022.念願の飲み物

 コーヒーとは奥の深い飲み物だ――――。

 子供の頃はただの苦いだけの人が飲むようなものではないと思ったが、年を経ればその印象もだんだんと変わってくる。


 神山の3男として生を受けた当時の話。

 最初は勉強時、眠気覚ましの目的で飲み始めた。

 テスト前の最後の追い込み。少しでも点数を引き上げるための道具として。

 日頃から勉強していても眠気というものは大敵だ。毎日朝から晩まで勉強していれば少なからず眠気は発生してくる。


 だから眠気覚ましにと飲み始めたのが慶一郎とコーヒーの最初の出会いだった。

 眠気緩和のために飲み始めたコーヒー。カフェインが豊富ということもさることながら、顔をしかめるほどの苦味が目覚めに丁度いい。


 そんなこんなで勉強のお供としてコーヒーを愛飲していた俺だったが、だんだんと飲む量が増加していくうちに日頃から愛飲するようになり、次第に味の違いがわかるようになってきた。

 これは苦い、これは酸味が強い、これは美味しい、これはマズイなど。豆から抽出されるものの良し悪しが判断できるようになったのだ。

 そしてわかるようになったからこそ、奥が深いことも理解する。


 自由の少ない神山の家での数少ない嗜好品でありリラックスタイム。それが慶一郎にとってのコーヒーとの付き合いだった。





 そんな人生との相棒ともいえるコーヒーだが、死んでこの世界で目覚めてからは一度として姿を見ることはなかった。

 まるで長年連れ添った相棒と引き裂かれた感覚を覚えたときもあったが、この"スタン"の身体は幸いにもカフェイン中毒になっていない。寂しくとも今の暮らしに必要なかったからこの世界には存在していないんだなと漠然と考えていた。


 カミング家で出てくるものといえば水は当然として、果物を絞ったフルーツジュース、または紅茶を確認している。

 それらも随分美味しかったし、紅茶も好きな部類だからこれまた美味しかった。

 だが、ふとした時に思い出すのだ。あの特徴的な苦味を口にしたいと――――。


 もちろんキッチンを漁ったこともある。けれど探してもコーヒー豆なんてものは見つからない。もしかしたらこの世界にコーヒーという物は存在しないのかと父に聞いた事もある。


 結果から言えば、この世界にもコーヒーは存在した。

 さらに言えば世間一般に広く普及しているということも。

 それを聞いた当時は歓喜した。またあの味が楽しめる。今後勉強が本格化する上で必須アイテムを手に入れられると。



 しかし、また疑問が思い浮かぶ。普及しているなら何故この家に無いのか―――。


 もちろん父に聞いたところ、どうも普及しているのも生産しているのも隣国の話でこの国ではなかなかの高級品らしい。

 具体的には関税も含めて紅茶の5倍くらい。確かにそれだけのコストがかかるなら早々に諦めて紅茶へシフトするものだ。


 父に聞いた日はそれだけで話が終わった。あぁ残念だと小さくつぶやきながら部屋に戻った記憶だってある。

 そんな話をしたのがマティがやってくる3日前のこと。あれから事件を筆頭に色々あってすっかり頭の中から抜け落ちていた

 だが、否応がなしにその時の会話を思い出す時が早くもやってきた。





「こ……これは……!?」


 眼の前の光景にただただ愕然とする。

 普段食事をする大きなテーブルを前にして、目の当たりにしたものに目を丸くする。


 あの城下町での一件から1週間ほどが経過した昼下がりの昼食後。

 少し長めの休養をとった母からの抱擁が日課に加わった一週間。今日も朝の抱擁を受けてから情報収集という名の本漁りが一段落し、昼食を終えたいつもの一日。


 さて午後も読書に突入しようかと考えていたけれど、今日は普段とは様子が違っていた。

 昼食終わり唐突に、父から「待ってろ」と言われておよそ10分。戻ってきた彼は何を言うわけでもなく俺の前に一つのカップを置いてきた。

 覗き込むとまるで深淵を覗き込んでいるかと錯覚させるような漆黒の飲み物が器に収まっている。

 それは――――それは心当たりのあるものだった。カップに淹れられた黒々しい謎の液体。そこから漂ってくる香ばしい香りは間違えるはずもない。眼の前に置かれたのはこの世界に来て初めてのコーヒーだった。


