(ニ)

(これ、は――)


 ゆう、という娘を一瞥した時、伊織はたつぞうをその場で罵りたくなった。

 実際に口に出すことがなかったのは、家人たちに囲まれながらも悠然と立つ目の前の娘、ゆうに憚ったからである。


 美しかったのだ。


 旅空に日焼けたものか、褐色に焼けた頬は、しかし、それでもなお地肌の白さをうかがわせた。

 こぶりで瓜実顔をしていて、その目鼻立ちの整い方は、公家のお姫様と言っても通じるだろう。

 髪も結わずに背中に流して先だけを整えて縛っていたが、そのような野趣がよりこの娘の美貌を際立たせているかのようにも見える。

 それは濃紺の旅装束という色気の欠片もない着物についても同じことだろう。何処か不似合いな取り合わせが妙味を作っているように思われた。そして、小柄で細身の体躯で抱えるように持つ野太刀もそうだ。

 柄の長いそれを納刀したまま右手に持ち、屋敷から出てきた武蔵と――伊織に向かって、軽く頭を下げる。


「お初にお目にかかります――新免武蔵守様でございますね」


 確認するように言う。


「うむ」


 武蔵の返答は鷹揚だ。


「武蔵である」


 声は相変わらずのようでいて、何処か違っている風に伊織には聞こえた。

 後ろからでは、どんな顔をしているのかまでは解らない。

 伊織が見ているのは武蔵の背中である。柿色の小袖に包まれた広い背中だ。実の親子ならば父の背中に何か思うところくらいは見抜けるかもしれないが、養子の伊織では無理だった。


「お主が、岩流の縁者か」


 と、武蔵は聞いた。


「はい。――ゆうと申します」

「ゆう……なんと書く?」


 どうしてそんなことを聞くのだろうと伊織は思ったが、聞かれたゆうの方は、どうしてかか微笑んでいるかのようであった。


「夕暮れの夕です」

「そうか」


 武蔵は頷き、前に出た。

 右手にあるのは五尺の棒だ。

 いつも土間の片隅においてある。武蔵は普段、屋敷から出歩くときはこの棒を手に持っていることが多い。

 腰に二刀を差して五尺の棒を持った身の丈六尺の大男というのは、想像するだに威圧感のある様相であるが、実際にふらりと出歩く武蔵の側には誰も近寄らない。普段同じ屋敷で暮らしている伊織にしても、あんまりな接近は勘弁して欲しいところである。

 今は腰に刀はないが、それだけに手にした棒からはいつもに倍する圧力を感じた。

 ゆうはそれにも負けずにゆるりとした足取りで前に進んだ。美しい人は、歩む姿でさえも美しいのだと伊織は思った。

 右手に野太刀を持ったままに、彼女は告げた。さすがに微笑みはなくなっていた。



「新免武蔵守藤原玄信――下関の船島で撃ち殺された多田岩流の仇、討ちに参った!」



 堂々たる口上である。

 だが、それに対してたつぞうや堀部も、それ以外の集まっていた家人たちも、それぞれ手に袖がらみやら刺又を持ちながらも動けないでいた。

 ゆうが美しい娘であるということを差し引いて、手にある野太刀、形容のし難い雰囲気がそうさせているのだった。

 伊織も気圧されていた。

 たつぞうでさえもが目を細めている。


「うむ」


 そして、武蔵は口上を聞いても何も揺るぐことなく片手に棒を下げたまま、歩み足ですたすたとゆうへと近寄っていく。


「よい。かかって参れ」

「父上――!」


 伊織は叫んでしまったが、どういう理由があってそうしたのかということは当人にも解らなかった。

 危険ですと言おうとしたのか、あるいはそれとも、殺さないでくれと言おうとしたのか。

 武蔵の技量を知る者ならば後者であると判断しただろう。まして相手は女で、そしてその上に得物は野太刀――四尺もの大太刀だ。振り回すだけでも生半ならぬ力が必要になる。さらにいうのなら、抜かれないままでゆうの右手に握られていた。。

