1-24 冥界の箱を求めて




 エリアの家に辿り着いた日の翌朝。

 疲れ切った体をある程度休めた彼女達だったが、事態をかき乱した当の本人であるリュックは前日のことをすっかり忘れてしまっていた。


「冥界?幻覚魔術?なにそれ、私、一体何をしてたの?」


 レテは呆れて頭を抱える。

 確かに使命感に駆られて冥界の門へと近づいた覚えはあった彼女だったが、そこから先、エフタの意識に影響を受けていた時の記憶はまるで残っていない様子だった。

 幻覚魔術についても憶えていないことから、冥界を出た後も彼の影響は受け続けていたことが伺える。


 ざっくりと自分たちの身に起きたことを話すと、リュックは申し訳なさそうに額を押さえた。

「…ごめん、私が悪いんだっていうのはなんとなく分かった」

「その通りだ、まったく。いや、まあ正しくは、貴様ではなくあの駄目親のせいなのだが―――とにかく、今後貴様はもう少し当事者意識を持ったほうがいい」

 居間のソファに深く座り、困ったように腕を組んで彼女は溜息をついた。


「エリアにも、色々大変な思いさせちゃったな。後で、謝っておかないと」

「ああ、あいつは貴様を取り戻そうと必死だったからな。ちゃんと労っておけ」


 そんな話をした矢先、エリアが伸びをしながら寝室から姿を現す。

「…」

 彼女は寝ぼけた顔で、居間のソファに座るリュックとレテを見つめる。

 数秒間だけ無言の時間が流れた後、ふと意識を取り戻して周囲を見回すと、驚いたようにリュックの顔を見た。

「私の家だぁ!?」

「貴様もすべて忘れてないだろうな!?」

 急に心配になったレテだったが、エリアはしっかりと昨日の出来事を覚えていた。






「―――冥界の箱、かぁ。探せって言われてもなぁ」

 話を一通り振り返った彼女達は、エフタの告げた『冥界の箱』をどうやって探すか、という話題に移っていた。


「見た目なんかわからないし、そもそも、それが何に使うものなのかもわからない。そんな状況で、どう探せばいいんだろうね」

 リュックがそう言うと、レテが補足して話す。

「使い道…は、多少余が知っている。あれは、死した人間の魂を正規の冥界に還さず、自分の手元で保管するためのものだと聞いた」

「聞いた、って…誰から?」

「知り合いの―――少しおかしな神からだ」

 レテはばつが悪そうに目を逸らす。


「大切な人間の魂を手元に残す。そうしてその魂の輪廻転生の制御権を我が物とし、次に生まれ来る命にそれを預ける。エフタはそうして、ある娘の生涯を永遠のものにしようとしたのだ」

 難しい話に、リュックは首を傾げた。

「つまりは、生まれ変わりを好きに決められちゃうってこと?」

「そういうことだ。本来ならお前は後世でフジツボに生まれ変わる運命だったとしても、冥界の箱を使えば望み通りに人間として生まれ直せる。それが冥界の箱だ」

「フジ…なんて?」

 突然出てきた貝類の名称にリュックは困惑するが、レテは構わず話を続けた。

「恐ろしいのは、その冥界の箱が、死した人間の記憶も、前世の肉体の構造も全て記録してしまえたということだ。あれがあれば、『人間として』に留まらず、お前はまたリュックとして生まれ直す事さえ出来た。その声、その容姿そのままで」

「…」

 リュックは、なんだか複雑そうな顔をした。


 横で聞いていたエリアが、興味ありげに横槍を刺す。

「それって、凄くいいことじゃない?だって、それを使えば私とリュックは永遠に一緒に居られるんだから」

 そうエリアが聞くと、レテは表情を変えずに答えた。

「ああ。恐らくは、エフタもそう考えたのだろうな。だから、奴は愛するアゼリアと共に永遠の転生を繰り返し、千年近くの時を共に過ごしたのだ」

「せん…」

 想像以上の年月に、エリアは笑顔のままで硬直する。


「その果てに生まれたのが、あの訳のわからぬ冥界だ。―――なぜ、最終的にああなってしまったのか、までは余は知らぬ。ただ、こういう悪い事が起きるのではないか、とはずっと思っていた」

 レテは、過去の失敗を語るように天井を眺めながら話す。

 続けざまに、彼女は「それを止めようとしなかった余も、同罪なのだがな」と、聞こえないくらいの声で呟いた。


「…あの迷いの高原。余たちは冥界から出てきたとき、最初にあそこに辿り着いたな」

「うん」

 リュックとエリアは、二人揃って頷く。

「あそこが恐らく、エフタとアゼリアが逢瀬に使っていた場所だった。名前は知らぬが、数多くの魔女が共に過ごしていた結界領域。―――一説には、元々は、巨大な木々に空を覆われた、深海のような森林地帯だったらしい」