「お父さん!?」


 バッと勢いよく顔を上げて窓から外を見下ろしている父を見る。

 何故こんなものが今この家にあるのか。その疑問の意思を込めて父を呼びかけると、彼は恥ずかしそうに視線を逸しながら答えた。


「前、残念そうにしていただろう?だから少しくらいならと手配しておいたんだ。マティちゃんを助けたから、というわけではないが……まぁ、頑張ったご褒美でもと思ってな」


 ……そっか。

 彼の優しい心遣いにフッと肩の力が抜けていく。

 鼻腔をくすぐる芳醇な香り。懐かしさをも感じる香りを堪能していると、ふと後方からパタパタと従者の足音が聞こえてくる。


「ご主人さま、こちらも片付け終わりました。旦那様に呼ばれていたようですが何を――――って、それは……!?」


 やってきたのは予想通り従者のシエル。彼女もテーブルに置かれたカップに目が入ったのか部屋に戻るやいなや思わず声を上げる。


「コーヒーですかご主人さま!?この国じゃ滅多に飲めないっていうあの……!?」

「うん、お父さんが特別に用意してくれたみたい」

「凄いです……!でもすっごく苦いですよ!? 私も昔飲んだ時は一口も無理だったのに……大丈夫なんですか?」


 どうやら彼女もコーヒーについての知識はあるみたいだ。

 シエルが飲んだことあることに驚いたが、そういえばと彼女の出自を思い出す。

 元貴族だったのだからきっと飲む機会もあったのだろう。


「もちろん。むしろ勉強してた時はコレがお供だったから」

「勉強……?入学する前にですか?」

「……あぁいや、なんでもない」


 危うくコーヒーの感動で口を滑らしそうになったのを「なんでもない」と否定する。

 この部屋には父もいる。そんな不明瞭なこと言って「スタンは飲んだことない」なんて否定されちゃ大変だ。

 背中に一筋の嫌な汗を流しながら父を見ると、メイドさんたちに指示を出していて聞こえていなさそうだとホッと息を吐く。


「お父さん、用意してくれてありがとう」

「あぁ、喜んでもらえたのならなによりだ。しかし大丈夫かい?スタンにはまだ早いと思うが……」

「大丈夫!何事もチャレンジだから!!」

「……そうだな。ミルクもあるしゆっくり飲むといいよ。私は仕事に戻るから何かあったら呼んでくれ」


 彼は少し心配そうな顔を見せたものの、俺の自信満々な様子にふと息を吐いて新聞片手に自室へ戻っていく。

 続くようにメイドたちも空のお皿たちを手に部屋の外へ向かい、部屋は俺とシエルの二人きり。

 つまりは誰の邪魔もなくこの世界初めてのコーヒーを堪能できそうだ。垂涎もののコーヒーを眼の前にカップを手に取ろうとすると、隣に立っているシエルがジッとこちらを見ていることに気づく。


「……シエルも飲む?」

「いっ……いえっ!私は以前飲んで懲りておりますので。今回はご主人さまが堪能してください」


 慌てるようにブンブンと両手を振るシエル。

 その反応も仕方ない。

 俺と同い年で二桁にもいかない彼女だ。神山の記憶がある俺が奇特なだけでその反応が普通だろう。

 ならばと一人でカップを持ち上げコーヒーと向かい合う。


「……それでは、いただきます」

「はいっ、ミルクの準備は万全です!」

「きっと必要ないと思うけどね。…………ではっ――――」


 いざ!この世界初の念願のコーヒーへっ!