 言うまでも無く、刀とは左手に持って右手で抜くものである。今ここから持ち替えて抜いたとしても目前から迫る武蔵に対するには間に合わない。一流の兵法者が獲物を持ち替えようとする隙を見逃してはくれることなどあるはずがない。

 だとすると――


(左利きか)


 と伊織は思った。しかしすぐさま否定する。四尺の野太刀で抜いて応じるのは、それこそ抜刀術の妙でも体得していなければ無理だし、あの細腕で片手での抜きつけができるとも思えない。

 もはや、二人以外の人間は雰囲気に飲まれていた。声させだせずに見つめる他は何もできない。

 そして数瞬とおかず、二人は撃尺の間合いに入る。

 武蔵の手にある棒と腕の長さから言えば、ゆうよりも先に打てる。

 それが道理であり、武蔵もそうした。

 歩きながら軽く振り上げた棒を、するりと落とした。

 恐らくは肩を狙ったものと思えた。

 棒の一撃であるとはいえ、武蔵が振るえば相手の鎖骨を砕く程度は簡単だ。

 たん、とそれを迎えたゆうは、左手を柄に添えたかと見えると、そのまま右手を返して櫂をこぐかのように鞘に収めたままの刀を跳ね上げて棒を打ち返した。


「おおっ」


 と声をあげたのは誰であったか。

 ゆうはそこから右手を持ち替え、しかし抜きもせずに「やあっ」と裂帛の気合をこめて槍の如く突きこんだ。

 鋭く、重く、淀みない。幾百、幾千と弛まず繰り返させた鍛錬の成果を思わせる動きだった。天与の資質を感じさせる動きだった。

 武蔵はその突きをかわした。

 どうかわしたのかは誰にも解らなかった。

 突きを繰り出したゆうでさえも、伸びきった刀の先にあるはずの衝撃がないことに困惑していた。

 そして。


「へったい」


 奇妙な気合がして、棒がゆうの頭上に落ちる。


「~~~~~~」


 ゆうは声もなくその場に頭を抑えてしゃがみこむ。

 随分と痛かったらしい。

 そしてその時になって、ようやく周囲にいる者たちが呪縛が解けたかのように動き出した。一斉に長物を向けてゆうを取り囲み、押し寄せようとする。

 しかし、それを止めたのも武蔵であった。


「まあ、待て」

 

 皆の視線の集まる中、棒を右肩に載せ。


「伊織、腹が減った」 

「――はい?」


 声もなく見守っていた伊織であったが、突然に言われて頭が混乱してしまい、それこそ間の抜けた声をあげてしまった。

 武蔵はゆうの横をすたすたと通り過ぎると、そのまま屋敷に入っていく。


「だから、飯だ。今日はずっと舞っていて、さすがにすきっ腹だ」

「あ、はい――たつぞう、用意を」


 状況が飲み込めぬままにたつぞうに指示した伊織も、そう言われたたつぞうも、この状況の変化についていけなかった。

 武蔵に仕えて二十年になるたつぞうにしてからがそうなのだから、他の者たちにしても同然である。ゆうを取り囲んだままに一様に途方にくれたような顔をしてしまった。

 武蔵はそのまま数歩と進んだが、ふと足を止めてから振り返り。


「せっかくだから、食べてゆけ」


 と告げた。

 それが誰に向けられた言葉なのか、伊織には理解できなかったが。


「あ、はい」

 

と頭を抑えたままに、立ち上がったばかりのゆうが応えた。

 ここで伊織は、俊才という評に合わぬ行為をした。彼を重用する君主も、一目置く同僚たちでさえも、この時の振る舞いを見たのならばあきれ果てていたかもしれない。あるいは、無理もないと同意したか。


「え―――――」


 とあんぐりと口を開け、立ち尽くしてしまったのであった。

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