36.地獄への道は善意で敷き詰められている ― 1

 急いで階下へ向かったイリファスカは、ユタル家令やケーレン医師と話をしながら階段を上ってこようとしている義両親と、二階の踊り場辺りで合流した。


「イルッ!! あなた一人で歩いてて平気なの!? 出迎えなんていいのにっ……!!」

「すまない、起き上がらせるつもりはなかったんだが……私達が急に現れたせいだね。さぁ、ベッドに戻ろう。余力があれば会話に付き合ってもらいたいが、今は休むことに集中しておくれ」

「お義父様、お義母様……ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございません。思ったより軽症でしたし、皆の手厚い看病のお陰ですっかり元気を取り戻しましたので……」


 数時間前の夫婦喧嘩を引きずっているイリファスカが無理矢理に微笑んでみせると、義父のヴェラハーグと義母のカザディアは、共に悲しげな表情を浮かべてイリファスカを軽く抱擁した。


「君はいつもそう言って無茶をするじゃないか……ケーレンから大事はないと聞いているが、倒れるなんて限界が来た証拠だ。公務を任せた私が言うのもなんだが……これを機に仕事から離れたらどうだ? 後のことはセルヴェンに任せて、イルは好きなことをして過ごせばいい。奴も研究は充分に楽しんだだろう……いい加減、領地に腰を据えてもらわないとな……」

「そうよ!! セルヴェンったらもう〜〜っ……あの子はどこ!? 王都から帰ってきてると聞いているけれど、まさかあなたを置いてもう発ってしまったんじゃないでしょうね!? いつまで経っても当主の自覚がないんだからっ……!!」

「……ご忠告痛み入ります。旦那様は恐らく……執務室にいらっしゃると思いますわ。すぐにでも降りてこられるのではないかと……」


 相変わらず息子への文句が止まらないカザディアを前に、イリファスカは苦笑いをこぼした。

 そしてチラリとヴェラハーグにも目を向けると、彼は悲哀を映した瞳でこちらを見つめていた……。



 ―― リスイーハ王国の貴族は縁故えんこ主義者がほとんどで、『跡継ぎは当代の実子でなければ』という考えが圧倒的だった。



 ヴェラハーグとカザディアも例に漏れず、イリファスカが嫁いでしばらくはセルヴェンの血を継いだ子供を所望していたが……ヴェラハーグの方はイリファスカに指導しているうちに、息子達よりも遥かに真摯に領地運営に取り組んでくれる義理の娘に親愛の情が傾き、今ではすっかり諦めをつけていた。


 彼はイリファスカの同意を得てから、親戚から養子を迎える方向で意思を固めていたが……対してカザディアは希望を捨て切れずにいた。


 どれだけ第二夫人の噂や近況について尋ねた手紙を送っても、一向に返信をくれないセルヴェンに彼女はやきもきとした思いを募らせていた。


 ヴェラハーグからは『我々が押しかけるとイルに重圧を与えてしまうから、無闇に本邸ほんていに顔を出すのはやめなさい』と釘を刺されていたが、居ても立っても居られないカザディアは、イリファスカであれば何か便りを受け取っているのではないかと、ヴェラハーグの不在時を狙って単独で遊びに来ていた。



 女性貴族にとって、社交場というのは老いてなお主要な戦場だ。


 同年代の貴婦人は孫自慢を披露してくるというのに、未だ一人として対面したことのないカザディアは茶会でも肩身が狭かろうと、イリファスカは跡継ぎを見せられない状況に罪悪感を覚えていた。


 だから予告なしの突撃を受けても、カザディアのことを嫌いにはなれなかった。


 カザディアも決して悪い人間ではないのだ。

 訪問時は毎回高価な茶葉や織物おりものなどを手土産として持参してくるし、セルヴェンの動向を尋ねる際は彼女なりに気を使った遠回しな言い方をしてくるし、お返しといってはなんだが、逆にイリファスカの悩みを聞いて解決に導いてくれることもあった。


 人間誰しも、好ましい部分があれば不愉快な部分もあるものだ。

 カザディアはただ感情的で……自分に正直なだけだった。



 跡継ぎを産まない女に罵倒一つせず、七年も娘として可愛がってくれている男性側の親など、この国にはそうはいない。

 義両親と出会い、イリファスカは生まれて初めて“親に心配される”という体験をした。


 実家の両親はイリファスカや妹達が風邪を引くたびに、深々と溜息を吐いて部屋に隔離かくりした。

 病人への扱いとしては正しい判断だが、父も母も同じ家で暮らしているというのに、様子を見に来ることは一度としてなかった。


 イリファスカと妹達が病気を患うたびに恐れていたものは、回復後に待つ折檻せっかんだった。

 思い出すだけで嫌な汗が止まらない……の倍の罰……大人になってからの“反省”はごめんだった。



 地獄のような場所で育ってきたイリファスカにとって、侯爵家は不自由だが自由で、だからこそ離婚という選択肢がなかなか出てこなかった。


 今の衣食住の心配がない恵まれた環境を捨ててまで、次の土地を目指す必要があるのか……何より、実の両親が自分を始末しようと動くことも考えられた。


 グリスダインの実力を疑うわけではないが、敵となりうる者は、たとえ血を分けた我が子であっても追い詰めてなぶり殺す……そういう非情な人なのだ。


 イリファスカの父親。

 キラジャ・ルーゼンバナス伯爵は。






 ……イリファスカは見舞いに来てくれた義両親を前に、迷いが生まれてしまった。

 “長いこと世話になったこの夫婦を見捨てて、本当に自分だけ逃げ出していいのか”―― ?