「…それって」

「ああ。冥界の中で、エフタとその娘が誕生日会を開いていた場所。恐らくは、あれがその地を再現したものだったのだろう」

「…」

 リュックとエリアは、そこまでの話を聞いて、どう返事をしたらいいかわからなくなって、ただレテの目を見つめた。


「…ま、余が知っているのはそれくらいだ。あの娘が本当に血縁上のエフタの娘なのか、とか、アゼリアが何故真っ黒なのか、とか。そういうことは知らぬ。冥界の箱が何処にあるかなんて、まあ見当もつかぬ」

 そう言って、レテはまたソファに深く寄り掛かって、頭の後ろで腕を組んで枕代わりにした。


 尚も静かにしている二人と目を合わせて、レテはふと気が付いたように目を見開く。

「―――いや、待てよ。見当は、つくな。この街、アゼリアという名前だったな?」

「…え?う、うん」

「それは、つまり…」

 レテは、顎に手を添えてぐるぐると考え込む。


「迷いの領域の外部で箱を使って、奴が生まれ変わりをしていたなら。記憶を取り戻すのに、何かトリガーが必要だったのだとしたら。この街の名前を決めたのは、きっと―――」

 そんな独り言を、何度か呟いて。

 気が付いたように、彼女ははっと顔を上げた。


「―――あるんじゃないのか、この街に。冥界の箱が」


 リュックもエリアも、抜けた声で「えっ?」と答えた後、お互いに目を合わせて何度も瞬きをする。

 半分くらい理解できていないリュックと、半分くらい話を聞き落していたエリアは、揃いも揃って「もう一回教えて?」と人差し指を立てた。






 ◇ ◆ ◇






 この街に冥界の箱があるかもしれないと気が付いた彼女達は、すぐさまそれを見つけるべく動き出した。


 ひとまずはエリアの家の中。

 ひとしきり探したが、それらしきものはどこにも見当たらず。

 さすがに簡単には見つからないかと見切りをつけた一同は、今度は人が住む地帯、葡萄畑を越えた街のほうへと探しに行こうと支度を始めていた。


 一度、別れを告げた街。

 そこに行こうというのは、エリアにとっては当時の決意を覆すことと同じ。

 それを分かっていたリュックは、準備を始める前に、エリアのほうを振り向いて穏やかに問いかけていた。

「―――エリアは、どうする?」

 エリアは胸の前で指を遊ばせながらもごもごと答える。


「私は、ここで待ってようかな」

 一緒に行きたい気持ちは山々だけど、といった表情で、彼女は申し訳なさそうにそう言った。

「わかった。夜までには帰って来るよ」

「うん。よければ、夕食の食材も買ってきてくれると嬉しいな」

「了解」

 金はあるのか、とレテが聞くと、エリアはへそくりのように額縁の裏から少しのお金を取り出して二人に預けようとする。


 当然の様に出てきた金銭に、レテは驚いたようにそれを見つめる。

「…別に、金を増やす魔法が使えるわけではないだろう?」

「うん。お母さんが色々集めて、作っては売って溜めてくれたお金だよ」

「そうか…忍びないな…」

 非常に受け取りづらそうに彼女はそう言うが、「使わないでお腹を減らしてちゃ、それこそお金がもったいないよ」とエリアに言われて仕方なくそれを受け取ることにした。






 エリアの家を出て十分足らずで、アゼリアの街には辿り着いた。


 そこに広がるのは、リュックが前にも見た長閑な街の風景。

 ワルプルギスの夜など無かったかのように、人々は穏やかに往来を闊歩していた。


「聞いたことないねぇ、魔術や呪いが掛かった奇妙な箱なんて。―――ところでお嬢さん、あんたどっかで会ったことあるかい?」

 娘と一緒に店頭に立っていた花屋の店主は、鉢植えを抱えたままでそう答えた。

 何となく問い詰められたくなくて、リュックは逃げるように目を逸らす。

「いえ、気のせいかと。それじゃあ」

 目を合わせないままそう答えた彼女は、何も知らない振りをしてそこを後にした。


 近くの雑貨店やら、古物を飾っているカフェやらにも同じような質問をしながら彼女達は街を進んでいく。


 いくらか、そうして普通とは違う『箱』について知る者がいないか聞いて回ったりしたものの、やはり有益な情報を得ることは出来なかった。


 中には、リュックの顔を覚えている者もいて、騎士団の人なのか、何処か近くに住んでいるのか、と聞かれることもあった。

 その度に、リュックは違いますよ、と手を横に振って否定していた。



 もう諦めようかと思った矢先。

 街の端に、よく見なければ店だとは分からないような、小さな雑貨屋があるのが見えた二人は、ダメ元でそこにも聞き込みを掛けてみることにした。


「ああ、箱のことは知らないけど。随分前にも、同じようなことを聞いてきた奴がいたのは憶えてるよ」

「同じようなこと…箱を探している、と?」

「そう。古びていて、なにか触れてはいけないような『何か』を感じるような小箱が、この街の何処かに無いかって」

 リュックとレテは互いに目を合わせる。


「…私達のほかに、冥界の箱を探してる人がいる?」

「そうとは限らんが…可能性は、無いとも言い切れんな」

 そうは言いつつも、エフタの関係者しか知らない筈のそれを探している人がいる、というのはにわかには信じられない。

「おい、そいつはどんなやつだった?男か、女か」

 雑貨屋の店主は顎に手を当てて天井を見る。

「うーん、確か男だった。やけに背が高くて、髪がもさもさの浮浪者みたいな奴だった気がするよ」

「…他に、特徴は?」

 身を乗り出して聞いてくるレテの様子に、店主は困ったように頭を捻る。

「あんまり、憶えてないけど。声が小さくて、話を聞き取るのに苦労した覚えはある。あと、やけに至近距離で話すから威圧感が凄くて、余計に緊張したってのは印象に残ってる」

