26.ラ・ビンカでの悲劇…その後 ― 4

「そもそも奥様の方は所長のことを愛しているのかな? もし所長からの一方的な愛だったら、いつ縁切りされてもおかしくないですよ」

「あ、愛されてるさっ!! 毎月手紙を送ってきてくれるんだぞ!? 『今月はこんな風に仕事を進めた』、『こんな風に役人と話し合った』、『そっちの体調は大丈夫か』、『王都では風邪が流行っているから気を付けろ』、『最近野良猫を保護したから帰宅したら見てみてくれ』……向こうも俺を好いていなければ、毎度毎度報告なんてしてこないだろう!?」

「たしかにー」

「これは愛がありますね〜」


 セルヴェンの背中を押すように、数名の既婚者勢から声が上がる。

 オーズは羨ましそうに遠い目で答えた。


「いいなぁ……うちの妻なんて愛人と手を切るどころか、愛人の別宅をボクの稼ぎで建ててるのに……所長の奥様は情け深いなぁー……」

「お前の方が酷い状況じゃないかっ!! よくも私に駄目出しできたものだなっ!?」


 そう……いつも飲みの席で家庭崩壊を嘆いている班員こそ、このオーズだった。


 オーズも長いこと家庭をかえりみない生き方をしていて、ある帰省の折に妻と見知らぬ男の仲を知ってしまった。


 しかし、オーズは『仕事の邪魔さえしなければ好きにすればいい』と、不貞を許容した。

 彼の愚痴を聞く度に、セルヴェンは何故そんなだらしのない女を許し続けているのだろうと不思議に思ったものだが……今は自分と共通点を抱えたオーズの発言が恐ろしくて仕方なかった。



「せ、先輩の苦労話は今は置いておいてっ ……! でも確かに……興味がなければそこまで細かく世間話を交えない……かも……?」

「そうだろう!? 俺だって届いた手紙にはちゃんと返事を送って――」

「……所長? 送ってるんですよね?」

「………………まぁ、時々は忘れているかもしれんが……二、三ヶ月分の内容をまとめて書いたりしているしな……それも送り忘れることはあったが……一応は書いてはいるしな……」

「いやっ、向こうに届いていないなら返事出してないも一緒じゃないですかぁ!! あと送るだけなのにっ、どうして忘れちゃうんですかぁ!?」

「休憩時間にでも受付嬢に配達手続きを頼もうと思っていたら、人に呼び止められたり他の優先的な作業を思い出したりして……その、後回しにしてしまって……」

「終わったね、こりゃ」


 溜息を吐くオーズに、セルヴェンはまたもや声にならぬ唸りを上げた。

 

「だ、だがっ……手紙なんて月に一度で充分だろうっ!? 頻繁にやり取りしていると仕事に手が回らんしっ……現に今もこうして長いこと悩んでいるわけだしな! 研究時間を削ってまで私情の文通を楽しむ人間ではないのだ私はっ!!」

「たしかにー」

「分かりますよ〜」

「うむぅ……これに関してはわたしも皆さんと同じ意見なので、何とも……」


 各人が持論を述べた後、チラリとオーズの方へと視線を向ける。

 数年間共に研究を進めていたので、彼の変人ぶりは承知している班員だったが……ここにきて、もしかしたら班内で最も世間一般寄りの感覚を持っているのは、このオーズなのではないかと皆感じ始めていた。


 注目が集まる中、オーズはしらけた表情で返した。


「いやいやそれを認めちゃうと、奥様から月イチで届いていたお手紙が邪魔だったってことになるでしょ? ご自身の口から言っちゃうとはねぇ……所長もやりますねぇー」

「ぜっ……前言撤回だっ!! クソッ……オーズッ、俺は本気で悩んでいるんだぞっ!? 茶化すのはやめろっ!!」

「茶化してません。ボクはただ家庭崩壊仲間が欲しいだけです。傷を舐め合うために飲みに行きましょうよ、新薬も完成したことですしね? 全額あなたのオゴリで質のいいお酒を飲ませてくださいよ」

「一人で行けっ!! の家庭は崩壊していないっ!!」


 熱くなるセルヴェンに対して、オーズは面を被ったように変わらぬ表情で淡々と続けた。


「案外寸前かもしれませんよ? ボクも屋敷に帰ってビックリしましたから……いやぁーホント、使用人がいるから何かあったら報告が入ると思ってたんだけどなぁー。『長く留守にしていたあなたが悪いんでしょう?』だって……あんまりじゃないですか? こっちだって得意な分野を仕事にしているとはいえ、神経すり減らしてお金稼いできたっていうのにさぁー。みーんなして不倫した妻に味方するし、屋敷に居場所がなくて帰りづらいし……嫌になっちゃいますよねー。自宅と王都に物理的距離があるんだから、頻繁に帰れないのは仕方なくないですか? 仕事してるのがそんなに悪いことかよって感じで、帰省する度に言い合いになっちゃって……」