 眼の前のカップを勢いそのままにぐいっと一気に傾ける。

 少し香りを堪能しすぎたお陰か熱々だったコーヒーは無事飲みやすい温度になっているのを安堵しながら口内をコーヒーで満たしていく。

 まだ1ヶ月と経っていないが懐かしい味わい。鼻を突き抜ける懐かしの風味。そして懐かしの―――


「――――ニッガァ!!!」

「ご、ご主人さま!!!」


 一気に口の中に広がるコーヒーの香りと味わい。その全てを堪能しようと味わおうとした瞬間、突然殴りかかってきたあまりの苦さに思わず叫んでしまった。

 幸い吐き出すには至らなかったもののその一歩手前。即座に飲み込んで咳き込んでいると彼女が背中をさすってくれる。


「大丈夫ですか!?だから言ったじゃないですかぁ……苦いって」

「ありがとうシエル……。なんだか思った以上に苦くて……」


 椅子から崩れ落ちた俺は彼女の支えも借りつつ口から垂れている一筋のコーヒーを拭ってカップをもう一度見る。


 おかしい……いくらコーヒーで苦いといえども限度があるはずだ。

 日本で飲んだコーヒーは苦味の他に風味や香ばしさなど様々な物を感じられたが、今飲んだこれは風味が一瞬で塗りつぶされた、ただ苦いだけの暴力装置だ。

 淹れ方がおかしかった?いや、メイドの中には詳しい人もいたし間違いないはず。

 なら豆がそういうものだった?それも考えにくい。いくら苦味特化でも俺が吐き出す程なんてものは、もはやコーヒーに似たナニカだ。


「やっぱりコーヒーは大人になってからの飲み物です。諦めてこっち飲みましょう?」

「……大人になってから?」


 慌てながら用意してくれた一杯のミルクに、俺は視線を落としながら小さく復唱する。

 そういえば初めて飲んだコーヒーの味もこんな印象だった。美味しさの欠片も無く苦いだけ。あの時は良薬口に苦しの勢いで飲みきったが、あの時との違いを今一度考える。

 どこかで聞いたことがある。大人になるにつれてコーヒーやビール、ピーマンが平気になるのは舌が変わったからと。

 一説によると大人は子供に比べて味覚に鈍感だと聞くが詳しいことはわからない。この身体はまだ幼い。苦みに慣れることのない年齢。言うなれば文字通りの子供舌だ。それを考慮すると受ける味の差があって当然だろう。

 そんなことすら失念するだなんて、随分とコーヒーに気を取られていたものだ。


 手渡されたミルクを口に含むと先程まで席巻していた口の中の苦味がどんどん中和されていった。

 続いて残ったミルクをカップに投入し、みるみる内に黒い液体が茶色に変わっていく。


「飲めそうですか?ご主人さま」

「うん、カフェオレにしたら平気そう。シエルも飲んでみる?」

「……えっ!?ご主人さまのをですか!?」

「そりゃあ淹れてくれたの、この一杯しかないからね」


 作り上げたカフェオレを驚く彼女に手渡すと、それをジッと見つめたまま動こうとしない。

 何を気にすることを。間接キスなんて気にする年頃でもないだろうに。


「そっ……それじゃあご主人さま!いただきますね!」

「うん。どうぞ」


 しばらく俺とコーヒーとの間で視線を行き来していた彼女だったが、意を決したようにコーヒーを両手で持ち上げる。

 おそらく人生2度目になるであろうコーヒーとの対面。ゴクリと息を呑む音が聞こえ、キッと眉を吊り上げる。


「では……いただきま――――」

「スタンちゃ~ん!シエルちゃ~ん!!」

「っ――――!!」


 苦みのトラウマがあるのだろう2度目のコーヒー。彼女は意を決したようにカップを口につけようとしたシエルだったが、カップに口をつけようとしたその瞬間、突然部屋の扉が開いてシエルは思わず静止する。

 何事かと二人して扉を見れば、そこには母が部屋に駆け込んできた。


「あらよかった。まだお食事中だったのね」

「どうしたの?お母さん」

「えぇ、スタンちゃんにお客様よぉ」

「お客さん……? マティとか?」


 何事かと思えばお客さんのようだ。

 しかし俺の頭には未だに疑問符。そんな用事も聞いてないし、マティなら問答無用で入ってきそうなものだだから。

 

「……実際に会ってもらったほうが早いわね。二人とも、入っていいわよ」

「邪魔するわよ。一週間ぶりね、スタン」

「マティか。いらっしゃい」


 ――――やってきた声は、聞き馴染みのある女の子の声だった。

 赤みがかった茶色の髪をたなびかせた少女、マティナール。彼女は先日とは別種のドレスを身にまとい腕組をしてこちらに近づいてくる。


「マティ、今日はどうしたの?」

「ちょっと遊びに来ただけよ。連絡しなかったのは悪かったわね」


 互いに握手を交わしながらチラリと足元を見ると、前回巻いていた包帯が取れて平気そうな様子にホッとする。


「別に連絡は気にしないけど……。そういえば来客は二人って言ってなかった?」



 ふと、先程母が言っていた言葉を思い出す。

 既にどこかへ消えてしまった母は「二人とも」と言っていた。しかしマティ1人しか見えないことに疑問を呈すと、彼女はつまらなさそうに鼻を鳴らす。


「…………。えぇ、そうね。あなたも入ったらどう?」


 そう、数秒前とは一段と低くなった声で廊下に呼びかけるマティ。

 もしかして誰か控えているのか?そう覗き込むように人影のない廊下に目を向けると、快活な声が聞こえてきた。


「はいっ! 失礼します!!」


 マティが呼びかけた先。返事から程なく入ってきたのは1人の小さなお客さんだった。


 声からして女性。背丈は俺達と同じくらい。受けた第一印象はまるでアイドルや声優だと錯覚させるような、活発だと感じさせる高くてハキハキした声だった。可愛らしく、しっかりと受け答えできるような利発的な声。

 しかし判断材料はたったそれだけ。今の状態からわかることは声と背丈のみ。


 一言でいうと入ってきたのは"謎の不審者"だった。

 汚れ一つない新品の麻布を着用し、体格はもちろんのこと顔までフードをスッポリ被ってその正体は対峙した今でもわからない。

 なんとか覗き込むことによってわかった表情。かろうじて見える口元は口角が上がっており、その声、姿はなにやらデジャヴを感じる人物であった――――。

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