「そうか」

 一通り聞いても、それが誰なのか見当はつけられない二人。

「で、随分前というのはいつ頃?」

 リュックがそう聞くと、店主は「二、三年くらい前」と答えた。




「―――二、三年前となると、もう箱はその人が見つけてるか、あらかた探しきってるのかもしれないね」

 街の中を引き返す二人は、その『箱を探す男』のことを話しこんでいた。

 リュックの手には、夕食用の食材が入った籠が提げられている。

 野菜やら、卵やら、三人で食べるには充分なほどの中身。


 日は少し傾いてきて、長閑で慎ましい街道を茜色に照らしていた。


「そいつが、何の目的で箱を探していたのかが気になる。もし使い道を知っているのであれば、大概の人間は悪用したがる筈だからな」

「悪用?」

「ああ。人の魂を操れる代物だ、悪い使い方など幾らでも考え付くだろう」

「うーん」

 そう言われてもリュックにはいまいちぴんと来ないらしく、腕を組んで考え込む。

「…嫌いな人の来世をお花にしちゃうとか?」

「いや、間違ってはいないが…」

 随分と可愛らしい例えをするな、とレテは呆れ顔をする。


「記憶を維持したまま別の生き物に憑依させる、なんてこともできるかもしれないな。ま、余もそれでどう悪さをするか、までは思い浮かばぬが」

 と、彼女は沈みゆく太陽を眺めた。


「…」

 そうだ、冥界の箱が『記憶』も操れるのなら―――

 ふと、そう気が付いたレテだったが、不確かなことを言うものでもない、と会えて彼女はそれを口に出すことはなかった。


 そのまま、辺りにある手入れの行き届いた生垣やら、洒落た小さな看板のついた喫茶店やら、辺りの景色に意識を向ける。

「綺麗な街だよね」

 リュックがそう言うと、レテは小さな声で「ああ」と答える。


「…貴様らは何故、この街を離れた?」

「ここが、素敵な街だったからだよ」

「…?意味が、分からぬが」

「ここは、エリアが愛する街だったから。だから、離れたんだ。―――そのうち、詳しく話すよ」

 リュックは街並みをただ眺めて、それだけ言って話すのをやめた。


 その先の街並みも、戻り際に見えた葡萄畑も、茜色から少しずつ夜闇の色に染め直されて。

 エリアの家に帰りつく頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。




「ただいま、エリア」

 扉を潜って中に入ると、奥の部屋から声だけで「おかえり」と聞こえてくる。


 その声は、いつもの穏やかな声というには少し強張っているように聞こえた。


「…エリア?」

 違和感を感じて、リュックは手に持っていた荷物をレテに押し付ける。

 何か不穏な気配を感じ取った彼女は、途端に表情を険しくして、足早にリビングに向かって歩き始めた。


「入るよ」

 ノックもせず、臆することもなくリビングの扉を開けると、そこにはティーポットを手に持ったエリアの姿が見える。


 立ち上がったままでおろおろした様子の彼女の傍らでは、部屋に一つだけ置いてあった背の高い椅子の上で、背の低い男が堂々と座って出されたお茶を飲んでいた。


 身体に合わない大きなサイズの上着、被ったフードから覗くぼさぼさに伸びた髪。

