4

    3


 翌日から待望のレッスンが幕を開けた。私がティタローザから指導を受けるのは、最終日二日前と予定が決まり、それ以外は大阪音大で鞭撻を振るう、石前準也講師が担当となった。

「皆さん、はじめまして。数日間、レッスンを施すことになりました石前です。短い期間ですが、どうぞよろしくお願いします」

 マッシュ頭に神経質そうな猫目で、四人をじろり舐め回すと、では早速始めましょうかと、間髪入れず、私の二つ右隣の男子学生を指差した。

「は、はい……榎本樹です。こちらこそご指導、よろしくお願いします」

 その独特の空気に既に吞まれたのか。人当たりのよさそうな童顔の、〝いかにもな〟お坊ちゃまは、まるで釣られた魚のように委縮しながら、ピアノの下へと向かう。

「では課題曲の一つ、メンデルスゾーンの『無言歌集』。早速、弾いてみましょうか」

 有無を言わせぬ圧に促され、慌てて男子学生が鍵盤に手を添える。それでも、少し間合いを嫌ったのか、彼は一つ深呼吸をすると、瞬く間に自分の空間を構築し、音を紡ぎ出した。

 Op.一九-五「不安」。無言歌集の中でもとりわけ難易度の高い楽曲を、彼は流れるようなメロディーを意識しながら、見事に自分の音に組み込んでいた。

 タンッと、彼が最後の一音を弾き終える。実にレベルの高い演奏だった。私たちが感嘆した顔で彼を眺め、至福の空間が広がりかけた、その刹那であった。

 その空間を鋭利なナイフで切り裂くように、講師は心底悩まし気な声音で、

「しっかりと練習してきましたねぇ……大変素晴らしい音色でした。ところで榎本さん、あなたはどういった時に『不安』を感じますか?  最近襲われた猛烈な虚無を教えてください」

「え、虚無……」

 自身も手応えを感じていたのか、ほっと一息ついていた彼は、瞬く間に厳しい顔つきに様変わりする。それでも彼は躊躇うことなく、

「やっぱり何時間かけて練習しても、自分の音に出来ない時、ですね。一生この曲をモノに出来ないんじゃないかというもどかしさと、費やした時間に見合わぬ現状に、ただただ愕然とする時もあります」

「そう……それは確かに虚しいひと時です」

 彼は一つ息を吐くと、試すように相手の瞳中をじっと凝視した。

 不可解な沈黙が暫く続く。室内には先程の優美な倍音は既に微塵も残されていなかった。結果とは裏腹の空気が包まれていることに、学生は少し声を震わせ、

「あの、先生? 私、何か間違っていましたか? ご指摘いただければ私……」

「――主旋律」

「え?」

「惜しむらくは、右手の主旋律が少し強調されすぎです。押し寄せる焦りを表現しているのでしょうが、上辺だけの『不安』では、聴者の真心は揺さぶられません……以上で今日の君のレッスンは終了です、お疲れ様でした――次、隣のあなた、どうぞ」

 そう述べると彼は心底がっかりしたように、的確なアドバイスを投げやりに施し、すぐさま昨日の森下さんとの輪の中にいた一人の女学生に視線を転じた。

「はい。えっと、永田美穂です。よろしくお願いします!」

 今までの異様なひと時にも怯むことなく、ショートカットにややエラ張り気味の顔の膨れた彼女は、挑むようにピアノの下へ向かった。

 彼女も、もう一つの課題曲である、同 Op.五三-六を弾き終える。正直、終始メロディーがモルトアレグロ(非常に速く)で紡がれる展開に、途中音が外れる場面が何か所か見られた。

 それでも彼女は全身を波のようにうねらせ、一瞬一瞬を実に楽しそうに、鍵盤上を飛び跳ねていた。

 タン――タン。

 最後の一音を弾き終える。と同時に彼女は機先を制せんと講師に身体を向け、

「いかがでしたか、石前先生。私の華麗な演奏は」

 彼女の自信を滲ませた一言に、講師は不敵な笑みを顔上に湛え、

「華麗な演奏ね……いいじゃないですか! ご存じこの歌集Op.五三-六は、『飛翔』の他に、『飛躍』『勝利の歌』の題としても知られています。永田さん、あなたはこの曲を、どのタイトルとして演奏しましたか―?」

「『勝利の歌』ですね」

 迷うことなく断言すると、彼はほうと顎を小さく上げた。

 彼女は促されるまま、先程と変わらぬ迷いのない声音で、

「私、この音楽祭、実は参加する予定じゃ無かったんです。当初は声を掛けられたんですが、すぐに外されて。

 『飛躍』を夢見た私は、現状のもどかしさに狂ったようにこの曲を練習しました。そうしたら先週になって、元々の予定の先輩が胃腸炎で入院することになって。

 先生から電話で代わりを要請された直後、私は衝き動かされるように、この曲を演奏しました。既に表立った『飛躍』の面影はなくとも、仲間の病欠でこの音楽祭に参加出来た、陰湿な『勝利の歌』として!」

 負い目をすっかり感じさせず、これこそ正当な感情だと言わんばかりの彼女に、講師は黙ってピアノ椅子から退く。

「永田さん……今日は私からあなたに告げる助言は、一言もありませんね。ご苦労様でした、どうぞ戻ってください」

 冷たい一言に、彼女は露骨に皮肉の笑みを浮かべ、席を離れる。瞬間、講師は鞄から一冊の楽譜を取り出し、

「ただし、明日までにこの曲を一曲、きっちりと仕上げてきてください……正負問わず、そういう強い気持ちは大事です。暫くは、その〝強欲さ〟を失うことなく。明日のレッスン楽しみにしてますよ」

 ふっと頬を緩めて、強引に彼女の胸中へ押しやる。

「え、えぇと――」

 ポカンとする彼女に、早くも講師は次なる相手に目線を向けていた。

「じゃあ次、そこのあなた……再びOp.一九-五の方を弾いてください。どうぞ、よろしくお願いします」

 冷たい眼差しが自身に向けられると、私は挨拶を述べ、一歩二歩と前へと進む。

 目の前に広がる二台のグランドピアノは、練習室のと同様、手入れが十分に施され、見事な音色が奏でられていた。

 でもこの時の私は、その清白なピアノが、多くの欲望を吸収し、どこか異質な存在へと変転していることに、言いようのない薄気味悪さを感じずにはいられなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る