響く。


「―――」

 考えるよりも先に、二人は音につられてふと振り向いていた。


 空中に輝く火の花と、遅れて届く、空気を叩く音。


 それは、紛れもなく、とある世界の夏の風物詩そのもの。


 火の花は、ふたつ、みっつと続けざまに夜空に弾けていく。


 レリアの澄んだ瞳の中で、その眩い光は何度も瞬いて、その心を洗い流すようにパチパチと消える。


 一瞬の間、呼吸も忘れていたカミヤは、ふと息を吐くと、少し震えているような声で、嬉しそうに悪態をついた。


「…ほんっと先生、ばかだなぁ。そんなに頑張らなくていいって言ったのに」


 彼女達は、その場にずっと立ち尽くしたままで。


 それまで話していたことも何もかも考えるのをやめて、ただただ宙に咲く花を眺め続けていた。






『―――皆様、この翌夜祭もいよいよ終わりの時間が近づいて参りましたが、お楽しみいただけましたでしょうか。祭りの最後には、市庁舎前にて篝火を焚くことが通例となっておりますが―――今年は、ウルフセプトが主催する風変りのイベント。であれば、篝火と共に、もう少し賑やかに、華やかに終演を迎えるのもまた一興。夜空に咲く火の花などと言うのも、この街らしく良いものではないでしょうか。少し大きな音に驚かれるお客様もおりますでしょうが、これも街の発展を願うまじないの一つとして、どうぞお楽しみいただけますよう、お願いいたします』