 そのどれもが黒く、僅かに覗き見える虚ろな目には真っ黒な隈ができている。

 上着は所々が破けていて、薄暗いその部屋にいる彼はまるで亡霊のように見えた。


 男は、カップに口をつけたまま、ただじっとこちらを見ている。


「―――誰?」

「わ、わかんない」

 わからないにも関わらず、どうやら流れに押されてお茶を出してしまっていたらしいエリアは、訳も分からず涙目になっていた。


 男は、リュックと目を合わせても尚、何かを見定めるようにじっと彼女の顔を見て黙り込んでいた。


 リュックが話し出そうとした瞬間に、男は椅子から降りて彼女に歩み寄る。

 背の低い彼は、リュックに見下ろされるような立ち位置になりながらも、臆することなく目を見開いて問いかけた。

「―――お前はエフタか?」


 いきなり真に迫った質問を投げかけられて、リュックとレテの心中に緊張が走る。


「…いや、違い、ますけど」

「違うのか」

「…はい」

 若干怯えながらも、辛うじてリュックは否定する。


「―――読みが、外れたな」

「読み?」

「そうだ。我は、エフタがまた地上に顕現するのであれば、それはこの地だと予期していたのだ。だが、どうやらそれは違ったらしい」

 それほど間違っていない、むしろ余りに的確過ぎる発言にリュックは猶更緊張して、その男に対する警戒心を強める。

 対して、男は急に興味を失くしたように態度を変え、カップを近くの棚の上に適当に置くと、早々にその場を去ろうと歩き出した。


 リュックは慌てて振り返って、部屋を出ようとした男を呼び止める。

「ま、待って。あなたは、誰?なぜここに家があると分かったの」

「そう、調べが付いたからだ。いちいち呼び止めるな、ニヴァリスは忙しい」

 その答えに、レテが「ニヴァリス…?」と声を漏らす。


 彼女達のことは気にも留めず、彼は続ける。

「我は、エフタの意志を称え、ガランサスの遺志を継ぐ者。神を目指さんとしたその執着を、力を、知恵を。我が再び紡ぎ直し、この世界を作り直す者である。この肉体に残された時間は、それを成し遂げるにはあまりに短すぎる」

 そう言って、彼はまたすぐさま歩き出し、玄関の外まで歩いて行く。


 何を言っているか分からず、リュックはただ立ち尽くす。


 足音は途中まで遠ざかっていたが、ふと、何かを思い出したのか、その足音はまたこちらへと近づいてきて。

 彼はまた部屋の入口まで戻ってきて、エリアのことを力強く指差した。

「そうだ、そこの魔女。貴様には、またいずれ会いに来る。貴様は、鍵だ。この世界を、全てを正しく導くための。決して、その力を他の誰かに明け渡すな。それは貴様が守れ、貴様が維持しろ。きっと最後に、ニヴァリスが全てを完成へと繋いでやろう」

「へ、へぇ?」

 意味が分からず、エリアはただただ怯えたような声を出す。

 同様にその意味は理解できなかったリュックだったが、兎にも角にもエリアに危険が及ばないようにと、彼女の前に立ちふさがるようにその立ち位置を変えた。


「我が冥界の箱を見つけ出した時が、全てが終わり、そしてまた始まる時だ。その時には、貴様らを苦しめたすべての歴史が、すべての記憶が生まれ変わる。忘れるな。ニヴァリスとは、お前達、魔女を救う者の名前である」

