サカナになれなかった君たちへ。

タッキー

サカナになれなかった君たちへ。

「いいか? 筧井。先生は本気で心配してるんだ。お前のこと。」

 目の前に座る担任の武嶋栄輔先生はメガネを押し上げて念を押した。

「先生たちを馬鹿にしてる訳じゃないんだな? もし将来の行く道に迷ってるなら俺がいくらでも話を聞いてやる。疲れてるなら学校を休め。それでもダメなら精神科に行け。俺の高校の同級生を紹介してやっても良い。」

 ここまでをまくしたてて先生は僕の目をじっと見つめた。

「もう一回だけ聞くぞ。・・・・・・・・・筧井、将来の夢はなんだ?」


「サカナになること。サカナになることです。」


 武嶋先生はため息をついて、うな垂れてしまった。


 ***


 始まりは二週間前だった。

 シャワーを浴びようとしていた。僕はアツガリだから、普段でさえ湯船にはほとんど浸からない。その日は特に、「観測史上最高気温」とかいう見るからに暑そうな字面がテレビのニュースを支配していた程で、半年間入っていない無駄に広い湯船を横目にガラス張りのシャワー室に入って、今日は冷たいシャワーを浴びて出てしまおうなどと画策していた時のことだった。


 シャワーのノズルが捻られ、水の流れが頭上から僕に襲いかかったまではよかったがその瞬間、視界が暗くなった。

 苦しい。息が苦しい。呼吸ができない。息が苦しい。

 タイル張りの床に自分がのたうち回っている。身体が本能的にそうしているのを触覚で感じるしかできない。

 視界が徐々に色づいていく。ものの見え方を思い出していくように、ものの見方を思い出していくように、そういうように少しずつ視界を取り戻した僕がやっとの思いでガラス越しに見つめることに成功した洗面所の鏡には、誰の姿も映っていなかった。

 いや違う。視点が低すぎてそもそも僕は鏡に映っていない。

 息が苦しい。僕は決死の覚悟で身をよじり、異常の根源をつきとめようと、自分の身体を見ようとした。


 その僕の目に飛び込んできたのは、青白い胴体。曲線を描くフォルム。そして、今にも折れてしまいそうな繊細な胸ビレと、はち切れんばかりの瑞々しい肉体を内に秘めんとする愛らしい鱗たちだった。

 僕は、筆舌に尽くし難い程に美しい、一匹のサカナに姿を変えていた。


 そして次の瞬間、僕は冷たいシャワーの降る中にただ立っていた。

 息ができる。周囲が見える。洗面所の鏡には茫然とした自分の姿が映っているし、その鏡の世界の住人は二本足で立っているただの人間に見えた。

 さっきまでヒレであった左腕を見つめながら、僕は二つの奇妙な感情に襲われた。

 恐怖。自分の身体が思い通りに動かないという恐怖。それがその感情の一つであったと定義するのであれば、そうであるならば。

 もう一つの感情はまさしく、興奮だとか、昂揚だとか、あるいはいっそ、「恍惚」とでも呼ぶべきそれだった。

 僕はすぐさま駆け出していた。誰もいないリビングの書類棚を漁っていた。進路希望調査用紙。そう書かれた一枚の紙を濡れた手で掴み、「検察官」という自分の文字の上にペンで大きくバツ印を書いて、たった一言こう書き足した。


 サカナになりたい。


「・・・・・・へくち。」

 自分のくしゃみで初めて、僕は自分が全裸で居間に立っているのを思い出した。


 ***


「で、こうなっちゃったのか。」

 武嶋先生との進路相談の帰り。隣を歩いているクラスメイトの達海莉奈は、どうやら僕と一緒に帰るために三十分間も待ってくれていたようだった。

「なっちゃった、とはなんだ。なっちゃったた、とは。」

 莉奈は呆れたようなジェスチャーをした。

「だって君、この二週間ずーっと、サカナになる、サカナになるって。」

 莉奈は首を横に振りながら、その行動力は評価するけどさ、と付け加えた。確かにここ二週間の僕は十六年の人生で最も行動的だった。先生との進路相談に応じたのも。魚類の呼吸器官を調べに図書館まで歩いて行ったのも。