 いつの間にやら街の各所に取り付けられていたスピーカーから聞こえてくる、女性の声。

 その放送を聞いて街の人々は何のことやらと周囲を見回していたが、直後に空に打ち上がったその大輪を見て、その誰もが息を呑んで空を見上げた。




 レテの元では、一緒に居た女性が嬉しそうに空を見上げる。

「―――綺麗。レテ、あれは何?」

「…わからぬ」

「私、あのお花が欲しいわ。どうにか、取って来られないものかしら」

「無茶を言うな。…ただ、まあ。気持ちはわかる」




 仕事中のエドの元にも、その光は等しく届く。

「エド殿!あれは何だ、危険なものではないのか!?」

「大丈夫ですよ、落ち着いて。あれは、きっと―――僕の友人の、願いの形です」

「落ちてきたり、しないのだろうな?」

「落ちてきませんよ。多分ね」

「多分…?」




「―――わあ。これは、確かに。カミヤさんがあれだけ見たがってたのも頷けますね」

「話には、聞いていたけど。本当、素敵ね」

 フェリスとノエルの二人も、そんな風に夜空を見上げて目を輝かせた。


 近くで小競り合いをしていた衛兵団の青年たちも、今ばかりは黙り込んで空を見上げる。


「おっきい音。びっくりしたけど、綺麗だねぇ」

 マリーのそんな独り言に、エリアが空を見上げたままで小さく頷く。

「…すごい」

 そう声を漏らすエリアの横で、リュックも同じように口を開けて空を仰いでいた。


「―――花火だ」

「花火…って、いうの?」

 エリアがそう問いかけても、リュックは空に夢中で返事をしない。


 エリアは少しリュックに寄り添うように身体を近づけ、そのまま勝手に彼女と指を絡めるように手を繋ぐと、満足げにまた空を見上げた。

「綺麗だね」

「うん」

 上の空のまま、リュックは小さく首を振る。


『―――春瑠姉。来年も、また夏祭り来ようね』


 子供の頃、そんなことを言ったような記憶を、朧げに思い出していた。


 春瑠姉って、どんな人だっけ。


 夜空を見上げて、ただぼんやりと火の花を眺め続けたままで、彼女はそんなことをずっと、ずっと考え続けていた。


「…」


 エリアが、そうしてぼんやりとしているリュックの顔を見て、少し不満げな顔をする。

「リュック」

「…うん」

「こっち向いて」

 そう言われて、リュックはふとエリアの顔を見る。


 エリアは、隙あり、といった様子で、流れるように彼女と唇を合わせていた。


 また視線を合わせて、目を細めて満足げに笑う。

「あなたは、いつだってあなただからね」

「うん」

 リュックは驚くわけでもなく、ああ、そうだった、とでも言うような顔で、エリアの目を見つめ返した。


 また、二人は夜空を見上げて静かに肩を並べる。



 ―――背後では、フェリスが驚愕しながら口を手で押さえていた。

 そのままカメラを取り出そうとした彼女だったが、ノエルに穏やかに窘められて、渋々それをまた懐に仕舞い込むのだった。






 ◇ ◆ ◇






 暫くそうして、花火を眺め続けた後。

 リュックは、ふとエリアのほうへ目を向けると、「ちょっとお手洗いに」と言って手を解いてその場を離れた。


 そのまま、エリアからは見えない路地のほうへと姿を隠す。

 手洗い場があるとは思えないような建物の影に辿り着くと、彼女は壁にもたれるように腕をつくと深く息を吐いた。



「…」

 地面を見つめたまま、彼女は動かないでじっとしている。

 何かを考え込むように、抑え込むように。


「―――こんばんは」


 ふと、聞き覚えのある声がして、彼女は顔を上げた。


「どうしたの?」


 足音も無く、彼女は目の前にいた。

 薄紅色の髪の毛、少し汚れた騎士の服。

 彼女は、優しそうな目をしてリュックの目を覗き込む。

「具合が悪そうね」

 そう口では心配して見せるが、台詞に反して彼女の顔はどこか嬉しそうにしていた。


「…なんでも、ない。あんまり話しかけないで」

「無理は良くないわ」

「触ら、ないで」

 リュックが嫌がるのを無視して、彼女はその腕を掴んで袖を捲る。


 腕に残った大量の噛み傷を見て、彼女は嬉しそうに目を細めた。

「そうよね、我慢できないわよね。わかるわ、だってずっとお預けなんだもの」

「…」

 リュックは悔しそうに視線を逸らす。


「さっきだって、そう。あんなくちづけまでしておいて、首筋に噛みついてはいけないだなんて。あの子も随分と意地悪な子だわ」

「五月蠅い」

「でも、あなたは自分で決めた。あの子は食べないし、誰にも渡さないって。自分の腕に噛みついてでもその欲求を抑え込んで、共に生きる道を選んだ」

 女性は嬉しそうに笑う。

「やっぱり私、あなたの事、素敵だと思うわ。…今日は、それを伝えに来ただけ」

 そう言って、彼女はリュックの腕から手を離した。


「悩みがあったら、聞いてあげるね。会いたいと思ったら、いつでもこういう場所に来て。―――私、いつでもあなたたちを見ているから」

 背を向けて、彼女は歩き出そうとする。


「待って」

 呼び止められて、女性は足を止めた。

「なあに?」

「あなたは、一体何者なの」

 リュックは苦しそうにそう問いかける。

「私は…?」

 何故か驚いたような顔をして、振り返ってリュックの目を見る。


「私、は…。私は―――なんだっけ」

「…?」

 急に様子が変わった女性の様子に、リュックは訝しげに目を細めた。

「わから、ないわ。忘れた。忘れたの、そんなことは、どうでもいいの」

 そう言いながら、彼女は髪を掻きむしるように頭を抱える。

 そのまま、ずっと独り言をぶつぶつ呟きながら、また背を向けて立ち去ろうとする。

「私は、いいの、好きなものを、食べるの。大切なものは、食べてしまわないと、死んでしまったら、おしまいだから」

 よろよろと、力なく歩いて行く最中、最後には力を失くしてように膝を折ってその場にへたり込む。


 ふと、何かに取り憑かれたように彼女は目の色を変えた。

 少しずつ息を荒げて、苦しそうに目を泳がせる。

 彼女は振り返って、リュックに這うように近寄ると勢いよくその肩を掴んだ。

「な、何!」

 女性の尋常ならない様子と、とてつもない握力で肩を掴まれたことで、リュックは驚きのあまり声を上げる。


 焦点の合わない目で、俯いたままで女性は唱えるように続ける。

「ねえ、教えて。愛する人とずっと共に在りたいと思うのは間違っていること?一つになりたいと強く願って、その心臓を口に運ぶのは罪なの?」

 あまりの迫真さにリュックは息を呑んで、何も言えなくなる。

「失われた命をそのまま見送ってしまうことこそ、慈愛の無い、人ならざる行為そのものでしょう?教えて。あなたは、もしあの子が命を落とす時が来たのなら、その心臓を食べて、共に在り続けるつもりなんでしょう」

「嫌だ、やめて、考えたくない」

「いつか訪れる結末なの、目を背けないで。教えて、教えて」

 彼女の指先には更に力が入って、リュックの肩に強く食い込んでいく。

「痛い、痛い!離して!」

 リュックが藻掻いても引き剥がせないほどの力。

 幾ら騒ごうとも、女性は血走った目のままリュックの顔を凝視して離れようとはしない。

「ねえ、私、おかしくないでしょう。ねえ、ねえ!」

「離せ!!」

 リュックが蹴り飛ばして、女性は漸く後ろに倒れる。


「一緒に居るんでしょう、ロビィ、ロビィ」

 彼女は這って逃げるようにその場を離れようとする。


 その時にリュックの中に生まれた感情は、哀れみでも同情でもなく。

『こうなってはいけない』という、己に対する危機感だった。


 ただ、目の前の女性が余りに弱り切っていることに気が付いて。

 彼女は息切れも収まらぬままに、慌てて女性を抱き起そうとする。

「…ねえ、待って。一緒に衛兵団の屯所まで行こう。そこで、何があったのか全部…」

「離して、離して」

 リュックは無理矢理に女性と目を合わせるが、最早彼女の眼は生気を失っていた。


「…わからない、わからない。思い出せない、私、今、なにをしていたの。あなたは、一体誰?ここは、どこなの」

「―――は?」

 女性は錯乱しきった様子で、涙を流しながらまた独り言を吐き続ける。

「離して!」

 今度は、女性のほうが強くリュックのことを蹴り飛ばして。

 意識が飛ぶほどの衝撃を受けた彼女は、そのまま壁に叩きつけられてその場に蹲った。


「待っ…て…」

 朦朧とする意識の中で、女性が逃げ去っていくのをただ見送る。


 彼女が視界から消えるにつれて、その容姿や声は魔法のように記憶から薄れていって。

 リュックの記憶の中には、ただ助けを求める『誰か』と話したという出来事だけが、その跡を残していく。




 それからしばらくして。

 異変に気が付いて駆けつけたエリア達によって、彼女はマリーの家へと搬送される。

 華々しく終わるはずの翌夜祭は、そうして不穏な後味を残して。

 彼女達へ何とも言えない不安を植え付けて、終わりを迎えることとなった。



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