「……」

「家同士の繋がりのために正式に離婚していないだけで、もう完全に形だけの夫婦ですよ。所長が本気で悩んでいるのなら、開き直りをやめて今からでも足掻いた方がいいんじゃないですか? ボクも妻も互いへの愛が元から薄かったから傷は浅いですけど、所長はバッチリ奥様への思いをこじらせていらっしゃるみたいなので、何かあるとおつらいですよ? ……あと気になる話を聞いたんですけど、


 オーズと変わらぬ仕事中心の生活……いやオーズよりも酷い生活を送っていたセルヴェンは、彼の実体験を聞いて改めて事の深刻さを理解した。


 それにしても引っ掛かるのが、最後の一言だ。


「それは……結婚しているんだから、付き合っているのは当然だろう? 何を言ってるんだお前は……」

「いや奥様とじゃなくて、ですよ」

「……ん?」

「えっ、わたしっ!?」


 突然名を挙げられたミフェルナは、驚愕の面持ちで前のめりになった。

 オーズは『やっぱそうなるよねー』と呟いてから、自身の首根っこを面倒くさそうに掻きながら言った。


「いやね、うちの家内が所長とミフェルナくんの仲について尋ねてきたんですよ。『アンタの上司が第二夫人をめとるって本当?』ってね……何のことかさっぱり分かんなくて、詳しく聞いてみたら……ビックリしないでくださいよ?」

「いいいいえっ、もう話の流れ的にというかっ、ももももう充分先の言葉が読めてビックリしているのですけどっ!?」

「んー、まぁそうだろうねー。所長も―― ……あーあ、固まってら。まっ、いいや、続けるね? だからさー、ミフェルナくんが所長と恋仲にあって、そういう噂が色んな所で流れてるんだって。所長が第二夫人として、キミを娶ろうとしているって話……今や貴族や平民の間で持ち切りらしいよ?」

「ええええええええーーーーーーーーーーーー!!!!????」


 ミフェルナは研究室中に響く大きな叫び声を上げた。

 『うそだろ……』、『ミフェルナ……所長とそんな仲だったのか……!?』と、周りに座る班員達が驚きの目で彼女を見るので、ミフェルナは慌てて否定した。


「ないないないないっ、ないですっ!!!! ないですって!!!! えっ―― !!?? だってわたしっ、所長とすっごく年が離れてますよっ!!?? そうでなくたって所長のことはお父様みたく慕っているだけで……けっ、決してやましい関係ではありませんっ!!!!」

「ボクも『また頭の軽い話してるなコイツ』ぐらいに思ってたんだけど……実はずっと前からそういう噂があったみたいなんだ。ボクらが仕事漬けの日々を送っていたから知らないだけで、外ではかなり有名な話らしい。と、うちの妻は言っていたよ。社交場を牛耳ぎゅうじる御婦人方がいつもその話で盛り上がってるって……アイツ二人の職場での様子をボクから仕入れて、お茶会で披露しようとしてたんだ。最低だよねー、こんなしょーもない話題によく食い付けるものだよ。頭の軽い人間ってどうして赤の他人にそこまで興味があるんだか、ボクにはとんと理解できな――」



 ……ペラペラとオーズが喋り倒す中、セルヴェンは時が止められたように、一人固まって動けなかった。


 第二夫人?

 ミフェルナが?

 自分達はそういう目で見られていたのか?

 しかもそんな下卑た噂をイリファスカ本人が耳にしていて、耳にしていた彼女を自分は王都へ呼び出し……噂の部下を連れて歩いた―― ?



 セルヴェンは口元に手を当て、初めて我が身に降りかかった“後悔”という念に吐き気を覚えた。


 実の両親のことさえ、内心で“凡庸ぼんよう”と見下していたセルヴェンだ。

 己の選択こそ正しい……己より劣る人間の言うことに益はない……後悔なんぞ凡人がするもの……そう考えていたのに、今になって無遠慮に他者を傷付けることの罪深さを知ったセルヴェンは、止まらない貧乏揺すりに我慢が利かず、椅子をガタッ! と倒して立ち上がった。


「すっ、すぐに手紙を出すっ……ミフェルナとの仲を否定するっ!! 次に休暇を取るのは誰だっ!? 俺に回してくれっ!! 領地に帰るっ!!」

「手紙なんてぬるいこと言ってないで、今日にでも戻ればいいじゃないですか。時間を食うと余計に話がこじれるかもしれませんよ?」

「今日すぐは無理だっ……!! 今日は午後から謁見えっけんのために王城に向かわねばならないしっ、明日以降は国境警備隊の使者と中央執政官らを交えて、今度の各地の試験場巡りについての打ち合わせを行わねばならないっ……!! 早くても来週っ……いや再来週にならないと王都を離れられないんだっ……!!」