 そう言って、彼はまた姿を消す。


「…待て!」

 呆気に取られていた一同だったが、レテは咄嗟に彼を追いかけて玄関へと走っていく。

 彼の姿を視界にとらえた時には、男は家の外で魔法陣の光に包まれ始めていた。


「我こそは、只唯一の真なる魔女教徒也」


 彼はそう言うと、転移魔術の光に呑まれ、そこから完全に姿を消す。


「…ちっ。躊躇うべきではなかったか」

 レテは、誰も居なくなった庭先をただ見つめて舌打ちを飛ばした。




 ◇ ◆ ◇




 それから、翌日。

 昨晩の夕食がいまいち喉を通らなかったせいか、彼女達は空腹に耐えかねて寝覚めの悪い朝を迎えた。


「…街へ、帰ろう」

 リュックがそう言う。

 エリアもレテも、なんとも息苦しそうな表情で首を縦に振った。


 とはいえ、体力は回復しても移動手段が無い。

 また人力で荷車を引けば影の獣に追い回されることがわかりきっていた彼女達は、どうにかして街で足になるものを見つけなければならなかった。


「騎士団の人達、また会えないかなぁ」

 エリアのそんな望みも、そう都合よく叶うことはなく、またリュックとレテはアゼリアの街へと繰り出すことになった。




 二、三日の間、彼女達は安全な移動手段を求めて街を歩き回ったり、エリアの家に籠って頭を悩ませたりして過ごした。

 セブレムとの連絡手段も無く、どうしたものかと考え込んでいた矢先。

「―――バルベナの街まで行きたい?ええ、どうぞ、じゃあうちの荷車を使ってください」

 年配の男性のそのあっさりとした答えに、リュックとレテは揃って目を丸くして聞き返した。


 その男性が住んでいたのは、すこし街の中心から逸れた畑道の民家。

 男性は、ふふ、とも、ほほ、とも聞こえるような声で優しく笑った。

「おや、憶えてたからここに来たんじゃなかったんですかい。あんた、あの時息子を助けてくれた龍人さんでしょう」

 リュックはその男性の顔をまじまじと見つめて、畑のほうで遊び回っている子供の姿に気が付くと、漸く何かを思い出して息を漏らした。

 男性は、深く優しい眉を上げてにこにこと笑いながら話す。

「あなたが居なきゃ、息子はあのまま窓から落ちて、頭を打ってひどいめに遭ってた。それの礼にしちゃ、荷車一つじゃ足りないくらいですよ」


 彼は、リュックが初めてアゼリアの街に来た時に出会った、風船配りの老人であった。

 向こうで遊んでいるのは、飛んでいく風船を掴もうとして窓から落ちた男の子。


「思い出した。農家の人だったんですね」

「ああ、そう。大通りのあそこは女房の実家でね、あん時ゃ商売の手伝いをしてたんですわ」

「息子さん、元気そうで何よりです」

「ああ、お陰様でね」

 リュックも男性も、少し懐かしむように男の子のほうを見て微笑んだ。


 男性が、また思い出したようにリュックのほうを振り返る。

「あの時、息子の膝の怪我を治療してくれた女の子にも、よろしく言っといてくださいな。女房があんな顔見せちまって申し訳ないが、ちゃんとみんな感謝してるんだよ」

「…ありがとうございます」

 リュックは男性の気遣いに、素直にそう答えた。


 レテが、一応といった感じで男性に問いかける。

「うぬ、だが、荷車なんて借りてしまっていいのか?農家にとっては必需品であろう」

「大丈夫ですよ、うちにゃ同じのがもう一台ある。ちょっと古いが、作物を運ぶだけなら十分だから」

 男性がそう穏やかに答えるのを聞いて、レテはそれ以上は問わずに頭を下げる。

「…そうか、わかった。恩に着る」

「ああ、あんたも道中お気をつけて」

「ああ」

 男性は、ちょっと乗ってるものを片付けるから時間をくれ、といって野ざらしになっていた荷車を綺麗に整え始めた。


 よく見るとそれは以前エリアが引っ張り出したものよりも随分としっかりしていて、荷車というよりも荷台付きの自動車という方が相応しい代物。

 恐らくは男性が年齢を考えて購入した高性能なもので、近いうちにしっかり返しに来なければ申し訳が立たないようなものであった。




 その日は太陽も落ち始めていて、出発するには遅すぎる時間だった。

 彼女達は荷車を受け取ってエリアの家にまた戻ると、翌日の移動に備えて身体を落ち着けることに決める。


 先日の不気味な男―――ニヴァリスが姿を現す事もなく、無事にその日を迎えた彼女達は、荷物を最小限にして、なるべく早くバルベナに着くべくその家を後にした。


 そこから先は大きな事件も起こらず、彼女達は流れるようにバルベナの街へと帰り着いて。


 影の獣の襲撃によって荒れ果てたその姿に、揃って息を呑んだ。




 それから、マリーの家に戻って彼女に迎えられて―――

 緊張が解けて気が抜けてしまった彼女達は、また疲れ果てたように、各々の部屋で倒れ込む。


 皆の無事を確かめなければ、自分たちの無事を伝えなければ、とは思いつつも、

 きっと大丈夫、全部、ひとまずは明日にしよう、と諦めて。

 そのまま目を閉じて、意識の奥深くに沈んでいくようにリュックは眠り込んだ。



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