「第一、どうやってサカナになんてなるのさ。」

「一度なれたんだ。これは天の啓示だよ。僕にはサカナになることができる特別な素質があるに違いないんだ。僕はサカナになるべく生まれたんだよ。」

 莉奈は若干引いている。苦虫を噛み潰したような分かりやすい顔だ。

「お父さんは何て言ってるの? お父さんも検察官なんでしよ。自分のキャリアを息子が継ぐと思ってたなら、残念がってるんじゃない?」


「あ。」

 小雨が降り始めたのはその時だった。僕は急いで駆け出した。

「ちょっと! 筧井。どうしたの?」

「濡れたらサカナになっちまう!」

冗談だろとでも言いたげに、しかしそれでも莉奈は僕の後を追って駆け出した。


 ***


「小雨だから大丈夫だったけど、あれ以来、水に濡れると腕に鱗が出たりすることがある。大量の冷たい水を浴びたら、また全身がああなるかも。」

 公園までたどり着いた僕は、滑り台のついたドーム状の例の謎の遊具の中で、隣でしゃがみ込む莉奈に事情を説明した。呼吸の仕方が分からない今、サカナになるのは危険だ。

 彼女は聞いているのかいないのか、濡れてしまった髪を整えている。

 徐々に雨脚は激しくなる。莉奈が口を開いた。

「サカナがどうこう以前にこれじゃ帰れないね。」

 激しい雨の音だけが、二人きりの空間に流れていた。静かで、つまり自由で、それ故に美しい時間だった。


「さっきの話だけど。」

 僕は腕に鱗が出ていないか確認する作業をしながら、静かに口を開いた。

「さっきの話だけど、父さんは僕の将来なんて気にしてないさ。父さんは検事って仕事に熱心すぎるだけだから。」

 それを聞いて、莉奈はおもむろに立ち上がった。

「ねえ。筧井。君は本当に、サカナになりたいの?」

「何を今更。そうだよ。僕は誰よりも自由なサカナになるんだ。」

 莉奈は頷いて、こう返した。

「なら、なってみる?」


 その瞬間、莉奈はその左腕で、激しい雨の中へと僕の身体を突き飛ばした。

「え?」


 苦しい。痛い。苦しい。僕の身体は縮んでいた。サカナだ。サカナになっている。

 雨が全身を打つ。呼吸ができなくて苦しい。痛い。

 莉奈を睨む。無言で見下ろしている。苦しい。見てないで助けろという叫びが声となることはない。莉奈はポケットから何かを取り出す。スマホだ。スマートフォンだ。痛い。苦しい。何やら操作していると思ったら、カメラの背面をこちらに向けながら歩み寄ってくる。何を録ってる。痛い。痛い。痛い。いた・・・・・・


 突然、周囲の雨が止んだ。

 違う。覗き込む莉奈の傘が僕の頭上を覆ったのだと分かった。僕は人の姿に戻っていた。莉奈のロングヘアが僕の顔にかかる。

「・・・・・・傘、持ってたのか?」

「うん。折りたたみ。」


「君はやっぱりサカナになりたいんじゃない。それしか見えてないだけだよ。」

 僕は地面に臥したまま、ただ黙って彼女の言葉を聞いている。

「君は、大人になりたくないだけなんじゃないの? お父さんみたいな大人に、なりたくないだけなんじゃないの?」

「違う。僕は、僕はサカナに・・・・・・・・・。」

 莉奈は髪を耳にかけ直した。

「じゃあ聞くけど、今のが君の言ってたサカナ?」

 何を言っているんだ。当然だろう。見ていなかったのか?

「君はさっきの瞬間・・・・・・」


 莉奈はスマホの画面を見せ、録画を再生した。そこに映っていたものは。

「さっきの瞬間、ただ地面にうずくまってただけだよ。」

 いつもと変わらない、人間の僕の姿だった。


 ***


 なぜ、あんな少年の日のことを思い出したのだろう。当時十六の僕が、サカナになることを夢見た二週間のこと。

 僕は結局のところ、サカナになることはできなかった。

 どうやら僕は、幻覚の類を見ていたらしかった。サカナになるなどということを妄信していたのは若気の至りというやつだったと思うし、興奮して周囲に吹聴したことはあまり思い出したくない。

 今日になってあの二週間を思い出したこと。きっとそれは、あの日の僕が拒絶した検事への道の上に僕がいるからであって、その大きな関門の一つである司法試験の会場前に僕が立っているからであって、僕を現実に向き合わせてくれた友人からの応援のメッセージがスマホに届いたからであるに違いない。

 サカナ・・・・・・か。あの美しいサカナはなんだったのか。虚しさが僕を襲う時、今でもたまにあのサカナが夢に出てきて僕に微笑む。こっちにおいでと、静かに、自由に、美しく微笑むのだ。あれはきっと・・・・・・。

 僕は首を横にふって雑念を振り払った。今は目の前の試験に集中せねば。僕はスマホの電源を切り、セミの賑やかな声が響く会場へと一歩を踏み出した。

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サカナになれなかった君たちへ。 タッキー @MC_Tacky

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