 息子の身勝手のせいとはいえ、不当な評価を受けるイリファスカのために、ヴェラハーグは味方を増やそうと陰で尽力してくれていた。


 前侯爵からの口添えとあってか、『よそ者に自分達の土地をいいように動かされてたまるか』という昔ながらの考えを持った保守派も、いくらかはイリファスカの擁護に回ってくれた。

 依然として他領から来た者が中枢ちゅうすうに関わることに否定的な者もいたが……イリファスカの実家である伯爵家は、過去の“とある事件”で侯爵家に借りを作っているので、全員の信頼を得られないのは致し方ないことだった。




 ここに来て、最後の最後でイリファスカを縛り付けたのは、“善意”だった。

 ヴェラハーグとカザディアが悪意を持って接してくる人間であれば、イリファスカも『どうにでもなってしまえ』と、二人を嫌えたことだろう。


 だが、二人は紛うことなき善き人だった。

 セルヴェンとイリファスカの婚約だって、ルーゼンバナス家がヴェラハーグとカザディアの人の良さに漬け込んで進めたものだ。

 世の中には信じられないほど邪悪で狡猾こうかつな人間がいて、そういう者ほど害のないひつじの皮を被って善人に近付き、骨までしゃぶり尽くすことを義両親は知らない。



 そうだ、カジィーリアとグリスダインと共に、運良く別の土地に逃げおおせたとして……残された者達はどうなる?

 支えてくれたヴェラハーグやカザディア……私兵を紹介してくれたスラータルだって、父の恨みを買って暗殺されてしまうかも―― ……。




「……イル? 顔色が悪いぞ……やはり部屋で寝ていた方がいいんじゃないか……?」

「まぁ、大変っ!! もう真っ青よ、真っ青!! 誰かイルを寝室まで運んであげて!!」

「だっ……大丈夫ですっ!! ちょっと立ちくらみしただけですからっ……!!」

「じゃあ、なおさら寝てなきゃダメよ! 起こしちゃってごめんなさいね……私達、セルヴェンの顔を見たらすぐに帰りますからね。イルが気になってたっていう小説やお菓子をお土産に持ってきたから、ぜひ休息のおともにして!」


 心配そうに眉を下げたヴェラハーグとカザディアが、優しい手付きで背中を撫でてくれる。


 イリファスカはセルヴェンと夫婦喧嘩してしまったことを後悔した。

 父に念を押されていたのに。

 両家の結び付きを強くするという使命を受けていたのに。


 ルーゼンバナスに生を受けてしまった以上、役目から逃れることは許されないのだ。



「でも、せっかくお越しいただいたのに……何のもてなしもせずに……っ」

「そんなこと気にしなくていいんだよ。突然やって来た私達が悪いんだ。君のことは実の娘のように思っているし……娘の身に何かあると、親は心配するものだ。今はしっかりと体を休ませて、本格的に動けるようになったら今後について話そう。公務の心配はしなくていいよ。セルヴェンが戻ってくるまで、私達が代わろう」

「そうよ、あなたはよくやってくれているわ! 元はと言えば仕事を押し付けた私達がいけなかったのよ……イルは頼りになるから、ついつい多くをお願いしすぎてしまって……うちの子達は我が強くて耳を傾けてくれなかったから、あなたの優しさに甘えてしまったのだわ……」


 義両親の穏やかな声に、やっと引っ込み始めていた涙が再度にじみ出す。


 ヴェラハーグとカザディアが本当の父と母であればよかったのに。

 こんな優しい人達を見捨てて、一人で新天地へ逃れようだなんて……。




 セルヴェンへの嫌悪感はぬぐえないし、彼との関係は苦痛でしかないが……七年も我慢できたのだ。

 これからもきっと耐えていけるはずだ。



 どちらかが寿命を迎えるまでの、二十年……三十年……公爵家の出方によっては、案外楽な人生を送れるかもしれない。



 今まで通り、自分さえ我慢していれば……他のみんなは無事に……。






 イリファスカが皆の前で涙を一粒落としかけた寸前、ヴェラハーグとカザディアは上階の方を見上げて、表情を固くして声を張り上げた。



「セルヴェンッ!!」



 遅れてやって来た夫の登場に、イリファスカは即座に目尻に溜まった雫を指で弾いて、自身も階段の方へと振り返った。


 高い位置から三人を見下ろしていたセルヴェンは……何故だか恨めしそうな表情をしていた。

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