「……ふーん、それでいいんですね? まぁ、ボクで代理が務まるものは代わって差し上げますよ。その調子じゃ会合にも身が入らないでしょうしね。早まってご自身の功績を失うような言動だけは取らないでください。ボクら同班の研究員も巻き添えで評価を下げられてしまうので」

「せっ、先輩っ! 本当に言い過ぎですよっ!」


 反射的に庇い立てするミフェルナに、オーズは呆れたような視線を向けて言った。


「なんで? 貴重な情報を掴んできたんだから、よくやった方でしょ? だいたい上司の家庭の事情にみんなして口出しするのがおかしいんだよ。こういうのは本人の失敗談を後から聞くぐらいがちょうどいいのにさ、全員で騒ぎすぎ。全部この人自身の行動が返ってきてるだけでしょ? ボクだってそうだよ。不貞を働いた妻に色々言いたいことはあるけれど……っていうか実際言ったけど、自分にも非があるから今は好きにやらせてるわけ。ミフェルナくんだって渦中の人なんだから、しばらくは所長と距離を取った方がいいんじゃない? 今だって席近いよ? ……ハァ。なんでボクがここまで他人に気を回さなきゃなんないんだよ。お家内のゴタゴタを外に持ち出さないでほしいなー」


 天をあおいで放たれた言葉は、室内にいる全員の心をえぐった。

 このズケズケとした物の言い方で日々敵を作るオーズであったが、今だけはそれぞれの置かれた立場を分からせることに役立った。



 今回ばかりはセルヴェンも早々に行動に移った。

 同日午前のうちにイリファスカに対する詫びの手紙と……もう一つ、ユタル家令に向けた非難の手紙を屋敷宛てに出した。


 ユタル家令もイリファスカほどではないが、定期的にセルヴェンに近況報告の便りを送っていた。

 『奥様は変わらずお元気です。領地も問題ございません』と……イリファスカが風邪など引けば、“お元気です”の部分が“体調を崩されましたが、今は完治しました”という、事後報告に変わるだけの簡素な知らせだったが……セルヴェンはそれを鵜呑うのみにしていた。


 ユタルには問題が起これば報告するようにと、よく伝えていた。

 平民やイリファスカ本人が知っている噂を、彼が知らぬわけがない。


 そちらの報告と違うではないかと、セルヴェンは自らの所業を棚に上げて、ユタル家令を責め立てる手紙を怒りに任せて送りつけた。



 速達であれば二、三日で届く手紙は、無事屋敷にいるユタル家令の手に渡った。


 ユタル家令はイリファスカ宛ての手紙を仕分ける前に、先に自分宛ての手紙を読んだ。

 そして叱責だらけの内容に戦々恐々として、あろうことかイリファスカ宛ての手紙を続けて開封し、中身を確認した。


 そこには打って変わっての……彼女を気遣う言葉が並べられていた。

 彼らしくない腰の低い謝罪と、噂についての言及……“君が食事の席を立った後、部下から低俗な噂について知らされた。今回初めて知ったことだ、誤解させて悪かった。今度会った時にきちんと話し合いたい。愛しているのは君だけだし、自分も周囲に向けて積極的に噂を否定していくので、どうか気に病まないでほしい”と……ユタル家令は頭が真っ白になった。



 ―― 奥様を苦しめていたのは他でもないあなただというのに、あなたが気に掛けてやらないから自分もどう対処してよいか考えあぐねていたというのに、今になって悪いのはこのユタル一人だと罪をなすり付けるおつもりか? ――



 ……ユタル家令に向けた手紙には、“役割をこなさぬのであれば、職を辞する覚悟をしておけ”と脅しのような言葉も見られた。

 この年で待遇の良い職を失うことを恐れたユタル家令は……なんと、セルヴェンからの手紙をなかったことにしようと、



 手紙は配達の段階で紛失したことにすればいい……保身に走ったユタル家令の暴挙により、イリファスカの中でセルヴェンは“不自然に走り去った妻に何の便りも出さないほど冷めた夫”として、くつがえすことのできない心像が固まっていた。



 だが、これも全てセルヴェン自身の行いのせいなのだ。

 セルヴェンが七年前のあの頃に、早々に当時の非礼をイリファスカに詫びていれば……セルヴェンが日常的にイリファスカに対する愛を内外へ示していれば……セルヴェンがもっと外の世界に目を向けていれば……セルヴェンがユタル家令に余計な手紙を出していなければ―― ……。



 いつだって悪いのはセルヴェンだった。

 これが七年の罪……いや、物心ついた頃から自然と身に付いていた、彼の選民意識がもたらした結果だった。

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